見出し画像

「フェイクスピア」@戯曲・演出 版

実際の事件に絡めた作品なので御覧になった方々によって感じるものは千差万別だったかと思います。私は当時をリアルタイムで知っている世代だったので初見の時は事件にまつわる記憶に胸が痛むと共に涙が溢れました。
それと同時に、この戯曲そして上演にあたって野田さんが込めた並々ならぬ演劇や劇場に対する想いを感じて、そちらの意味でも胸を打たれて涙しました。こちらの記事では、私が受け取った「野田さんの想い」←勝手な想像ですよ、を記録として残したいと思います。野田さん、勝手に受け取ってごめんなさい(^^;


観劇日は2021年6月4日ソワレでした。
舞台自体の衝撃もあったのだけれど、それだけじゃない、この作品の込めた野田さんの想いが並々ならぬものに思えてしょうがない、初見の時にそう感じました。そう感じさせたものは何なのだろう?野田さんに直接伺うわけにもいかないし(笑)、拝見した舞台から感じたものを言語化するしかない。何というか、野田さんの叫びというか、気迫というか、込められているであろう演劇や劇場に対する想いが凄くて、気付かないふりをするどころか、どうしても応えたくなっちゃったんですよね、一人の芝居好きとして。本当のところは野田さんしか御存知ないことで、私の勝手な想像にしか過ぎません。そのあたりは御理解の上で、お読み頂けましたら幸いです。

画像1

結論からいうと「フェイクスピア」という作品は、野田さんから社会への、そして足を運んだ観客達への、「問い」だったんだと思います。

私の記憶が大間違いでなければ。
東京芸術劇場プレイハウスのプロセニアムアーチの中にフェイク(にせもの)で建てられたプロセニアムアーチに掲げられていた「FAKESPEARE」という文字(綴り、違ったかも?違ってたらごめんなさい!)。
まるで結界のよう。
ここから先は「フェイク(にせもの)」の世界だからね~~!解ってるよね~~~?と野田さんに念押しされているかのよう(笑)
白石さんの「白石加代子です」から「白石加代子です」もまた同じように、ここからここは「物語だからね~~」という感じでしょうか。

劇作家が戯曲を書こう!と思う衝動が生まれる時、そこには「何かを問いたい」か「何かを伝えたい」か、何かしらの理由があるんじゃないか?と思うのです。そうして書かれた戯曲を元に演じられる芝居。どんなに史実を忠実に再現しようと、どんなに巧みな演じ手が演じようとも、芝居が「フェイク(にせもの)でありフィクション(想像・創作)」であることは紛れもない事実なのでしょう。

元々、劇場という場所に集う観客という存在は、現実の世の中で今を生きているノンフィクションな存在であり、芝居(フェイク<にせもの>であり、フィクション<想像・創作>)の世界にノンフィクション(現実)を持ち込む存在なのではないでしょうか?

でも。
劇場という場所で、生身の人間達が、全力で芝居という「フェイク(にせもの)でありフクション(創作)」を立ち上げる時。

同じ時、同じ空間に居るからこそ、本来、人が持つ「想像力」が動き出し、客席に居る観客というノンフィクションな存在と、舞台上の芝居というフェイク(にせもの)&フィクション(創作)の世界がつながり、そのフェイクを通して「今」を生きている自分を見つめる、そうした瞬間が起こるのではないでしょうか?
何故なら。
6月4日ソワレ。1階D列18番にて、それが起こったと感じたから。

目の前に起こるフェイクを見つめることしか出来ない自分の足元に、今を生きていることを感じたんですよね。そして楽の「わかった、生きるよ」その言葉が私に力を与えてくれたのでした。

報道のようなノンフィクションでも伝わることはあるのかもしれません。
でも、人は、自分のことほど、気付けない・・・そんな気がします。
「人」という一般論は卑怯ですね。「私」は、気付けない。
でも「フェイク(にせもの)なフィクション(創作)」だからこそ、私=観客は引き込まれたし、目の前に起こることを作品の中で共有するからこそ、自分の中の記憶ともつながり、客席に居る人間の心と舞台上の演じ手達の心の間を互いに大切な何かが流れ合うんですよね?

劇場というフェイク(にせもの)でありフクション(創作)の場所には、今を生きている観客がノンフィクション(現実)を持ち込むことが必要不可欠で、そうしたノンフィクションな存在と舞台上のフェイク&フィクションが同じ時と場所を共有するからこそ、初めて作品の核=劇作家が問いたい事が伝わるんじゃないか、とも思います。

では。
野田さんはこの「フェイクスピア」という戯曲を通して観客達に、演劇の世界に、社会に、何を問いたかったのか?そう改めて考えた時。
色々な枝葉はあったのだと思います。報道というものが持つ危うさとか、言葉というものが持つ良くも悪くもある力、今を生きるという意味・・・

その中で、最後に野田さんが問いたかったのは。
劇場というフェイク(にせもの)・フィクション(創作)な場所だからこそ、大切なことを、観客達というノンフィクション(現実)な存在達と問題を共有出来るし共に考えることが出来て、その為には劇場に観客が居ることが必要だし、人間が自分に気付く為の場所が「劇場」なのだと、その存在価値を証明して見せたかったんじゃないかと。私は勝手に感じました。

野田さんが作品の中に込めた「問い」に対する答えとして。
芝居が好きな一人の観客として「応え」ます。
「答え」は違うかもしれない。
けれど、正解が全てでもない。
「答え」ではなく「応え」ることに価値を見出したいし
皆が、劇場という場所で何かに気付き、考えていけばいい。
私は、そう思いました。


この作品を観た後に。
野田さんは本当に芝居や劇場が好きなんだな~と思いました。
同時に、それらが社会の中で不要不急とされることに傷つきもなさったんじゃないかな?とも感じます。だから作品を通して証明してみせたかった、のかな。
でも、その為に事件を利用したわけじゃないんだと思います。現実の、目を背けてはいけない大切な言葉だからこそ、野田さんは力強く今を生きる人達に伝えたかったのではないでしょうか?
今を「生きる」、という大切なことを。

私は そう思います。