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ガチ初見がスパイダーマンNWHを観て面白かった点を長文で書いたよ。

マーベル作品やスパイダーマン作品を全て未見状態でスパイダーマンNWHを観に行ったら楽しかったので、初見の視点で感想をネタバレありきでぱらぱら書きます。新鮮な悲鳴というやつかもしれません。どうぞお付き合いください。

※知らないことが多いので気を悪くされたらすみません※

20年代のスタンダードを感じさせる飾り気のないピーターの魅力

ピーター・パーカーの、高校生らしい世間知らずであまちゃんなところや、好きな子の前ですら男らしく振る舞わない着飾らなさに、20年代が求める等身大な男性像・人物像を感じずにはいられなかったです。

ストーリーは(どうやら前作のラストで殺したらしい敵による)アウティングによって、スパイダーマンの正体が明かされた場面から始まります。
その敵は強く愛されていたか、そう思わせるトリックを用いていたのでしょうか。往々にして物事は正しく伝わらないのでおそらく後者だと思います。とにかく、その出来事がセンセーショナルなゴシップとして炎上騒ぎになります。
それによりスパイダーマン/ピーターは正義のヒーローから一転して悪逆非道な存在として糾弾されることになり、それによって身内が危険に晒されてしまっている状況をなんとかしようと奮闘する姿が描かれます。
アウティングによって生活がままならなくなってしまうというのは、現代の若者が被る出来事のひとつでもあります。隠しておきたいことを一方的にばらされた上に、本当のことなのに何がいけないんだと言われるアレです。スパイダーマンがそうした出来事から危険にさらされてしまうというストーリー展開に、等身大な現代の若者のリアルを感じさせて引き込まれます。

しかし、同時にあまりにも子供っぽいところにはじめはイライラしてしまいました。
「スパイダーマンだとバラされたせいで自分のみならず彼女のMJ、親友のネッドも大学に落ちてしまって悲しい。そうだ、ドクター・ストレンジの魔法で過去を変えてもらおう!」というその場の思いつきのような行動はあまりにも安易で未熟です。なんだこいつと思いました。僕の心のヤバイやつの市川を始めて見た時の感情に近いです。
ドクター・ストレンジが行き当たりばったりなピーターの考えに気付いて罵りますが、そこでようやく「まともな意見が出てきた」とほっとしたほどです。

我が身を振り返らない若者らしい狭い視野でありながら、同時になんでも素直に吸収するピーターは、ドクター・ストレンジが言う通り大学の偉い人に「せめてMJとネッドの入学だけでも許してもらえないか」と交渉しに行くことにします。急に名前で呼べと言ってきたと思ったら「サー」をつけろとたしなめられたりするような気難しい英国人にきつめに言われたことを飲み込んで行動に移せるのは、人柄のよさを感じます。

しかし、交渉時のファッションに驚きました。
交渉をしに行く時って、普通の人だとちゃんとした格好で臨むと思うんですが、ピーターはなんとシワシワのジャケットを着て行きます。
陳情ファッションがシワシワなんです。びっくりしました。しませんか?
しかし同時に、ピーターにとって一番大切なのは気持ちであって、普段は着ないジャケットとネクタイを着ていくこと自体が彼の気持ちを表現しているのが、そのジャケットがシワシワなことから逆説的に伝わってきます。彼の人柄がわかる良いシーンだったなと思いました。

キャンセルカルチャーに対する前向きな回答

ストーリーの始まりから、スパイダーマンは正義のヒーローから一転して悪の象徴のように追われることになりますが、その様子は、問題を起こして/発覚して世間からバッシングを浴びて降板したり、辞退するという、キャンセルカルチャーによって追い込まれる著名人を想起させます。

ピーターは、キャンセルカルチャーによって周りの人たちが危険に晒されたり、大学進学が阻害されてしまうことを悲しみます。そう、悲しむのです。
メイや彼女、親友に迷惑がかかってしまうことに対して怒りを抱きません。怒らないわけではないけれど、それよりも申し訳なさや憤りが自分に向いてしまいます。その優しさや、自分が全て悪いという若さゆえの傲慢さが、今作の事件の発端となっていくのです。

