変革の解 第3部〜虚構の轍〜
零、はじまりの場所
ざくり、と土を踏む音がした。男は自分以外の人間の足音に一瞬身を縮ませる。 ここには、自分以外誰も入っては来ないはずだった。誰にも知られていない場所なのだ。いや 、誰にも知られては困る場所なのだ。一度誰かに知られれば、どこからか情報を嗅ぎ付けて奴らがやってくる。奴らがやってきたら、きっと奴らは自分を殺すだろう。そういうことを生業とし ている集団だ。自分の失態を許す事はないだろう。だが、見つかったのならば、これ以上どうすることもできない。奴らに抗う術は自分にはない。抵抗しても勝ち目どころか、生き延びる事すら不可能だ。 男は、机から顔を上げて足音の主を見た。そこには、若い男が一人たたずんでいた。若いとい っても自分より若いというだけで、三十前後といった所だろう。銀髪と淡い空色の瞳は、上級特殊能力者の証だ。同時に奴らの仲間である証であり、知った顔でもあった。
「こんな所に隠れていたんですか。捜しましたよ。」
銀髪の男の声には、怒りも、憎しみも、喜びもなかった。ざくり、ともう一歩こちらに歩み寄る音が響いた。
「殺しに来たか」
銀髪の男に向ってそう呟くと、銀髪の男は頭を振った。
「あの組織の人間は皆死にました。」
やや考えてから、男はあの組織に何が起こったのかを理解した。そして同時に目の前の銀髪の男が何者であったかも理解した。国はあの組織を利用し、見放し、今になって邪魔になったから消し去ったのだ。
「君が王国側の人間だったとはな、皆ということはリウナもか?」
「ええ、残念ながら処分の対象でしたので」
銀髪の男は僅かに目を伏せる。
「私も処分の対象か?」
男の問いに銀髪の男は、また頭を振った。
「こちらの件には国は関与しない事になりました。サルウッドが絡んでしまいましたからね。」
「あの子はどうなった?」
「生きています。今はサルウッドの保護下です。」
男は安堵の息をもらした。サルウッドの保護下であれば王国も手だしは出来ないだろう。しかし 、そうであれば一つ疑問が残る。銀髪の男は自分を「捜していた」と言った。
「私を捜していたと言ったな、何の用だ。まさか、わざわざその報告に来た訳じゃあるまい。」
銀髪の男は目的を思い出して「ああ」と声を漏らした。
「サルウッドで珍しいモノを見かけましてね。帝国の例の施設の生き残りですが、成功例らしく身体、精神とも安定して、尚且つ二種類の能力を使っていました。」
「運のいい奴がいたものだな。それがどうした。」
男の事も無げな態度に、銀髪の男は意外そうな顔をした。
「おや、興味はありませんでしたか?年は十七、八の少年で、顔つきはこの辺りの人種のものだと思いますよ。何処と無く、あなたに似ていたから、もしやと思ったんですがね。」
男は何も応えずに銀髪の男の淡い色の瞳をじっと見た。淡泊な瞳に悪戯めいた色が垣間見える。
「息子さん、帝国軍に連れて行かれたんでしょう?」
男は何も言わずに目を伏せた。下手な期待はしたくなかった。連れて行かれたあの日から、死んだものと思ってきたのを今更覆す気も起きない。仮に息子だったとして、向こうも憶えてはいないだろう。そもそも、我が子を守りきれなかった父親など、恨みの対象にしかなるまい。
「それは処分の対象か?」
絞り出せた言葉はそれだけだった。銀髪の男は薄く笑って頭を振った。
「いいえ、まだ王国も帝国も知らぬ話です。口外する気もありません。」
「そうか...」
男の顔に、いくらか安堵の表情が滲む。それ以上何も言わない男に、銀髪の男が疑問を投げかける。
「会ってみたいとも思わないものですか?」
「会ってどうする?君こそ何故あの子の側にいてやらない?」
今度は銀髪の男が黙ってしまった。男が言葉を続ける。
「クライス、いや組織が消失した今となっては、元のウィード呼ぶべきか?」
銀髪の男は、本来の自らの名前を聴いて、懐かしさから少しの間目を閉じた。もう、どこか自分を示す音とは違う気がする。その名で呼んでくれる者がいれば、いつかまた自分を表す音だと認識できるようになるだろうか。しかし、その名前で呼んでいた人は今や、目の前のこの男とあの子くらいしか残っていない。誰がこの先、その名で呼んでくれるのだろうか。
「名前が戻った所で、染み付いた血の臭いは消えません。だから、あの子の側にはいられません。」
銀髪の男の答えに、男は鼻をフンと鳴らす。
「私も同じことさ」
男の言葉に銀髪の男は心得て、薄く笑うと踵を返して来た時と同じ様に、ざくりざくりという足音と共に去っていった。
一、派遣員の気持ち
メリエーズ教管轄異常事態対策部隊部隊長アドルフ・コミッティーは、自室に呼び出した部下と机を挟んで向かい合い、何度となく言った小言をもう一度口にした。
「制服の丈が短いようだが、新調する気はないのかね」
机の反対側に立っている部下は、動揺した様子も見せずに、これまた何度となく繰り返した応えを一言一句違えずに伝える。
「機動性を考えますと、これ以上長くは出来ません。」
アドルフは、やはり何度も告げた助言を繰り返した。
「その意見については私も道理は通っていると認識している。委員会に提言して、規則の改正をするといい。しかし、規則である以上、改正されるまではそれに従いたまえ。」
まだ、あどけなさの残る若い部下は、無言でやや不機嫌な表情を浮かべた。この話題は常にここで終了する。
「さて、本題に入ろうか。」
アドルフが切り出すと、部下はホッとしたように表情を戻した。アドルフは「次の仕事だ」と言 って一枚の書類を部下に手渡した。部下が書類を読んでいる間、アドルフはこの部下に関する情報をなんとはなしに思い出していた。 エフォラ・リライ特殊派遣員。茶色がかった黒髪と、ダークブラウンの瞳に加えて、年齢より幼 く見える顔立ちは、おそらく大陸北部の出身だと推測される。先の大戦での戦災孤児であり、幼い頃から施設にいたらしく、実際の出生地や家族は本人も覚えていないらしい。大戦の終わった 頃に先先代のメリエーズ教最高神官に保護され、現在の最高神官であるティア・セントメリア・カウマン・クラウリイと共に暮らしていたが、本人の希望もあり、十三歳にして特殊派遣員として部隊 に配属され、以後は部隊独身寮で生活している。年齢から言えば個人の戦闘スキルは高く、センスもいいが、礼節や気遣いに欠ける点と、規則を守らないという問題があり、チームでの仕事には不向きであると言わざるを得ない。年齢の所為だという意見もあるが、本人の気質の問題だというのがアドルフの見解だった。 一通り思い出し終わった頃に、エフォラが書類から目を離しアドルフの方を向いた。 「研究部関連の仕事を私に回してくるというのは、よっぽど人手が足りていないという事ですか?」
二年前の事件以来、エフォラは公式ではないが、研究部への出入り禁止を言い渡されていた。
「それもある。知っての通り、先月の集中豪雨の影響で人手不足なのは事実だ。」
アドルフはエフォラの指摘を肯定した。
「それも?」
「同行させたい者がいるんだが、まだ一人で仕事を任せられない。しかも、一癖あって誰とでも組める訳でもなくてね、エフォラが適任だと私が判断した。」
「面倒ですね。新人ですか?」
やや気の毒そうな顔になったエフォラにアドルフは苦笑した。
「ああ、エフォラに似て面倒な新人だよ。」
エフォラがムスッとしたのを横目に、アドルフは立ち上がると部屋の出口へ向かった。
「丁度今、訓練中のはずだ。今から会いに行くが、一緒に見に来るか?」
エフォラは、「はぁ」と気のない返事をして、アドルフの後ろに続いた。
久しぶりに入った格技室は、エフォラが新人として訓練していた頃と同じ、飾り気のないただの四角い部屋だった。所々、傷が増えたり、逆に修繕されたりしているようではあったが、別段変わった様子はない。特に懐かしさも感じないその室内には教官と六人の訓練生がいた。見たところ、十五から二十歳くらいと年齢幅は広く、内二人は女性だった。そして、その一番若いと思われる女性は、エフォラの知った顔だった。
「へ?」
訳がわからず、間抜けな顔をしているエフォラの事など気にせずに、アドルフは訓練生達に声を かけた。
「少し見学に来た。ウィルリウナ、ジョルジュと手合わせしてくれ。」
一人の少女が黙って前に出る。澄んだスカイブルーの瞳と、長い銀髪のその少女は、間違いなくウィルルだった。同時に「げっ」と声を漏らしてあからさまに嫌そうな顔をした青年がジョルジュらしい。やや遅れておずおずと、ウィルルの前に立つ。ジョルジュが心底気が進まない様子で構えたが、ウィルルは構える気配すら見せない。教官も、あまり乗り気ではない表情だが、 腹を括ったらしく開始の合図を出すために息を吸った。
「始め!」
声と同時にジョルジュが地を蹴り、ウィルルの方へ真っ直ぐに走った。
勝負は一瞬だった。ジョルジュの拳がウィルルに届く直前、ウィルルはジョルジュの腕を掴み拳を下に流す。そして、前屈みになったジョルジュが態勢を立て直す間も無く、その腹を蹴り上げた。
ジョルジュは宙を舞い、受け身も取れぬまま床に落下、ややあって激しく咳き込んだ。
「とまあ、こう言う訳だ」
アドルフの声にエフォラはハッとした。あまりの出来事に意識が飛んでいたらしい。教官がジョルジュに駆け寄り、身体を確認している。
「ウィルリウナ、少し話せるか?」
アドルフに呼ばれ、ウィルルがこちらに来る。そこでようやくウィルルはエフォラの存在に気づき「あ」と声を漏らした。
エフォラは気不味い表情で「ん」と応えたあと、ふとアドルフが言っていた事を思い出す。
「一癖というのは?」
問われたアドルフは「ああ」と呟くと、無造作にウィルルの肩に触れた。次の瞬間、ウィルルの拳がアドルフの顔面に向かう。
エフォラが声を出すより速く、アドルフはその拳を紙一重で躱す。
「おい!!」
エフォラの声が格技室に響くより前に、アドルフは両手を軽く挙げて何もしない事をウィルルに示した。
「すまない、ウィルリウナ。君が他人に触れられる事を嫌悪しているのは知っていたが、この方が説明がしやすいものでね。」
アドルフが言い終えると、ウィルルはアドルフを睨みつけたまま、ゆっくりと拳を戻した。
「意図的に触れたわけでない場合も、このような対応でね。正直、誰とも組ませられないという訳だ。」
「はあ…」
エフォラの呆けた返事に頷いて、アドルフはウィルルに向き直る。
「いくら速くても、感情で直線的な動きになっているようでは避けられてしまう。冷静に相手を狙いなさい」
ウィルルは返事もせずに睨みつけたままだったが、気にせずにアドルフは体を起こしたジョルジュへ歩み寄る。
「痛い思いをさせてすまなかった。大きな怪我はなさそうか?この中では君が一番タフだから選んだんだが…腰が引け過ぎだ。冷静に相手をよく見なさい。実力で言えば充分戦える相手だ。」
「…はい…」
ジョルジュの返事に頷くと、アドルフは立ち上がった。
「ありがとう、邪魔をした。エフォラ、戻るぞ。」
まだ呆けたままのエフォラを連れて、アドルフは格技室を後にした。
◇ ◆ ◇ ◆
状況が頭の中で整理されていくにしたがって、エフォラの中で怒りが込み上げてきた。
大聖堂の最高神官室へと向かう廊下では、何人かの神官がエフォラの形相にギョッとして、やや遠巻きにすれ違っていった。
