不気味の谷



その女性が新道ロボット店を訪れたのは、九月の第一水曜日午前十時だった。月曜日と火曜日を定休日としているため、週の頭の開店前の作業を終えて店を開けた直後だった。三年前に亡き父の跡を継ぎ店長に なった新道孝太郎は、受付の呼び出し音を聞いて店の奥で手を止めた。聞き慣れた電子音のグリーンスリーブスに作業の手を止められるのは嫌だが、受付もアルバイトも雇っていない個人商店なので仕方がない。
「はい」 とりあえず返事をして、三ヶ月に一度やってくるクレーマーの男性でない事を祈りながら受付に顔を出すと、そこには見た事のない細身の中年女性が待っていた。喪服のような真っ黒なワンピースを着て、葬式帰りのような疲れた顔をしている。年は重ねているが、その憂いを含んだまなざしに、どこか色気を感じ させるような美しい女性だった。
「お待たせいたしました。ご新規のお客様ですね。」
新道は笑顔で応対し、新規顧客用の用紙を受付カウンターの引き出しから取り出した。
「どうぞそちらにおかけください」
カウンターのすぐ横にあるソファへと女性を促しながらカウンターの外へ出ると、女性は僅かに会釈してソファへと腰掛けた。その物腰の柔らかさから育ちの良さが伺える。 新道は「これは高額注文かもしれないな」と少しばかり期待しながら、女性の向かいに腰掛けた。
「どのようなご用件でしょうか?差し支えなければ、こちらにご記入をお願いいたします。」
言いながら先ほど取り出した用紙とボールペンを女性の前に丁寧に置く。女性は、やや考えた様子があったがすぐにペンを走らせ始めた。 新道は、それを確認してから「ちょっと失礼します」と言って、名刺とノートパソコンを取りに店の奥へ向かった。新規の顧客は久しぶりだ。最近はペットロボットか家政婦ロボットの定期検査と修理ばかりで、 新規はもちろん改修の注文も減っていた。どの顧客も父の代からの常連でロボットを大切に扱ってくれるのは非常に嬉しいことではあったが、若い店主としては少し張り合いのなさを感じていた。 最後に名刺を使ったのは昨年の四月だ。新規顧客の開拓をしようと近くの中小企業へ営業に回ったときだった。結局は空振りに終わり、ペラペラの名刺の替わりに重い落胆をもらって帰ってきた。ニュースで 言われている通り、ロボット需要も一段落ということなのだろう。ロボットバブル崩壊なんて言われる日が来るのも近いかもしれない。
「おかしいな、まだ残ってたはずだけど。」
 そんな事を考えながら名刺を探したが、いつもの場所に名刺はなかった。思わず独り言をつぶやいて、 どこに置いたのかと記憶を辿るが思い出せそうにない。とりあえず、机の引き出しや営業で使った鞄の中、 スーツの内ポケットも探したが見つからない。
「もう年かなあ…」
三十八にして物忘れとは考えたくもないが、これも声にだして、ついでにため息を吐く。あまり待たせても悪いので名刺は諦め、新道はノートパソコンだけを引っ掴むと受付へ戻った。
受付に戻ると、女性はまだ用紙に記入している最中だった。新道が戻ってきたので、一度手を止めて顔を上げる。
「申し訳ありません。名刺を切らしておりまして…店長の新道と申します。」
新道は愛想笑いを浮かべながら一礼し、ノートパソコンをローテーブルの上に置くと、用紙をちらりと盗み見た。女性は、用紙の下半分「今回はどのようなご用件でしょうか?」という質問に取りかかったところだった。選択肢の「ヒト型ロボット(アンドロイド)(家政婦タイプ、看護・介護タイプ、その他)」の「その他」に丸がついていた。
「四谷と申します。よろしくお願い致します。」
女性は一度立ち上がると、静かな声で自らの名前を告げて軽く頭を下げた。
「よろしくお願い致します。どうぞ、続けてください。」
新道が礼を返し女性に記入を促すと、二人は同時にソファに腰を下ろした。

