変革の解 第2部〜記憶の楔〜
第1部<< https://note.mu/sasami_oishi/n/n3e1e9c060954
零、澄ます者
ここの夜は静かだ。 セイメリアは夜も遅くまで店に明かりが灯り、なかなかこうも静かにはならない。決して騒音で寝付けないといった騒々しさではないが、街のどこかで人や動物が活動していることを感じられる程度の音が聞こえるのだ。 彼女にとって、それは救いでもあった。静か過ぎる夜は、聞きたくないものが聞こえてくる。 昔からだ。母と大陸のあちこちを周っているときは、とにかく酷かった。うめき声、泣き声、ブツブツと呟く声。どれも、何を言っているのかはわからなかった。ただ、とにかく体中を巡ってぐるぐると嫌な感じがする。怖い。耳をふさいでも、声たちは一向に小さくならない。周りの人は誰も聞こえないようで、 小さな自分の訴えに対する返事は、いつも怪訝な顔だった。 ただ、母だけは泣きそうな私が落ち着くまで優しく抱いていてくれた。母に抱かれると、嫌な声たちは消えはしないものの、幾分小さくなり、その代わりに優しく暖かい母の声が耳をふさぎ、体の中のぐるぐるした嫌な気持ちはスッとどこかに抜けていった。
「大丈夫、それは悲しい声だけど決して怖いものではないの」
私には分からなかったが、母はそういっていた。
「生きていれば辛いことは山のようにある。そういう辛いことにあっている人の声よ。皆には聞こえないかもしれない、でもあなたには聞こえるのね。」
「今は無理かもしれないけど、もう少し大きくなったら、その声を受けとめてあげなさい。そしてできるな ら助けてあげなさい。」
耳を引きちぎってやりたいと思ったこともあった。ただ、どうも耳から入っている音ではないようなので、引きちぎるのはやめた。 今は、母と来たときよりは幾分嫌な声は少ないし、小さい。それでも、聞こえるものは聞こえるわけで、 やはり心地よいものではなかった。
昔は恐くて仕方がなかったが、今は恐くはない。代わりに辛い。
悲しい叫びが、また聞こえてくる。
イタイイタイ痛いよいタイ殺スコロシて助けテコロスヤメテ痛イタスケテ殺スしテ助ケテ死にた痛イイタイ殺す殺しテイタイ遺体コロシタ死んだイヤダイタイ痛い死ンダ殺したニゲテ殺スイタイ殺さナイデコワイ痛イヤメテ怖イ殺シてお願イ殺
近くにいる。すぐ近くに。
唇を噛みしめると、少しだけ鉄の味がした。
「待っていて...きっと、助けるから」
ひとり言は風に溶け、静かな夜は静寂を守り続けていた。
一、若者
エフォラはいつものように不機嫌だった。
訂正。エフォラはいつもに増して不機嫌だった。彼は、何故か自分といるときは大抵不機嫌なのだ。
「まだ根に持ってるの?」
ティアは半ば呆れ果てた様子でエフォラを見ていた。エフォラは答えない。その代わりにふくれっ面をティアからそむけた。
「...たかがクレープじゃない」
ボソッと言ったティアの言葉にエフォラはますます顔を背ける。ティアは肩をすくめると、隣を歩いてい る青年に視線を向けた。青年は見られたことに一瞬驚いたようだったか、すぐに表情を引き締めてエフォラの方を向いた。
「そんなくだらないことで、最高神官様を困らせるんじゃないっ!」
青年の声は朗々と響き渡り、道を歩いていた人たちは皆三人の方に振り返った。ざわめきが起こる。
「...ディック、そんな大きな声で役職名を口にしないでくれる?」
ティアに小声で注意され、はっとした青年はティアの方を向くと深々と頭を下げた。
「申し訳ございません!最高神官様!」
青年のはっきりとした声は、立ち止まった人々のざわめきをさらに大きくした。
これには、不機嫌だったエフォラも苦笑した。
「あのね...ディック...」
「はい!」
ティアに名前を呼ばれ青年は即座に返事をした。青年のまなざしには憧れと羨望があふれかえっていた。
ティアは額を押さえてため息をつく。
「お願いだから、名前で呼んでくれない?目立ってしょうがない...」
「あ...も、申し訳ありません。」
やっとティアの意図を理解し声を小さくする。
エフォラが鼻で笑った。
「むっ!き、貴様!今鼻で笑っただろう!」
再び大声になる。ティアはさっきよりも重いため息をついた。三人は、道行く人の注目をこれ以上ないほどに集めていた。
「移動しましょう。」
小さく言ったティアに、エフォラは同意し足早に路地裏へ向かった。
先ほどから騒がしい青年の名は、確かディック・アイダーナとか言った。まだ若いが、この辺りの地理に詳しく剣の腕も確かという話だ。ティアの護衛と聞いて、一番に名乗りを上げたらしい。 紹介してくれた自警団の団長さんによると、「欠点」はまっすぐな騎士道精神を持っていること。 最初は意味が分からなかったが、一緒に行動して30分。痛いほどその意味を実感した。 ディックのティアに対する尊敬は異常なほどで、もはや崇拝に近かった。地方に行くとそういう人もいる のは知っていたし、実際に会ったこともあったが、この青年ほどではなかった。 主に対する忠誠、忠義をつくす姿勢。絶対的な正義を信じて疑わず、礼儀を重んじる若者である。悪い人間ではない。むしろいい人間だろう。
ただし、いまいち融通が利かない。
何より問題なのは、エフォラと相性がとことん悪いことだった。 最高神官様に同行するという崇高な使命のため、期間限定秋色マロンクレープを食べられなくなっただけでへそを曲げるなど、ディックにすれば理解不能を通り越して、絶対悪のようなものだった。逆に「正義な んて時代の強者が勝手に決めるもんだろ」と主張するエフォラにすれば、ディックの行動は意味不明で、ただのバカにしか見えなかった。 ティアとしては、エフォラが譲歩というか柔軟に対応してくれることを望んでいたのだが、予想以上に期間限定クレープが尾を引いているためそれも不可能だった。
(二人相部屋だなんて言ったら、二人ともすごく反発するんだろうな...)
ティアはそんなことを思ってその事実を言うに言えずにいた。おそらく、どちらかが野宿すると言い出すのだろう。いや、エフォラは別の宿を探すに違いない。この地域で一人で野宿するのは危険すぎる。終始警戒していないと朝にはどうなっているかわからないので、ろくに睡眠は取れないだろう。加えて、今の時期夜間は冷え込みが激しい。防寒の装備を整えていなければ1時間外にいるのでさえ耐えられないだろう。 と、ここまで考えてティアは、そんなことはそのとき本人達が決めることなのでこれ以上は考えないことにしようと決めた。
「ティア・セントメリア・カウマン・クラウリイ様。一つ意見してもよろしいでしょうか?」
突然でてきた自分のフルネームに、ティアは思考が止まった。長ったらしいのでフルネームで呼ばれることなどほとんどない。
「え?」
先ほどから比べると幾分おとなしくなったディックに聞き返す。
「あの...ティア・セントメリア・カ...」
「フルネームで呼ばなくていいから。ティアでいいから。」
「あ、はい。ティア様。一つ意見しても...」
「様もやめて。ティアでいいから。」
「いえ、しかしそれでは...」 「いいから。本当にいいから。というかむしろ命令します。ティアと呼びなさい。」
だんだん面倒になってきたティアは早口にそう言った。
「はい!で、では...ティ、ティア...さん...とお呼びしてもよろしいでしょうか。」
青年の顔は何故か紅潮していた。ティアは少し疲れた様子で頷いた。
「で、何だ意見って?」
エフォラが話を促した。
「あ、はい。このままこちらへ進むのはやめたほうが良いと思うので、そろそろ右へ曲がりませんか?」
先ほどの元気はどこへやら、ディックは少し体を縮めて右を指差した。
「この先、なんかあるのか?」
エフォラが怪訝な顔で聞くと、ディックは答えにくそうに視線をそらした。
寒い 重い苦しい
ティアの頭に小さな声が響いた。瞬間、ティアはその道をまっすぐに走り出していた。
「?!おい!」
「最高神...ああ!えと、ティア、さん!!お待ちください!!」
エフォラとディックが声をかけるがティアは無視してそのまま突き進んだ。進むに連れて、昔嗅いだことのある臭いがしてきた。
エフォラはティアを追いながら、嫌なことを思い出していた。
「焼き場かよ...」
ボソッと言った一言に、ディックは無言で頷いた。 戦争から七年経ったとはいえ、国境付近では治安が悪く、抗争が起こったり、それにまぎれて強盗強奪 を行っている人間がいるのが現状だ。そうして、大量の死者がでたとき、死体を集めて燃やすのが焼き場 だった。 地域にもよるが、一人一人丁寧に埋葬できるほどの余裕がない場合には、遺体はまとめて燃やされることが未だにある。国境付近のこの地域も例に漏れず、そういう場所だった。死亡の確認も素人が呼吸があるかを軽く調べる程度で、間違って生きた人間を焼いている可能性も十分にあった。実際、エフォラ自身も 間違って焼かれそうになった一人だった。
エフォラはなんとなく、ティアが走った理由を察していた。
「ディック...だっけ?お前。」
「ん?そうだ。」
ティアを追いかけながら、エフォラはこの青年に少し同情した。
「これから、厄介な作業が待ってるぜ」
「?」
ディックには、エフォラが何を言っているのか理解できなかった。
二、思う者
宿の部屋につくと、ディックはベットに倒れこんだ。
「シャワーくらい浴びてからにしろよ」
エフォラは上着を脱いではたきながら言った。
三人が焼き場に着き、ティアが焼き場の人間に名乗り、エフォラが身分証を提示すると、焼き場は大騒ぎになった。 ティアの指示の下、死体の中から全員で生存者を探す作業が始まった。最初は戸惑っていた、焼き場の人間とディックだったが、エフォラとティアが真剣な様子をみて、とりあえずは同じように息をしている人間を探すことにした。
ティアが示した付近の死体を一人一人山から下ろして呼吸を確認する。 三時間ほど同じ作業を続け、一人の生存者が発見された。幼い少女は病院へ運ばれ、なんとか一命を取り留めたらしかった。
ディックは精神的にだいぶ疲れているようだった。焼き場を避けたがっていたのは、体裁というよりは自分が嫌だったからのようだ。
「見た目よりタフだな…」
ベットに倒れこんだまま、ディックは力なく言った。
「俺がか?...まあ、ある程度は慣れてる。」 「………………」
エフォラの答えにディックは黙り込んだ。
「お前、しばらくここにいるか?俺、シャワー浴びてきたいんだけど。」
「ああ...」
どちらとも取れないようなディックの返事を肯定と受け取って、エフォラは部屋をあとにした。
(実際、辛いよな。あの作業は)
体力的にも、精神的にも。そう思いながら、エフォラはディックを少しだが、見直していた。何の根拠もない、虚言だと思われても仕方がないようなティアの言葉を半信半疑だったろうが、それでも最後まであの 作業を続けた。なかなかできることではない。 エフォラ自身は、あの少女と同じような状況下からティアに救われた経緯があるため、ティアが焼き場へ向かった瞬間に、だいたいの予想もついていたし疑う気持ちなど欠片もなかった。ティアには、自分が持っ ているような能力とは全く異質の、何か特別な能力があるのだろう。それが、最高神官だからこそ備わっているものなのか、それともティアだけが特別なのかは知らない。ただ、エフォラは、その能力を十二分に 信頼していた。
「あら。エフォラもシャワー?」
後ろからしたティアの声に、エフォラは振り返って少しげんなりした顔をした。
「何よ、その顔。」
エフォラの表情にティアもイラっとする。
「別に」
エフォラのそっけない返事とは関係なく、ティアはにやりとした。
「ねぇねぇエフォラ。」
「なんだよ。」
「久しぶりに一緒に入る?」
ティアのセリフにエフォラが噴き出した。
「はぁ?!」
「昔はよく一緒に入ったじゃない。」
にこやかに言うティアに、エフォラは慌てふためいた。
「い、いつの話だよ!てか、あれは一緒に入って言わねぇ!!」
「たかだか七,八年前の話じゃない。」
「ガキのころの話だろっ。あれは、俺が腕骨折してたから体洗うのお前が手伝っただけじゃねぇか。」
「まあね。で、なんで顔赤くしてんのよ。なんか変なこと想像したんでしょ。やーらーしー。最低ー。」
「最低なのはお前だろッ!純粋な青少年をからかってそんなに楽しいか?!」
「...純粋って、まあいいけど。エフォラをからかうのはとても楽しいわよ。」
しれっとしているティアに、エフォラは脱力した。
「でさ、ディックの様子はどう?大丈夫そう?」
話を変えたティアを睨みつけ、エフォラは文句を言おうとしてやめた。
「...大丈夫だろ。今はベットで倒れてるけど。」 「そう。じゃあ、いいか。仲良くしろとは言わないけど、喧嘩はしないでね」
ティアは、それだけ言って女性用のシャワー室へ入っていった。
「慣れてるって...なんだよ...」
ディックは一人残された部屋で、さきほど吐き出しそびれた言葉を小さく声に出してみた。 何に慣れているのだろう。焼き場に?死体に?死に?人が死ぬことに?わからない。あの男は何を言っ ているのか。どういう意味なのか。異常事態対策部隊というのは、現在この大陸で起こっている事件や問題を解決するために構成された部隊である。焼き場であいつが身分証を見せて言っていたところによると、 特殊派遣員であるらしい。特殊派遣員は、武力行使を行う際に派遣される。あまり詳しくは知らないが、いいイメージはない。殺しも請け負うという噂すら聞いたことがある。もしかすると、あの男は人を殺したことがあるのだろうか。戦争中の話であれば、そうめずらしくはない。めずらしくは、ない。ただ、もし、 殺すことに慣れているのであれば、殴ってやりたい。そう思った。いつもの体力があれば間違いなく殴っ ていた。ただ、今日はもう体が思うように動かない。体力には自信があるし、実際体はきっとまだ動く。 気力がない。そう、気力がないんだ。体に動けと命じる気力がない。今日はいろいろありすぎた。尊敬している最高神官様に会って、直接話も出来て、完全に浮かれていた。焼き場についてからは、思いも寄ら ない事態が多くて、ただでさえ、死体、特に焼き場の死体は怖いのに、その中に三時間もいた。本当に生きた人が残っているとは思わなかった。あのまま、誰も気付かなかったら、あの子は死体と一緒に燃やされてしまっていたのかと思うとぞっとする。もし、自分が同じ立場だったら...そんなこと想像したくもない。 体が震えた。 幼い時に感じた、人が焼かれていく音が、臭いが、炎の熱が、あの感覚がふいによみがえり、さらに震えようとする体を自分の腕で押さえつける。目に焼きついているのは、視界をすべて覆う炎と、その炎の中 で燃える黒い塊だった。 目で見たものは、ぼんやりとしていてそれしか覚えていない。あの中に、姉のように慕っていた人がいたことは覚えている。隣の家に住んでいて、ときどき、こっそりと自分にだけパンをわけてくれた。あのときは気にしたことがなかったが、まだ戦争が終わっていないあの時分に彼女がどこから食料を調達してきたのかは分からない。当時、まともな食料を持っていたのは軍の関係者だけだった。 焼き場に積み上げられた彼女は怖かった。恐ろしい顔をしていた。肌は土のようで、恐怖の形相のまま果てていた。何もなければ彼女だとは気付かないほどに変わり果てた姿だった。彼女だと分かったのは、 以前ディックが彼女にあげたペンダントをしていたからだった。 ディックは動くことができず、目をそむけることすらできずに立ち尽くしていた。 頭の中は真っ白だった。 後になって、彼女の死を悲しむ以前に恐れてしまったことをひどく後悔したのを覚えている。同時に、いつかは自分も同じようになるのだと、連日泣いては母を困らせていた。そのたびに、母は「大丈夫。戦争はもうすぐ終わるから。もうすぐだから。」と繰り返していた。
ディックはゆっくりと体を起こした。震えは治まっていた。部屋を見渡し、もう一つのベットの上に放置されている特殊派遣員の上着を見て、ディックの意識は再びエフォラに向いた。が、それは先ほどと比べると酷く単純な感情となっていた。
「あいつ、嫌いだ。」
明日はギャフンといわせてやる。 それが、ディックの結論だった。
三、異なる者
国境である河を南へくだっていくと、広大な森が存在する。森の向こうは紫海と呼ばれる海があり、その向こうにはサルウッドの国土が広がっている。もっとも、紫海と呼んでいるのはここからは対岸に位置する故郷、サルウッドの人間だ。 ここに昔から住む人は、死海と呼ぶ。元々は死界だったという説もあるがそれはティアにとってはどうでもよいことだった。ただ、海とその向こうに見える対岸を含めて死界と呼ばれていたという話があまり気分の良いものでなかったのは事実だ。遥か昔とはいえ、自分の故郷が死の世界だと信じられていたというのはさすがに酷い話である。だが、幼いころ聞いた理由は、なんとなく納得せざるを得なかったのも事実だった。 朝、ティアがエフォラとディックに目的地を告げたときの反応は各々の性格というよりは生まれ育った環境を如実に物語っていたように思う。
「森って・・・・シュアとリュアの森ですか?」
すぐにシュアとリュアという名前が出てきたディックは、やはりこの土地で育った人間だ。こころなしか 表情に畏怖の念がこもっている。
「シュアとリュア?」
ピンときていないエフォラにディックは非難の視線を向けていた。
「知らないのか?世界を創造された神々だ。」
「シュアは創造を司る男性神、リュアは破壊を司る女性神。この辺りで広く信仰されている神様の名前。知らなかったとは意外ね。」
二人に言われて、エフォラは少しムッとしたようだった。
「ああ、そう。俺、神とか興味ないから。」
ふてくされたエフォラに、ティアは違和感を感じた。 確かエフォラと初めて会ったのは、ここから国境を越え西に行ったところであって、ここからそう遠くは なかったはずだ。この神々が信仰されている土地である。たとえエフォラ自身が神や宗教に興味がなかろうと生活の中で聞かないわけがない。
「エフォラってこの辺の出身じゃなかったの?」 「生まれはもっと北だよ。」