そして、最高神官室の扉を蹴やぶらんばかりの勢いで(流石に蹴りはしなかった)開けると、その勢いのまま怒声を放つ。
「おいティア!テメェどういうつもりだ!説明しろ!!」
幸い来客はなく、呑気に紅茶を飲んでいたティアは、突然の来訪者に目を瞬いた。
「え???何?どうしたの???」
「どうしたじゃねーよ!なんでウィルルが部隊に入ってんだよ!」
通常、部隊と言えば異常事態対策部隊の事を指す。ティアは、そんな事を一旦思い浮かべてから、合点がいったらしく「あ」と小さく声を漏らした。
「いや、当然、反対はしたんだけどね。本人の意志が固くて…」
「まだ16だろ?!」
「エフォラの時は13だったかしらねぇー」
エフォラが一瞬怯む。
「…女の子だぞ!」
「やだー性差別ー」
エフォラは言葉を詰まらせて小さく呻いた。
「……て、適性が………」
「あー、まさか試験受かっちゃうとはねぇ…」
ティアは紅茶を一口飲んだ。
「危険性が…」
「散々説明したわよ。あなたの時と同じ様にね。」
なおも食い下がるエフォラに、ティアは冷たく言い放った。
「お前の権限で試験落とすとか出来なかったのかよ…」
「それは流石に倫理にもとるわね。危険性を理解した上で本人が望んでいて、公正な試験の結果合格したのなら、周りがどうこう出来る事じゃないわ。まして、あなたという前例もいる訳だし。」
「…俺の…俺のせいなのか…?」
ティアは頭を抱えるエフォラを少し不憫に思いながら、エフォラが部隊に入ると言い出した頃のことを思い出す。
「危険な目にあって欲しくないのは分かるわ。私も、私の両親も、気持ちは同じ。ウィルルに対しても、あなたに対してもね。」
ティアは、また紅茶を一口飲むと一息ついた。
(まあ、エフォラが部隊にいるっていうのが大きな理由だと思うけど。本人は自覚あるんだか…)
「で?用はそれだけ?」
頭を抱えたエフォラに続きを促すと、その動きが一旦止まった。止まって、頭を抱えたその姿勢のまま答える。
「ウィルルの初仕事が決まった。」
「え?」
今度はティアが困惑する番だった。
「もう?!だって、この間入ったばっかりなのに???」
エフォラは頭を抱えるのをやめた。
「この間っていつだよ。」
「ええと…四ヶ月くらい前」
「そんなに黙ってたのかよ」
「まあ、それはもういいじゃない。それで?」
エフォラは「よくない」と言い返したかったが、この件はこれ以上話しても無駄だと思い、話を進めた。
「研究部の依頼で北部に行く事になりそうだ。」
ティアは何か合点がいったらしく、「ああ…」と呟いて持っていたティーカップを置いた。
「…一人で?」
「まさか、俺がチームリーダー」
ティアがキョトンとして小首を傾げる。
「エフォラってチームリーダーとか出来るの?」
「チームっつっても、俺とウィルルの二人だからな」
それを聞いてティアは、「まあ!」と両手で口を覆う。
「若い男女が二人きり?」
エフォラはうんざりして、ため息をついた。
「そういうのやめろ。研究部の担当者と現地の協力者がいるから二人きりじゃねぇよ。」
ティアは不満げに「えー」と言った後、真顔に戻る。
「いつから?」
「再来週」
「随分と急な話ね」
「人手が足りないんだとよ」
エフォラの返答にティアはの納得したものの、ため息をつく。
「災害支援に人取られてるのね。」
エフォラが無言で頷く。
ティアはしばらく難しい顔をしていたが、やがて立ち上がると、窓の外を見た。
「基本的には、そっちで決まった事を私がどうこう出来るワケじゃないのよね」
そしてエフォラの方に向き直り、すこし心配げな表情を浮かべて、こう伝えた。
「気をつけて行ってらっしゃい」
二、研究員の憂鬱
「えー!?『あの』エフォラ・リライじゃないっスか」
マディス・コイルは異常事態対策部隊から届いた体制図を見て、明らかな不満を口した。
「何か問題あるの?」
室長のリンはマグカップでコーヒーを飲みながらエフォラの経歴書を眺めていた。
「いや、よく知らないんスけど、研究部出入り禁止になってた人ですよね?」
「なんで出入り禁止になったの?あ、凄い。13歳から部隊にいるんだ。実績はなかなか…でも単独の仕事が多いわね。それよりも…」
リンは、もう一人の経歴書を見る。
「ウィルリウナをメンバーに入れたのね」
「え、これ『あの』ウィルリウナですか?部隊に?!」
「まあ、上級能力者な訳だから、そういう事もあるでしょうね」
「でも女の子でしょ?」
「部隊の男女比は6:4。今時、女性の派遣員も珍しくはないけど、この年齢で実務に投入されるのは稀かも。任務としての危険度は高くないから新人にはちょうどいい、て所かしらね」
マディスの納得のいかない表情を見て、リンは付け加えた。
「この前の集中豪雨の影響で、人手が足りないみたいね。半年先なら別の体制も検討できるって書いてる。」
「半年先じゃ、また両国が緊張状態になってるかもしれないし、行くなら今ですもんね…」
「そゆこと。顔合わせは来週ね。」
「はい…」
観念した様子のマディスにリンは微笑んで、コーヒーを飲み干すと、仕事に戻っていった。マディスは溜息をついて、リンのマグカップを手に洗い場へ向かう。別に頼まれた訳でもない、やらなくていい事だが、放っておくと何日でもそのままにする。研究以外の事は、だいたいそんな感じの人なのだ。
例の装置について、ずいぶん前から話は聞いていたものの、リンとマディスが関わるようになったのは一年ほど前からだ。発掘、ウィルリウナの解凍からしばらく経っても、わかったとこはごく僅かだった。生物学的、化学的、工学的な側面から、それぞれの専門家が協力して調べているが、最近は手詰まりになりつつある。
一つ一つの部品は普通に手に入る物で、劣化具合からみても、ここ数十年以内のものだが、電子回路周りは、解明できておらずブラックボックス。ある程度操作はできるようになったが、庫内を満たしていた気体の成分や配合が不明であるため、ウィルリウナと同じ状態に作り出すのは不可能。そもそも複数回の使用は想定して作られていないかもしれない。
一体誰が何の目的で作ったのか。いくつか説はあるものの、どれも決定的と言えるほど証拠はなかった。年代から考えて、製造者がまだどこかで生きている可能性もあるが、それなら発掘後に何かアクションがあっただろうし、戦禍で亡くなったということも十分考えられる。
そんな中、改めて発掘した場所近辺でいろいろ調査したところ、近くの村に何かの研究者がいたらしいという事がわかった。今は行方不明だが、その人の家がそのまま残っているということなので、行ってみることになったのが今回の仕事という訳だ。
土地柄、治安の問題もあり、部隊に護衛を依頼した結果の体制図が先ほどの話しである。現地自治体にも案内役を探してもらっているところだが、やや難航しているようだった。まだ時間はあるのでなんとかしてもらいたいが、あまり良い人は期待できないかもしれない。
マディスはマグカップを洗いながら、色々と懸念が多い出張になりそうだなと思った。
(懸念と言えばともう一つ)
同棲している恋人から昨晩言われたことを思い出す。
何週間か出張になりそうだと伝えたら「お土産よろしくー」と軽い感じでお願いされた。観光地でもない田舎に土産などあるわけもない。どこか途中の街で調達するしかないだろう。最悪は近場でケーキでも買って許してもらおう。
三、新人の動静
サルウッドの首都セイメリアの港から船で半日。そこから鉄道で四時間。宿で一泊して、そこから先は目的の村までは馬車に乗る。
研究部の二人がエフォラとウィルルに好意的だった事に、エフォラは安堵していた。
顔合わせの時には、やや素っ気ないように見えたリンだったが、単に愛想を振りまく人間ではないだけで性格は穏やか、研究熱心であるが故か研究以外にはあまり興味がないタイプのようだった。実力主義的で、やる事さえちゃんとやってくれればそれで良いと、エフォラの年齢が若い事も特に気にする様子はなかった。
一方マディスは人当たりが良く、よく話す青年でリンのコミュニケーション不足な部分を上手くフォローしている。エフォラとウィルルに対して最初はやや不安げにしていたが、リンがエフォラを信頼できると判断したのを見て「室長が言うなら間違いないッス」と納得したのだと自分で言っていた。
リンは「着くまでに読まなければならない論文がある」と移動中はずっと論文を読んでいた。マディスの方は、仕事のことから趣味やプライベートな話まで話題に詰まることもなく色々と話してくれた。
「お土産って何がいいッスかねえ…」
「帰りに港で買うのが無難でしょうね」
エフォラは苦笑いを浮かべてマディスの相談にのる。ウィルルは会話には入ってこなかった。
「そうッスよね…お菓子…お菓子でいいかな…」
「恋人がいるのも大変そうですね」
「あーでもまあ、楽しいッスよ。エフォラさんは…あ、すみません。こういうのは聞くべきじゃないっスね」
「いませんよ。仕事柄あちこち行ってる事も多いですし、長く同じ人と関わる事もなくて」
エフォラはどうでもいい会話を適当に繋いでいた。
マディスは「あーなるほど」と言ったあと何かふと思い出したらしく「あ」と声を漏らした。
少し神妙な顔になったあとエフォラにだけ聞こえる声で「ただの噂なんスけど」と切り出した。
「本当にただの噂なんスけど。カウマン通りのマキ'sバーてご存知です?」
エフォラの顔が一瞬引き攣ったのをマディスは見逃さなかった。
「知って…ますよ」
エフォラの絞り出すような声にマディスは少し何かを察したような表情を見せた。
「常連だったりします?」
「友人が勤めてるので、セイメリアに戻った時は顔出しに行ってるだけで…」
「あそこ、女の子とお酒飲みながらお話しするお店ッスよね?」
エフォラは額に手を当てて苦い顔をして下を向いた。
「いや、別にそういうのではなく、昔からの付き合いというか」
「エフォラさん、まだ20になったところッスよね?昔からとは?」
マディスの表情は真剣だった。別に揶揄っている訳ではないらしい。
「いや。本当に、誰も信じてくれないんですけど違うんですよ。あれは…その…というか何なんですかその噂」
「研究部では結構有名な噂ッスよ」
(なんで研究部で俺の噂なんか流れてんだよ!)
叫びたいのを耐えて、エフォラは平静を装ったが、明らかにうまくはできていなかった。
「エフォラさん研究部出入り禁止になった時に、どんな人なんだといろんな噂飛び交ってたんスよねえ」
「マキさんはいい人だよ」
突然ウィルルが会話に入ってきた。
「待て、今その話は…」
嫌な予感がしてエフォラが静止しようとしたが、既に遅きに失していた。
「一度だけエフォラと一緒に行ったことがある」
ウィルルの発言にマディスは怪訝な顔をした。リンも流石に顔を上げる。二人とも完全に引いているのが分かった。
「ウィルリウナさんを連れていったんですか?」
リンとマディスのどちらが発した言葉だったのか、エフォラにはもうよくわからなかった。
ウィルルは何も分かっていない顔でキョトンとしていた。
エフォラは頭を抱えた。どうにか誤解を解かなければならない。このままでは、16歳の少女を女の子とお酒を飲む店に連れ込む20歳の男と認識される事になる。さして関わることのない相手ならともかく、これから長ければ数週間行動を共にする仕事相手に不信感を残すのは不味い。
(どこから…どこから何を話せばいい?!)