女性の記入した内容は次のようなものだった。 四谷美鳥(よつやみどり)、四十六歳。主婦。新道は、自分と同年代だと思い込んでいたので、彼女の書いた年齢が予想より高かった事に内心驚いていた。新道ロボット店からは少し離れた住宅地に住んでいるらしい。新道の記憶では、大きな一戸建てが立ち並ぶ高級住宅地だ。この店についてはインターネットで知ったらしい。最寄りのロボット店がここだったのだろう。ヒト型ロボットを希望しているようだが、肝心の「その他の場合は、どのようなロボットをご要望かお書きください。」の欄が空白のままだった。 新道は、ノートパソコンに新規注文を記録する準備を終えると、お茶を出していなかった事を思い出 した。
「お茶も出さずに失礼いたしました。今お持ちしますので少々お待ちください。」
言って立ち上がると、再び店の奥へと戻り、父の代から使い続けている銘柄の茶葉を急須に入れ、電気ポッ トからお湯を注いだ。それから湯のみを二つ食器棚から出して一度お湯を入れて温める。父は、こんな所にだけ変に拘る人間だった。それが作法として正しいのかどうかは知らないが、とにかくこの手順で自分でやらないと気が済まないらしかった。父が亡くなった今、それに従う理由もないのだが、新道は父のやり方で続けていた。 お茶を淹れてソファへ戻ると、四谷夫人はペンを握ったまま、なかなか続きを書き進められずにいた。新道はお茶を四谷夫人と自分の席にそれぞれ置いて、ようやく落ち着いてソファに座り込んだ。
「書ける所までで結構ですよ。詳しくはお話を伺いますので。」
新道の言葉に四谷夫人は黙ってペンを置き、用紙を新道の方へ向けた。
「拝見いたします。」
新道はざっと一読したが、やはり肝心の欄は空白のままだった。
「若葉が丘というと、立派なお宅ばかりですよね。」
まずは気持ちをほぐそうと、新道は世間話を始めた。
「そうですね、周りは本当に立派なお宅ばかりで…新道さんも店長さんですし、きっと立派なお宅にお住まいなのでしょう?」
四谷夫人は新道の話に笑顔で返してくれたが、それでも表情から陰りが消える事はなかった。
「いえいえ、私は店長といっても他に店員もいませんし、ここの二階に住んでるんですよ。」
 新道が笑って答えると、四谷夫人も「そうでしたか」とくすくすと笑ったので、 新道は、世間話はこの辺 りにして本題に入る事にした。
「本日はヒト型のロボットをお求めということでよろしいですね?」
「はい」
 「どのようなロボットをお求めですか?具体的なイメージがなければ、例えば、気持ちが和むとか、楽しい とか、雰囲気でも結構ですよ。」
途端に四谷夫人は下を向いて黙り込んでしまった。少し待ったが中々言葉が出てこないようで、うつむい たまま膝の上の両手に力が入っているのが分かった。
「お話相手や、チェス、ゴルフの相手のような注文も以前にはありましたし、奇抜なものですと座敷童とい うのもありましたが…少し違いますか?」
何か引き出せないものかと色々言葉にしてみるが、夫人の心にひっかかる物はなかったらしく黙り込んだ ままだった。もう暫く待ったが、やはり夫人の口は動かない。 ふと、言いにくい事、他言して欲しくないような要望かもしれないぞ。と思い、少し声のトーンを落とす。
 「ご注文内容についての秘密は守ります。作業も私一人ですし、私以外の人間にその内容を知られること はありませんよ。」
その言葉に、四谷夫人は顔を上げた。 新道は「当たりだ」と思うと同時に、少し厄介だなとも思った。秘密にしないといけないような内容というのは、後々面倒な場合がある。最悪、犯罪がらみという事も考えられるからだ。とはいえ、本人だけが気にしていて、たいした秘密でもなんでもない場合もある。それでも本人が気にしている以上は迂闊に口外できないし、その情報は漏れないように気をつけなければならない。どちらにしても厄介だ。
「夫を」
夫人の声は僅かだが震えていた。一度言葉に詰まり、言い直す。
「行方不明になった夫のロボットを作って頂きたいのです。」

新道は、予想していなかった答えに戸惑いを隠せなかった。確かに、そういった話や依頼はないこともない。ペットなどでは、割によくある話でもある。どこかへいってしまったり、死んでしまった犬や猫の代わりに、そのペットそっくりのロボットを作って欲しいという人はいる。だが、対象が人間となると話は変わってくる。亡くなった配偶者や子供のロボットを作って欲しいという人は、いるにはいるが行方不明の段階でロボットを作って欲しいという人は初めてだった。 新道の困惑をよそに、夫人は鞄から外付けのハードディスクを取り出した。