面倒くさそうに放たれたエフォラの答えは、ティアにとっては意外だった。この辺りで出会ったのだから、当然この辺りの人間なのだと勝手に思い込んでいたからだ。
「あら、そうだったの…へぇ……」
それはそれで、なんとも釈然としない部分があったが、ティアは特にそれ以上突っ込まないことにした。
「あの、ティアさん…森に、入るのですか?」
会話が途切れたところで、ディックは不安な面持ちでティアに尋ねた。ディックとしては、エフォラの生まれについてなど、微塵も興味がなかったらしい。
「うーん…そうねぇ…」
ティアは少し悩んだ。森は聖域であり、一般の人間が入ることは許されていなかった。異教の徒となるティアも、当然入ることは許されないはずだ。
「それは、森の手前の村で話を聞かないことにはなんとも答えられないわ。」
その村の長が今回の件の依頼主である。
「手前の村というと、聖域の守人の」
「そう、藍染めの髪の民。神の御声を聴く一族の村よ。」
ディックが困ったように頭を抱えている横で、エフォラは特に興味もなさそうに澄ました顔をしていた。 ティアは、そんなエフォラを見ながら先ほど感じだ疑問を頭の中で反芻した。十歳そこそこの子供が、どうして生まれ育った土地から遥か遠い激戦区にいたのだろうか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
三人は馬車で川沿いに南へと向かっていた。特にこれといった会話はない。ディックは、「自分はそこまで熱心な信者ではない」と言っていたが、それでもやはり聖域に近づくのには抵抗があるようで、終始そわそわしていた。エフォラは、そんなディックを呆れた様子で見ていた。 ティアは、窓の外の荒涼とした風景を眺めていた。河が流れている。その周辺には短い草が生えている。 時には小さな花も咲いている。生き物の気配が非常に希薄だ。動物はもちろん、植物も「ひっそりと」生き ている感じがした。何かにおびえているのかもしれない、ティアはなんとなくそんなことを思った。それ が、森に住む神なのか、それともまったく別の何かなのか、それはわからなかった。 馬のいななきが聞こえ、自警団の馬車は自分たちの自治区の端で止まった。
「申し訳ありませんが、お送りできるのはここまでです。」
ここから先は、藍染めの髪の民の領域だ。
「ありがとう。」
ティアは御者に微笑みかけてから馬車を降りた。 続いてエフォラ、ディックも馬車から降りる。
「では、また十日後に参ります。」
そう言い残して、馬車はもと来た道を戻っていった。
「ここからどのくらいあるんだ?」
「んーと、三時間くらい。」
「ふーん」
エフォラはティアの答えを聞きながら周囲を見渡した。 周りには人を感じさせるものは一つもなかった。道らしいものも特になく、道しるべは国境である河だけだった。この流れに沿って歩けば、目的地に着く。
「じゃあ、今回の件がどういう内容なのかって話でも聞きながら歩くかぁ。」
今回、どういった目的で例の村に向かっているのか、エフォラは聞かされていなかった。普段は行く前に説明があるにも関わらず、だ。理由は、いろいろと機密事項が多いため街中では話せないからということらしい。
「そうね、ここなら問題なさそうだし、そろそろ説明しようかしら。」
ティアは小さく息を吐いて、河沿いを歩き始めた。二人もティアに続いて歩き始めたことを横目で確認し、 それから空を仰ぐ。何をどう話すかは、まったく考えていなかった。そもそも、二人の共有している知識が少なすぎるため、何処まで説明すればいいのかもよくわからない。 二人は、黙ってティアの言葉を待っていた。
(そう気負うこともないか)
別段、うまく説明しなければならないわけでも、気を遣う必要のある相手でもない。ティアは、自分の出した結論に一人で小さく頷いて、そして、話し始めた。
「端的に言うとね。出たのよ。」
ティアの短すぎる説明に、二人は一瞬戸惑った。
「…何が?」
「じ、自分はその手の話はちょっと…」
そして、各々の思ったことをそれぞれ口にした。 「ディック、違うのよ。別に幽霊とかそういう類の話じゃないから。」
とりあえず、ディックの誤解を解いておく。 「で、何が出たんだよ。」
エフォラの二度目の問いかけに、ティアは少し考え込んだ。
「うーんとね…怪物というか、化け物というか、そういう得体の知れない生き物?」
言いながら、ティアは首をかしげた。
「質問を質問で返すなよ・・・・。知ってるのお前だけなんだから」
「そんなこと言われたって、私も見たことあるわけじゃないもの。仕方ないじゃない。でね、それが森に出るのよ。」
「ふーん。で?」
エフォラにとっては野犬や、狼が出るのと大差なかった。どうせ、何かの動物を見間違えただけだろうと思ったからだ。事実そういうことは良くある。
ディックは、不安そうに黙って聞いていた。
「最初は別に悪さもしないから放って置いたんですって。本当は神聖な森だから、そういう得体の知れない 生き物はいて欲しくないんだけど、でも何の被害もないし」
ティアは、のんびりと河の流れを眺めながら話していた。
「被害が出たわけだ。」
エフォラの答えに頷いて、ティアは話を続けた。
「致命傷ではないけど結構ひどい怪我だったらしいわ。それも祭祀長の娘だから大騒ぎよ。慌てて、こっちに連絡が来たってわけ」
ティアは、二人の方には顔を向けずに話していた。ふうん、と言ってエフォラはディックの様子をうかがっ ていた。ディックは神妙な面持ちで、熱心に話を聴いていたようだった。しきりに頷いているが、一体なにに頷いているのかはいまいち良く分からない。
「でも、わざわざお前が出てくることはなかったろ。いつもみたいに、特殊派遣員だけにやらせときゃ済むんだし。」
ティアはメリエーズ教の最高神官であると同時に、サルウッドの国の要でもある。政治上重要な物事の決定権などももっている人物であるため、国を長期間はなれるというのはそれだけで大事だ。
「祭祀長と娘さんとは昔の知り合いなもんだから挨拶もかねて、かな。あと、特殊派遣員は、あんたみたいにどんな神も信じない人多いから、人の信仰心を土足で踏みにじったりするのよね。」
「あーはいはい、そうですかー。申し訳の次第もございませんー。」
「あと、監督者としてエフォラの働きぶりもちゃんと見ておかないとね」
一人納得して頷いたティアは、やはりこちらを向こうとはしなかった。
ディックはやはり神妙な面持ちで頷いていた。 「いつからお前が俺の監督者になったんだよ。俺はお前直属の部下じゃないってことを忘れてるんじゃないだろうな?」
「あら、今回はちゃんと部隊長に頼んで責任者と管理者を私にしてもらったわよ。」
ティアの台詞にエフォラは噴き出した。
「はぁ?!どういうことだよっ!」
「この間の件でね、エフォラ怪我しちゃったでしょ?それで部隊長に怒られちゃってねー。今度からちゃんと私管理責任で書類出してから使ってくれって言われちゃったのよ。」
エフォラは舌打ちをした。
「あの野郎、俺を売りやがったな…」
ティアはここで初めて振り返った。
「やーねー。人買いみたいに言わないでよ。」
少し拗ねたように口を尖らせている表情は、いつもより幾分幼く見えた。エフォラは目を細めて、再び前を向いたティアの後姿を見つめた。
「なあ、ティア。」
「何?」
どうということのないこの返答にさえ、エフォラは嫌なものを感じていた。いつもの鬱陶しいとか、ムカツクとか、そういう類の感情ではない。
「お前、嘘ついてないか?」
違和感だと思う。あまりはっきりとはわからないが、エフォラは違和感を感じていた。ティアがいつもと違うような気がする。 さして、彼女のことを詳しく知ろうと思ったこともなければ、特に事細かに知っているわけではない。四六時中一緒にいるわけでもない。ただ、この七年間の付き合いの中で培ってきた彼女の印象と、どうにも噛み合わない部分があるような気がしてならないのだ。
「え?ちゃんと書類書いてサインもしたわよ。」 「その話はもういいよ。」
「じゃあ何の話よ?」
「…あ、と……何って訳じゃなくて…」
エフォラは言葉に詰まった。自分でも、この違和感の正体が何なのかはよく分からない。
「なんか…その。誤魔化されてるっていうか…」
「何?」
言葉を見つけられないエフォラに、ティアは振り向かないままだった。
「こっち来てから、お前変だよ。」
なんとか放った言葉を聞いて、ティアは「えー?」と言って笑った。
「そんなことないわよ。ねーディック。」
「え?あ、はい!」
急に話を振られて、ディックは目を丸くしていた。エフォラは、この男は何の話だったかも分からなかったのではないかと思ったが、ディックが意外と話を聞いていたことを、すぐに思い知らされることになった。
「ティアさんが、嘘なんてつく訳がないだろ。ティアさんは神にお仕えする清い心の御方なんだぞ!」
話し出したディックは止まらなかった。エフォラに対して言いたいことが溜まっていたらしい。
(このバカいいように使われやがって…)
エフォラは胸のうちで毒づいて、ディックを睨みつけた。ディックはエフォラに睨まれていることなど露ほども気にせず話し続けていた。
「だいたいエフォラ。お前は目上の方に対する言葉遣いがなってないんだ。まして、最高神官であらせられるお方にあのような物言いは…」
ディックの説教はとどまるところを知らなかった。
「おいおい。そういうお前こそ目上の方に対する言葉遣いがなってないんじゃねぇか?」
エフォラはディックを鼻で笑った。こんな問答はどうでもいいので早く終わらせたかったが、どうにも納得できなかったため、つい反論してしまった。
「なんだと?!」
ディックも食って掛かる。
「俺は十七。お前は十六。俺のほうが、年齢は一個上なんだよ。」
「何をふざけたこと、を............え?」
勢いで吐き出しかけた言葉は途中で小さくなり、ディックはキョトンとしていた。
エフォラは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「え?」
もう一度同じ疑問符を浮かべ、ディックは立ち止まってエフォラを頭の先から足の先までまじまじと眺め
た。
「ええ?」
さらに疑問符を浮かべ、加えて怪訝な顔をする。
なんとなく、次の展開を感じ取ったエフォラの表情は勝者の笑みから不機嫌な顔へと変化していた。
「………………」
言葉なく、自分の中で今の内容を整理をしてからディックは一つの結論にたどり着いた。ビシッと人差し指を突きつけて、真顔でエフォラを睨みつける。
「嘘をつくなっ!この期におよんでそんな嘘をついて、男として恥ずかしくないのか!!」
「殺スぞテメェ」
完全に予想通りの展開に、エフォラは頬を引きつらせて拳をバキボキと鳴らしていた。
「自分はそのような脅しには屈せぬぞ。くだらぬ嘘をつくのは心が弱い証拠。その性根、叩きなおしてくれる!」
ディックの説教は延々と続いた。最初は反論を試みたエフォラだったが、だんだん面倒になってきてしば らく経つと、しゃべっているのはディックだけになっていた。 ティアは、目的の村につくまで一言も口を開かなかった。
四、御声を聴く者
村は、森を守っているというよりは、森に半分飲み込まれているようだった。
「森って入ったらダメなんじゃなかったのか?」
エフォラの問いに、ティアは頷いた。
「前はちゃんと森の外にあったのに…森が広がったのかしら?」
村が移動したというのは考えに難いが、この考えにはディックが異を唱えた。
「この森が広がっているなどという話は聞いたことがありません。聖域では、シュア神とリュア神の力の均衡が保たれているから森は増殖も衰退もしないと聞いています。」
「じゃあ、均衡が崩れたんだろ。」
「そんなことっ!」
エフォラに掴みかかろうとしたディックを制したのはティアだった。
「信じたくない気持ちは分かるけど、森が広がってるのは事実ね。村に入って話を聞いてみましょう。」
「…はい。」
ディックは振り上げかけた拳を落とし、エフォラを睨みつけた。
「熱心な信者じゃないわりにはご執心だな。」
エフォラの嫌味にディックは再び拳を握り締めた。
「貴様ぁっ!!!」
ティアが息を吸い、二人を止めにかかろうとしたそのときだった。
「何者だ!そこで何をしているっ!!」
村の方から朗々とした女の声が響き渡った。三人が声の方に目をやると、右目に包帯を巻いた女が立っていた。長い髪は艶やかな藍色をしていた。 「ここが藍染めの髪の民の村と知って近づいたのか?目的は何だ。」
言いながら女はこちらに向かって歩いてくる。 「お騒がせして申し訳ございません。私、カイワウ祭祀長からのご依頼を受けて参りました、サルウッドのティア・セントメリア・カウマン・クラウリイと申します。」
ティアは慌てて頭を下げた。
女はすぐ傍まで来ていた。
「ティア…?」
先ほどまでの力の篭った声ではなく、気の抜けたような声で女は聞き返した。 その声になんとなく聞き覚えがあるように感じて、ティアはゆっくりと顔を上げた。女と目が合う。瞬間、 女の表情がぱっと明るくなった。同時にティアも相手が誰かを理解する。
「マナ!」
「そう、マナよ。久しぶり!サルウッドから人が来るとは聞いていたけど、まさかティアが来るとは思ってなかったわ。」
「ああ、マナ。本当に久しぶりね!ずいぶんと大きくなって…」
「それはお互い様よ。ティアだってあのときはほんの子供だったじゃない!」
「そうね…」
盛り上がる女性二人に対して、エフォラとディックは完全に置いてけぼりだった。
ティアは懐かしむようにマナの顔を見つめた。右目を覆う包帯がやはり気になった。
「顔…」
ティアが言いかけて、初めて気付いたようにマナは自分の右目に触れた。
「あ、うん。例の…あれで…でも大丈夫だから。そんな、ひどい怪我でもないし…」
マナは力なく笑った。
「目、大丈夫なの?」
ティアに問われて、マナは気まずそうにまた笑った。
「…もう見えないって。たぶん、だけど。」
マナには、ティアの辛そうな表情以上に、さっきまで興味もなさそうにしていた青年が目を伏せたことのほうがチクリとした。
「大丈夫よ。目なんて片方見えれば十分だもの。」
すでに何度も言った強がりだった。ティアはやはり辛そうな表情で、マナを見ていた。
「もう、やめてよ!私にしたら一週間も前の話なのよ?そんな顔しないで、ね?あ、ほらっ父さんに用があ るんでしょ?早く行きましょうよ。ついてきて!」
耐えきれずに村の方へと歩き出したマナの後を、三人は黙ってついていった。 歩き出してすぐに、マナは話題を変えようとティアに話しかけた。
「でも、ティア。よくすぐに私がマナだって分かったね。」
「え?」
ティアはマナが何を言いたいのかが一瞬分からなかった。
「母さんとティアだけよ。私とユナを見分けらたのって。」
マナにはユナという双子の妹がいる。その事実を忘れていたわけではない。
「それは...」
ティアが言いにくそうにしているのに気付き、マナが続けた。
「父さんから聞いた?」
「...ええ」
「ユナのことも?」
立て続けに言ってから、マナはこの話題も失敗だったな。と思った。
「ユナのことは何も」
「そう...まあ、父さんの口からは言い難いだろうね。」
マナの声は冷たかった。言った本人自身も言いながら改めてそう実感するほどに。
「何があったの?」
ティアの問いにマナは少し考えてからこう答えた。
「父さんに聞いた方がいいと思う。」
「でもさっき」
言いかけたティアの言葉をさえぎって、マナは続けた。
「だからこそ、父さんが言うべきなのよ。」
今度の声には、冷たい怒りがこもっていた。 エフォラは、嫌なところに来てしまったものだと、こっそりため息をついた。化け物騒ぎ以外にも、何か といざこざがある村のようだ。何より、ティアが大人しいというのが、どうにもやり難い。ティアがずっ とこの調子だったらと思うと、エフォラはゾッとした。
「ねえ、先に後ろの二人の人紹介してよ。家についたら、父さんとの話しになるから私は部屋に入れないだろうし」
これまた、空気を変えようと無理やり話題を振ってきたマナに、エフォラは苦笑いを浮かべた。 (興味もないくせに)
これがエフォラの本音だった。目を見れば信用もしていなければ、頼りにもしていないことぐらい分かる。 元々閉鎖的な村だから外の人間が嫌いなのだろう。 ティアが何か言う前に、エフォラは愛想ばかりの笑顔を作り形式的な自己紹介を行った。
「メリエーズ教管轄異常事態対策部隊特殊派遣員エフォラ・リライと申します。宜しくお願い致します。」
「え、ええと......ディック・アイダーナです!」
こういうことに慣れていないのか、はたまた現状で自分がどの立場で名乗ってよいのか分からなかったのか、もしくは両方の可能性はあるが、ディックは名前しか名乗らなかった。 エフォラは呆れ顔でディックを見ていたが、マナはどうやらディックもエフォラと同じく特殊派遣員だと思ったようだった。 マナは値踏みするような目で二人を眺めてから、すっと笑顔に変り両手を合わせて軽く会釈した。
「名乗りが遅くなって大変申し訳ありませんでした。藍染めの髪の民が祭祀長カイワウの娘、マナと申しま す。どうぞよろしくおねがいいたします。」
エフォラは、顔を上げたマナの笑顔の奥に悪意を感じられなかった。だが、間違いなくその奥の本心は笑顔などではない。エフォラは、自分のその確信さえも一瞬疑ってしまうようなマナの笑顔に、おそらく相手はお見通しであろう作り笑顔を返すしかなかった。
(だから年上の女は嫌いなんだよ)
どこまでが愛想で、どこからが本心なのかがわからない。その上、こっちの気が緩んでしまうような笑顔を見せるから、いつ騙されるかわかったもんじゃない。一番怖いのは、騙されていることにすら気づけていないかもしれないことだ。 視界にティアが映る。自分が二人を紹介するつもりだったのに、さっさと二人が名乗ってしまったせい か所在なさそうにしていた。いつものティアなら文句の一つも言うところだが、先ほど話に出たユナという人のことが気になるのか、やはり元気はないようだった。
(俺は、お前の手の中の駒なのか?)