しくじれば、より不味いことになる。
エフォラは思考を巡らせた挙句、まずは一番問題のある点について弁解する事にした。
「確かに…連れていった事はありますが、昼間…開店前のバックヤードです。友人が厨房で働いてるので、食べていけと言われて食事をしただけです。二年前にティア…最高神官から急に彼女を1日預けられて…」
しどろもどろになりながら、ここまで言って二人の様子を伺う。先ほどよりはマシになったが、まだ不信感を持った目で見ている。
信用し難い話なのはわかる。普通に考えれば「それで、何故、その店なのか」という疑問が残る。あまり話したくはないが、正直に店に行くようになった経緯を話す方がいいのか。エフォラは大きく息を吸って気持ちを落ち着けた。
「俺…私はサルウッドに10歳ぐらいの時に来たので土地勘がなくて…14か15の時にカウマン通りで…夜に迷子になったんです。」
迷子と聞いて、二人の表情が少し柔らかくなったような気がした。
「で、その時に…マキさんに保護されまして…あの人達とはそこからの付き合いなんです。なので…弟みたいな感じで可愛がっていただいているというか…」
ここまで話したところ、リンは「ああ」と何か納得した様子だったが、マディスはまだ信じられないという顔をしていた。
「ウィルリウナさんの件はわかりましたけど、それだと常連みたいに営業時間に行く必要あります?」
エフォラは下を向く。それも説明しないといけないのか。
「この制服を着て、営業時間に客として行くと、変な客とか暴れる客が来なくて助かるそうです。言われた当時はそんなもんかと思ってたんですが…最近、姉さん達に担がれてるんじゃないかと思いながら続けています。」
リンが堪えきれずに噴き出した。
「ごめ…ごめんなさい…面白すぎて…」
「え!室長、信じるんスか?」
「そもそも私は噂の方を信じてなかったから…最初会った時に、なんでこんな真面目そうな子にあんな噂が?て思ってたし」
リンは笑いながら答えた。マディスはまだ信じられない様子で「えー」と不服そうにしている。
「わかった。じゃあセイメリアに戻ったら一緒に見に行こう。」
リンの誘いにマディスは少し思案して「それなら、まあ」と納得した。
エフォラは最悪の事態は避けられたものの「絶対揶揄いにくるだけじゃねぇか」と言いたい気持ちを抑えて苦い顔をしていた。
「エフォラ」
ウィルルが声を掛けて来たのでそちらを見やると、ウィルルは武器を握って馬車の後方に視線を向けていた。エフォラも即座に武器を取る。
「何か来てる」
エフォラにも後方から迫るものが見えた。馬が二頭、乗っている人間は武装している。盗賊か。
(そうなると当然前も)
馬のいななきと共に馬車が急停車した。
「姿勢を低くして隠れていてください」
狼狽しているリンとマディスに短く告げると、ウィルルにも指示を出す。
「後ろ任せるぞ。馬車に近づけるな。道の脇にも潜んでる可能性があるから気をつけろ」
ウィルルは頷いて馬車の外に出た。
少し待って道の脇から出てくる者がいない事を確認し、エフォラも馬車を出る。
念の為、道沿いの茂みに重力発生による押しつぶしを試す。バキバキと木の枝が折れる音はしたが手応えはなかった。こちらにはいないか。
反対側にも同じ事を試す。
「ぐ…」
声があった位置に飛び込み、屈んでいる盗賊を視認して腹部に蹴りを叩き込む。感触からしてたいした防具はつけていなかったようだ。鉄板入りのブーツの蹴りだから、これでしばらくは動けないだろう。
(反応が遅い。並の盗賊だな。軍人崩れじゃなくてよかった)
そのまま馬車の前まで回り込む。
(馬に跨った敵が二人。御者は無事。獲物は…銃か?!)
エフォラの姿を見て盗賊は舌打ちした。
「…化け物付きかよ」
「後ろの二人にも化け物送り込んどいたぜ」
悪態をついた盗賊に返しながら、銃に向かって能力を発動する。
「なんだ?!」
銃がひんやりとして、異常な振動が発生したのを感じ盗賊は銃を手放した。
「手を離したのは正解だ。うっかり引き金引くと暴発するかもしれんからな。」
この辺りで引き下がってくれると面倒がなくていいが、もう一押し必要か。
馬が邪魔だ。とはいえ、こちらの馬には影響がないようにしたい。生き物に使うのは難しいが蹄鉄ならいける。
銃と同様に蹄鉄を振動させ馬がパニックになったところで足元に投げナイフをいくつか放つ。
「…っ!引くぞ!」
形勢不利とみて、盗賊二人は逃げていった。
「後ろを見てくるので、しばらくここで待ってください」
エフォラは盗賊を見送ると、ナイフを回収しながら、怯えた様子の御者に伝えた。
「は…はい…」
震えた声で答えた御者は、異形なモノを見る目でエフォラを見ていた。エフォラは目を伏せて馬車の後方へ走り出す。
(いつもの事だ)
得体の知れないモノを人は恐怖する。能力が使えない者からすれば、能力者は理解できない力を使う化け物でしかない。やり方次第で簡単に人を殺せる力だ。
馬車後方では盗賊が一人気絶していた。馬は逃げたらしい。見渡すと、やや離れた地点でウィルルと最後の一人が戦っているのが見えた。森の中で接近戦になっており、応援に入るのが難しい。体捌きはいいが、ウィルルの方がリーチが短く決定打に欠けている。長い髪を振りながらというのも、よろしくない。
(だから、せめて纏めろって言ったのに)
「前の二人は逃げたぞ!」
エフォラの声にウィルルの動きが一瞬止まった。
(なんでお前の方が反応すんだよ?!)
エフォラが駆けつけるより早く、盗賊がウィルルの髪を掴んだ。
「舐めやがって、このアマッ!おい、てめぇ、この女のッ?!」
次の瞬間盗賊は上に吹き飛んだ。
一瞬の事で、エフォラも事態を飲み込めなかった。
ウィルルの下からの蹴りが盗賊の顎を捉えていた。盗賊の手にはウィルルの髪が捕まれたままだったが、髪の先は切断されていた。
短くなった髪を振り、ウィルルは何事もなかったかのように立ち上がった。
助けに向かおうとしていたエフォラは、度肝を抜かれて立ち尽くす。
「終わった」
「う…うん…」
ウィルルの短い報告に、エフォラはそれしか言えなかった。
エフォラは先ほど見た映像を、脳内で再生する。
髪を掴まれた瞬間、ウィルルはナイフを取り出し躊躇なくうなじあたりで自分の髪を切り取っていた。そのまま一旦しゃがみ、伸び上がる反動で盗賊の顎を蹴り上げる。
状況判断としては正しい。瞬時にそれを行動に移せるのも素晴らしい。だが…
「髪…伸ばしてたんじゃないのか?」
なんとなく見当違いな事を言っている気はしたが、エフォラから出てきたのはそんな疑問だった。
「髪は、また伸ばせばいい」
ウィルルは、表情を変えることもなく端的に答えて馬車に向かった。
◇ ◆ ◇ ◆
拠点となる町の宿に荷物を運び込み一息ついた後、エフォラは宿のカウンターで電話を借りてティアと話していた。宿や雑貨屋、喫茶店など、それなりに栄えている町で、馬車で通れる道が整備されているのはここまでだ。
あの後馬車に戻ると、リンとマディスは何が起こったのか理解できない様子だった。馬車を出る時に長かった髪が、戻ってきたら肩ぐらいの長さになっていたら驚くのも無理はない。馬車の中で、リンがある程度長さを整えてくれたが「町に着いたら美容院…はないかもしれないけど理髪店で綺麗にしてもらった方がいいと思う」ということで、町に着いてすぐウィルルを理髪店へ行かせた。
リンは部屋で論文を読んでいる。マディスは部屋で休むと言っていた。
「いちいち電話しろとか過保護過ぎじゃねえか?心配しなくてもウィルルはよくやってるよ」
「研究部の人達とは上手くやってるの?明日は現地の案内の人も合流するんでしょ?」
ティアは落ち着かない様子で次々質問してきた。エフォラは「面倒だなあ」と思いながら、逐一答えていく。
「研究部の人とは特に問題ねぇよ。お前より全然いい人達だから心配すんな。明日の事は明日にならんとわからん。」
「なんでそういう嫌な言い方するのよ。本当に特に変わった事とかない?」
「別に…」
髪を切った事は変わった事だろうか。
「何かあったわね」
ティアの声のトーンが低くなる。エフォラは誤魔化そうかと一瞬思ったが、どうせ帰ったらわかる事なので話してしまうことにした。
「んーあー…なんか色々あってウィルルの髪が短くなった」
「はあ?!どういうこと?!!」
ティアのあまりの大声にエフォラは受話器を遠ざける。
「盗賊と一悶着あって、その時に切らざるを得ない状況になって。なんの躊躇もなく自分でナイフで切ったから、さすがにビビったよ」
「ああ…まあ…戦闘には不向きな髪型だったもんね…」
何か言いたそうな雰囲気はあったが、ティアは納得したようだった。
ちょうどその時、宿の扉が開いてウィルルが帰ってきた。肩にかからない長さで綺麗に整えられている。ウィルルは少し不安気にエフォラを見た。
「ああ、お帰り。ん、かわいい、似合ってる。」
目があったのでウィルルにそれだけ伝えると、エフォラは電話に戻った。ウィルルは少しの間エフォラを見た後、カウンターを通り過ぎて二階の部屋へ歩いて行った。
「で、なんだったっけ?」
「え?何?今の?」
ティアの口調に不快感のようなものが混ざった。
「ウィルルが帰ってきたとこ。リンさんが、ちゃんと店で切ってもらった方がいいって言うから、理髪店に行ってただけだ。」
「ああ、なるほどね。で、今の何?」
エフォラは何を聞かれているのか理解できず聞き返す。
「え?何って?」
電話越しにティアの深いため息が聞こえた。
「かわいいとか似合ってるとか無意識でそういうのサラッと出てくるのはスゴイと思うけど、職場でやるとセクハラだからね」
指摘されてようやくハッとする。
「あ…はい…気をつけます」
「まあ、ウィルルだから大丈夫だろうけど」
「いや、でも、嫌だったかも…」
「それはない」
ティアは食い気味に言葉を被せてきた。
「はあ?それどういう…」
「本気で気付いてないの?」
また食い気味に言葉を被せてくる。話が見えない。
「…何に?」
ティアは深く長いため息をついたが、エフォラの疑問に答えてはくれなかった。
「時間だし、またそのうち連絡して」
「え???おい!ちょっと」
電話はそこで切れてしまい、エフォラは意味がわからないまま取り残された。
「どういう事だよ…」
ぼやいてみたが、応えるものはいなかった。
四、怨念の傷跡
案内役と合流するために訪れた小さな役場の一室で、四人は手持ち無沙汰にしていた。既に予定時刻を15分過ぎている。役場の人は困り顔で「もう来ると思うんですが…」と何度も聞いた同じ台詞を繰り返していた。人選に難航した結果「何かと難しい人」だが、引き受けてくれたという事だった。マディスとエフォラはげんなりしており、リンも眉間に皺を寄せている。
予定時刻から20分が過ぎた頃、ようやくその男は現れた。
「こんなところで調べ物をしたいって物好きはお前らか」
男は尊大な態度で、遅れた詫びの一つもいれず入室してきた。年齢は五十を過ぎた辺りだろうか、普段から鍛えているのであろう筋肉質な体格で黒髪は短く刈り上げている。
鋭い目で全員を見渡してから、椅子にドカッと座ると短く自己紹介をする。
「カルダ・トラグマだ。この辺で傭兵をやってる。」
「サルウッドの研究部室長のリン・クォンターンです。」
「同じく研究員のマディス・コイルです。よろしくお願いします。」
カルダは二人の自己紹介に「ん」とだけ応えて足を組んだ。それから、エフォラの方を足の先から頭の先にかけてまじまじと見る。
「こちらは異常事態対策部隊…」
「あーそいつらの自己紹介は要らねえ」
リンがエフォラとウィルルを紹介しようとするのを遮って、カルダは立ち上がった。
「さっさと目的地に行こうぜ」
「いくらなんでも失礼すぎませんか?」
そのまま出て行こうとするカルダにリンが立ち上がり抗議の声を上げる。
「都会のインテリは綺麗事がお好きなようで」
カルダは鼻で笑うと部屋を出て行った。
リンは面食らって口ごもってしまった。すぐに頭を振って気持ちを切り替える。