「ここに、夫の映像があります。これを参考に作っていただけませんか?」
 夫人の表情は真剣だった。新道は、ハードディスクと夫人を交互に見て、それから気まずそうに口を開いた。
「失礼ですが、お亡くなりになった訳ではなく、行方不明なんですよね?」
 「はい・・・でも、もうこれ以上あの人のいない生活なんて耐えられません。」
夫人は今にも泣きだしてしまいそうな顔をしていた。おそらく言う通りなのだろう。だから、こんなに疲れきった顔をしているのだ。新道にも、それは伝わっていた。しかし、新道はかぶりをふった。
「申し訳ありませんが、お受けする事はできません。見た目だけなら、旦那様にそっくりなロボットを作成することは出来ますが、振る舞いやしゃべり方、まして思考までは再現できかねます。」 「ですから、これを」
夫人がハードディスクを指したが、新道はもう一度かぶりをふった。
 「確かに、ここに収められている部分だけなら時間を頂ければ再現できます。しかし、記録した映像はその人の断片でしかありません。断片をつなぎ合わせて、それらしい物ができたとしても、完全にご本人と同じになる訳ではありません。下手に似ている分、違う部分が垣間見えたときに、ずっと共に生活してこら れた四谷様には気味悪く感じることになります。」
「大丈夫です。あの人がいないくらいなら、少しくらい違う部分が見えたとしても、似た何かにいて欲しい んです。」
懸命に訴える四谷夫人に、いたたまれない思いはあったが、新道は首を横に振った。
 「お受けいたしかねます。」
「お金ならいくらでも出します。どうか、どうか…」
すがるような夫人の瞳に涙が浮かんできた。
 「そうはおっしゃいますが…ロボットですから歳もとらないんですよ?」
「どうか…どうか、お願いいたします。これ以上耐えられないんです。」
新道の心は揺れていた。作るべきではないことは明らかだ。夫人は必ずロボットを不気味に思い、もう一 度夫を失うような辛い思いをすることになる。夫人は、その不気味さを知らないから、こうやって懇願し ているのだ。しかし、一方で偽物だとわかっていても、それらしい物に傍にいて欲しいという思いも確かだ。もしかすると、これを断ったら明日にでも夫人は自ら命を絶つかもしれない。それはそれで寝覚めの悪い話だ。そうとうな時間と労力がかかるのは間違いないが、お金はいくらでも出すという。同時に、店の経営のことが頭をよぎる。 新道はため息をついた。やや、気乗りしないままではあったが、腹をくくることにした。
「わかりました。お受け致します。」
俄に、夫人の表情が明るくなる。安心したような笑顔になり、目を細めたために瞳にたまっていた涙が溢れて、一筋頬をつたっていった。
「ありがとうございます。」
そして夫人は深々と頭を下げた。

新道は四谷夫人から、細かな内容を聞きながら、その内容をノートパソコンに入力していった。 夫の名前は、四谷貴史(よつやたかし)。夫人より二つ年上で、職場の先輩だったらしい。二十年前に結婚し、十五年前から今の家に住んでいた。趣味はテニスで、学生の頃に地区大会で四位になったことがあ るらしい。週末には夫人と二人でテニスを楽しむ、仲の良い夫婦だったそうだ。子供はいない。結婚したときに二人で話し合った結果、子供は作らない事にしたという。 新道は、夫人の話す事をひとつひとつ入力していった。出来る限り、夫人の話した内容通りにデータとして設定しておく必要があるからだ。そして最後に、ハードディスクの中身を確認した。かなりの量があったため、全ては確認しきれないと判断し、いくつか見ようと撮影日順にデータを並べて最近のものから確認しようとした。
「このデータが最新のものですか?」
最新のはずのデータの撮影日は十年前のものだった。ざっとデータの撮影日を確認してみると、どれも十年以上前のものだ。不思議に思って夫人に問う。