ドクター・ストレンジに言われて「大学側に陳情すれば、せめて彼女や親友の入学は認めてもらえるかもしれない」と期待を込めて交渉に行った先で別のスパイダーマン世界からヴィランの襲撃に遭います。大学の偉い人はもちろん、ピーターは目に入った人びとを救出しながら、ヴィランと戦闘を続け、なんとかその場を収めます。
そして、その活躍を認められて彼女や親友はもちろん、彼自身も大学への入学も許可してもらえることになりました。ジャケットはシワシワだし、ネクタイも戦闘で切れてしまいましたが、善行が認めてもらえたのです。
キャンセルカルチャーによって問題を起こした人物はどんな手を使ってでも引き摺り下ろされ、その出来事の前後を世間は見てくれなくなります。そのきっかけとなった出来事以降に良いことをしていても、実はその出来事が正しく伝わっていなかったりデマだったとしても、世間は許してくれません。日本では未だ小山田圭吾が許されていないように、世界中がスキャンダルに目を光らせてちょっと引っかかる人物を炎上させてキャンセルするディストピア化していく世界。それに対するアンサーとして、ひたむきに正しいことを重ねることで正当な評価をしてもらえるという未来への希望の提示だったと思います。

人間の弱さと権力への屈服

その後、ピーターはかつて別のスパイダーマン世界で猛威をふるったヴィランたちに肩入れしてしまい、ドクター・ストレンジが呪文で彼らを元の世界に戻そうとしたのを、あろうことか中断させてしまいます。

ドクター・ストレンジの行動は、一般的に考えれば正しい行動です。たとえ元の世界に戻したらその世界のスパイダーマンとの戦闘で死ぬ運命にあるとはいえ悪事を働くヴィランなので、彼らを戻してしまおうというのは分別ある大人らしい行動だったといえます。そこに疑問を感じるのは、ピーターが大人の世界を理解していないからであり、子供らしいわがままという見方ができます。

ピーターは彼らの能力を無効化させる手段を考えます。違う世界で正しい心に目覚めつつあるヴィランたちをおもんばかっての行動で、ピーターは善意から「治療する」と表現しています。しかし、あと少しのところで裏切られてしまいます。
能力を自分で制御できなくなっていたドクター・オクトパスだけはピーターに助けられて救われますが、他のヴィランは拒否したのです。救いの手をつかむことよりも、手にした能力を失うことを恐れた行動と言えるでしょう。
手にした能力を使って破壊活動をするのは能力の誇示であり、権力の悪用を描いています。権力を失うことへの恐れや、器に見合わない権力に溺れてしまうという人間の弱さを、特殊能力を得たヴィランとスパイダーマンに投影していると言えます。
ピーターは特殊能力を使って人助けをする正義のスパイダーマンとなりましたが、同時に有名人/正義のヒーローという権力を手にしました。
身の周りの人たちにはカミングアウトしつつ、世間には隠すことで権力と適切な距離感を維持していたピーターが、アウティングによってその権力に押しつぶされそうになったのが今作でした。
ドクター・ストレンジが提示した条件はまさにピーターにとっては権力の喪失であり、あの時のピーターにはそれを捨てる覚悟はなかったのです。

そんなピーターが、権力にしがみつくヴィランたちに裏切られて大事な家族であるメイを失うことになるのは残酷ながらも、わかりやすい帰結だったと思いました。

強さは優しさや協調性であるという思想

その後、他のスパイダーマン世界からヴィランだけではなく、スパイダーマン/ピーター本人もやってきました。それぞれ、サム・ライミ版スパイダーマン(トビー・マグワイア)、マーク・ウェブ版スパイダーマン(アンドリュー・ガーフィールド)です。
トビー・マグワイアは2000年前後で好きだった俳優のひとりだったので個人的に嬉しくなりました。