「あんな失礼な人初めて見た。とはいえ、着いていくしかなさそうね。」
マディスはあまりの事にポカンとしていた。ウィルルも呆然としている。
(…あれは能力者差別主義者だな)
エフォラは待たされていた時よりも尚更げんなりしてため息をついた。
「行きましょう」
リンに促され、三人は部屋を後にした。
部屋を出る時、気まずそうに押し黙っていた役場の人が小さな声で「すみません」と言ったのが聞こえた。
「うまく言い返せなくてごめんなさいね。」
歩きながらリンはエフォラとウィルルを気遣って声をかけてくれた。
「いえ、十分です。よくあるんで慣れてますからお気になさらず」
エフォラの応えに、リンは不満そうな顔をした。
「ああいうのは、慣れちゃいけないと思う。」
エフォラは「それは正論ではある」と思ったが、曖昧に笑って誤魔化した。とはいえ、さすがにウィルルには堪えたかもしれない。
「よくあるんスか?」
マディスも会話に入ってくる。
「セイメリアから出ると割と。サルウッド内でもありますよ。ここまであからさまなのは、戦争が激しかった地域ぐらいですが…」
「そうなんスか…」
マディスは少し落ち込んだ様子だった。
それはともかくとして、あの男と長時間いるのは気が進まない。少なくともウィルルは遠ざけておきたい。それにしても、あれほど能力者を毛嫌いするなら、何故この案件を受けたのか。よほど報酬を上乗せしたのだろうか。
「ウィルルは後方の警戒を頼む」
カルダに追いつく前に、エフォラはウィルルに指示を出し、自分は前方へ向かった。カルダは後ろを気にする様子もなく歩いていた。
カルダに追いつくと、意外にもカルダの方から話しかけてきた。ただし、顔はこちらに向けない。
「おい小僧、産まれはどこだ?」
「…小僧というのは私の事ですか?」
エフォラは内心腑煮えくりかえるところを、なんとか耐えた。
「他に誰がいる?産まれはどこだ」
「あなたには関係ない事だと思いますが?」
「顔立ちと名前からすると、この辺だろう」
こちらの話を全く聞く気がないようだ。エフォラは内心舌打ちした。
「戦災孤児で施設育ちなので正確な事はわかりませんね」
「何処の施設だ」
(なんなんだよ、こいつ…)
最初に会った時も嫌な視線でジロジロとこちらを見ていた。
「全焼したのは覚えてますが、その後サルウッドに保護されたので、施設の場所や名前までは覚えてません。子供の記憶力なんてそんなもんです。」
本当は違うが全くの嘘でもない。いつもの設定を答えると、カルダは鼻を鳴らした。
「どんな施設だったかも、世話をしてくれてた職員の名前も覚えてないのか?」
嫌な質問だ。実際は秘密裏に行われていた軍の人体実験の施設だったのだから、職員の名前など被験者には開示されない。
「…全く覚えてないわけじゃありませんが…はっきりとは覚えてませんね」
「化け物が人間のフリしやがって」
カルダは吐き捨てるように呟くと、話はそれで終わったようだった。
◇ ◆ ◇ ◆
畑の中に何軒かぽつりぽつりと家や納屋がある。目的の場所は、そんな素朴な村にあった。これと言って特筆する事もない、この地方の一般的な民家だ。家を管理しているリピナ・インメントは、本来の家主の義理の妹にあたる素朴な中年女性だった。行方不明の研究者トトゥカ・リライには親族がおらず、亡くなった妻の妹である彼女にその仕事が回ってきたという事だった。
研究者の名前を聞いた時、ウィルルはエフォラの方を見たが「この地方じゃ、よくある苗字だ」と言われただけだった。エフォラの名前を聞いた時にリピナも少し驚いた様子だったが「よくある苗字ですからね」と笑っていた。
「書斎の方は触っていないので、いなくなった時のままです。他の部屋は随分前にある程度片付けましたが、研究に関わるような物はなかったと思います。」
一通り掃除をしてくれたのか、どの部屋も埃をかぶっている様子はなかった。
リンとマディスは書斎へ、エフォラとウィルルは特にやる事もなく、リピナと小さなリビングでくつろいでいた。カルダは外で畑に仕掛けた罠の確認へ行くと言っていた。普段この辺りの害獣駆除もやっているらしい。
リピナは家から持ってきたお茶をエフォラとウィルルに入れてくれた。少し香ばしくサルウッドにはないお茶だ。
「なんとなく懐かしい味ですね」
エフォラは思ったまま口にしてからハッとした。もしかしたら、幼い頃に飲んでいたのだろうか。施設に入る前の記憶は朧げだ。
「エフォラさんはこの辺りのご出身かしら?」
今日は二度目だな、と思いながらエフォラはいつもの設定を話す。
「おそらくこの辺りだと思いますが、戦災孤児で施設育ちなので正確な場所はわからないんですよ。施設が焼けてサルウッドに移ったので施設の場所もよく覚えてませんし。」
「そう…ですか…」
リピナは下を向いて何か少し考え込んだようだった。短い沈黙のあと、不意に立ち上がると、棚に伏せてあった写真立てを手に取った。
「私ね…甥がいるんですよ。もし生きていれば、丁度あなたぐらいの年で…」
エフォラは、写真を見つめるリピナを見た。
「名前も同じだったので、もしかしてと思ってしまって…すみません」
「その子は…どうされたんですか?」
エフォラの問いに、リピナは写真を見たまま少し口籠った。写真を見る瞳には、愛おしさとは別に、悲しみと不安が混ざる。
「軍に…連れていかれました。詳しい事はわかりませんが、何か能力があったとかで。」
写真を持つ手に力がこもる。
「本当は止めるべきだったんです。姉が生きていれば止めたんでしょうが…姉は産後の肥立が悪くて、あの子が3歳の時に亡くなってしまって…まだ5つだったのに…」
エフォラは話の内容をあたまの中で整理した。5歳の頃に軍の施設に連れていかれたエフォラ・リライ。状況から考えれば、高い確率で自分の事だ。軍は何人も子供を集めていたので、同じような境遇の同姓同名という可能性もあるが、そんなに偶然が重なるとも考えにくい。
「すみません…こんな話…そうだ、甘い物お好きですか?家に昨日焼いたクッキーがあるんです。まだ、時間もかかりそうですし、ちょっと、とってきますね!」
リピナはそう言うと写真立てを戻してリビングを後にした。
「調べ物は、まだかかりそうか?」
入れ違いにカルダが入ってきた。
エフォラは立ち上がりリピナが置いた写真を手に取る。
「もうしばらくは、かかると思います」
視線は写真に向けたまま、カルダの問いに応える。カルダは鼻を鳴らして、また外へ出ていった。
写真には小さな男の子と、その両親が写っていた。この父親がトトゥカ・リライだろう。眼鏡をかけているので印象は違うが、今の自分とよく似ている。だからリピナは、今の話をしたのだ。
(俺の…家かよ…)
写真を持ったまま椅子に座り直すと、ウィルルが写真を指差した。
「エフォラ」
小さな男の子を指して言う。
「?」
今度はエフォラの方を指す。
「エフォラ」
同じ人間だと言いたいのだろうか。今の会話からの想像なのか。
「私、この家知ってる」
ウィルルはまっすぐな目でエフォラを見ていた。
「何を言って…」
エフォラは言いかけてから気づいた。
「記憶が…戻ったのか…?」
そうだ。そもそもウィルルが入っていた機械の製造者と目される人物の調査に来たのだ。この家がその人物の家であるなら、ウィルルが訪れていてもおかしくはない。何か記憶を呼び覚ますきっかけがあったのかもしれない。
「小さい男の子がいた。あと…」
ウィルルは部屋の隅にあるタンスへ向かった。
「タンスの一番下に、おもちゃがある」
そう言って開けた引き出しの中には、積み木や小さな子供用の玩具が並んでいた。
「あ…」
エフォラは、ウィルルが目を覚ました次の日の事を思い出す。あの時「私のいた家のタンスの一番下におもちゃがある」と言っていた。エフォラという名前、製造者の面影のある人間、部屋の隅のタンス。記憶を呼び覚ます条件があそこにあったのだ。
「待てよ…男の子が『いた』?」
エフォラの問いにウィルルは頷いた。
「会ってたって事か…?俺と???」
エフォラは部屋を見渡した。
そうだ。言われてみれば、確かにこんな家だった気がする。おもちゃも、いくつかは見覚えがある。ウィルルと子供の時に会っている?まさか。でも、最初に見た時に何か既視感のような物はあったのだ。しかし、銀髪の女の子なんて、会っていれば小さかったとしても覚えていそうなものだ。
(いや、待て。会ってるとしても俺が5歳になるまでの話だ。その時ウィルルは…何歳だ?)
何かを一瞬思い出した。銀髪の女の子。お姉さんだ。たぶん4つ上くらいだった。そういえば、少しの間だけ遊んでもらった時期があった。今の今まで、全く思い出した事もなかったが、確かにそんな事があった。名前は覚えていない。
仮に、あの機械の中で眠っている間、成長が止まるのだとしたら、そして、何年も眠っていたのだとしたら?ウィルルがエフォラより前に生まれていた可能性は十分にある。
「ここで、エフォラと遊んでた。かわいい小さな男の子。虫は好きだけど、蜘蛛が苦手で…」
ウィルルは思い出した事をぽつりぽつりと話し始めた。そういえば、子供の時は蜘蛛が嫌いだった。
「蜘蛛は、だってアレ、目の数多すぎじゃね?」
エフォラのセリフにウィルルは笑い出した。声を出して笑う姿は初めて見たかもしれない。
「子どものときも、同じ事言ってた!」
(これは…間違いなさそうだな…)
記憶が戻ったのはいい事だと思う。ただ、エフォラとしては予想外の角度から不意打ちを食らった気分だった。
エフォラは今の内容を踏まえて、もう一度頭の中で情報を整理しなおす。
時系列で考えると、自分が5歳までの間にウィルルはこの家に来ており、エフォラとも会っていた。エフォラはその後、軍に連れていかれたが、ウィルルはその後眠りについた事になる。この家の主がウィルルが入っていたあの機械の関係者なのはほぼ間違いなく、おそらくエフォラの父だ。つまり、リピナはエフォラの叔母にあたる。話を総合した時に「不味いな」と思ったのは、エフォラが軍に連れていかれた本人だとわかる事だった。この場に他の人間がいなかったのは幸いだった。
「ウィルル。俺がこの家の子だという事は伏せてくれ。」
「どうして?」
あの施設は結局、戦争の終わり頃に施設の主であった帝国軍に破壊されたのだ。
「リピナさんの話と合わせると、軍に連れていかれた事がわかる。俺が連れていかれた施設は全焼して、関係者は全員殺されている。俺はたまたま逃げ延びたが、生きている事がどこかから漏れると命を狙われる危険がある。」
ウィルルはエフォラの説明に黙って頷いた。とりあえずの対処としては、これでいいだろう。
廊下を歩いてくる足音に気付き、二人はもとの位置に座った。
ドアが開いて、リンとマディスが部屋に入ってきた。
「当たりね。関係者なのは間違いないわ。研究の記録がみつかった。ただし、肝心のファイルが二、三なくなってる。本人が持ち出したか、誰かに持ち去られたか、はわからないけど」
二人は空いた席に座ると、ため息をついた。
「あれ?リピナさんは?」
マディスがキョロキョロと周囲を見渡す。
「家からクッキー持ってくるそうです。」
エフォラの答えにマディスが少し嬉しそうな顔をする。
「こっちはどう?て言っても、こっちにはそれらしい物ないもんね」
リンの問いにエフォラはウィルルの方を見た。目が合うとウィルルが頷いたので、エフォラはウィルルに起こったことを話した。
「ウィルルが少し記憶を取り戻しました。この家に短い期間ですが、いた事があったそうです。」
リンとマディスが目を丸くした。
「そう…記憶が…」
「断片的に、ここにいた頃の記憶が戻ったようです」
リンはふぅと息を吐くと、優しくウィルルに微笑みかけた。
「よかった。少しずつ、思い出せるといいわね。」
ウィルルが黙って頷くのを見てリンは小さく笑ってから、話を戻した。
「収穫もそれなりにあったし、引き続き書斎の方は私とマディスで調べるとして、資料を見ていて気になった事が一つ」
リンは神妙な顔で指を立てる。