エフォラの無言の問いにティアが答える訳もなく、マナの「特殊派遣員って、どんな仕事をするの?」とい う、どうでもよい質問にエフォラは答えなければならなくなってしまった。マナは、この話題で祭祀長の家まで持たすつもりらしく、エフォラはひっきりなしに続くマナの質問に答え続けることになってしまった。
不協和音が聞こえる。 ティアは耳をふさぎたい衝動に駆られていた。村に充満する、不安と疑念、恐怖と戸惑い。おそらくは、 そういった感情なのだろう、すべて入り混じって自分の中に入り意思を侵食しようとする。そう感じられた。 耳から入ってきているようではあるが、鼓膜が感じる音ではないため、耳をふさいでも効果はない。長年付き合ってきた自分の体のことなので、そんなことは解りきっている。このいびつな声を掻き消せるのは、母のすべてを包み込む優しさと、自分自身の強い意志しかない。心を強く持つしかない。何度も自分に言い聞かせ、ティアは祭祀長カイワウと向き合った。
「お久しぶりです、カイワウ祭祀長。」
頭を下げたティアにカイワウはティア以上に深く頭を下げた。
「メリエーズ教最高神官の貴女様が私などに頭を下げる必要はございません。どうぞ、顔をおあげくださ い。」
「しかし…」
「お気遣いなさいまするな。」
ティアは、カイワウの重い口調に少し戸惑ったが、ゆっくりと頭を上げた。 ティアが頭を上げきってから、カイワウもゆっくりと顔を上げる。 部屋には、ティア、エフォラ、ディック、そしてカイワウの 四人がいた。マナは三人を部屋に通すと黙っ て出て行った。おそらく自室に戻ったのだろう。
「本当に立派になられました...お母様はお元気ですか?」
カイワウは目を細めてティアを見つめた。その視線は、何処か昔を懐かしんでいるように見えた。
「ありがとうございます。母は元気です。」
「そうですか、それはよかった。長旅でお疲れでしょう。森に入れないため、たいした御持て成しも出来ませんが、今日はもうゆっくりお休みください。」
カイワウのこの言葉にティアは面食らった。すぐにでも詳しい話をと思っていたからだ。
「いえ、私どもにお気遣いは無用です。詳しいお話を」
ティアの言葉を遮るように、カイワウは小さくため息をついた。
「私が知る事は、皆すでにお伝えしております。それ以上のことは…直接その異形の物を見たマナにお聞きください。」
カイワウの態度は、閉鎖的だった。
「…そう、ですか。わかりました。」
昔は、こうではなかった。ティア自身が子供だったからなのか、それとも子供だから気付かなかったのか、それは今となっては解らない。ただ、ティアにはそれが少し寂しかった。
「本日は、どうぞお休みください。」
カイワウは、それ以上何も話そうとはしなかった。
「わかりました。…ただ、その…一つだけお伺いしたいことが…」
ティアも、これ以上言っても仕方がないことを悟り、カイワウとの距離を置いた。カイワウの深い闇のような目の奥が光ったような気がした。
「何なりと」
ティアは、息を呑んだ。心を強く持たなければならない。
「…ユナは、どこにいますか?ここには、いないようですが…」
カイワウはゆっくりと瞼を閉じた。そして、閉じたときよりもさらにゆっくりと重い瞼を上げる。口が開いた。
「ユナは…戦争の折に、神の御許へ旅立ちました。」
いたい痛いイタイコワイよ寒イたすけテコワイ痛い殺シテ
ティアの中に、混濁した、しかし確固たる形を持った感情が流れ込んでくる。
(意思を強く...強く持たないと。)
「そう、でしたか…。辛いことを思い出させてしまい、申し訳ありませんでした。」
ティアの言葉にカイワウは目を見開いた。
「我々にとって、死は神の御許への旅立ち。辛いことではございません。お気になさいまするな。」
「失礼いたしました。」
カイワウは席を立った。
「だいぶお疲れのご様子ですので、もう、お休みください。」
「はい。」
コロシテ死ししシシシシシ........................
ティアも席を立つ。
ティアに続いて、エフォラとディックも立ち上がった。
カイワウに促され、部屋の外へ出るときにエフォラはティアの額に汗が浮かんでいるのに気づいた。
部屋の外にはマナが待っていた。頭を深く下げていたため、ティアの様子には気付かなかったようだ。
「寝所に案内いたします。」
マナはそのままティアの顔を見ることなく、三人の前を歩いた。
「ティア、大丈夫か?だいぶ調子悪そうだぞ。」 エフォラが小声でティアに声をかけたが、ティアは目を伏せただけで答えなかった。 家の離れまで歩いたころに、マナが話しかけてきた。
「ユナのこと。なんていってた?」
「......」
ティアが答えられずにいるのを見かねて、エフォラは代わりに答えた。
「戦争で亡くなられたとお伺いしました。ご愁傷様です。」
エフォラはそこまで言ってからカイワウの言葉を思い出した。
「いや、あなた方の考えでは辛くはないんでしたか。」
エフォラの言葉には棘があった。
「辛くないわけないじゃない。」
エフォラが思った以上に早く、マナが言葉を返した。
「でも...そう、父がそう言ったのね。」
「エフォラ、あまり責めないで。教えは教えであって個人の感情まで束縛できるものじゃないわ。教えの通りに思うべきだったとしても...簡単なことじゃないときもある。」
ティアが口を開いた。やはり調子は良くないようで、いつものような快活さはない。
「いいのよ、ティア。父が嫌な言い方をしたからその人の気に障ったんでしょ?あの人、そういうところがあるから。」
一呼吸置いてから、マナは憎しみの篭った声で小さく付け加えた。
「戦争で死んだなんて、よくもそんなことが言えたものね。」
「どういうこと?」
ティアが聞き返す。マナは振り返らずに答えた。 「村を守るためにユナを捨てたのよ。」
「え?」
「戦争のときにね。軍が能力者、それも子供の能力者を集めてたのは知ってる?」
「...ええ。」
マナの問いかけにティアは小さく頷いた。詳細がわからないが話だけは聞いたことがあった。
「村に軍隊が来たのよ。村が戦争に巻き込まれないよう取計らうから、村にいる能力者の子供を引き渡せって」
三人はただ、静かにマナの言葉を聞いていた。 「藍染めの髪の民ってね。昔は不思議な力を持った人がたくさんいたんだって。でも、最近は全然...でも外の人は今でも不思議な力を持った人がたくさんいるって信じてるみたで。そのとき、はっきりと人にはない力を持ってたのはユナだけだった。...だから連れて行かれた。」
「じゃあ...」
ティアが言いたいことを察して、マナは続けた。 「死んでないかもしれない。でも、ユナは村に戻ってこない...もう戦争が終わって八年も経つのに。」
マナはそこで立ち止まった。
目の前の扉を指し、エフォラとディックの方を向いた。
その顔は、少し疲れているように見えた。
「ここが、あなた達二人の部屋。ティアはこの階段を上がったところだから、一緒に行くね。」
エフォラとディックとは別れ、ティアはマナと二人でティアの今夜寝る部屋についた。
「ティアの部屋はここね。今日はゆっくり休んで。」
「うん、ありがとうマナ。」
扉のところで「じゃあ」とティアが言おうとしたそのときだった。
「イタイ」
マナが小さな声で呟いた。
マナは自分の胸元をぎゅっと掴んで、すがるような目でティアを見つめた。
「ねえ、ティア。これ、ユナだよね?」
「.........」
ティアは答えなかった。
「なんか、わからないけど、痛くて息苦しい感じがグルグル回ってる。私ね、小さいころからユナの感じてることだけは、ずっと感じてたんだ。ハッキリとした形じゃないけど、でも感覚だけ、伝わってくるの。ユナのだけ・・・これ、ユナだよね?」
「私は...」
「ユナは、みんなの感じてること全部聴こえるって言ってた。あの子だけ、他の人とは違ったの。...ティアも、みんなの感じてること聴こえるんでしょ?ユナが言ってた。『ティアは同んなじだ』って。だから、 ティアも聴こえるでしょ?」 ティアはマナを見つめた。何故か、自分がガラス越しにいるような気がした。
「ごめん、マナ。......私には、もう聴こえないの。」
最後の繋がっていた糸を切られたような顔をしたマナに、ティアは掛ける言葉を失った。
「ごめんね...」
「そう、なんだ...私こそ、ごめん。」
うつむくマナに掛ける言葉はやはり見つからず、ティアも床を見つめた。
「さっきの、忘れて...。じゃあ、夕食のときにまた来るね。」
去っていくマナの後ろ姿を見ることなく、ティアは戸を閉めた。
「もう、昔と同じじゃないんだね。」
壁の向こう側からマナの声がした。 ティアには、それが、音となって鼓膜に響いた声だったのか、頭の中に響くいつもの流れ込むものなのかがわからなかった。
五、微笑む者
無味乾燥。喉が渇く。目も乾く。単純な渇き以上の飢えがそこにはあった。 目に映るものには彩度がなく、穢れ無き純白もなければ、混沌たる漆黒もない。それは、かすれた力なき汚れの染みたコンクリート色。 空気は、暖かくも、寒くもない。適温といえば聞こえは良いが、自分を見失う温度だと言えた。かすかに感じる人の気配は、無よりも不快だ。 音は、ない。ここに来てすぐに認識しない方法を覚えたからだ。鼓膜の振動は、間違いなく脳に届いている。聴こうと思えば聴こえるのだ。 ほら、カツンカツンカツンペタペタカツンカリカリガリガリオカアサンキョウココカラデヨウキットガリガリギャリギャリカツンカツンカツンペタペタカツングチグチャペタペタカツンペタペタとカツンカツンが近づいてきたため、顔を上げた。 軍服を着た男と、ひとりの少女が歩いていた。
色が、あった。
――――艶やかな藍色。
色を携えた少女がこちらを振り返った。
目が合った、次の瞬間。少女はやわらかく微笑みかけてきた。
あの顔には見覚えがある。確か、昨日会った女…マナ、だったか。
ぼんやりとした意識の中で思い出す。
なんだか変だ。このときの俺は、まだマナに会っていない。思い出すというのはどうもおかしい気がする。
混濁している思考の奥で脳が認識している感覚に気付いた。目の前が真っ暗になる。
「・・・い、エフォラ!起きろといっているだろう!朝だぞ!!」
予想以上に不快な声に、エフォラは耳をふさぎたくなった。体はまだ覚醒しきっていないため、手は動き始めない。 自分が眠っていたことを思い出す。続いて、先ほど夢で見た少女は、マナにしては若かったし片目を怪我もしていなかったなと思う。それから、やっと自分が藍染めの髪の民の村で、この五月蝿い男と同室で あることも思い出した。男の名前も思い出したところで、ようやく体が脳の指示に従い動き始める。
「うるせぇ...黙れよぉ...」
しわがれた声だが、相手には伝わったらしい。ディックは静かになった。
「朝食まで起きないつもりか。そんなことで、本当に実戦で戦えるのか?いざというときは、なんと言っても日ごろの鍛錬がモノをいうんだぞ!」
が、それは非常に短い時間だった。
「朝の訓練なんか、やりたきゃお前一人でやれよ。」
エフォラの欠伸交じりの声に、ディックは憤慨した。
「なんだ、その態度は!人がせっかく起こしてやったのにッ!!」
頼んでねぇよ。と内心思いながら、エフォラは布団を頭までかぶった。
「もう、お前のことなど知るか!」
ディックは、言い放って乱暴にドアを閉め、部屋を出て行った。
(本当に、真面目というかなんというか...付き合い難いやつだなぁ)
エフォラは布団の中で一人ため息をついた。
静かになると、また眠気が襲ってきた。 エフォラは抗うことなく、眠りに落ちていき、また、夢を見た。ディックが何故か怒ってガミガミと言って いるのだが、ちっとも声は聞こえない。横でティアがくすくすと笑っている声だけが聞こえる。 声が聞こえないため、何を言っているのか一切わからない自分は、ただキョトンとして立っているだけだっ た。それだけの夢だった。 次に目が覚めたとき、エフォラはその前に夢を見ていたことさえ覚えていなかった。
ディックは、外に出てストレッチをしたあと、剣の素振りをしていた。 形というのは大切だ。何度も繰り返し体に覚えさせることで、とっさのときには頭が考えるよりも早く体 が動いてくれる。 自警団では毎朝全員集合して訓練を行っている。一人だと、できることが限られてしまうので少し物足りない。エフォラが付き合ってくれれば、もう少しメニューも増やせるのだが、仕方がないことだ。とディッ クは自分に言い聞かせた。
(まったく...あいつは本当に優秀な特殊派遣員なのか?)
