実景を写している『一遍聖絵』


文字以外の資料を使って歴史を研究する手法がある。
例:ゲルマンの歴史を語る場合、シーザーの『ガリア戦記』以外資料が欠如しているが、ベルダーがゲルマンの歌を研究してゲルマンの歴史を描き上げた。グリムはゲルマンの昔話を収集した。スイスのブルックハルトは絵画で歴史を描いた。こういう風に、絵巻物など資料を使って日本の歴史を研究することも可能。
一遍聖人は伊予の名族の河野氏の出で、九州の太宰府で出家したが、父が死んだあと、還俗して子供を産んだとされる。河野氏は河野水軍の家で伊予国の守護を働かした。
一遍聖人の子供は絵師の法眼円伊(別の資料では法印円伊になる)を頼んで一遍の生涯を描いてもらった。その絵を書くために、実地を訪れて、岩手県の水沢市にも大分にも跡を辿っただろう。その『一遍聖絵』には45番札所岩屋寺、すなわち菅生(すごう)の岩屋が実際に描かれている。桂林のような鐘乳石が描かれて、白山神社のところに、二人の修行僧が頂まで登り、その下には上臈(貴婦人)や侍達など俗人が待っているのを描かれた。それは多分、辺路修行者が修行場に入れない女の人に代わって代参していた情景だと思われる。
修験道は南北朝時代に変わる。遍路、辺路がプロの行から俗人の参加できるものに変わってきたと思われる。まさにそれを裏付けられる一つの好材料になるのだ。


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