「資料に出てくる設備が、この家にはないという事」
「設備?」
エフォラの問いにリンは頷いた。続きをマディスが引き継ぐ。
「部屋は一通り見たんスけど、どこも一般的な家庭の部屋で、資料に書かれているような研究や開発ができるような場所でもないんスよ。それなりに工具や機材も必要なはずなんスけどね」
「行方不明になるまで、ここに住んでいたと言うのであれば、ここからそう遠くない所に、研究開発可能な設備があるはず。こんな田舎の村にそんな設備があれば普通は目立つでしょうし、村の人も知っているはずだが、そんな話は聞いたことがない」
ここまで聞いてエフォラはリンの言わんとする事を理解した。
「つまり、どこかに隠された設備があると?」
「その可能性が非常に高いわ」
「なるほど…そういう調査なら、我々の方が向いているでしょうね。」
「ええ、お願いします。」
リピナが戻った後、調査を継続する旨を説明し、今日はこの家に泊まる事にした。リンとウィルルは寝室のベッドを使い、マディスはリビングのソファで寝ることにした。エフォラはどちらにしても夜間は見張りをするので、三人が寝る前に仮眠をとった。カルダは、いつも寝泊まりしている小屋があると言って出ていった。
就寝の準備をしながら、リンはウィルルに話しかけた。
「どうして派遣員になろうと思ったの?」
ウィルルはキョトンとした。そんな事を聞かれると思っていなかったからだ。
「まだ学生でいてもいい年齢でしょ?私があなたぐらいの頃は、まだ勉強したていたかったし、働くなんて考えてなかったなあと思って」
ウィルルは少し考えてから答える。
「能力があるから、それで何かしようと思いました。」
「ふーん。でも、能力を活かせる仕事は他にもいろいろあるでしょ?」
言われてみれば確かにそうだな、とウィルルは思った。ウィルルが考え込んでしまったので、リンは「面接じゃないから、そんなに難しく考えないでね」と笑った。
「あまり、どんな仕事があるのか知らないからかもしれない」
ウィルルの答えにリンは優しく頷いた。
「この仕事はどこで知ったの?」
「エフォラがやっていたから」
「そう、それでやってみたいと思ったのね」
リンに言われて、ウィルルはキョトンとした。やりたかったのかと言われると、何か腑に落ちなかった。同期は、あちこち行けるのがいいと言ってる人から、人を助けたいと言う人まで様々だったが、皆それなりにこの仕事をやりたいという気持ちがあるようだった。自分はどうだろうか。
「一緒にいたかったから…」
ウィルルの素直な気持ちに、リンは面食らった顔をしたが、直ぐに笑顔に戻った。
「そう。エフォラさん、いい人だもんね。」
ウィルルは頷く。「でも」とリンは続けた。「そばに一緒にいるからできる事もあるけど、ずっとそばにいなくてもできる事はあるし、ある程度離れてるからこそ、できる事もあるのよ」
ウィルルにはリンの言いたい事が、よくわからなかった。リンも伝わらないのがわかっていたのか、首を傾げたウィルルに「気にしないで」と言添えた。
時計を見ると、もうエフォラに起こすよう頼まれた時間だった。
「エフォラを起こしてきます」
ウィルルはそう言って部屋を後にした。
月のない夜空に星がよく見える。サルウッドでは夜間も街の灯りで煌々としており、こんなに星が見える事はない。
ウィルルに仮眠から起こされ、見張りのために外に出ると、エフォラは屋根の上に登った。一人で全体を見渡すにはここしかないだろう。屋根の上から、自分が幼い頃いたであろう村を見渡す。これといってなんの特徴もない、よくある農村だ。ここにいた頃の記憶はほとんどない。現実か夢かもわからないようなぼんやりとした記憶だ。父は確かにいたが、世話をしてくれていたのはリピナだったかもしれない。母の顔も覚えていない。あるのは葬式の記憶だけだ。みんな暗い顔で黙っていて、何かが起こった事はわかったが、それが何を意味するのかはわからなかった。そもそも死を理解できる年齢では無かった。
しかし、ウィルルと会っていたというのは、さすがに想像していなかった。年下として扱ってきた相手が、自分より前に生まれていたという事実は複雑な気持ちにさせられた。何もなければ、とっくに成人していたであろう彼女が何故今の状況になってしまったのかはわからないが、研究設備が見つかれば何かわかるのかもしれない。そこに自分の父親もいるのかもしれない。子供を軍に引き渡すような親に特に未練はないが、顔を合わせる事になるとすると、それは少し怖くもあった。
人の気配に気づき、エフォラはそちらに注意を向けた。男が一人。知ったタバコの臭い。カルダが道中で吸っていたものだ。
男はこちらに気づくと話しかけてきた。
「そんな所で見張りか、ご苦労なこったな」
「見回りですか?」
エフォラは愛想のない声で問うた。
「なに、煙草を吸いたくなっただけだ」
ガルダは煙を吐き、しばらくそこに立っていた。吸い終わると吸い殻を地面に放り捨て踵で踏みつける。
「50番と88番、どっちだ?名前は覚えてるがどっちがどっちだったかは忘れたな。もう1人は…ユナ…だったか?」
不意に喋り出したカルダの言葉に、エフォラは戦慄した。50番、88番、ユナ。あの施設で自らに与えられた番号を思い出す。ユナの腕輪の番号が「0S50」だった。エフォラに与えられたのは「2A88」番。
「もう1人はどうした?それとも、別々に逃げたのか?」
この男は、軍の施設から二人が逃げ延びた事を知っている。
「何のことですか?」
わからないふりをしたエフォラをカルダは鼻で笑った。星あかりでこの距離ではお互い顔も見えない。こちらの動揺には気づいていないはずだ。それでいてこの態度だとすると、かなり強い確証を持って話している。
「名前と年齢で怪しいとは思ってたんだ。だから、こんな仕事を請け負った。やはり当たりだったな」
「だから何を…」
「心配するな。今更自分の失態を上に報告なんかしねぇ」
尚もわからないフリをするエフォラに、カルダはそう言った。エフォラには意味がわからなかった。カルダは「自分の失態」と言った。エフォラとユナが逃げ延びた事が「失態」だとすると、それはつまり、本来はそれらを殺す仕事を請け負っていたという事だ。
「あの施設に始末をつけたのは俺の部隊だ」
ガルダは煙草を取り出して火をつけた。
「ガキの死体が二つ足りなかったが、面倒だったし、どうせその辺で野垂れ死ぬだろうと見逃してやったんだよ。まさかセイメリアに保護されて五体満足で生き延びてるとはな」
煙を吐きながら物思いに耽るように呟く。
暗がりの中、カルダがエフォラの方を向いた事だけがわかった。顔は見えないが、向けられた敵意に背筋がぞくりとした。
「お前は人間か?あそこにいたガキどもは、ほとんど人間の形をしていなかったぞ」
凍りつくような冷たい声に、エフォラは何も答えられなかった。
「まあ、俺に害が無ければ、お前が人間だろうと化け物だろうと関係ないがな」
カルダはフンと鼻を鳴らして、来た方向に戻って行った。
自分は人間なのか。ユナを見た時の不安が甦る。施設内では子供たちはそれぞれ個室に隔離され、ほかの子供を目にする事はほぼ無かった。ほかの子供達がどのような様子だったのかは、エフォラには預かり知らぬ話だ。ほとんど人間の形をしていなかった?ユナのように?
寒気がする。
当然だと思っていた土台が崩壊していく感覚に、エフォラは震えた。
今のこの状態は安定した状態なのか、それとも薄氷の上に運良く立てているだけなのか。それもわからない。いつ何時、正気を失って自分という形が崩れるのかわからないのだとすると、それは果たして人間と呼べるのだろうか。
(俺は人間なのか?)
答えのない問いだけが、暗い夜にポツンと浮かんでいた。
空が少しずつ白んできた。ウィルルは外に出て、冷え込んだ空気に身震いする。朝になりきるまでにはまだ時間がある。見張りを交代する時間だ。
屋根に登り、エフォラに声をかける。
「エフォラ、交代」
小さな声で「ああ」と応えたエフォラは、本人は隠そうとしているようだったが傍目にも憔悴していた。
「何かあった?」
ウィルルは言いながら屋根によじ登った。
「大丈夫だ。特に何もない。」
エフォラは力なく笑う。心配させまいとする彼なりの気遣いだという事はウィルルにもわかった。ティアが相手だったら、なんらか疲れている事を伝えただろうと思うと歯痒い。
「少し仮眠を取るから任せる。」
そう言って降りて行こうとするエフォラの腕を、ウィルルはつかんだ。
「なんだ?」
「何かあった?」
急に腕を掴まれて驚いているエフォラに、もう一度聞く。
「大丈夫だ。大した事じゃない」
エフォラは、今度は少し困ったように笑った。
ウィルルは手を離さない。その説明では納得できない。
エフォラは怪訝な顔をしてため息をつく。少しの間何か考えたようだったが、結局何も話さない事にしたらしく、一つだけ質問をしてきた。
「ウィルルから見て、俺は何に見える?」
ウィルルは質問の意図が読めずに眉根を寄せた。それから、少し考えてこう答えた。
「疲れてるのに、強がってる人」
エフォラは見透かされている事に目を丸くしたあと、優しく微笑んで「ありがとう」と言った。それから、ウィルルがつかんだ手に自分の手を添えて、そっと離すと屋根を降りていった。
ウィルルは、少しだけ触れた彼の手の冷たさを想う。もう少し自分が大人なら、もう少し頼ってくれただろうか。ティアになら悪態を吐きながら本音も話しただろう。夜にリンに言われた事を思い出す。一緒にいても出来ない事だらけだ。
空の端が明るくなり、徐々に赤みがさしてくる。気温も少しずつ暖かくなり、直に日が昇るだろう。空にはまだ、僅かばかりに輝く星が残っている。
少しだけ戻った記憶は朧げで、肝心な事は何も思い出せていない。結局自分はどこの誰で、何故何年も眠っていたのか。これまで、とくに不自由もなかったので、あまり気にした事はなかったが、少しばかりの記憶の欠片が見つかった事でその全体像に興味がわいた。
陽の光が村を照らす。どこかで鳥が鳴き始めた。朝だ。
まずは、任された仕事をこなさなければ。
ウィルルは朝の空気を吸い込むと、見張りに専念した。
五、棄児の足跡
各部屋の計測を手分けして行い、間取りを書き起こすと、エフォラ、ウィルル、リン、マディスの四人はリビングのテーブルを囲んでそれをまじまじと見た。
「こんなもんか」
「特に変なところは無さそうね」
変に空間が空いている場所があるとか、不自然な箇所があればと思ったが、それらしいものはこの間取りには見受けられない。
「そうすると、外か」
エフォラが顎に手を当てて考えていると、ウィルルが首を傾げた。
「どうかしたか?」
エフォラに聞かれて、ウィルルは少し悩んだ様子を見せたが、おずおずと口を開く。
「物置部屋が、もう少し広かったような気がする」
確かに、物置部屋はそれなりに木箱や壺などが積み上がっていて、なんとか計測はしたものの十分に調べられたとは言えない状況ではあった。
「なるほど、ウィルルは物置部屋の奥を見てくれるか?ちょっと外からも計測してみる」
そう言ってエフォラは、外へ向かった。
外に出ると、カルダがタバコをふかしながら、動物用の罠を修理していた。カルダはエフォラをチラリと見たが、特に声をかけるでもなくすぐに自分の作業に戻った。
エフォラの方も彼には構わず、物置部屋のある位置へ向かう。外の計測結果を間取りに書き加えると、どうも違和感があった。壁が厚すぎる。ウィルルが言うように、確かにもう少し奥行きがあってもいいように見える。
カルダは一仕事終えて「よし」と言うと、肩を回して首をごきごきと鳴らした。そのままタバコで一服しながら、さして興味も無さそうな顔でエフォラを眺める。エフォラはカルダの事は無視して家の中に戻った。
物置に着くと、ウィルルが奥の壁を叩いて何か確認しようとしていた。
「何かわかったか?」
エフォラが声をかけると、ウィルルは振り返って頷いた。
「壁じゃなくて薄い板みたいな感じがする」