エフォラのことを思い出したら、少し腹が立った。剣を握る手に力がこもる。 ディックには、何故最高神官ともあろう方が、あんなボンクラを連れて歩いているのか理解ができなかった。口も、素行も、態度も悪い。ディックは、エフォラよりもっと優秀な特殊派遣員を何人も見ていた。正 直、あんな礼儀知らずの特殊派遣員など見たことがない。 ああいう礼儀知らずの奴がいるから、「最近の若い者は礼儀を知らん」とか言われるのだ。礼節をわきまえた若者もいるというのに、いい迷惑である。 いつだってそうだ。少数の素行の悪い人間のせいで、そうではない大勢に不名誉なレッテルが貼られる。 自分がいくら頑張っても、「若いのに感心だ」と言われはするものの、ひとくくりにされた集団のレッテル がはがされることはない。
「力が、入りすぎてますよ。」
突然の声に、ディックは動きを止めた。声のほうを見るとマナが立っていた。
「鍛錬は、集中して細部まで気を使わないと、あまり意味がありませんよ。」
「あ......はい!申し訳ありません。恥ずかしながら、関係のないことを考えておりました。」
ディックは自分の行動を真剣に反省し、頭を下げた。
マナは少しの間キョトンとしてディックを見ていたが、ついに噴出してしまった。
「ふふっ...私は上官ではありませんから、そんな真剣に頭を下げないでください。」
今度はディックがキョトンとした。まさか笑われるとは思っていなかったからだ。なかなか笑い止まないマナを見て、ディックも笑顔になった。
「よかった...」
「え?」
ディックの言葉に、マナの笑いが止まる。
「いえ、今はじめて、あなたの笑顔を見た気がしたので。」
そういって、ディックはマナに微笑みかけた。
「そう...ですか?」
昨日もちゃんと笑顔で対応していたはずだと思いながら、マナは何か見透かされたような気分になった。
「ご指南、ありがとうございます!」
「はあ...」
「あ、もしかしてそろそろ朝食ですか?」
「あ、はい...」
「そうですか。承知いたしました。あの腐れ特殊派遣員をたたき起こしてきますね!」
ディックはそういって、マナの返事を待たずに部屋に戻っていった。
(あの人も特殊派遣員なんじゃなかったのかしら?)
マナは、最後にどうでもいいような疑問を感じたのだが、そのままティアに朝食の準備ができたことを伝 えにいった。
「エフォラ!朝食だ、起きろ!!」
ドアを元気よく開けて、ご機嫌な声でディックがやってきた。エフォラは、うんざりしながら体を起こす。
「起きるから、お前、ちょっと黙れ。」
「早起きは三文の徳というからな。私は、お前より完全にいいことがあったぞ。」
自信満々で満面の笑みを浮かべるディックにエフォラはイラっとした。
「あーはいはい。そうですか。」
エフォラは適当に相槌を打って、ごそごそと服を着込んだ。
「エフォラ。お前は、世の中で一番素晴らしいものは何だと思う?」
「俺、そういうの興味ないから。」
セールスの勧誘を断るように、エフォラはディックの問いを切って捨てた。
「私は、人々の笑顔だと思う。」
エフォラの答えにはまったく興味がなかったらしく、ディックはそのまま続けた。 顔は完全にエフォラの方向を向いていない。光り輝く明日の方を向いているようにエフォラには見えた。 聞く気がないなら質問するなよ。と思いながら、エフォラは苦笑した。
「誰かが、誰かに微笑みかけている。こんな素晴らしいことが他にあるだろうか。いや、ない!そこには愛があふれている。それ以外はないと私は思う。私は誰かの笑顔のために、微笑みのために戦おうと今改め て心に誓ったのだ」
「熱弁してるとこ悪いんだけどさ。」
ディックの台詞が完全に終わりきる前に、エフォラはうんざりした様子で口をはさんだ。
「何だ?」
ディックは思いのほか上機嫌だったらしく、話の途中に水をさしたにもかかわらず、怒りださなかった。エ フォラは一呼吸おいて、舞い上がったままのディックを見つめた。
「俺は、微笑む奴には二種類いると思う。」
「どういうことだ?」
明らかに何も考えていない顔のディックを見ながら、エフォラはふと疑問に思った。この男は、もしかし て人間のきれいな部分だけしか見てこなかったのだろうか。そんなことは、生きていれば不可能だと思うのだが、それ以外にどうすればこんな人間に成長できるのか想像もつかない。その疑問は、横に置いて、エフォラは話を続けた。
「心に余裕のある奴と、何か大切なものをあきらめた奴だ。」
エフォラの答えをディックは理解できない様子だった。
「前者は、お前の言うように慈愛だかなんだか知らんが、そういうもんであふれてるんだろうよ。たぶんな。」
そこまでは納得できたらしく、ディックは頷いた。
「ふむ」
それを確認してから、エフォラはさらに続ける。
「後者は...なんだろうな。でも」
エフォラ自身、どう説明したものか迷い、ここで一瞬止まった。
それから、悩んだ末にこれが一番しっくりくるな、と思い言葉を吐き出した。
「悲しいもんだと思うぜ。」
ぽかんとしているディックの横をすり抜けて、エフォラはドアを開けた。
「朝食なんだろ。行こうぜ。」
「あ、ああ...」
静かになったディックを横目に、エフォラは、これでしばらく静かになってくれればいいな、と思ってい た。
廊下に出るとティアとマナが待っていた。
「ずいぶん時間がかかったのね。あ、さては今の今まで寝てたわね?」
ティアがにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「あーはいはい。そーですよ。」
やる気のない返事をして、エフォラはそっぽを向く。
「もー」
少し困ったようにするティアを見ながら、エフォラは昨日のことを思い出した。
「なあ、ティア。やっぱりお前」
「何?」
エフォラが言い終わる前に、ティアは微笑みながら聞き返した。明らかに質問をさえぎられたことを感じ、エフォラはティアから視線をそらした。
「いや、なんでもない」
「そう。じゃあ、早くご飯にしましょ。」
考え込んだディックも加わり、一行は食卓へ向かった。
(さっきの、もう一種類加えないとなぁ・・・)
エフォラはティアの後姿を眺めながらそう思った。
(こいつは何ていうか...性質が悪いな)
六、語る者
朝食は、昨日通された部屋とは別の部屋に用意されていた。昨日通された部屋よりは広く、中央に円卓が 置かれている。おそらく、普段は会議などで使っているのだろう。三人で使うには少し気が引ける広さだ。 察するに、昨日の部屋は祭祀長の部屋なのだろう。 エフォラは、用意された三人分の朝食を見てあることに気づいた。保存食らしいものが妙に多く使われている気がする。
「あの…」
エフォラが口を開くと何か言う前に、マナが笑顔ですぐに答えた。
「私と父は、先に済ませましたので、三人でごゆっくりお召し上がりください。」
「あ、いえ。そうではなく…」
エフォラが続きを聞こうか少し迷っていると、ティアがマナとエフォラの間に割って入った。
「あーっ!ダメよエフォラ!こんなところでナンパしちゃ。」
「だっ………」
ティアが唐突に、とんでもないことを言ったので、エフォラは危うくいつのも調子で「誰がんなことするか!」と言いそうになった。 ティアが、エフォラの頭を引き寄せて、マナに聞こえないように耳元で低くささやく。
「気遣わせるようなこと言わないの。」
それを聞いてエフォラは理解した。エフォラが思ったことはどうやら正解で、それを言うとマナに気を遣 わせることになるから黙っていろということらしい。
「は、はい。申し訳ありません。」
エフォラはしぶしぶ、ティアの話に乗った。ディックがごちゃごちゃ言い出すのではないかと見てみると、 ディックは真剣な面持ちで朝食を眺めていた。 エフォラは一瞬嫌な予感がした。ディックがマナの方を向く。
「村の食料は足りていますか?」
そして的中した。
エフォラがまさに言おうとしていた、その言葉を、ディックが言ってしまったのだ。
「ディック!!」
「このバカ!!」
ティアとエフォラの声が重なる。
「え?」
「あ!」
言った当の本人は何故二人が怒っているのか理解していないようだが、マナは理解したらしかった。
「確かに、森にしばらく入っていないので新鮮な食べ物はありませんが、保存食はいつもある程度蓄えてあるので、もうしばらくは大丈夫ですよ。」
マナが、少し困ったように笑いながらディックの問いに答えた。そして、ティアとエフォラにも同じよう に少し困ったような笑顔で答えた。
「ティアも、エフォラさんも、そんなに気にしなくて大丈夫ですよ。」
「あ...はい。」
どちらともなく、そう言ってなんとなく気まずい感じになったのだが、ディックは特に気にした様子もなく一人で何か納得してしていた。
「そうですか。しかし、早く森に入れるようにならないと困りますよね?できるだけ早く安心して森に入れるようになるよう全力を尽くしますのでご安心ください。」
最後はそう言ってマナに微笑みかけた。マナはディックの言葉を受けてから、少しの間目を瞬いこの元気 な青年の顔を見ていた。それから、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」
二人のやり取りを見て、ティアがエフォラに小声で尋ねる。
「いつのまに仲良くなったの??」
「知るかよ。」
おそらく今朝だろうとは思いながら、エフォラは冷たく吐き捨てた。
「どうぞ、お召し上がりください。」
マナに促され、ティアとエフォラは少し気まずい空気のまま、その会話は終了した。
三人が食事を始めると、マナは一礼して部屋を後にした。
「それで、どうするんだ?」
マナが去ると、エフォラが口を開いた。
「ん?なにが?」
ティアが聞き返すと、エフォラは眉を寄せてため息をついた。
「何が?じゃねーよ。仕事だろ、仕事。村の人に話し聞くなりなんなりするんだろ?」
エフォラが少しイラッとしたことなど気にせずに、ティアはのんびり答える。
「あー...うん。そうなんだけどね......」
「なんだよ?なんか問題でもあるのか?」
ティアが何をどう伝えるか思案している間、エフォラは少し待たされながらイライラを募らせていた。ティアは、どうも今回の仕事の話になると言葉が詰まるらしい。
「まあ、わかってるとは思うんだけど...」
「何が?」
少しずつエフォラの語気が強くなる。ティアが少しムッとしたのが見えた。
「何をイライラしてるんだ?そんな攻めるような言い方しなくてもいいだろう。」
ディックが口を挟んだ。瞬間、ティアの表情が明るくなる。そして、両手を胸の前で合わせてディックの方を向いた。
「そうよね!私もそう思ってたの!!」
それから、エフォラに向き直る。
「なんでそんなにイライラしてるの?」
子供をなだめる様な言い方と、ディックとティアのやりとりにエフォラは頬を引きつらせた。
「何もねぇよ。話進めろよ。」
「でも怒ってるじゃない。」
「いいから、進めろ。進めてくれ。」
なんだか余計にイライラしながら、エフォラは話を進めようとした。
「でも」
次にティアが口を開いて何か言おうとしたのにかぶせて、エフォラは机を叩いた。
「こうやって話が進まないのにイライラしてんだよッ」
声量は抑えているが、ティアを思いっきり睨み付ける。
「これで満足か?」
エフォラの様子にティアは体を少し後ろに引いて、ゆっくり頷いた。
「はい...進めます。」
ティアは深く息を吸って吐いて、それから話し始めた。
「昨日の様子とかから想像はつくと思うけど、この村の人は外の人とは話したがらないの。」
エフォラは頷いたが、ディックは首をかしげていた。それは放っておいてティアは続ける。
「なので、村で聞き込みはできません。」
再び、黙ってエフォラが頷いた。ディックは「ふーん」という顔をしていた。「こういう性格だから、マナと知らないうちに仲良くなれたんだろう」などとティアは思いながらエフォラの視線に押されて話続けた。
「というわけで、話はマナから聞きます。マナは森の管理もしてるから、森であった事は全部マナに報告さ れてるはずだし。」
「なるほどな。まあ、その方がこっちも手間がかからないしいいか。で?」
「あとは、話を聞いてからでないとなんとも...」
ティアの話はこれだけらしかった。待っても次の言葉が出てこないようなので、エフォラは一つ息を吐いてから口を開いた。
「何かの動物を見間違えた可能性は?」
「ないわ。この森には人間より大きな生き物は住んでいないもの。」
エフォラには、どうも化け物というのがしっくりこなかったが、そこは追求せずに最後の質問をぶつける。
「もし仮に、化け物だったとして、だ。どういう処置をするつもりなんだ?」
「殺すしかないと思う。」
ティアは間を置かずに答えた。 さっきまでの淀んだ話しぶりからは想像できないほど、はっきりと即座に答えたことにエフォラは違和感を感じずにはいられなかった。同時に、その選択肢が一番始めに出てくるものだろうかと疑問に思った。 ティアはエフォラの方は向かずに机の上の食べかけの食事を見ていた。 その表情に、やけにしっかりとした決意が見えたのが、エフォラの心にひっかかった。
「どこか遠くへ追いやるのではいけないのですか?」
ディックがふと疑問に思い聞いてきた。
「野生動物なら、それも考えるんだけど、得体の知れない化け物だとそういう訳にもいかないと思うの。」
ティアが答える。最初から質問を予期して答えを用意していたようにすんなりと話す。
「追い払った先で、結局また人を襲うようなことがあってはいけないし。」
「ああ、確かにそうですね...」
ディックはティアの答えに素直に納得したようだった。
「仮定で話してもしかたないか...マナさんに話聞いて、実際にお目にかかってみなきゃな。」
釈然としない部分はあったが、エフォラはそう言って食事を再開した。
「うん。結局そういうことなのよ。」
ティアも食事を再開する。
「これ、結構おいしいですよ。」
口をもぐもぐしながら、そんなことを言っているディックを横目で見ながら、エフォラはディックの存在 に少し感謝していた。イライラさせられることもあるが、この空気の読めないところが逆にピリピリした 空気を和らげることもあるようだ。
ディックが最初に食事を終え、エフォラとティアも食事を終えた頃、戸を叩く音がした。
「どうぞ」
ティアの声を聞いて、マナがそっと戸を開けて部屋に入ってきた。
「食器を片付けますね。話はそれからでよろしいですか?」
「はい。」
ティアが答えて、マナは食器をまとめて部屋を去った。
「この広い家のこと全部マナさんがやってるのか?」
エフォラが少し不思議に思いティアに尋ねる。思い返してみても、この家で祭祀長とマナ以外の人間に会った記憶がない。
「マナのお母さんがいたときは家政婦さんみたいな人もいたらしいけど...亡くなってから人に頼むのやめたみたい。大変なときは村の若い人に手伝ってもらったりはしてるって言ってたけど...」 「ふーん...大変だな。」
本人に言ったら、もう何年もしているか慣れているとでも言うのだろうか。エフォラはなんとなくそんなことを考えていた。
「手伝いに行きましょうか?」
言ってディックが立ち上がる。
「いいから、お前は座ってろ。」
「勝手がわからない人がいると逆に迷惑だと思うわよ。」
エフォラとティアから言われて、ディックは少し残念そうに座った。どうもじっとしているのが性に合わ ないらしい。
そうこうしている間に、マナが戻ってきた。 ディックが何か寂しそうにしているので、マナは首をかしげてディックに声をかけた。
「どうかされましたか?」
「いえ、何もありません。」
少し気になったが、マナはそれ以上追及しなかった。
「何から話しましょうか?」
「村の人から聞いた話と、マナ自身が見たことから聞いてもいい?」
ティアの言葉に頷いて、マナは話し始めた。
「最初は、森に大きな灰色のサルのようなものがいるという話でした...」
始めは村人が来たのを察して逃げようとしたのか、遠ざかっていく姿が目撃されていた。それが段々、地面に座りこんで、じっとこちらを見つめるようになったが、ある一定の距離以上には近づくことはなかったらしい。 たびたび見かけるうちに、よく見ると手足の先が太くなっていて大きな爪のようなものがついているこ とがわかった。少し青っぽい長い髪のようなものが生えていて、目は大きくあごが細い。 見た目が奇妙で恐ろしいので、村人側もあまり近づこうとはしなかったが、特に何もしてくる様子がないので見かけてもあまり気にせず作業するようになっていた。 その頃には、だいたい見かける場所は決まっていたのだが、マナはずっと遭遇したことはなかった。 村人達は「あれは何もしてこないから大丈夫だ」と言っていた。 誰かが、腕に輪のようなものをつけているのを見たと言ったので、誰か物好きが買っていた動物なのかもしれないという話になっていた。マナが、それと出会うまでは...