「はい」
四谷夫人はすぐにそう答えた。
「十年前のもののようですが…」
改めて新道が指摘すると、夫人は「あ」と言ってから次のように付け加えた。
「夫が行方不明になったのは、八年前なんです。」
新道は、何か釈然としない気持ちがあったが「そうでしたか」とだけ言って、データの中を確認していっ た。それから、ふと気付いて夫人に提案する。
「そうなりますと、ロボットも十年ほど前の姿になりますが、よろしいですか?シミュレーションで現在の年齢の顔を作成する事も可能ですし、そちらの方がよろしければ…」
「この画像のまま、十年前の姿にしてください。」
夫人は、新道が言い終わる前にそう答えた。まさか即座に却下されるとは思っていなかったため、新道は やや唖然としたまま「はあ」と返事をした。どうも腑に落ちない気持ちを抱えたまま、動画や画像を確認していく。撮影されている内容は、旅行や記念日に撮影されたもので、よくあるホームビデオだった。ただ、 不思議な事に、四谷夫人は少し疲れて老けたようではあったが、十年前の映像とあまり変わったようには見えなかった。 新道は一瞬、夫人も実はロボットなのではないかという疑念を抱いたが、「そんなこと、そうそう有りはしない」と心の中で苦笑して、その馬鹿げた想像を振り払った。夫人は、よほど肌の手入れに気を使っているのだろう。それとも単に化粧が巧いだけかもしれない。長らく女性とプライベートな付き合いのない自分には分からないが、おそらく最近ではいい化粧品ができていて、皺も隠せるのだろう。
「最近の映像がないと駄目なのでしょうか?」
 黙って映像を見つめている新道に、夫人が不安げに声をかけた。
「え?ああ、いえ、そんなことはありません。ただ、すぐにご期待に添えるようなロボットを作る事はできません。何度か四谷様に確認して頂きながら詳細を詰めていく必要がありますね。」
 新道は、慌てて思考を仕事へと切り替えた。夫人の表情が少し曇ったように見えた。
「どのくらいの時間がかかるものなのでしょうか?」
「そうですね…最終的な完成がいつになるかは正直分かりかねます。最短でも一年は覚悟して頂きたい。」
夫人の顔には落胆の色が浮かんでいた。新道は夫人に多少同情する気持ちはあったものの、納期に関して 下手な事を言うと信用に関わるため、そこを譲るつもりはなかった。
「とりあえず、三ヶ月で大まかな部分までは製作してみますので、三ヶ月後にもう一度ご来店いただけますか?」
四谷夫人は、少しの間何かを考えていたようだったが、最後には小さな声で「わかりました」と言って頷いた。新道は、それを確認するとノートパソコンで十二月のカレンダーを開いた。
 「十二月の、そうですね…二十日頃だと、ご予定はいかがですか?」
四谷夫人は次回の打ち合わせの予定を決めると、「よろしくお願いします」と言って店を後にした。新道は、夫人を店の前で見送り、夫人の姿が小さくなった所で大きく鼻から息を吸って、一度腹に貯めると、それから息を吐き出した。そして、今しがた請け負った大仕事に取りかかるべく、店の中へ戻っていった。


四谷美鳥はロボットの出来上がりに満足していた。十二月に新道ロボット店を再び訪れると、そこにはあの頃の夫と寸分違わぬロボットがいた。初めて見たときには、貴史が戻ってきたのかと思ってしまったほどだった。店長からいろいろと説明を受けたが、正直上の空だった。完成までには一年以上は必要だと 言われていたが、美鳥には既にこれで十分なように思えた。これで、貴史のいない永かった孤独な生活か ら解放されるのだ。店長に貴史を連れて帰ると申し出ると、意外にも「まだ早すぎる」と止められたが、無理を言って一緒に帰れるようにしてもらった。店長は最後まで渋い顔をして「止めた方がいいと思いますけどね」としつこく言っていたが、充電と食事に関する注意事項の説明を聞き、一週間に一度はロボット店で調整をするという約束をして、貴史と共に新道ロボット店を後にした。 美鳥の心は、無くしたと思っていたお気に入りの玩具が引き出しの奥から出て来た子供のように、嬉しさと懐かしさで満ちていた。美鳥は、自宅の玄関の前で足を止めると大きく深呼吸をした。長らく億劫だっ た自宅の玄関の戸を開けることだって晴れやかな気分でできる。家の至る所に残された貴史との思い出も、 和やかな気持ちで受け入れられる。色彩を失ったような乾いた世界から、ようやく、本来の色鮮やかな世界に帰って来たのだ。