エフォラもウィルルの隣まで行って、壁を軽く叩いた。音が軽い。ウィルルが言うように薄い板のようだ。おそらく奥に空間がある。
リピナに許可をもらい、荷物を少し外に出し、壁際の木箱を動かす。
「当たりだな」
エフォラの言葉に、ウィルルとリンも木箱の裏を覗き込む。そこには、屈めば人が一人通れるほどの小さな入り口があった。
エフォラが入って中を確認する。明かりはない。暗がりの中に、下に続く階段があった。地下道だ。
「地下に続いているようです。先に俺が見てきます。」
リンに報告すると、いつの間にか家の中に戻っていたカルダが前に出た。
「どこに繋がっているかわからん。土地勘がある者がついていった方がいいだろう。」
エフォラは一瞬顔を歪めたが、言っている事は正しいと思った。中がどうなっているのか、先が安全なのかが分からないため、全員で行くわけにはいかない。研究員の護衛も任務である以上、リンとマディスの二人だけを残しすわけにもいかない。どこかに辿り着いたとして、土地勘が無ければ地上の何処を歩けば元の位置に戻れるのか把握するのは簡単ではない。カルダを残してウィルルに悪態をつかれるような事も避けたい。総合的に考えてエフォラとカルダの二人で先行調査へ向かうのが妥当だろう。
エフォラは渋々「お願いします」とカルダに同行を依頼した。
階段を降りると、土肌が露出した通路があった。小さな懐中電灯で先を照らすが奥は見えそうもない。
カルダはランタンに灯りをともす。
「どこかに繋がってるといいが、奥で崩れている可能性もある。怖いのは酸素不足だな。」
足下を照らすと、土の上にまだ新しい足跡があった。
「誰かが最近使っている。であれば、大丈夫か」
カルダに言われて、エフォラも屈んで足跡を確認する。サイズからして男だろう。
「僥倖じゃねぇか。あんたらの目的の人間は生きているかもしれんな」
カルダは鼻で笑ってそう言った。
「そうですね…」
エフォラは眉間に皺を寄せて同意すると、奥歯を噛んでゆっくりと立ち上がる。
暗い地下道のこの先に、ウィルルを眠らせ、そのクローンであるリウナを創り出し、自分を軍へ売り渡した父がいる。
カルダとエフォラは暗い地下道を歩き始めた。
「避難壕を思い出すな」
しばらく歩いたところでカルダがポツリと呟いた。少ししてもエフォラが何も応えなかったため、カルダは「入った事がないのか?」と聞いてきた。
「ありますよ」
エフォラはそれだけ答えると、また黙った。
二人は時折磁石で方角を確認しながら暗い地下道を進んでいく。地下道には等間隔で杭のような物が打ちつけられており、表面には数字が書かれていた。どこまで進んだのか把握するためのものだろう。明かりで壁を照らすと、小さな虫が音もなく壁を這って逃げていく。どこまで歩いても変わり映えしない狭い通路がただ続いているだけだ。
「人を殺した事はあるか?」
不意にカルダが問いかけてきて、エフォラは鼻の頭に皺を寄せた。
「ありません」
エフォラの答えにカルダは鼻で笑った。
「そりゃお利口さんなこった。」
「あなたはどうなんですか?」
腹が立って聞き返すと、カルダはクククと自嘲気味に笑う。
「戦中は軍人だったんだ。沢山殺したさ。」
エフォラは馬鹿な事を聞いてしまったと後悔した。施設を焼き払ったのはこの男の部隊だったと昨夜聞いたところだったのに。兵どころか民間人も子供も殺しているに決まっていた。
ただ、カルダはすぐに笑うのをやめた。
「戦争じゃそれが普通だ。難しい事じゃねえ、人はすぐ死ぬ」
力なくそう続ける。
「敵をたくさん殺せば勲章だ。祖国を守った英雄になれる」
カルダは当時の事を思い出しているのか、感情が不安定に上下しているようだった。
戦場が異常な事ぐらいはエフォラも知ってはいた。いつ殺されるかわからない恐怖に怯えていた事はある。しかし、大義名分を盾に平時には許されるわけのない暴力や殺人を正当化して進軍する側になった事はなかった。当時は子供だったのだから当然だ。特殊派遣員になってから暴徒鎮圧のような任務が無かった訳ではないが、エフォラは未成年であったため後方支援をしており、前線での戦闘はしていない。そもそも、そういう任務でも殺してはならないのが基本だ。戦時とは違う。
「残念だったなあ…もう少し早く生まれてれば、たくさん殺して英雄になれたのによぉ」
カルダはニタニタと笑いながらそう言った。十年早く生まれていれば能力者であるが故に前線に立たされていた可能性はあった。実際、若くして前線に立ち英雄と祭り上げられた者はいた。敗戦後に投獄されて、獄中で自殺した青年がいた事はサルウッドでも大きく新聞で取り上げられていた。結局はいいように使われた駒でしかなかった。能力者はあの戦争で恐れ、蔑み、利用されてきた。何が英雄だ。
「黙れ」
エフォラはカルダの襟を掴んで壁に押し付けた。
「いい目だ。だが、人を殺した事のないお利口さんの目だな。」
カルダは馬鹿にしたように鼻で笑うと、急に激昂した。
「俺の仲間はお前ら化け物に、一方的に、虫けらのように殺されたんだよ!」
お前らとは能力者の事だろう。エフォラはカルダが能力者を嫌っていた理由を理解した。戦場で能力者と対峙し、多くの仲間を失って命からがら生き延びたといったところだろう。非能力者の末端の兵がどんな最期を遂げたのか。同情はする。だが、それは当時子供だったエフォラには関係のない話だった。
「戦争の責はあんた達大人にある。子供だった俺に八つ当たりするな」
エフォラに言われて、カルダの目から力が失われた。それから小さな声で呟く。
「戦争は地獄だ。弱い奴を踏み躙ってる時はいいが、自分が弱い側に堕ちた時に救いなどない」
エフォラはカルダを放した。苛立ちはあるが、こんな事に意味はない。カルダは少し咳き込むと、ゆらりと地下道を歩き始める。カルダは「くだらん」と言ったきり喋るのをやめた。
その後は、お互いに黙々と歩き続けた。
どのくらい歩いただろうか、地下道の終わりに辿り着くと、そこには梯子がかけられており、上から僅かに光が漏れていた。梯子を登って天井に触れると、それは容易に開いた。少しだけ開けて周囲を警戒したが、人のいる気配はなかった。地面は土のままだが、明かりは人工的なもので洞窟か何かのようだ。
エフォラは地下道から這い上がり、辺りを見渡した。狭い通路のような空間で、少し先に広い空間が広がっているらしく、明かりが見えた。
エフォラに続いてカルダも地下から顔を出す。
足音を殺して、明かりの方へ行き、広い空間の中を確認する。人の気配はないが、椅子とテーブルがあり、人が生活している形跡があった。テーブルの上には使い古したマグカップと、ノートとペン。小さな本棚に書斎で見た物とよく似た資料が収まっていた。少し奥を見るとベッドもあり、ここは生活エリアらしかった。
「留守らしいな。他の出入り口を探すぞ」
カルダはそう言うと、生活エリアから続く通路に進んだ。エフォラも周囲を確認しながらカルダに続く。
途中で別れ道があったが、カルダは指を舐めて風向きを確認し、風の吹いてくる道を進んだ。
ほどなくして蔦に覆われた出口を見つけた。
蔦をくぐって外に出ると、林の中だった。出入り口は、蔦のおかげで外からは分かりにくくなっているらしかった。
「ふん」
カルダは地図を開き、日の方向と歩い方角、距離から現在地に当たりをつける。それから周囲を少し散策して、地図を閉じた。
「村から南西にある林だ。こんなところに人がいたとはな…俺は戻って室長さん達を連れてくる。」
エフォラは頷いて「お願いします」とだけ伝えた。
エフォラは一人で内部の探索に戻った。
先ほどの別れ道まで戻り、まだ踏み入れていない道へ進む。地下道で見たものと同じ足跡がある。まだ新しい。
進んだ先には、また広い空間があり、見たことのない機器がいくつもあった。これが、リンが言っていた「設備」という事なのだろう。
隅の方で物音がした。エフォラがそちらに視線を向けると何かが動いたのが見えた。人だ。
エフォラは少し様子を伺ったあと、ゆっくりとそちらへ向かった。
「安心してください。サルウッドから派遣されたメリエーズ教管轄異常事態対策部隊特殊派遣員です。危害を加えるつもりはありません。」
物陰で小さくうずくまっている男がいた。髪と肌の色からも、おそらく探していた人物だろうと当たりをつける。
「トトゥカ・リライさんですね?」
エフォラはかがみ込んで男に問いかける。男は名前を呼ばれてびくりとした後、ゆっくりと顔を上げた。
「はい」
小さな声で応えたトトゥカは、エフォラの顔を見て目を見開いた。
「エフォラ…エフォラじゃないのか?」
エフォラは全身が総毛立つのを感じた。これが自分の父か。対面するまでは、素知らぬ顔で冷静に対処できると思っていたが、いざ目の前で自分の名前を呼ばれると、湧き上がる感情に体はざわめいた。
「目元がセレンによく似ている。よく生きて…」
トトゥカがエフォラに手を伸ばす。
エフォラは立ち上がって一歩退いた。
「私に親はいません。…軍に大人しく子供を差し出すような奴は親じゃない」
今となっては、当時は他にどうしようもなかったのだろうと思う。それでも感情はそれを許せなかった。何もわからないまま、ひとりで突然知らない環境に放り込まれた絶望を、あの施設で受けた実験動物のような扱いを、血反吐を吐くような苦痛を、積み重なる死体の下でただ死を受け入れるしかないと全て諦めたあの瞬間を、この男は知らない。何一つ知りはしないのだ。こそこそと隠れて己だけが生き残り、単なる偶然で再会して、今更親のような顔をされても許せるわけがなかった。
トトゥカは暫し呆然としたが、エフォラの冷酷な、それでいて眼の奥に憎しみを灯した表情に、それも当然の事だと受け入れた。
「そうか…その通りだ。私に親を名乗る資格などない。すまない…いくら謝っても許されることではない。」
悲しげな表情で目を伏せた男に、エフォラは込み上げた憎しみと怒りをぶつけてしまいたい衝動に駆られた。だが、そんな事をしている場合ではない。
「あの施設の関係者は全員軍に殺されています。私も本来いないはずの人間。あなたと私の関係については一切口外しないでいただきたい」
エフォラが冷たく告げた内容に、トトゥカは「わかった」と応えた。
出口に向かうエフォラの背中に、トトゥカは目を細める。
「生きていてくれて、よかった」
エフォラはその声を背中で聞きながら奥歯を噛み締めた。
◇ ◆ ◇ ◆
カルダに連れられて到着したリンとマディスは、トトゥカと設備や研究についての聞き取りを始めた。エフォラとウィルルは、出入口付近で見張りをし、カルダは仮眠をとると言ってその辺りで寝てしまった。
見張りと言っても、人が来る事もまずありえないため、蔦の内側で立って外の様子を伺うだけだ。
手持ち無沙汰になったエフォラは、ウィルルに話しかけた。
「何か他に思い出したりしたか?」
声をかけられたウィルルは一度エフォラの方を向いた後、地面に視線を落とす。
「…何も」
「そうか…まあ、焦ることでもない。そのうち、ゆっくりな」
「うん」
ウィルルにとって記憶を取り戻す事が良い事なのか、エフォラにはわからなかった。しかし、少しだけ記憶を取り戻したウィルルは、前よりも自然に心を表すようになったのは確かだった。残りの記憶も穏やかなものであればいいと思う。一方で、カルダが地下で話していたように、決して穏やかな時代で無かった事も確かだ。
戦争はエフォラが生まれるより前から続いていた。何があって十に満たぬ少女は、こんな研究者の下を訪れたのか。なんらかの大人の意図の下、連れてこられたのだろうが、明確な理由はわかっていない。
外から人の気配を感じ、エフォラは思考を止めた。ウィルルには「ここにいろ」と手で制し、ひとり注意深く外に出る。
人の気配は少し遠ざかったが、完全に去るわけではなくそこに留まった。追うとまた少し移動する。誘導されているようだ。エフォラは、このまま追うべきか迷った。これはブラフで、本隊が来る可能性もある。