「そんな動物聞いたことないな。」
エフォラがつぶやいた。
「私が見たときは、突然だったのでどんな姿だったのかあまり覚えていませんが、おおむね他の方が言っていたような感じだったと思います。」 「マナがそれと会ったのも他の人が見たって言ってた場所?」
ティアの質問にマナは少し考えてから答えた。 「いえ...そこよりは少し森の奥の方でした。普通の村人は、あそこまで森の奥には入ってはいけないことになっていますから。」
「森の奥には何かあるんですか?」
続いたエフォラの問いに、マナは目を伏せた。 「神々を祭る塔です。はるか昔に、我々の祖先が造ったもので、通常踏み入ることは許されません。」
マナの答えに、エフォラは思った疑問をそのまま口にした。
「何か特別な用があって、その場所には行かれたのですか?」
「祭祀長の一族の女は、七年に一度塔で祈りをささげ神託を預かります。」
「そうですか。」
なるほど、宗教的な儀式のときにしか立ち入らない場所なわけか。とエフォラは納得した。
「...だから、あれは神の遣いで、神が怒っているのだと言う人もいます。森の拡大は止まりましたが、人々は不安がっています。」
「拡大...」
ディックがポツリと繰り返した。やはり森が広がっていたという事実がショックだったらしい。
「マナが見たときはどうだったの?」
ティアが話を促した。
「はい。私が塔に入ろうとしたときに、ちょうど中から出てきて、目が合った次の瞬間には...」
そこまで言って、マナは右目を押さえた。
「ありがとう。嫌なこと思い出させてごめんなさい。」
ティアが言うと、マナは首を横に振った。
「いいの。大丈夫。」
「あまり無理はしないでくださいね。さぞ恐ろしかったでしょう。」
ディックが気遣って、そう言った。マナはまた首を横に振った。
「いえ...それが、不思議と怖くはなかったんです。突然だったからかもしれませんが...なんだろう、こんなこと言うと変に思われると思うんですが...」
三人はマナの言葉を待った。
「なにか悲しいような...」
ティアがピクリとしたのをエフォラは見逃さなかった。
「ごめんなさい!変ですよね?私も変だと思うんです。多分、気が動転していただけだと思います。忘れてください!」
マナは先ほどの発言を取り消そうと慌てて早口に言った。
「村の人がよく見かけた場所と塔の場所を説明しますね。森には私も一緒に入りますけど、一応。」
マナはそう言って地図を広げた。
「村の人がよく見かけたのはこの辺りです。」
地図には、村から入る森の入り口と塔の絵、その周辺に道とメモが描かれていた。
マナが指したのは森の入り口と塔のちょうど真ん中辺りだった。
「塔はこれです。」
と、続けて塔の絵を指す。
「塔までだと、森に慣れていない人の足では二時間以上かかりますので、いろいろと準備が必要です。」
マナの話を聞いて、ティアがエフォラに話を振った。
「とりあえず、村人がよく見かけたって場所までいってみる?」
「そうだな、森の様子も把握しとかないといけないし、ちょっと準備して行ってみるか。」
「準備にはどのくらいかかる?」
「んー...二十分くらい。」
「ディックは?」
「五分で準備できます。」
エフォラとディックが頷いたのを確認して、ティアはマナに向き直った。
「マナはどのくらいかかる?」
「十分くらいあれば大丈夫。」
「じゃあ、二十分後に玄関でいい?」
「ええ。」
マナの返答に、ティアも頷いてそれぞれが動き出した。
七、語らざる者
二十分後、玄関に集まった後、マナから森での注意を聴き、四人は森へ向かった。森の入り口にたどり着くまでに見かけた村の人々は皆、汚らわしい物でも見るような目でエフォラたちを見ていた。そして、目 が合うと家の中に姿を隠し音を立てて扉を閉ざした。
(歓迎されないのは知ってたが...ここまで露骨にやるか?)
エフォラはそんなことを思いながら、マナの後ろを歩いていた。 マナとティアは堂々としたもので、村人達の態度を一切気にした様子はなかった。エフォラもなるべく気にしない振りをしようと努力してはみたが、どうしたって眉間にしわがよってしまうし、嫌悪感は間違いなく表情に出ていた。 この状況には、さすがのディックも嫌な空気を感じ取ったらしく背中を丸めて体を小さくしていた。キョ ロキョロと辺りを見回す姿は猫を警戒するネズミの様だった。 森の入り口に差し掛かったところで、エフォラはマナに聞いた。
「神聖な森なのに、我々のような者が入っても大丈夫なのですか?」
マナは、一度エフォラに振り返ったが、その後森の方に向き直って答えた。
「祭祀長の許可は得ています。」
エフォラは続けて質問した。
「他の村人からの反発があったのではないですか?」
マナはすぐには返事をしなかった。その沈黙が肯定を意味していることをエフォラは知っていた。
短い沈黙の後、マナは口を開いた。
「......それでも」
エフォラは次の言葉を待った。
マナはエフォラの方を向いた。
「他に頼める人もいませんから。」
マナは微笑んでいた。
「行きましょう。」
村の外から来た三人に声をかけ、マナは森に入っていった。 ティアがマナの後に続き、その後ろにエフォラ。最後に、森に入るのは気が進まないディックが心を決めて、森に入っていった。 村人達の突き刺さるような冷たい視線は、森の入り口までは痛いほど感じたが、森に入ってしまうと嘘 の様に消えてしまった。
森なんてどこも同じだろうと考えていたエフォラだったが、一歩足を踏み込んだ瞬間にその考えを改めることになった。 一見すると、やはりどこにでもある森のようだし、実際「ここが神聖な森ですよ」といきなり見せられたならば、とても信じられなかっただろう。ただの草木の茂る豊かな森だ。だが、それがこの土地に似つかわしくない。 村の中も含めて、森の外は閑散としていた。馬車から降りて歩いた道すがら見た生き物は皆、ひっそりと縮こまって生きていた。こんな生命力にあふれた植物は見ていない。 神々がいるから、この森は豊かなのだ。と言われれば、信じる人間は信じるだろう。生憎エフォラは、そういったことに興味がないため神がどうだとは思わないが、特別な森であることには納得した。
「どうってことない、普通の森でしょう?」
森に入って少し歩いたところで、マナが口を開いた。
「いえ、この辺りの土地では考えられないほど豊かな森です。そういう意味では、少し変わっていると思います。」
エフォラは思ったままのことを言葉にしただけだったのだが、マナは少し驚いたようだった。
「確かに...言われて見ればそうですね。こういうものだと思っていたから気づきませんでした。」
なんとなく、肩透かしをくらったような気分で、エフォラは苦笑いを浮かべた。
「そうですか...」
「エフォラさんは、ご兄弟は?」
マナの唐突な問いに、ティアが一瞬反応したのには気づいたが、エフォラは気にせず答えた。
「いえ、おりません。」
本当は、いたのか、いなかったのか覚えていないのだが、正直に話すのも面倒なので、エフォラはこの質問には「いない」と答えることにしている。 ティアが、少し申し訳なさそうにエフォラを見ていた。ティアには戦争で家族を亡くして国の施設で育ったと話している。
「ディックさんは?」
そんなティアの様子には気づかなかったらしく、マナはディックにも同じ質問を投げかけた。
「自分は.........弟がいましたが、病気で生まれてすぐに亡くなりました...」
ディックの答えに、全員が少し気まずい空気になった。
「あ、でも、自分もまだ小さかったのでよく覚えていませんし、あまり実感として沸かないというか、なん というか...」
珍しく空気を察し、あわてて後を続けてみたが、あまり効果はなかった。
「ディックさんは、少し私と似ているのかもしれませんね。」
マナは一つ息を吐いて、虚空を見上げた。
「森に入るとね、ユナのことを思い出すんですよ。小さい頃は、よく二人で一緒に森に入っていたから...」
「よくおじさんに怒られたって言ってたわよね。」
「でも、ユナと一緒なら大丈夫だったもの。」
ティアの懐かしむような言い方で、マナは昔に戻った気分になって、少し子供っぽく笑った。
「森に入る前にも説明しましたけど、この森はかなり入り組んでいて、広さもあるので慣れない人だけで歩くと迷ってしまうんです。当然、子供だけで入るなんて絶対にダメだと親から言われて育ちます。」
「はあ...」
エフォラは特に興味もなかったのだが、自分達に話しているらしいので、とりあえず相槌を打った。
「でも、子供がそれを守るわけもなく...少し大きくなると度胸試しに大体の子は子供だけで森に入って迷子になります。森の浅いところまでしか行けないので大人たちで探せば見つかるんですけどね。」
マナはそこで一呼吸置いた。マナの後ろを歩くエフォラからは表情は見えないが、おそらく昔を思い出して懐かしんでいるのだろう。
「ユナは絶対に迷わなかった。行きたいところにはどこでも行けたし、帰ってくるときも、まっすぐに村に帰ってこれた。大人の知らないような野苺のなっている場所や花畑も知っていた。」
マナは一気に話して、また少しだけ間を置いた。懐かしさと、悔しさも少し混ざっているからかもしれない。妹を守れなかったという悔しさ。
「ある日、ユナが森から女の人が出て行くのを見たと言いました。」
話の流れが変わってきたことにエフォラは気づきながら、黙って話を聞いていた。ずっと誰かに話したかっ たのかもしれない。そう思ったからだ。 ティアとディックもそう思ったのか、二人も黙って歩きながら聞いていた。
「爆弾が落とされて町が一つなくなった事が村に伝わったのは、それから一週間経ってからでした。それから...戦争は激しさを増し、ユナは軍に連れて行かれた。」
エフォラは話はこれで終わりかと思ったのだが、マナはまだ話し続けた。
「あの当時はわからなかったけど、今思うと、ユナだけが本当の神の御声を聴く者だったんだと思います。 森の野苺や花畑をどうして知ってるのか聴いたとき、ユナは『男の人から聴いた』と言っていました。」
シュアとリュアだったか、創造を司る男性神と破壊を司る女性神。そんな話だったな、とエフォラは記憶の糸をたどって思い出していた。
「森が広がり始めたのも、その頃からだったし...そう思うと辻褄が合う。」
ディックは感心したように頷いていた。それを傍目に、エフォラは一つ疑問を口にする。
「しかし、森の拡大は止まったのでは?」
「ユナがリュア神に森へお戻りになるよう取り計らってくれたのだと、私は信じています。」
(なるほどね。辻褄はあう...か)
エフォラはそれ以上は何も追及しなかった。神のおかげだろうと、ただの偶然だろうと、そんなことはエ フォラにとってはどうでも良かった。 森の奥に進むに連れて、少しずつ緊張感を高め、何か動くものがないかと注意を払わなければならない。 そこからしばらく、会話らしい会話はなく、マナが道すがら森の説明をしてくれるだけだった。マナも 慣れた森だとは言え、ほとんど一週間ぶりであることと片目が見えなくなっているため、少し緊張している様ではあった。ただ、本人も言っていたように化け物が現れるかもしれないという恐怖は、あまり感じられなかった。 エフォラには、それが奇妙に見えた。おそらく、エフォラでなくとも奇妙に感じただろう。 マナはあの化け物に会えるのを待っているのではないだろうか、とエフォラは考えていた。ハッキリとした理由はないが、あまり雪の降らない地方に住む子供が冬になると雪を待ち望むように、マナは自分の片目を奪った化け物に会う機会を待ち望んでいるのではないだろうか。先ほどの、ユナと神々の話。そして、 村では化け物が神の使いではないかという噂。マナは、そこに戻らぬ妹が関係しているのではないかと考え、そこに生きているのかさえ分からない妹への糸口を見出そうとしているのかもしれない。 エフォラには、家族と呼べるものは今はもう存在しない。 記憶にある限りでも、物心ついて間もない頃なのでおぼろげでしかない。本当に、その記憶が正しいのかさえ定かではない。もしかすると、幼い頃に家族や親というのはきっとこんな感じだろうと想像したのを 現実と勘違いしているのかもしれない。 もし仮に、今、自分に家族がいたとして、その家族がいなくなって、死体が見つかるのと生死もわからぬ まま過ごすのと、どちらが辛いだろうか。ふとそんなことを考える。 前者は、そのときは間違いなく辛いに決まっている。しかし、時をかけて死を受け入れれば、その先が見えてくるだろう。逆に、後者は辛いには違いないが、どこかで生きているのではないかという期待が持てる。 いつか会えるのではないかと思える。しかし、時が経てば経つほど、その希望は磨り減っていくに違いない。それでも、死んだのだとは思いたくないのが人間なのではないかと思う。期待は心の隅に残り続けて、 現実との葛藤が続く。それとも割り切ってしまえるものだろうか?
そこまで考えて、エフォラは一人で小さく自分を嘲笑した。
意味がない。 考えたところで、他人の心の内などわかるわけもない。仮定したところで、自分にはそんな家族はいない のだ。
「どうした?」
ディックが怪訝な顔で、声をかけてきた。どうやら笑っているのを見られたらしい。
エフォラは、確かディックの両親は健在だったな、と思う。それもどうでもいいことだと思う。
「別に、何でもねぇよ。」
小声で答えて、辺りを見回す。特に怪しい気配はない。小鳥が飛んでいった音が聞こえたくらいだ。 それから、懐から時計を出して確認する。森に入ってから、きっかり一時間といったところか。 エフォラのため息と同時に、マナが立ち止まった。
見ると少し広い場所に出たようだった。
「ここです。皆が、あの化け物を良く見かけたといっていた場所は。」
「少し、この辺りを調べてみてもよろしいですか?」
エフォラの言葉に、マナは少し考えてから答えた。
「ここから目の届く範囲なら構いません。これ以上奥に入ると、迷ったとしても探せませんので、それだけは気をつけてください。それから...」
マナは一度下を向いて、それから三人に向けて話を続けた。
「私は、少し食料を調達するためにここを離れますが、この辺りで待っていて頂けますか?」
村の食料は減っている。少しでも、取れるときにとっておきたいのはエフォラにも分かっていた。
これにはティアが答える。
「ええ、構わないわ。」
「ただ、もしも、私がいない時に、あの化け物を見つけた場合は追わないでください。それから、襲ってきた場合は、来た道を逃げてください。この二つが守れない場合は、迷ってもこちらで探すことができなくなります。」
「わかったわ。」
三人が頷くのを確認して、マナは森の奥へ入っていった。
マナが姿を消してから、エフォラは周囲を観察し始めた。土の状態、草の茂り方、木の生え方と密度。あ る程度、空間を把握していないと、戦闘になったときに困る。 ある程度の広さがあるので、ディックの長剣もここでなら使えるだろう。 奥の木の密度を確認してから、ディックに告げる。
「おいディック。ここならいいけど、追いかけて森の中に入ったら腰の剣は抜くなよ。役に立たない上に危険だ。」
ぼけっと周囲を見渡していたディックは急に声をかけられて一瞬戸惑ったようだった。
「そんなことは分かっている!」 と、反発するように強く言ったが、エフォラは、分かっていなかったな、と内心思いながら「ならいい」と返した。 自警団なんて、所詮は街中か、その周辺の人間が整備した場所でしか戦うことはない。目的が目的なので、当然といえば当然なのだが、そのつもりで森の中で戦われると足手まといだ。
(俺がいればそれで事は済むのに、なんでこんな奴を雇ったんだか。) エフォラは、そう思ってティアを見た。街中での警護と道案内であれば、馬車を降りるときに置いてこればよかっただろうと思う。
(それとも、なんか別の意図でもあるのか?)