彼らはそれぞれ違う個性を持っていますが「単独行動しがち」「正体を隠すことに美徳を感じる」「数学者である」など、似た性質を持った人物です。そして彼らは取り返しのつかない後悔を抱えており、それを償いたいとも考えています。
似た考えを持つ3人のスパイダーマンはすぐに意気投合し、協力しあって「この世界にやってきたヴィランを治療する」という目標のために尽力します。「倒す」ではなく「治療する」という目的で敵と対峙するし、ひとりのスタープレーヤーの活躍ではなく才能ある人たちが協力するというヒーロー像を提示してきたことに驚きました。

わたしはスパイダーマンを一度も観たことがありませんが、3人のスパイダーマンが自由の女神の周りを縦横無尽に飛び回る様子を観た時には思わず「おぉ…」と声が漏れました。ひとりで謎の覆面ヒーローをしていた3人のスパイダーマンが、同じスクリーンでお決まりのポーズを取るのです。そんなの絶対かっこいいんですよね。この画は最初から監督の頭にあって、ここに至るための物語を作ったのではないかと思ってしまいます。

しかし、スパイダーマンは個人プレイで活躍してきたヒーローなので、チームプレイは不得意のようです。トビー・マグワイアとアンドリュー・ガーフィールドが「俺はいつもひとりで戦ってるからチームプレイは無理だ」と言うとトム・ホランドが「俺はアベンジャーズに参加している」と張り切って言います。えっお前もアベンジャーズだったの?とびっくりしていると、アンドリュー・ガーフィールドもなにそれバンド?と驚いてくれたので嬉しくなりました。わたしも同感です。スパイダーマンがアベンジャーズのメンバーであることと、この世界の自由の女神像がキャプテン・アメリカのシールドを掲げていることは何か関係があるのでしょうか。めちゃくちゃ気になります。

ともあれ、過去のスパイダーマンが持ち得なかった「チームプレイを行える協調性」が新世代のスパイダーマンの個性になっており、過去作のスパイダーマンふたりも持ち前の真摯さから若輩のトム・ホランドのリーダーシップを信じて互いに協力しあったチーム戦をできるようになります。
現在の社会で優秀とされる人材が、ひとりでなんでもできるスターよりも、誰とでもコミュニケーションをはかれるスペシャリストであることへの示唆を感じるシーンだ、とも感じました。

過去は変えられないがアップデートできる

(おそらく)過去に起きた、取り返しのつかない後悔を持つスパイダーマンたちは、その後悔を目の前の出来事に全力で取り組むことで自身も報われていきます。

人間に戻ったエレクトロとのシーンや、自由の女神像から落下するMJを助けられて安堵するアンドリュー・ガーフィールド。
ドクター・オクトパスと対峙するシーンや、最後にトム・ホランドを止めるトビー・マグワイア。

わたしは彼らが過去作でなにを行ったのかについてなにも知りませんが、かつて起きてしまった悪いことがあり、それを繰り返さないために決死の思いで行動することで、自らを救済したんだなと思うと胸に熱いものが込み上げます。

人間は過ちを犯すし、弱いところが誰しもあるし、ふとしたきっかけで自分が権力を得てしまったとしたら、正しく使えないかもしれない。それでも犯した過ちは自らの行いで償えるし、悪に染まったとしても変われる可能性があるという希望に満ちたメッセージとして、トム・ホランドは物語の最初に捨てられなかった「スパイダーマン=ピーター・パーカーである」という権力を放棄することに成功するのです。

その後ピーターは、彼女や親友に自らの正体を明かさないまま「ヒーローは謎に満ちている方がいい」という信念のもと、自分が得た能力を正しく使う正義のヒーロー・スパイダーマンとして粛々と活動していく様子からエンドロールへ突入します。

これはみんながざわつくはずだとエンドロールを見ながら唸り、現代を反映した素晴らしいヒーロー像の提示に感動しました。
さながら、高級割烹屋のふぐのコース料理でふぐ雑炊だけ食べてしまったような、芳醇な出汁を味わいながら一体鍋はどんな食材が入っていたのだろうとか、コースではほかにどんな逸品が出ていたんだろうと考えを巡らせるような途方のない気分になりました。

以上、ガチ初見のスパイダーマンNWHの感想でした。お読みいただきありがとうございます!

※このあと、狂ったようにMCUスパイダーマンを摂取した記録がこちらです。あわせてどうぞ。

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