一旦戻ろうとしたところで、それは姿を現した。こんなところで出くわすと思っていなかった相手を目にして戦慄が走る。
二年前、ウィルルを連れ去ろうとした上級能力者の組織の一人。そして、その組織を壊滅させた男。
「クライス?」
クライスは怒りを湛えた目でエフォラを見ていた。二年前の印象とは全く違う。気弱な青年でも、したり顔で鼻につく物言いの、淡々と任務をこなす男でもない。
「何故ウィルリウナが派遣員をやっている?」
クライスの問いを、エフォラは訝しんだ。
黙っているエフォラに、クライスは言葉を続ける。
「能力を使わせるな。我々の力は無から生まれる訳ではない。」
「我々」とは、上級能力者の事だろう。だが、一般的に言われている話とは異なる。能力者がエネルギーの変換を行うのに対し、上級能力者は変換元を必要とせず、自らエネルギーを作り出せるというのが通説だ。
エフォラは怪訝な顔をして話を聞いていた。クライスはさらに続ける。
「我々は、お前たちが外の力から変換しているように、内の力から変換している」
「…内の…力?」
エフォラはそこでようやく言葉を発した。クライスはエフォラの問いに淡々と答える。
「生命力だ。能力を使うだけ命を消費する。」
エフォラは目を見開いた。クライスの声により一層力がこもる。
「上級能力者が何故短命だと思う?使えば使うだけ命を消費するからだ。」
エフォラは愕然とした。命を消費する。それが本当であれば、ウィルルは能力を使うたびに寿命を減らしている事になる。今、どれほど使っただろうか。彼女の命は、あと、どれほど残っているのか。
「彼女は、私を除けばいまや上級能力者の唯一の生き残りだ。上級能力者の女性は他にいない。彼女のいた村が最後の村だった」
「何の話をしている?」
先ほどの話とは関係のない事を喋りだしたクライスをエフォラは訝しんだ。だが、クライスは話を続けた。
「彼女は種の保存のために人生を奪われ、リウナは繁殖の道具として作られた」
「なんだと?」
突然開示された醜悪な事実にエフォラは顔を歪めた。最後の女性、種の保存。ウィルルはそのために眠らされていたというのか。そしてリウナは、吐き気を催すような胸糞の悪い目的のために作られ、生かされていたというのか。
「私以外の男どもは皆死んだ。彼女は自由だ。命を削るような真似をさせるな」
クライスの表情は真剣だった。エフォラには、ウィルルへの並々ならぬ想いがあるように見えた。
「クライス。お前はウィルルの何なんだ?」
エフォラの問いに、クライスは唇を噛んだ。
「…同じ村の生き残りだ。」
本当にそれだけだろうか。エフォラは疑念の目でクライスを見据える。
「…伝えたぞ。彼女に能力を使わせるな。」
クライスはそう言い残すと、姿を眩ませた。
クライスが去った後、彼がわざわざエフォラの前に現れて今の情報を伝えた意味を考える。別に今でなくとも、他の方法でも伝えようはあったはずだ。
ひとり考えていたエフォラはふとある事に思い当たった。戦争の間も能力を使い続けてきたであろう彼は、あとどれほどの命を残しているのだろうか。もしかすると、彼には残された時間がもう僅かしかないのかもしれない。能力の話以外はウィルルに伝えない方がいいだろう。リンやマディスもトトゥカから同じ事を聞いているかもしれないが、彼らも、その話はウィルルにはしないだろう。
エフォラはクライスの去った方角をしばらく見つめ、それからウィルルの待つ洞窟の入り口に戻った。
六、虚城の崩落
ウィルルの所に戻ったエフォラは「人の気配がしたから周辺を探してみたが見つからなかった」とだけ伝えた。能力については、頃合いを見て話すしかない。特殊派遣員は辞めざるを得ないだろう。部隊にいたいのであれば、部隊内の能力を必要としない別の部署に異動する方法もある。だが、ウィルルは納得してくれるだろうか。
「エフォラはどうしてこの仕事についたの?」
色々と考えていたところで不意にウィルルに問いかけられて、エフォラは現実に引き戻された。そんな事を聞かれるとは想像もしていなかったため、腕を組んで暫し考える。
「これくらいしか出来そうな仕事がなかったからだな。まともな教育はサルウッドに保護されてからしか受けてないから、基本的に学がない。人付き合いも好きじゃないし接客や営業向でもない。能力の使い方と、戦い方は知っていたから適性があった。」
概ねこんなところだろう。正直、あまり深く考えて就いた職でもない。
「早くから働き始めたのは何故?」
「居候だったしな…ティアの家は、それまでの環境と違いすぎて何か落ち着かなかった。今にして思えば、それまでの環境の方が異常だったんだが、とにかく早く自立したかった」
おそらく、こちらの気持ちが主だったと思う。ティアやその両親の反対を無視して部隊の試験を受けた。当時は受験資格に年齢制限がなかったため合格できた。次の年から15歳以上という制限が増えたので、上の方で色々と問題視されたのだろう。
ウィルルは「ふうん」と言って、何か少し考えているようだった。
「やりたい事って訳じゃないんだ…」
ウィルルが呟く。
「まあ、仕事なんて嫌な事じゃなきゃなんでもいいと思うが。あとは適性があるとか、得意な事の方が楽かな。」
ウィルルはまた少し考えてから「ありがとう」と言った。
(部隊に入ったはいいものの、何かしっくりきてないのかもな)
エフォラはウィルルの様子を見て、そんな事を思った。
その後は特に話すこともなく、定期的に外を警戒しながらリンとマディスの聞き取り調査が終わるのを待った。
しばらく経って、マディスが「終わりましたよ」と声をかけて来ると、エフォラとウィルルはマディスに連れられて、リンがいる研究設備のある部屋に戻った。部屋にいたのは、リン、マディス、トトゥカだけで、見回したがカルダはいなかった。おそらく、まだ寝ているのだろう。
「カルダを呼んできます」
エフォラはそう言って、カルダが寝ている地下道側の部屋に向かう。
こんなに寝ているとは、夜にエフォラと会話した後起きて何かしていたのだろうか。そんな事を考えながら、エフォラは欠伸をした。仮眠は取っているものの、通常の睡眠と比べるとやはり質が悪い。
地下道の手前の部屋に着くと、カルダはベッドで寝ていた。持ち主に許可は取ったのだろうかと訝しんだが、どちらでも良い話だと思い直す。
「聞き取りと設備の調査終わったので、帰りますよ」
エフォラは声をかけてカルダを起こす。
カルダは無言でむくりと起き上がり、エフォラを見てから「ああ」と気のない返事をして立ち上がる。
エフォラは踵を返すと、元来た道を戻り始めた。
カルダは伸びをして、エフォラが数メートル離れた辺りでようやく歩き出した。
その時だった
突然、大きな音と共に世界が足下から突き上げられた。大きな揺れ。
エフォラはバランスを崩しかけたが何とか踏み止まる。頭上から何かパラパラと振ってきて、最悪の予感と共に上を見上げる。
(崩れる!)
地を蹴る直前に何かに突き飛ばされ、エフォラは岩盤の下敷きになるのを逃れた。
咄嗟に腕で着地の衝撃を吸収したものの、地面に体を叩きつけられる。
急な事に頭は理解が追いつかないまま、振り返り目の前の光景に愕然とする。そこには、崩落してきた岩盤と、それに足を挟まれたカルダがいた。
「これだから地震慣れしてない奴は…」
カルダは苦悶の顔を浮かべながら悪態をつく。
エフォラはようやく事態を理解し始める。そうだ、この地域はよく揺れるのだ。子供の頃には何度も経験していた。セイメリアではほとんど起こることのない事象。自然災害。
「直下でこれで済んだなら御の字だな」
カルダは皮肉を言いながらうめいていた。
エフォラは、崩落の直前に自分を突き飛ばしたのはカルダである事に思い至る。
「なんで…俺を庇った」
能力者を毛嫌いし憎んでいるこの男が、身を挺してまで何故自分を庇ったのか。エフォラには理解できなかった。
「………化け物でもガキが死ぬのは気分が悪い」
カルダは目を伏せてそう言った。
「ガキじゃねぇよ。成人してんだよ」
頭が混乱したままのエフォラは、そんな場合ではないにも関わらず言い返していた。
「…そうか」
ガルダの誰に対したものでもない呟きに、エフォラは顔を顰める。
「俺の息子も、生きてりゃ一緒に酒を飲める年だったか…」
カルダは言って、自嘲するように鼻で笑った。
(…息子を亡くしてるのか)
エフォラは立ち上がると、カルダの足を挟んだ岩盤に手を触れた。隙間を覗き込んで状態を確認する。
挟まれているいが、幸いにも潰れてはいないようだった。
「すぐには何ともならん。他の奴らと、あとは出入口が無事か確認してこい。また揺れるかもしれん」
カルダはうめきながら、そう言った。そして、後方を見て舌打ちする。
「地下道は…まあ、無理だろうな」
地下道へ続く道は今の崩落で完全に塞がってしまった。仮に繋がったとしても、あの長い地下道のどこが崩落して埋まっているかはわからない。どちらにしても使えないだろう。
エフォラは頷くと「すぐに戻る」とだけ伝えて、リンやウィルル達のいる部屋へ向かった。
ウィルル達と合流し、全員の無事を確認すると、全員で一旦出入口へ向かう。トトゥカが言うには、この洞窟の出入口は地上には一箇所しかないと言う事だった。地下道が崩落で使えなくなった事と、カルダが岩盤に足を挟まれて動けない事も伝えたが、次の揺れを考えるなら退避できる人間は外にいた方がよい。
「ダメだ…」
入ってきた入り口が見えるあたりになって、前方を歩いていたマディスが絶望的に呟いた。
後方にいたエフォラにも、その様子が見えた。入り口のあったはずの場所が完全に埋まっている。
幸い天井の明かりは生きているが、それがいつまでもつのかはわからない。
「水と食料は?」
リンがトトゥカに聞く。
「この人数だと保って1日かと…」
こんな場所に外から助けが来るとは考えられない。自力で脱出しなければならない。
空間は広いので、すぐに酸素がなくなるような事にはならないだろうが、水と食料が無ければどちらにせよ保たない。
「一度落ち着いて対策を練りましょう」
リンが中心になり、エフォラ以外の全員がその場に座る。
「カルダを見てきます」
長時間、脚を挟まれた状態になると救出後に容体が悪化する可能性がある。今はまだ15分程度だが、早く救助した方がよい。
エフォラがそう言ってカルダの元に戻ろうとすると、マディスが立ち上がり「僕も行きます」と
後からついてきた。
状況をカルダに報告して、細かい石や岩を取り除くが、簡単には引っ張り出す事はできそうもなかった。重力系の能力を反転使用すれば、動かせるかもしれない。持ち上げた時にカルダを引っ張り出すのはマディスに頼めばいけるだろう。
反転といっても逆方向の力をかける手法なので、基本は変わらない。本来と逆方向になるため、その使用は複雑で集中力を要する。そのため、訓練の一環としてやった事がある程度で、戦闘で使用することもない。それでも、やるしかないだろう。
「なんとか少し持ち上げるので、マディスさんは引っ張り出してください。」
「はい」
マディスは返事をすると、カルダの体を掴んだ。
「あと、能力使用の影響で周囲の気温が下がります。」
「…わかりました」
マディスの応えを聞いて、エフォラは岩盤に集中した。下から押し上げるイメージ。
腰を下ろして、岩盤の下に腕を差し入れる。
「いきます」
能力の使用と同時に下から持ち上げる。周囲の気温が下がった。
岩盤が少しだけ持ち上がる。
「引いて!」
エフォラの合図でマディスがカルダを引き摺り出した。
マディスはカルダの体が完全に出た事を確認してエフォラに「出ました!」と声をかけた。エフォラはゆっくりと岩盤を下す。そして、能力を停止した。
「助かった。感謝する」
素直に礼を言うカルダに、エフォラとマディスは顔を見合わせた。
「それが、小僧の力か」
カルダが忌々しげに言う。
「ああ、あんたが生かした力だ」
エフォラの返答に、カルダはフンと鼻で笑った。
「生かした…か…そりゃあいい」