ティアは、注意深く辺りを見回していた。 聞いたところで「旅は大勢の方が楽しいじゃない」などと言うに決まっているので、わざわざ本人に聞く気はない。
「何故、マナさんは出会わなかったんでしょうね。」
ディックがふいに疑問を投げかけた。
「はぁ?」
エフォラのバカにしたような態度に若干腹は立ったようだったが、ディックはそれは無視して続けた。
「マナさんは頻繁に森に入っているわけでしょう?当然、ここにもよく来ていたはずです。それなのに、他の村人達はここで見かけて、マナさんは見なかったと言っている。不思議じゃないですか?一番出くわす 可能性が高いはずなのに...」
ディックの顔は真剣だったが、エフォラは眉間にしわを寄せてため息をついた。 言われてみると確かにそうなのだが、見なかったものは見なかったわけで、そこに理由などない。ただの偶然だ。
「じゃあ、何か?マナさんが見たのに見てないって嘘でもついてるのか?意味ないだろそれ。」
「そうじゃない!私は、化け物がマナさんに会いたくない理由が何かあるのではないかと思っただけだ!」
ディックの口調が強くなる。声も大きくなる。エフォラの視界の端で、ティアが額に手を当て、ため息をついていた。
「なんだよ、会いたくない理由って?」
「そ、それは...まだわからないが、きっと何かある、と、思う。」
最後の方は自信がなくなってきたのか、ディックは語尾を濁した。
「ったく...、まあ、それなら、マナさんもいなくなったことだし、そろそろ出てくるのかもなぁ」
エフォラが呆れ返ってディックに背を向けた時だった。
「マジかよ...」
エフォラの視界に、先ほどまでいなかったはずの異形の者が姿を現していた。
異変に気づいたディックと、ティアもエフォラの視線の先に目をやる。
「意外と当たりかもな。」
エフォラは、苦々しくディックに小声で言ってやった。
「勘はいい方だ。」
ディックも小声で返す。
三人の視線の先には例の化け物がいた。 それは、確かに化け物だった。マナから聞いたように、大きさは人間とほぼ同じ程度、灰色で手足の先に 大きな爪があり、長い髪のようなものが生えていて、目は大きくあごが細い。それから、とがって長い耳。 じっと座り込んで、赤くギドギドした目でこちらを凝視している。
距離は十メートル程度か。
「どうするの?」
いつの間にか、近くまで来ていたティアが聞いてきた。
「マナさんがいなきゃ追えない。刺激しないようにマナさんが帰ってくるのを待つしかない。」 「右腕に、確かに金属の輪のようなものがついてるな。」
ディックに言われて、見てみると、確かにそれらしいものがついている。エフォラの記憶に何か引っかか るものがあった。
誰も何も答えなかったが、ディックがそのまま続ける。
「何か書いてあるように見えるが...」
その言葉に、エフォラとティアは驚いた。
「見えるの?この距離で。」
確かに、視力がよければ見えなくもないかもしれない。しかし、どう見てもその腕輪は傷だらけだし汚れ ていた。文字が書いてあったとしても読むのは不可能なように思えた。
「自分は、自警団の中では一番視力がいいんです。」
ティアに聞かれて、少し自慢げにディックは答えた。
「何が書いてあるの?」
ティアの期待に応えようよ、ディックは目を細めた。
「うーん...ちょっと待ってくださいね。数字かな?0(ゼロ)、5(ゴ)、5(ゴ)...いや、違うな。」 ディックは五秒ほどしてから、答えをだした。
「わかった!ゼロ、」
「すみません。お待たせしました。」
言いかけたタイミングでマナが戻ってきた。
三人がマナに気を取られた瞬間に、化け物が動いた。
森の奥へと逃げようとする異形な生き物にマナもようやく気づいた。
「しまった!」
「マナ、追うわよ!」
「はい!」
ティアの声に応え、マナが化け物を追って駆け出した。
ティアがそれに続く、一瞬遅れてエフォラとディックも走り出した。
「おい!で、何て書いてあったんだよ。」
走りながら、エフォラはディックに問うた。ディックはせっかくの見せ場がなくなってしまったので、少し不機嫌なようだったが、素直に答えてくれた。
「0(ゼロ)、S(エス)、5(ゴ)、0(ゼロ)、だ。ゼロかオーかは自信ないけどな。あと、S(エス)はバツで消されたみたいになってた。」
瞬間、エフォラの足が止まった。
「おい!なんで急に止まるんだ!ティアさん達が先に行ってしまうだろう!」
驚いたディックも数歩先で足を止める。
「それは、間違いないのか?」
「当たり前だろ、化け物を追ってるんだから」
「そっちじゃねぇ!書いてあった文字はそれで間違いないのか?!」
エフォラの気迫に圧倒されて、ディックは一歩後方へ下がった。
「あ、ああ。間違いない。」
(どういう...ことだ?)
エフォラは手近にあった木の幹を殴りつけた。 「くそッ!意味が分からん。」
エフォラの口から出た言葉に、ディックは「それはこっちの台詞だ」と思った。
「追わないと...」
ディックが言ってみたが、エフォラは何か考え込んでしまっていて声は届いていないようだった。 いっそ置いていくかとも考えたが、そこまで非情にもなれず、かといってティアとマナのことは心配だっ た。 その上、このままでは森で迷う危険性があることもディックは分かっていたし、二人の姿を見失った今、逆 に追いかけるのも既に困難な状況にあることはかなり絶望的だった。
困った。 ティアとマナが、二人が付いてきていないことに気づいて戻ってきてくれないと、どうもこの腐れ特殊派遣員とこの森でのたれ死ぬしかないのかもしれない。 しかし、エフォラが何故急に追うのを止めてしまったのかが分からない。自分は、化け物の腕輪に書いてあった文字を伝えただけである。その文字に何か意味があったのかというと、ディックにはとても意味があるようには思えなかった。 何かの管理番号かもしれない。本当に意味のない文字かもしれない。その程度の文字でしかなかった。 とすると、自分の知らない何かを、エフォラは知っているのかもしれない。もしくは、ただ錯乱しているだ けかもしれない。 口元に手を当てて、ブツブツと考えているエフォラを横目に、ティアとマナが去った方向を見ながらディッ クはため息をついた。
と、木々の間からティアとマナの姿が一瞬見えた。続いて、ティアの声がした。
「エフォラー!ディックー!いたら返事しなさーい!」
「エフォラさーん!ディックさーん!」
マナの声もする。
ディックはほっと胸をなでおろし、手を振りながら声を上げた。
「ティアさーん!マナさーん!こっちです!こっち!」
大して長い時間でもなかったのだが、ディックはようやく合流できたと喜んでいた。マナは心配そうな顔をしていたが、ティアは完全に怒っていた。
「ちょっと、なんで男が二人もそろって付いてきてないのよ!途中で追うの止めなきゃならなくなったじゃない!」
「まあまあ、ティア落ち着いて...一応合流できたわけだし。今日は様子見だったんだから...」
マナがなだめようと頑張っているが、あまり効果はなかった。
「申し訳ありません。しかし、エフォラが急に...」
ディックとしては、自分は悪くないのだからそこは理解して欲しかった。
「何?また喧嘩したの?」
しかし、ティアにはそうは受け取ってもらえなかったようだ。
「い、いえ...そうではなく」
「おいティア」
ディックの言葉を遮って、エフォラが口を開いた。
「何?」
エフォラの尋常ならざる様子に、ティアは怪訝な顔をしていた。エフォラが一歩ティアに詰め寄る。
「どういうことだ?説明しろ。」
「何を?」
「お前、何か知ってんだろ。」
「だから何を?何のこと話してるのか分からないんだけど」
ティアは強い姿勢でエフォラに向かった。
「とぼけてんじゃねぇぞ!」
エフォラがティアの胸倉をつかみ上げる。
「おい!」
「ちょっと!」
マナとディックが止めにかかろうとしたのをティアが手で制止した。
「何の話をしてるの?」
ティアとエフォラは睨み合ったまま動かない。
「あれは...」
エフォラが言いかけて、一旦言葉を止める。そして下唇を咬む。少し血がにじんだ。
「『人間』だろうが」
エフォラ以外の全員が凍りついた。
「え?」
マナが小さな疑問符を投げかけたが、誰も答えない。
十分な沈黙の後、ティアが口を開いた。
「そんなわけないじゃない。」
ティアの声は冷静だった。
「あれは、『化け物』よ。」
ティアの顔から表情が消えていくのをディックは見ていた。
「それが納得できないなら、どうして、あれが人間だと思うのか説明しなさい。」
エフォラの顔に僅かに戸惑いが浮かんだのをティアは見逃さなかった。続いて、手の力が緩む。 「説明できないのなら、手を離して。」
エフォラは何か言おうと口を動かしかけたが、言葉にならず、言われるままにティアから手を離した。
ティアは胸元を手で払って、それからエフォラを見つめた。エフォラの両の手は、硬く握られていた。
「どうして話さないの?何か理由があったんじゃないの?」
エフォラは何も答えなかった。
「一旦、村に戻りましょう...話はそれからでもいいじゃない。ね?」
マナが優しく二人に声をかけた。
「ええ、そうしましょう。」
ティアは強い調子を少し弱めて返事をした。
エフォラが黙って頷いたので、四人はマナを先頭に村へと引き返した。
八、背く者
室内に立ち込める重たい沈黙に、ディックは耐えかねていた。 森から戻ったあと、マナは集めた食料を村の各家に配りに行くと言って三人を残し家を出た。残された 三人は一旦自室に戻ったのだが、数分後、ティアがエフォラとディックの部屋を訪れ今に至る。 室内には丸テーブルと、それをはさむように二脚の椅子が置かれている。そこにディックとティアは座っ ていた。椅子は木製で簡素だが、座り心地は悪くない。エフォラは部屋の奥側に置かれたベッドの上で方 膝を立てて壁に背を預けていた。森で言い争いをしていたときほどの険しい表情はしていないものの、鋭い視線を誰もいないドアの方に向けている。ティアと目をあわす気はないらしい。 ティアは逆に、冷たい目でエフォラを見ていた。こちらは、気迫も衰えていない。
「そろそろ、話してもらえない?」
沈黙を破ったのはティアだった。 ディックはゴクリと唾を飲み込んで、エフォラに視線を向ける。しかし、エフォラは口を堅く結んだまま、 微動だにしなかった。 さきほどより重みを増した沈黙が室内を満たしていくのを、ディックはヒシヒシと肌で感じていた。動かないエフォラにティアはため息をついた。そして足を組みなおす。
「黙ってるっていうことは、あれは『化け物』ということで同意してもらえたってことかしら?」
ティアの問いに、エフォラは答えなかった。
ディックは黙って、二人の様子を伺っていた。 何も話そうとしないエフォラにも困ったものだが、先ほどから一方的に圧力をかけるような態度のティアにも、ディックは違和感を感じていた。二人とも、出会ってから数日しか経っていない相手ではあるが、 どういった人物なのかは大体分かったつもりだった。
十分な沈黙の後、エフォラが口を開いた。
「俺は、降りる。」
短く、小さな声だったため、ディックは一瞬何を言ったのか理解できなかった。
ティアの眉がピクリと動いた。
「どういうこと?」
「これ以上、この件には手を貸さない。」
エフォラは、今度はハッキリと答えた。ようやく意味を理解したディックが立ち上がる。
「何を言ってるんだっ?!」
「ディック」
ティアは、エフォラに詰め寄ろうとしたディックを声で制し、次の問いを投げかけた。
「それは、職務放棄ということですか?エフォラ・リライ特殊派遣員。」
今度はエフォラの眉が動いた。そして、ティアへと鋭い視線を向ける。
「お前がいかに権力を持っていても、俺は俺が納得できないことはしない。」
「何に納得がいかないのですか?」
エフォラが強い姿勢に出たところで、ティアの態度は変わらなかった。
エフォラの手に力がこもる。
「あれは、人間だ。」
エフォラが本気で言っているということはディックにも分かっていた。しかし、あまりにも突拍子もない話で信じがたいのも事実だった。
「その理由を説明するように、先ほども言ったはずです。」
ティアの言葉はエフォラの視線以上に鋭く、エフォラに突き刺さったようだった。エフォラは、唇を噛み、
下を向く。
「とにかく、俺は降りる。」
そう言って、ゆっくりとベッドから降りて立ち上がり、エフォラは部屋を出て行こうとした。ディックがエフォラの肩に手をかけ止めようとしたが、ティアが無言で首を横に振ったので、ディックはその手を黙っ て下げるしかなかった。 エフォラが戸を開けて、部屋から一歩足を踏み出したそのとき、ティアが口を開いた。
「もし仮に」
エフォラの足が止まる。
「あれが人間だったとして、」
ティアの言葉にエフォラが振り返る。同時に、エフォラをまっすぐに見据えたティアと目が合った。
「あなたに何ができるの?」
エフォラは、何かを振り払うように顔を部屋の外へ向け、今度こそ本当に部屋を出て行った。ディックには、その直前にエフォラの口が小さく動いたように見えたが、声はなかったため、何を言おうとしたのかは わからなかった。 音を立てて乱暴に閉められた戸を、ティアとディックは見ていた。じっとりとした重い空気に、ディックはなす術もなく立ち尽くすしかなかった。 その空気には似合わない、ふう、と息を吐く音がした。ディックは音の方に目をやる。
「困っちゃったねぇ。」
見ると、眉をハの字にして少し眉間に皺を寄せたティアが笑いかけてきていた。ディックの心臓がはねた。
「そう、ですね。」
先ほどまでの厳しい態度とのギャップに戸惑いながら、ディックは椅子に腰掛けた。 そして、今自分がこの女性と部屋に二人きりだということを意識して、慣れない状況に焦る気持ちと、こんなときに不謹慎だという気持ちの間で、完全に思考力を失っていた。
「あの」
どうにも落ち着かないまま、ディックは気持ちを紛らわすためにティアに話しかけた。
「何?」
すっかりいつもの調子に戻っているティアに困惑しながら、ディックはチラチラとティアの様子を伺いつつ尋ねた。
「失礼かとは存じますが、何故、あのような者を連れてこられたのでしょうか?」
ティアは、目を瞬いてキョトンとしていた。
「エフォラのこと?」
「はい。その、特殊派遣員であればもっと優秀な方がいらっしゃると思うのですが...」
ディックの言葉を最後まで聞いて、それからティアは「ああ」と納得したようだった。天井を仰ぎ、少し考え込むと、天井を見たそのままの状態で呟くように答えた。
「誰しも間違えることはあるから、かな」
ディックは、分かるような分からないような面持ちで「はぁ」と応えるだけだった。
戸を閉めた直後、エフォラは行く場所がないことに気づいた。手段があれば、こんな村から出てサルウッドに帰りたいところではあるが、馬車はあと九日しないと来ない。歩いて町まで戻るには遠すぎる。かといって、初めて来た村のどこで時間を潰せるのかもわからない。この村に喫茶店があるとも思えないし、 あったとしても外の人間である自分は入れないか、居心地がすこぶる悪いに決まっている。しかし、まさ か今出たばかりの部屋に戻るわけにもいかない。 迷ったエフォラは、とりあえず外に出ることした。廊下を歩きながら、エフォラは一年前の事件のこと を思い出していた。 大陸北部で発掘された冷凍睡眠を施された少女と、その少女の命を狙う殺し屋。そして、少女を手中に 収めようとしていた組織。結局、少女以外の人間は死んだ。正確には殺された。ただ一人を除いて。 生き残ったのは少女を手中に収めようとしていた組織の一番若い男だった。何者かの指示により組織に関 わった人間を全員殺した。戦争の後片付けだと言っていた。そして、エフォラのことを「成功例」だと言っ た。あの施設から抜け出し、生き延びた成功例。 そのときは、そこまで気にはしなかったが今回の件でエフォラの中に一つの疑問が芽生えた。
「成功例」がいるなら、当然、「失敗例」もいるはずだ。
(「失敗例」は、どうなるんだ?)
「ユナは生きてる!私には分かる!!」
突然の大きな声にエフォラの思考は遮られた。声の方を見ると、戸を荒々しく閉める音とともにマナが祭祀長の部屋から出てきたところだった。マナは、拳を握り締めて怒りの形相でエフォラの方へ歩き出そうとした。そして、歩く方向に顔を向けたマナと、呆けているエフォラの視線がぶつかった。 エフォラの存在に気づいたマナは、「あ」と声を漏らし口元を押さえた。表情からは怒りは消え、代わりに 気まずさが表れる。
「恥ずかしいところをお見せしました。申し訳ありません。」
頭を下げるマナに、エフォラはどう返していいのかわからなかった。
「失礼いたします。」
ただ、そのまま去っていこうとするマナの目にうっすらと涙が浮かんでいることに気づいてしまった事は我ながら余計だったと思いながら、エフォラは次の言葉を発していた。頭の隅で、誰かが気づかない振りをすればいいのにといっている気がした。
「何かあったんですか?」
エフォラは、マナにそう声をかけてしまった。マナは驚いた顔をしていた。
「話したくなければ、いいですが...」
頭の隅にいるもう一人の自分が呆れ顔になるが、今更引き返せない。 マナは下を向き、小さな声で「ありがとうございます」と言ったのだが、エフォラにはそれが肯定か否定かが判断できず、ついには「ちょっと外でも歩きませんか?」と言うにまで至った。 マナが黙って頷くのを見て、エフォラはティアが今朝言ったことを思い出した。
(これじゃ軟派と変わりゃしないな...)
