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参天台五台山記読記026

廿九日戊寅


ノート:
辰時に、都督府の使いが輿丁(御輿の担ぎ手)二人を連れて来訪した。それで、興教寺に向かい、4里ほどの道のりを歩んだ。我々八人と施十郎とが大門前に着き、椅子に座った。寺の教主、僧侶の皆さんが迎え、一緒にお堂へ参った。まことに立派なお堂だったことだろう。大仏殿に釈迦三尊が祀られていた。
十六羅漢院を参拝し、等身大の羅漢像を拝見した。次に天台九祖の等身大の像を拝んだ。五百羅漢院には、長さ三尺(1メートル)の羅漢像が祀られていた。その他、文殊堂、深妙天王堂などの堂宇を参拝した。阿弥陀堂には、三年間行道、念仏、阿弥陀経念誦を続けている僧侶がいた。
大仏殿の後方には、二隅に、等身大の弁天、功徳天の像が祀られていた。鬼子母神のお堂を参拝した。宿泊所に到着し、次に講堂で講經を聞いた。百余人が着座して、教主一人が仏様を拝んで高座に登った。その一座以外に、読師が座る座席が設けられていなかった。高座は六尺ほどの高さで、橋があり、仏様の説法に倣った形式で、唄手が二人、維那は柱を打って進行していた。(?)唄が終わると、教主が表白(開示?)した。智者大師が説かれた『妙法蓮華経玄義釋籤』の6巻目を読了。
そして食座に着き、僧侶たちが食堂に集まった。日本僧たちだけが教主の部屋で食べるようにしてもらった。精進料理は美味しかった。自分は五百文を支払ったが、頼縁供奉と快宗供奉は其々二百文ずつ、通事の施十郎さんは百文を出した。他の人は無料だった。食事後に宿泊所で休憩を取った。大教主老僧が点茶を振る舞ってくれ、喫茶に行った。

清朝金嵌宝石朝冠耳炉(画像引用元:故宮博物院)


興教寺は創建から104年経っていた。寺には径1尺の黄金製や白銀製の火舎(香炉)が結構ある。教主の寝所を拝見したところ、大きな銀製枕を置き、銀の棹(?)や衣装を掛けてあった。そこを出て、諸堂を見ると、四方形の池があり、黄金色や銀色の魚たちがなかを泳いでいた。
申時に、寺を出た。大小教主が大門前まで送ってくれた。茶や薬があった。
興教寺より北方向に2里ほど離れた場所に淨慈寺があった。大仏殿には高さ丈六(4.8メートル)の釈迦如来の石像があり、五百羅漢院の羅漢像を参拝した。羅漢像はその神妙を極めていた。また高さ3丈(10メートル)ほど、九重の石塔を参拝した。塔の各重には五百体の羅漢の浮き彫りが刻まれており、二塔が立ち並んでいた。重閣の内には塔が造られた。食堂には八十余人分の鉢があり、興教寺と同様に絹を包んで木の上に掛けられ、油紙も掛けられていた。
教主は達觀禪師号を敕賜された方で、七十四歳になった。自分の部屋までに案内して、お茶を振る舞ってくれた。坊内は見事に飾られていた。境内は三町ほどで、堂廊が連なり、隙間がないほど建築物が多かった。石敷きの地面は漆塗りのようにピカピカしていた。お寺を出る際、大師は大門まで送り、諸僧が列を作って送ってくれた。大師は手を取って御輿に乗らせてからお寺に戻った。
申時に、宿泊所に帰った。使者には百文の銭、輿丁の二人には其々五十文を与えた。
七時には勤行を修了した。

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