カルダは、珍しく幾分機嫌が良さそうだった。
少しだけ、その場で休息を取った後、カルダはマディスに肩を借りて立ち上がった。
「問題は出口だな。戻るぞ」
カルダの声に力が戻る。カルダはマディスに支えられながら、三人は塞がってしまった出口へと向かった。
リン達の下に戻ると、食料と水が並べられていた。人数分に分けてある。食料は一日分、水は二日分といったところだ。一人で生活していてこれだけの備蓄があったのは意外だった。
リンとトトゥカは、塞がれた出口を観察して、どこから手をつけるべきかを相談していた。
「ウィルル、医療キット」
戻ってきたエフォラがウィルルに声をかけると、ウィルルは持ってきていた荷物から医療キットを取り出した。これで、ある程度応急処置はできる。エフォラはカルダの患部を確認して応急処置をする。
「あの辺りなら、崩していけると思う」
リンが言う。
「小僧と小娘の能力でなんとかならんのか?」
カルダに言われてエフォラは苦い顔をする。
「俺のはさっきの通り、周囲の気温を下げる事になる。多少無理をする事はできるが、あまり使いすぎると室温が下がりすぎて、別の問題がある。ウィルルは…」
「上級能力者は自らの生命力を消費して能力を発動します。無闇に使わない方がいいでしょう」
トトゥカが静かに言った。
「え?」
リンとマディスが眉根を寄せる。
「私の独自の研究によるものです。」
トトゥカが補足する。ウィルルは、突きつけられた事実に呆然としていた。
カルダは関心なさそうに「ふうん」と言ったあと、ため息をつく。
「となると、俺はこの脚だから、メインで作業できるのは三人だな。女二人は補助だ。」
エフォラがマディスとトトゥカを見ると、二人とも不安そうな顔をしていた。二人ともデスクワークが主な人間で筋力に期待ができる程ではない。
「何か使えそうな道具を探してきます」
トトゥカはそう言うと、一旦奥へ戻って行った。
「とにかく、はじめましょうか」
エフォラは、腹を括って作業にとりかかった。
しばらく黙々と作業を続けていたが、トトゥカの体力が限界にきて、一旦全員で休憩する。マディスはまだ余裕がありそうだったが、それでも少し辛そうではあった。
「気が滅入ってくるんで、何か楽しい話しましょう。」
マディスが水を飲みながら、そんな事を言い出す。
「楽しい話って?」
リンに聞かれてマディスは少し考えてからこう言った。
「…ここから出たら、どこ行きたいッスか?」
リンは「ああ」と言って顎に手を当てる。
「マキ'sバー行ってるエフォラさん見ないとね」
「まだその話します?!」
エフォラが騒ぐが、カルダとトトゥカはポカンとしていた。
「女の子とおしゃべりするバーですね」
マディスが補足説明をすると、トトゥカは微妙に困惑した顔になり、カルダはバカにしたように鼻で笑った。
「カルダさんはどこ行きたいッスか?」
「治療」
カルダが即答する。
「そういうのじゃなくてですね…」
マディスに言われて、カルダは改めて考える。
「そうだな…家族の墓参りにでもいくか」
少ししんみりした空気になる。
「トトゥカさんは、どうっスか?」
「特には…おそらく、セイメリアに行ったら、しばらくは外出できませんよね」
トトゥカは、サルウッドに保護という形でセイメリアに一緒に戻る事になっていた。
「落ち着いたらセイメリアを観光しましょう。案内しますよ。」
リンがトトゥカに提案し、トトゥカは「はあ」と気のない返事をした。
「エフォラさんは?」
マディスに聞かれて、エフォラはうんざりしながら答えた。
「自分の部屋でゆっくり寝たいです。」
リンは「それもわかる」と同意を示してくれた。
「ウィルリウナさんは?」
リンがウィルルに問いかける。
「エフォラが行く所ならどこでも」
ウィルルの答えに、その場にいた全員がキョトンとした。ややあって、リンとマディスは感心したような顔になり、カルダはげんなりしたし、トトゥカはやはり困惑していた。
「え?」
そして誰よりもエフォラが一番驚いていた。
マディスは「変な空気になってしまったな」と思い、立ち上がる。
「作業、再開しましょうか」
マディスに言われて、トトゥカとエフォラも立ち上がる。
エフォラは、頭に疑問符を浮かべたまま作業を再開した。
休憩を挟みながら、協力して岩や土砂を取り除くと、僅かに光が差し込み外と繋がった。思っていたよりも早く貫通した事に安堵し、そこから慎重に作業を進めて、なんとか人が通れる程の穴が開いた。
六人は、その穴から順に出る。ウィルル、リン、トトュカ、マディス、カルダ、そして最後にエフォラが這い出した。
「お前の能力か?」
這い出したエフォラはカルダに問われて眉根を寄せた。何の事を言っているのかわからない。
カルダは、エフォラの反応から違うらしいと判断し、這い出した穴から少し離れた場所に岩が「置いてある」場所を視線で示した。自然と落ちた様子ではない。外側から誰かが岩を退かせたと考えるのが妥当だろう。
しかし周囲には人影はない。岩のサイズから言って、生身の人間が動かせるものではない。複数人で運ぶか、何か動力のある道具を使うか、あとは能力者でなければ不可能だ。
「誰かに助けられたな」
カルダは、エフォラにだけ聞こえるようにボソリと言った。
こんな場所で、そんなことができて、姿を隠す必要がある人物…エフォラは、思い当たってハッとした。
(クライス…)
エフォラの表情を見てカルダはフンと鼻を鳴らすと、壁に寄りかかって立ち上がった。
「まあ、ガキが死なずに済んだなら、誰でも構わん」
エフォラは外に駆け出して周囲を見渡したが、クライスらしい人影を見つけることはできなかった。どこかにいるかもしれないとは思ったが、それ以上探す事はしなかった。
エフォラはカルダのそばへ行き肩を貸すと、ウィルル達を追って歩き出した。
クライス…いや、ウィードは、ウィルルが洞穴を後にした事を離れた岩陰から見ていた。もう立っている事も難しい。
岩に寄りかかりながら座り込み、弱々しく息を吐く。小さく呼吸を繰り返すが、それも少しずつゆっくりと、ゆるやかになっていく。
目が霞む。意識が遠のいていく。
あの青年は、ウィルルにきちんと伝えてくれただろうか。ウィルルはわかってくれただろうか。
自分はあの子にできる限りの事をしてやれたのだろうか。できる限りをやったつもりだ。燃え盛る村から、あの子を連れて逃げ延びたあの時から。少ないパンを分け合い、暗い洞穴で雨風を凌ぎ、闇に怯えるあの子が眠れるように頭を撫でてやった。小さなあの子を守らなければと、ずっと必死にもがいていた。
もう、何もしてやる事はできない。でもきっと、自分がいなくともあの子は大丈夫だ。そうであって欲しい。
せめて最期に、あの子が、ただ何者にも縛られず、幸せである事を祈る。
目を瞑り、瞼の裏の光が収束していく。幕がおりるように。ウィルル…いつまでも、しあわせで…
誰にも産まれた時の名を呼ばれなくなった男は、誰にも気づかれる事なく、やすらかに、眠るように、静かに息を引き取った。
命の轍
カルダを宿をとった村まで送り届けると、彼とはそこで別れた。特に別れを惜しむでもなく、「じゃあな、もう会うこともないだろう」と素っ気なく言い捨てたカルダを、エフォラは冷めた目で見て「それでは、お大事になさってください」と別れを告げた。
トトゥカを連れて馬車に乗り、行きに来た行程を逆に辿る。船に乗る前にマディスは適当に土産となりそうな菓子を買っていた。エフォラもティアに何かあった方がいいかと同じものを買った。
船に乗り一息ついて、エフォラとウィルルは二人で離れていく陸地を眺めていた。
「エフォラ…能力のことは…」
ウィルルが暗い面持ちで口を開く。
「帰ったら部隊長に報告する。派遣員は続けられないと思ってくれ。部隊で働きたければ、能力を使わない部署はある。」
エフォラの言葉に、ウィルルは下を向いた。
「時間はある。ゆっくり考えればいい。」
「うん…」
落ち込んでしまったウィルルに、どう言葉をかければいいのかと、エフォラは空を見上げて考える。空を見上げたまま、いつの間にか自分とさほど身長差のなくなったウィルルの頭に手を乗せる。
「まあ、初仕事にしてはよく頑張ったんじゃないか?」
そして頭を撫でる。
ウィルルは目を瞬いた。
よくこうやって、頭を撫でてくれた人がいた。ああ、兄だ。夜中に起こされて、訳もわからないまま手を引かれ、遠ざかっていく赤く染め上がる自分達が住んでいた家。親を失い村を出て過ごした日々。少ない食糧を分け合った。いつも眠りにつく前に頭を撫でてくれた。
「お兄ちゃん」
何故か涙が頬を伝う。
「ウィードお兄ちゃん」
顔はぼんやりとして思い出せないが、確かに兄がいたのだ。
急に涙を流したウィルルにエフォラは一瞬たじろいだが、ウィルルが口にした言葉から記憶が呼び覚まされたのだろうと気づく。
「何か思い出したのか?」
「お兄ちゃんがいた。村を出てから一緒にいたはず」
エフォラの脳裏にクライスが浮かんだ。「同じ村の生き残り」とは、そういう意味だったのか。
ウィルルはゆっくりと空を見上げた。
どこで逸れてしまったのだろうか。眠る直前までは一緒にいたのだろうか。眠っている間に死んでしまったのだろうか。それとも、生きて私を探しているだろうか。
朧げな記憶の中の優しい兄を想う。
生きていれば巡り会う事もあるのだろうか。
仰いだ空をツバメが一羽飛んでいく。遠く高く、遥か空へ。
ウィルルはツバメが見えなくなるまで、空を見つめていた。
◇ ◆ ◇ ◆
セイメリアの港に着き、船を降りた所でリンとマディス、そしてトトゥカとは別れた。「また、機会がありましたら」と形式的に言ったエフォラに、リンとマディスは「マキ'sバー行きますね!」と笑顔で去っていった。
「さて、俺たちも帰るか」
「うん」
ウィルルの事は、ティアが港まで迎えにくると言っていたが、まだ姿は見えない。
「エフォラ」
ウィルルに話しかけられて、エフォラは彼女を見た。
「私、部隊はやめると思う。」
ウィルルは真剣な眼差しでエフォラを見ていた。
「…そうか」
エフォラは、それが妥当な判断だろうと思う。
「学校に入り直して、自分に何ができるのか、何がしたいのか探してみる」
ウィルルの瞳には太陽の光が映り込む。エフォラは目を細めて、頷いた。
「それがいい」
憧れの人に微笑みかけられて、ウィルルも笑顔を返す。
遠くから「おーい!」と知った声がした。見ると、ティアが手を振りながらこちらにかけてくる。
「これ、ティアに渡しといてくれ。小言を言われたくないから、俺はこのまま帰る」
エフォラは買っていた土産をウィルルに突き出す。
「わかった」
ウィルルはそれを受け取って、エフォラの顔を見た。エフォラは手を挙げてティアにこちらの場所を伝えるが、同時にウィルルの背中を押した。
「ほら、行け!」
エフォラに言われて、ウィルルは下を向き唇を噛んで少し考えてから、顔を上げた。
そして、エフォラの頬にキスをする。
「は?」
呆けたエフォラを振り向かずに、ウィルルはティアの方に走り出した。エフォラは呆けたまま、ウィルルを見送った。
ウィルルはティアと何か話しながら、エフォラを探そうとするティアを引っ張って、港を去っていった。
(まさか、そんな…とは思っていたが…)
エフォラは、全く何も気付いていないわけではなかった。薄々「もしかしたら」とは予想していたが、「まさか、そんな」と否定を続けて自分に言い聞かせていた。しかし、さすがにこれは決定的だ。
エフォラは深いため息をついた。
明日報告書をあげれば、暫くは休みだ。当分はウィルルと会うことはない。考えても仕方のないことだ。
とにかく疲れた。帰って寝よう。
エフォラは重い足取りで帰路についた。
空は晴れ渡り、カモメが自由に飛び交い鳴いている。虚な過去が築き上げてきた世界に囚われることなく、今を生きる命は己の道を切り開き進み続ける。
変革の解 完
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