玄関へ向かって歩きながら、エフォラはそんなことを思っていた。 玄関を出ると、「村の外に出ます」と小さな声でマナが言った。エフォラは頷いて、マナの斜め後ろを歩き始めた。声を掛けてしまったときは後悔もしたが、行く場所のなかった自分には、むしろ都合 がいいのかもしれない。そう思い直して、エフォラは黙ってマナの後についていった。
「優しいんですね。」
少し歩いた頃に、マナが口を開いた。 エフォラが返答に戸惑っていると、マナが続ける。
「もっと事務的で冷たい方かと思っていました。」
泣いている人を完全に無視できるほど冷たく徹することのできる人など、そう多くはないだろうと思いな がら、エフォラは適当な答えを探す。
「こちらも色々ありまして、部屋を出てきたところでしたから。」
「そうでしたか...」
エフォラの答えに相槌を打って、マナはまた黙り込んだ。
エフォラも敢えて何か聞くつもりはなかったので、二人は黙って歩き続けた。
しばらく歩くと、一本の木が生えている小高い丘にたどり着いた。
マナは、丁度腰のあたりの高さに生えている枝に腰をかけた。
「色々って、あれが人間だって話ですか?」
時間が空いていたため、エフォラは一瞬マナが何の話をしているのかが分からなかった。しかし、すぐに 気づいて「ええ」と答えた。
マナはエフォラの瞳を覗き込むようにして、次の問いを投げかける。
「なぜ、あれが人間だとお思いになるのですか?」
エフォラは何故か背筋が凍るのを感じた。
ティアの威圧的な聞き方とは違う、本当に理由を知りたい顔がエフォラの目に映っていた。
九、信ずる者
マナの瞳は、黒というには色素が薄く、光を取り込むとその奥に赤が見えた。右目は包帯で隠れているため、左目がその分を補うように一層光を集めているように見える。少し潤んだ瞳と真剣な表情は健気にも思えた。
マナは、エフォラの答えをじっと待っていた。
「...話しても信じていただけないでしょう。」 「そんなことはありません!」
ようやく出たエフォラの言葉を即座に否定し、マナはエフォラの腕をつかんだ。つかまれたエフォラは、急な出来事に驚いて半歩引いてしまった。マナ自身も自分のしたことに驚いた様子で、慌てて手を離し「すみません」と小さく謝った。
エフォラは呼吸を整えた後、頭を振ると、マナから視線をそらした。
「自分でもまだ信じられない状態なので、ひとに話せるようなことではないんです。」
これでこの話は終わってもらおうと思っていた。
「話してくれませんか?どんなに突拍子もなくて信じられないことでも、なんでもいいんです。」
だが、マナにはそのつもりはなかった。マナは視線を地面に落としたが、エフォラを離した手を強く握りしめていた。その姿はどこか弱弱しく、出会ったときの気丈な村の祭祀長の娘ではなく、華奢な一人の女性であることを思わせた。 エフォラはマナの真剣さに押されはじめていた。同時に、そのあまりの真剣さに違和感が残る。
「...なぜ、そこまで?」
エフォラの問いに、マナは顔を上げて寂しげに微笑んだ。
「私も今、父に信じてもらえませんでしたから。」
マナと視線が合った。本当に寂しい笑顔だった。 胸を締め付けられるような感覚と同時に、エフォラは話すことを決意した。不意に、部屋を出る前にティ アに言われたことが頭をよぎったが、エフォラはそれを振り払って話し始めた。
「あれが右腕に着けていた腕輪を、見たことがあるんです。」
エフォラはポツポツと言葉を選らびながら話しだした。マナは黙って聞き、静かに頷いて話を促した。
「戦争中にある施設で、被検体に着けられていたものです。」
エフォラは、話しながら心の中で自分を皮肉っていた。被検体、いや実験体という方が正確だろう。出来るだけ他人事のように話そうとは思っていたのだが、腹の底に力が入るのは抑えられそうになかった。
「人体実験でした。表向きは孤児院でしたが、特殊能力者の子どもを使った、能力の増強、合成をしようとしていたようです。」
マナは一瞬眉を寄せたが、何も言わずに聞いていた。エフォラはそれを確認してから話を続けた。
「詳しいことはわかりませんが、戦争の終わりが見えた頃、その施設は火事で全焼しました。そこにいた人間も全員死亡しました。」
「全員ですか?」
マナの問いに、エフォラは少し考えてから出来る限り正確に答えた。
「はい。少なくとも、焼け跡や周辺で生存者は確認されていないと聞いています。ただし、関係資料もすべて焼失していたため、正確な施設にいた人数と焼死体の数の確認は行えなかったと思われます。」
おそらく、生きていたとしても殺されていただろう。エフォラは、言葉にはせず頭の中でそう付け加えた。
現場に来たのは、生きている人間を助けるためではない、全員が死んだかどうか確認に来たのだ。生存者はいてはいけない。そのために全て燃やしたのだから。
「生き残った子どももいたかもしれない...ということですか?」
マナの言葉に、エフォラは黙って頷いた。運良く火事の最中に逃げ出し、遠くへ逃げるか、隠れおおせた者だけが生残った。
「想像でしかありませんが、あれは施設の実験で形を変えてしまった人間ではないかと。」
「人間...」
マナは視線を落とし、包帯の上から右目に触れた。そのまま、小さな声で何度か「人間」と繰り返しす。 エフォラはその様子を黙って見ていた。簡単に信じられる話ではない。自分自身でさえ、その想像が正しいとは思いたくない。ティアに言われたことがもう一度頭をよぎった。もし仮に、本当にこの想像が正し かったとして、自分に何ができるのだろうか。この事実を人に話して、何になるのだろうか。 人間に戻すことなど出来るはずもない。結局、ティアが言うように殺すしかないのかもしれない。
「ティアが、人の心の声が聴こえてたの。知ってます?」
急に、視線を落としたままのマナが呟いた。エフォラは咄嗟に頷いて「...はぁ」とだけ答えた。
マナは顔を上げて、話を続けた。
「ユナも、聴こえたんです。いろんな人の声が。」
エフォラはやはり「はぁ」と応えるしかなかったが、マナはエフォラの目をまっすぐに見て、さらに話を続 けた。
「私も、聴こえるんです。」
その言葉に、エフォラはゾクリとした。エフォラの表情が強張ったのに気づき、マナは慌てて手を振った。
「あ、違います。私の場合は、誰でもというわけではなくユナのだけなんです。それも、ティアみたいにハッキリした言葉ではなく、なんとなく感じるというか...そのくらいのもので...」
「あぁ、そう...ですか。」
エフォラは完全には警戒を解かないまま、頷いた。
「本当です!本当にユナ以外の人のことは全くわからないんです。小さい頃に出来るかと思って頑張ってみたけど無理でした。」
必死で訴えるマナを、エフォラは何度も頷いて「大丈夫です。わかりました」となだめ、マナはようやく落 ち着いたようだった。
「...でも、ユナの声だけが聴こえるんです。ずっと、苦しそうな、悲しそうな声が。今も」
エフォラは、そういうことか。と理解した。そのことで、父親と口論していたのか、と。
「ユナは生きているんです。生きているのを、苦しんでいるのを、感じるんです。でも、父は信じてくれま せん。ユナは死んだのだから、もうそんなことを言うのはやめろと、ユナのことは考えるなと言われまし た。」
エフォラは黙って聞いていた。
「ティアにも、聴こえていると思ったんです。でも、もう人の声は聴こえなくなったと言われてしまって...」
マナのこの言葉に、エフォラは顔をしかめた。
「そんなはず...ありませんけど。」
「え?」
「つい先日も、それで女の子を一人助けてますよ。」
エフォラは言ってから、ふとティアが何故そんな嘘をついたのかが気になった。 マナは下を向き、小声で「そっか」とひとり呟いた。エフォラには、その口元が不気味に笑っているように見えた。
「つまらない話を聞いて下さってありがとうございました。少しスッキリしました。用事を思い出したので、帰りますね。」
マナは深く頭を下げると、走って村へと戻っていった。 エフォラは、ひとり丘に残され、しばし呆然としていた。話した内容と聞いた内容を、自分の中で紐解き ながらティアが嘘をついた理由を考えていく。 マナの異常なまでの真剣さ。ティアが頑なにエフォラの想像を否定する理由。 ユナは特殊能力者として軍に連れて行かれた。おそらく、エフォラがいた施設と同じか同様の施設だろう。その施設は全て焼失している。生き残っているものがエフォラ同様に存在する可能性がある。あれは、 その施設から逃げおおせて生き残った人間かもしれない。マナは未だにユナの声が聞こえている。ユナが生きていると信じている。
「っ!」
エフォラの中で、ようやく全てがつながった。
丘の上に生えた一本の木に、エフォラは拳をたたきつけて、マナを追って走り出した。
十、望む者
走りながら、エフォラは自分に問いかけていた。追いかけてどうするのか。きっと、すぐに追いつく。追いついたとして、マナに何を言ってどうしようというのか。 あれは彼女の妹なのだ。それは、ほぼ間違いない。変わり果てた姿で、それでも家族のもとへ帰ってき た。元の姿に戻ることも、元の心に戻ることも、おそらく不可能だ。無理な実験のために心身のバランスを崩し、ギリギリのところで今の状態を保っているに違いない。壊れたものは元には戻らない。下手な力を加えればバラバラになってしまうだろう、ほとんどの実験体がそうなったように。 同時にティアの言動を思い出す。ティアはおそらく、この件を知ったときから気づいていた。だからこそ、 あれは『化け物』だと言い続けたのだ。マナにあれが妹だと確信させないために。そして、元に戻せる可能性が限りなく零に近いことを理解し、殺すことを決断していた。 合理的だ。正しいとは言いたくない。しかし、実に合理的だ。 自分は、それしか方法がないと分かっている今現在ですら、それを行動に移す決断ができない。人を殺す決断など、戦争中でもない、自分の命が危険に晒されているわけでもない、まともな精神でそう簡単にできるわけがない。それをティアは決断している。それも、赤の他人ではなく、かつての友人を殺すという決断をしている。 だからずっと様子がおかしかったのだ。それなのに、自分の失敗でマナに確信させてしまった。 何の決断もできないまま、マナの背中が近づいてきた。それでも、せめて止めて落ち着かせなければならない。エフォラは手を伸ばし、マナの腕をつかんだ。
「待ってください!」
腕を引っ張られ、マナの動きが一瞬止まる。
「放してください。」
マナは鋭い目つきで振り返り、腕を振り払おうとした。マナの声は予想していたよりもずっと落ち着いていた。
「どこへ行くつもりですか?」
「...森に。」
エフォラの問いに、マナは顔を背けて答えた。
「何をしに?」
マナの体に力が入る。
「ユナを...助けないと...」
答えるというよりは、ひとり言をいうように、マナはつぶやいた。
「どうやって?」
答えが返ってこないことを分かった上で、エフォラは最後の問いを投げかけた。同時に、自分にも心の中で同じ問いかけをする。 どうやって。答えは知っている。でも、それを答えにしたくない。分かっている。理解している。それでも、それを信じたくないときにはどうすればいいのか。
「でも、助けないと...」
マナは震える声でつぶやいた。 エフォラはマナを見つめて、息を大きく吸い込んだ。受け入れなければならない。受け入れるより他はな い。
(受け入れろ。)
マナの両肩をつかみ、正面から見据える。
「不可能です。」
しっかりと発したつもりだったが、エフォラの声も震えていた。 マナは首を横に振る。
「方法はありません!元には戻りません!!」
今度はハッキリと言葉になった。マナはやはり首を横に振る。
「無理なんです!どうすることもできない...」
「嘘。嘘よ!ユナは...ユナはッ!!」
マナは、それ以上言葉に出来ず、その場に泣き崩れた。エフォラもそれ以上何も言えずに立ち尽くす。 ふと、人の気配を感じエフォラが顔を上げるとディックが怪訝な顔で立っていた。どうやら、マナの家の前まで来ていたらしい。
「エフォラ...何、やってるんだ?声が聞こえたから慌てて出てきたんだが...」
「悪い、ディック。説明は後でするから、マナさんを部屋まで連れて行ってあげてくれないか?」
ディックは黙って頷いて、マナに連れ添って家へ入って行った。 エフォラは、その後を歩きながら、自分の放った言葉を頭の中で反芻していた。不可能だ。方法はない。どうすることもできない。それを受け入れなければならない。
マナを部屋まで連れて行って、それからディックと二人で自室へ戻ると、エフォラの気持ちは幾分落ち着いたようだった。これからディックに説明しなければならないと思うと、気が重いが、先ほどのことを思えばどうということはない。 ところが、エフォラがひとつため息をつくと、ディックの方が先に話しかけてきた。
「そういえば、ティアさんには会わなかったか?」
「いいや、会ってない。なんでだ?」
エフォラの答えに、ディックは首をかしげる。 「そうか...じゃあどこかで入れ違ったのかな?お前を探しに出て行かれたんだが...」
「それ、いつの話だ?」
「お前が出て行ってから、割とすぐだけど。」
「すぐ?」
エフォラは思考をめぐらせた。そんなに急いで歩いた記憶はない。すぐなら追いついたはずだ。なのに追いつかなかった。自分とマナが話している様子だって見れたのではないだろうか。見ていたかもしれない。 見ていて追うのをやめたのだろうか。
エフォラは急に立ち上がり、ティアの部屋に向かった。
「お、おい!なんだよ急に!」
慌ててディックもその後を追う。
ティアの部屋の前で深呼吸をし、一応はノックをしてみる。
「そこティアさんの部屋だぞ。」
ディックの声は無視して、部屋の中から返答がないのを確認しドアを開ける。
「おいっ!」 ディックの制止はやはり無視して、部屋に入り、なかを見渡す。目当ての荷物を見つけると、若干気は引けたが中を確認した。
「こら!女性の部屋に勝手に入って荷物を見るなんて!」
ディックは自分の信念からなのか、部屋には踏み込まなかったが、エフォラはそれも気にしない。
「結構な重装備で俺を探しに行ったらしいな。」 「なんだって?」
ディックはキョトンとしていた。
「戦闘用の装備持ち出してるぞ。あいつ。」
続いたエフォラの言葉に表情が険しくなる。
「まさか...」
「追うぞ。」
エフォラは短く告げると自室へと向かった。
自室へつくと、エフォラの後を追いながらディックが疑問を投げかけた。
「でも、なんでティアさんがひとりで...おかしくないか?第一危険すぎる。」
エフォラは自分の荷物から必要なものを取り出していた。
「悪いが説明してやる時間はなくなった。さっさと準備しろ。」
「そんな...」
ディックは納得いかないようではあったが、時間がないことは理解し黙って準備にとりかかった。 エフォラは自分の仕度が完了すると、ディックの作業が終わるのを待たずに部屋を出た。ディックが何か声をかけてきたようだったが、それも無視した。一刻も早くティアを追わなければならない。 部屋を出ると目の前にマナがいた。 エフォラを真剣なまなざしで見つめるその目は、まだ赤くはれたままだった。涙を拭いた跡はあるが、も う泣いてはいない。最初に出会ったときの強い眼差しがマナの瞳に戻っていた。 エフォラはその目を見詰め返すこともできず、目をそらした。
「ティアが森にひとりで行ったようなので、追います。」
マナに状況を伝え、再び追ってどうするのかという疑問が心に浮かんだ。追ってティアを止めるのだろうか。それとも、ティアを援護するのだろうか。
「先導します。」
マナは落ち着いた声で進言した。
「森を闇雲に探しても迷うだけです。私がいた方が確実に見つけられます。」
エフォラは驚いてマナの顔を見た。先ほどとかわらぬ強い眼差しに決意がにじんでいる。
「ティアはユナの声を追っています。相手がユナなら同じことが私にもできます。」
エフォラは悩んだ。ティアを追うにはマナの力が必要なのは間違いなかった。しかし、マナは何を決意し たのかが問題だ。それによってはティアや自分を危険に曝すことになる。 決めかねているうちに、ディックが準備を終えて部屋から出てきた。
「あ、マナさん。もう大丈夫なんですか?」
状況を分かっていないディックは、いつものトーンでマナに話しかけた。マナは黙って頷く。
「急で申し訳ありませんが、ティアさんを追って森に入らなければならないので案内をお願いします。」
ディックの言葉に、エフォラはディックを睨みつけたがディックは気づかなかった。マナは、エフォラの 方を一瞬見たが、ディックに向き直り頷いた。
「わかりました。行きましょう。」
一行はマナを先頭に走り出した。ディックが小声でエフォラに話しかける。
「何やってるんだ?急いでるんだろ?」
エフォラは何も答えずに、マナの背中を見詰めていた。何を決意したのか。ティアに追いついてどうするつもりなのか。マナへの疑問は、そのまま自分自身への疑問となってエフォラの中でぐるぐると渦巻いていた。
森に入ると、マナは迷うことなく一つの方向へ進んでいった。最初に入った道とは違うが、森の奥へ奥へと進んでいく。エフォラはマナの背中を見ながら考えていた。きっとユナの声が聞こえているのだろう。 苦しい声なのか、悲しい声なのか、怒りか混乱か、それはエフォラにはわからない。マナは、その苦しみか らユナを解放することを考えているのだろうか。それとも、ただ生き続けさせることを考えているのだろうか。そして自分は、他にどうすることもできないのだと自分に言い聞かせてティアに加担するのだろう か。もう時間がない、決断しなければならない。
「いた!」
マナが叫ぶと同時に、開けた空間に出た。そこにティアと、あの異形の生物がいた。 既に戦闘を始めてから時間が経過してたらしく、一本の杖を構えたティアの衣服は汚れ、いくつか掠り傷を負っていた。一方相手はティアが放ったナイフが数本突き刺さった状態で、こちらのほうがダメージは大きいようだった。ティアは、マナの声に一瞬こちらに視線を向けたが、すぐに異形の生物へと注意を戻した。異形の生物はこちらをじっと見ている。エフォラは戦況を理解すると自分の武器に手を伸ばした。 基本的に殺傷能力の低い武器しか持たないティアにとって、とどめの一撃を与えるのは難しいはずだ。ただし、あの杖だけは使いようによっては十分に人を殺せる鈍器だということをエフォラは知っていた。それがこの異形の生き物にどこまで通用するかはわからないが、相当な痛手になることは間違いない。ナイフに麻酔でも塗ってあればティアが十分に有利だ。エフォラは習慣的に構えはしたものの、武器を手にすることをためらっていた。横ではディックが刀剣を抜き放ち加勢に入ろうと走り出していた。マナは動かない。
「帰りなさい!」
敵に相対したままティアが叫んだ。自分に対することかと思いディックの足が止まった。
「マナには辛いだけでしょう。」
続いたティアの言葉にマナもエフォラも応えられなかった。ディックは自分に対する言葉でないことは理解したが戸惑い、マナを見た。
「私は...」
マナが何か言おうとしたその瞬間、異形の生物が動いた。 ティアとの間合いを詰め、巨大な鋭い爪を振り上げる。ディックがほぼ同時に走り出した。ティアは一瞬 反応が遅れたことを後悔した。後ろに跳んだが間に合わない。ディックがティアと敵の間に入り込む。
(ダメだ!)