「そうだ。私が先に家に入るから、ちょっと待ってから入って来て。」
 美鳥は貴史にそう言うと、返事を待たずに一人で家の中に入っていった。そして、靴を脱いで玄関に上がると、貴史が帰ってくるのを待った。 まもなく、ドアが開いて貴史の姿が美鳥の視界に入った。美鳥は満面の笑みを浮かべる。この瞬間を、 ずっと待っていた。失うまでは、当たり前に毎日毎日繰り返していた幸せな瞬間。愛する人が私の元に帰っ てくる瞬間。
「おかえりなさい」
貴史は、美鳥の笑顔に応えて笑顔を返す。
「ただいま」
柔らかい微笑みも、優しい声も、間違いなく貴史のものだ。美鳥は少し勝ち誇ったような気分だった。ロボット店の店長は、まだだと言っていたが、ひとつも問題が無い。あの店長が言っていたような気持ち悪さも、違和感もない。私の勘の方が正しかった。だいたい、あのての人は小難しく考えすぎなのだ。人間 の感覚なんて、数式でどうこう表せるようなものではない。理論値なんて、所詮理論上のもので、机上の空論みたいなものだ。個々人の感じ方を統計でまとめた所で、それぞれの感じ方がまとまる訳ではない。 美鳥はそこまで考えて「でも、腕は確かな人ってことね」と思い直した。ここまで貴史を再現してくれたのだから、それは感謝しなければならない。週に一度、あの店まで貴史を連れて行くのは面倒ではあったが、それもきっと二、三週もすれば店長も納得して頻繁に足を運ぶ必要はなくなるだろう。
 「どうかした?」
玄関から動かない美鳥に、貴史は不思議そうな顔で問いかけた。
「ううん、なんでもない。ちょっと考え事。さあ、ご飯にしましょう。」
美鳥はそう答えると、軽い足取りでダイニングへ向かった。貴史のキョトンとして表情は、少し子供みた いで可愛い。美鳥には、そんなひとつひとつの小さな事が嬉しくてたまらなかった。 ふと振り返ると、貴史は靴を揃え終えて、立ち上がるところだった。美鳥の中で、小さな疑問が湧いた。 貴史は、いつも靴を揃えるとき座って揃えていただろうか。そもそも、靴を揃えていただろうか。そうだった気もするし、そうではなかったような気もする。記憶をたどってみるが、はっきりと思い出せない。
美鳥の実家に来たときは、確かに座って揃えていた。だが、いつもの習慣だったのか、他所行きの体裁だったのかが分からない。何かと几帳面な人だから、いつもそうしていたかもしれない。でも、変な所で適当だから、自宅ではしていなかったかもしれない。 ポツン、と買ったばかりの白いシーツに落とした一滴のコーヒーのように不安が広がる。いくら考えても答えが出ない。
ふいに恐くなった美鳥は、それ以上考えるのを止める事にした。
たぶん、いつも自宅でも座って揃えていたに違いない。それでいい。私の貴史はそれでいい。

翌日、美鳥は久しぶりに爽やかな朝を迎える事が出来た。隣に貴史がいるという安心感からか、本当によく眠れた。 昨日は、新道ロボット店から貴史と一緒に帰り、他愛もない話をしながら昼食をとり、美鳥のお気に入りの紅茶と貴史の好きなチーズケーキを二人で食べ、のんびりとテレビを見てから一緒に夕食の支度をした。 どれも、貴史がいなくなるまでは、当たり前の日常だった事だ。こんな、何でも無い当たり前の事が、何よりも幸せなのだ。 新道店長によると、食事については、見た目上は食べたように見えるが、実際に消化はしないため、美鳥の見えない所で廃棄しているらしい。排泄も、適当な間隔でトイレには向かうが、実際には出す物がないため見かけ上行くだけなのだという。いずれも美鳥の見ていない時の話なので、それに関してはまったく 気にならなかった。ただ、充電については、四六時中一緒にいるため見えない場所で、という訳にはいかな かった。寝室が別なら、見なくて済んだのかもしれないとは思ったが、一緒に寝られないのは、それはそれで嫌だった。結局、一緒に寝る事にし、ベッドの横から電源ケーブルがコンセントへと繋がっている姿だけは見る事になってしまった。ケーブルがあるため寝返りはしないものの、寝息はあるし、声をかければ 眠そうな声で応えてくれた。ロボットだという事を忘れてしまいそうな程に、よく出来ている。 時計を見ると、九時を過ぎていた。思った以上に深く眠っていて、いつもなら起きるはずの七時の目覚ましが聞こえなかったらしい。