ディックだけでは振る下ろされる爪の勢いを止めきれない。エフォラは腕を伸ばした。心の中で「届け」と念じて、異形の生き物に意識を集中させる。 異形の生き物の上に重い空気が圧し掛かり、前進の速度が鈍くなる。振り下ろした爪の重心がやや予想より後退したことにより、ディックは爪の勢いに耐え切った。そのまま動きの鈍くなった爪を弾いて、その返しで敵に切りかかる。異形の生き物は後ろに跳ぼうとするが、その動きも見えない重圧のために思うようにいかなかった。切りかかったディックも異様な重みに困惑し、剣を手放し後ろに跳ぶ。
「なんだ?!」
「バカ野郎!さっさと拾え!」
困惑したディックにエフォラが罵声を浴びせるが、ディックが動くより先にティアが動いていた。 いつのまにか杖を置いていたティアはディックの落とした剣を拾うと、両手で振り上げ、動きをとれずに いる敵に振り下ろした。
「ユナ!!」
マナの悲痛な叫び。いつもより重みを増して振り下ろされた剣はやたらに遅く動くように見えた。
エフォラの脳裏に藍色の髪の少女が浮かぶ。そうだ。夢を見た。マナに良く似た藍色の髪の少女だった。あの施設にいたときに出会ったわけではない。そんな記憶はない。ただ、夢をみたのだ。ユナのあの頃の姿を夢で見たのだ。彼女は微笑んでいた。あれは何か大切なものを諦めたからだったのだろうか。それとも、全てを受け入れて未来を見据えていたのだろうか。
そして、異形の生き物の最期の慟哭が耳を劈いた。
「ユナ...ユナ?」
マナが動かなくなった異形の生き物のそばへゆっくりと歩み寄る。返り血を浴びたティアはその場に座り込み、力なくうなだれていた。ディックは何が起こったのか理解できずに立ち尽くしていた。 エフォラは誰に掛ける言葉もなく、前へと伸ばしていた腕を下ろし、ユナの名を呼び続けるマナを眺めていた。
ティアが剣を杖代わりにゆっくりと立ち上がり、ディックに剣を返した。
「ありがとう」
ディックは困惑したまま、剣を黙って受けとった。
「エフォラも、ありがとう」
ティアに声を掛けられ、エフォラは顔を背けた。
「俺は認めない。絶対に正しくなんかない。」
自分もそれに加担したと認識しながら、エフォラはそう言い返した。
「うん。ありがとう。」
ティアはもう一度礼を言った。 マナのユナを呼ぶ声は、嗚咽にかわり、雨が降り始めた。 森はユナの死を悲しむように、ただ静まり返っていた。
十一、旅立つ者 帰る者
その日、雨がやむことはなかった。雨の中、ティアは森にひとり立っていた。何故か自分の行こうとする道だけが晴れている。そして、道の先にユナがいた。 一緒に遊んだあの頃のユナが手を振っている。呼んでいるのではないようだ。表情ははっきりと見えな いが穏やかなようだ。ティアには何故手を振っているのかがわからなかった。帰り道はこっちなのに。 ティアが不思議に思ってじっと見ていると、ユナはそのまま森の奥へ消えていった。
「ありがとう」
いつもの耳からでない声がティアに聞こえた。ユナの声だ。
その意味もティアにはわからなかった。
ぼんやりとした頭の中で、雨音だけが続いている。
晴れ間が消えて、自分の立っている場所にも雨が降り出した。
(帰らなきゃ)
ティアは道を引き返そうとして、踵を返す。
その瞬間に目が覚めた。 真っ暗な部屋の中で、ティアの目にうっすらと天井が映る。雨音は変わらず続いている。夢だったことを理解するのに数秒を要し、それから、自嘲気味に笑った。 自分に都合のいい夢を見たものだ。殺した相手が「ありがとう」と言うなんて。 心のどこかで、ユナが最期の別れを言いに来てくれたんだと思いたがっている自分がいる。それが嫌で、 ティアは自分で自分の頬をつねった。 小さな痛みを感じながら、ユナはどんなに痛かっただろうと想像する。同時に剣を振り下ろした感触を思 い出す。
目尻から涙があふれ、耳へと流れていく。 殺したのだ。自分がユナを殺した。もう二度と帰ってはこない。 雨音以外は聴こえない。こんな静かな夜は初めてだった。
雨は次の日も止まなかった。 事の真相を知らされたディックは部屋で落ち込んでいた。あの後、今後村人が森に出入りすることを考えて、近くに穴を掘ってユナを埋めることにした。マナはユナから離れようとしなかったが、エフォラが なだめ、なんとか引き離した。ディックは穴を掘って、ユナを埋めた。 エフォラから話の詳細を聞き、あれが本当にかつて人間であり、マナの妹だったということの衝撃と、知らなかったのが自分だけだったというショックも加わって、しばらく頭の中が真っ白になった。一日経っ た今も信じられないが、皆がそうだというのだから受け入れるしかなかった。
「なぁ、エフォラ。」
ディックが不意に口を開いた。ほぼ一日ぶりに発した言葉だったため、エフォラは驚いて顔を上げ、とっ さに応えられなかった。
「やっぱり、ちゃんとお墓作りに行かないか?」
エフォラは一瞬何のことか分からなかったが、すぐに理解した。
「ああ...そうだな。」
本当は一緒に行った方がいいのだろうが、マナとティアを誘うのは気が引けたので、ディックとエフォラは二人で森に向かった。
「道、ちゃんと覚えてるか?」
エフォラに問われて、ディックは頷いた。
「一度通った道は忘れない。」
二人はそれ以上の会話はしなかった。雨の中、ただ黙々と歩き、黙々と穴を掘りなおし、ユナを綺麗に埋めなおして、墓石になりそうな石を探した。
全ての作業を終え、二人で墓の前に立つ。
「私は、純然たる正義というものが存在すると信じていた。」
ディックがつぶやいた。エフォラは応えずに聞いていた。
「世の中には正義と悪があって、戦争も良い国と悪い国が戦っていて、何事にも正しい行いがあって、必ず 正解がひとつ存在すると思っていた。」
エフォラはやはり何も応えずに聞いていた。
「...よく分からなくなった。」
ディックは空を仰いだ。静かな雨が降り続いている。不思議と冷たくはない。あたたかい雨だ。
「考えれば考えるほど分からなくなる。これは正しかったのか?」
「お前は知らなかったんだから、仕方ねぇよ。」
やっと口を開いたエフォラにディックは問いかける。
「なら、お前は正しかったのか?ティアさんは正しかったのか?」
エフォラは唇を噛んだ。ディックの問いに腹が立つのと同時に、歯痒さも残る。
「正しくねぇよ。誰も。」
「でも、他に方法はなかったんだろ?」
「そんなのは......正当化したいやつの言い訳だ。」
「そうか...」
ディックは再び考え込んだ。そして、もう一度口を開く。
「私は頭が悪いから難しいことはわからないが、ティアさんに死んで欲しくないから動いた。後悔はしていない。」
エフォラは何も言わず、墓の前を後にした。ディックはそれを少しの間後ろから眺めていた。 ティアがエフォラを連れてきた理由がなんとなく分かった気がして、ディックはその後を追いかけた。 雨はその後七日間降り続き、三人が帰る迎えの馬車が来る日にようやくあがった。マナはその間ほとんど部屋に籠もっていたため、三人と顔をあわせることはなかった。
「エフォラ、ディック。そろそろ出るわよ。」
ティアの声がしたので、エフォラとディックは荷物を持って部屋の外に出た。
「祭祀長は村の入り口でお待ちです。」
中年の女性が三人を呼ぶ。マナが部屋に籠っている間、食事の用意等をしてくれていた人だ。そして、三人はマナの残る家を後にした。 村の入り口のマナと会った辺りに祭祀長はひとりで待っていた。ティアは、森から帰り報告をしたときに祭祀長が深く頭を下げて礼を言ってくれたことを思い出す。本来なら自分がやらなければならなかった とも言っていた。 おそらく、薄々ユナだということに気づいていたのだろう。だが、自分は年老いて力もなくなってしまった。しかし、村の人間でやるとなれば、立場上マナが中核の一部を担うことになる。カイワウ祭祀長はそれだけは避けたかったのではないだろうか。ティアはそう考えていた。 形式的な挨拶を終え、三人は村を出た。マナのことが気がかりだったが、三人ともそのことには触れな かった。もう二度と会うことはないのかもしれない。そう思ったときだった。
「ティア!」
後ろから呼ばれてティアが振り返えると、マナが走って追いかけてきていた。 ティアが驚いて言葉のないまま目を丸くしているうちに、マナが追いついた。そして、ティアの手を両手 でしっかりと握った。
「ユナは、ありがとうって言ってた。ティアを責めないでって言ってた。それだけ、伝えないと...と思って。」
マナの顔は少し痩せこけたように見えた。しかし、目に光は宿っている。
「自分の中で気持ちの整理がつかなくて...ごめん。もっと早く言わないといけなかったのに。」 「ううん」
ティアは首を横に振った。
「だから、ティアも、もう自分のこと責めないで。」
ティアはマナの手を握り返した。
「ありがとう。マナ。」
強く、強く、握り返した。
来たときと同じ道をしばらく歩くと、自警団の馬車は既に到着していた。 その馬車に乗り町の自警団の本部へ戻ると、ティアは自警団の団長に協力してもらった礼を述べ、ディックとはそこで別れることになった。 ディックはしつこく一緒にセイメリアに付いていくことを請願したが、団長とティアの許可が下りなかったため河港での見送りまでとなった。 セイメリア行きの船に乗る前にエフォラはディックに握手を求めてみたが、「お前のことは嫌いだ」と言われたため肩をすくめて手を引っ込めた。一方ティアに対しては何度も「お気をつけて」と言い頭を下げて「またいらっしゃることがあればお供します」と言っていた。 船が出てから、ティアとエフォラは甲板で遠ざかる河港を眺めていた。
「俺、思ったんだけどさ。」
エフォラが先に口を開く。
「何?」
ティアは髪を耳に掛けなおしてエフォラの方を向いた。
「あいつ、お前のこと好きだったんじゃねぇの?」
「それは恋愛対象としてってことかしら?」
エフォラが頷くと、ティアは小さく笑った。
「エフォラにしては鋭いじゃない。」
エフォラは顔をしかめる。
「それじゃ俺が鈍いみたいじゃねぇか。」
ティアはまた笑った。
「だってそうじゃない。」
エフォラは少し腹を立てて、そっぽを向いた。 「まあ、いいけどよ。気づいてたんなら連れて行ってやりゃいいのに。」
エフォラの言葉にティアは盛大に笑った。大爆笑だ。
「何だよ!何で笑ってんだよっ!」
エフォラの抗議の声も無視してティアは笑い続けた。しばらく笑い続けて、少し落ち着くとようやくエフォラに応える。
「気づいてたから、連れて行かないのよ。」
エフォラは釈然としないようだったが、ティアは気にせず話を切り替えた。
「そんなことより、もっと大事な話があるんだけど。」
「?」
きょとんとしているエフォラの目をティアはじっと見つめた。ティアの顔から笑顔が消え、鋭い視線になる。
「あなた、ユナと同じ場所にいたでしょ。」
エフォラの表情が曇ったのをティアは見逃さなかった。畳み掛けるように次の言葉を続ける。
「まったく同じ場所じゃなくとも、同様の施設にいた。そうでしょう?」
エフォラは応えないが、そのまま続ける。
「ユナが腕に付けていた腕輪。あなたを焼き場から引っ張りだしたとき、あなたも付けてたのを覚えてるわ。」
「あれは...」
エフォラは何か応えようとしたが、言葉が続かなかった。
「あなた前に能力者はひとり一つの能力しか持たないって言ってたけど、あなたは二つ持ってるわよね?前に見せてもらってた光を発生させる能力と、今回使っていた部分的に重さが増す能力。」
逃げ場を求めて、エフォラの視線が泳いでいるのを確認して、ティアはさらに続けた。
「セイメリアに着くまで、充分時間はあります。じっくり話を聞かせてもらいますよ、エフォラ・リライ特殊派遣員。」
音のないざわめきが聴こえる。船に乗っている人々の思い、感情。それに混じって、エフォラの戸惑いと 焦りも感じる。 悲しい叫びは聴こえなくなった。自分には助けられなかった。それでも、次の悲しい叫び声は助けられ るように、悲しい叫び声を少しでも減らすように、自分に出来る精一杯をしよう。 船はそのうち紫海に出る。かつて死海と呼ばれた海だ。そして、その向こうにサルウッドはある。
第2部 〜記憶の楔〜 完
第3部へ続く…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?