「大変!」
飛び起きてから、貴史がベッドにいないことに気付き、サッと血の気が引いた。 嫌な想像が頭をよぎり、美鳥は慌てて寝室を飛び出すとダイニングへ走る。昨日一日のことが全て夢だっ たのではないかと思うとほぼ同時に、そんな訳は無いと必死で否定する。 ダイニングへ飛び込んだその時、チンと小気味の良い音がして、香ばしいパンの香りが美鳥の鼻をくすぐった。朝食の準備をしている貴史を見つけ、美鳥は胸を撫で下ろした。
 「おはよう、美鳥。もう食べられるよ。」
貴史は美鳥の方を見て微笑むと、パンをトースターから皿に移してテーブルの上に置いた。 「ありがとう、貴史。ごめんね、寝坊しちゃって…」
「いいよ。だいぶ疲れてたようだけど大丈夫?」
貴史の問いに、美鳥は「うん、大丈夫」と頷いて、食器棚から二人分のマグカップを出した。それから、冷蔵庫の牛乳を取り出し、カップに注ぐ。貴史は先に椅子に座り、美鳥が席に着くのを待っていた。 美鳥の中に小さな違和感がじわりと湧いた。貴史はいつも私が席に着くまで待っていただろうか。それとも、先に食べ始めていただろうか。待っていたような気もするが、先に食べていたような気もする。いつも「こう」という訳ではなく、待っている日もあれば先に食べている日もあったかもしれない。 「どうしたの?」
貴史の声にハッとし、美鳥は慌てて貴史の向かいの自分の椅子に座った。
「ううん。なんでもない。」
 取り繕うように笑顔を返し、これ以上気にするのは止めようと自分に言い聞かせる。貴史は「ふうん」と 言って朝食を食べ始めた。 どんなに愛した相手の事でも、細かい部分まではハッキリ記憶していないものだ。自分が覚えていないような些細な事は、多分これでいい。粗捜しをするような気持ちで見ているから気になっているだけだ。 美鳥もパンをかじり、独りではない朝食はいいものだな、としみじみ感じる。今日は二人で何をしようかと考える事が出来るのも、とても幸せだった。美鳥が一人でワクワクした気持ちでいると、ふいに貴史 がパンを口から離して、顔を上げた。
「そういえば、歯ブラシの新しいのは何処かな?見つけられなかったんだけど。」
 「え?引き出しの中に無かった?」
 美鳥は、そう言って洗面所へ行こうと立ち上がった。
 「ああ、いいよ。食べ終わってからで。」
「あ…うん。そうする。」 貴史に止められて、美鳥は少し気まずそうに座り直した。

朝食後、美鳥が洗面所の引き出しを開けると、貴史用の替えの歯ブラシはまだ残っていた。「なんだ、あ るじゃない」と心の中で思ってから、美鳥は気付いた。替えの歯ブラシの場所がデータとして登録されていないから分からなかったのだ。次にロボット店に行くときには、物の場所を登録してもらおう。 新しい歯ブラシを出して、古い歯ブラシ捨てながら、この歯ブラシもずいぶん長い間置いたままだった な、と感慨に耽る。いなくなってからも、捨てるに捨てられずにいた。捨てる事は、戻ってこない事を認める事のように思えて、出来なかったのだ。同時に、目の端に貴史のヘアワックスが映った。そういえば、これもずっと置いたままだった。手に取ると軽くなっており、中を確認するとほとんど空だった。早めに補充しておかないといけない。
「ちょっとドラッグストアに行ってくるね。」 美鳥は、貴史にそう告げると玄関へ向かった。貴史が「一緒に行こうか?」と聞いてきたが、「いいよ。家でゆっくりしてて」と返して一人で、そそくさと家を出た。
ドラッグストアは家から歩いて五分ほどの所にある。店に入ると、男性用整髪料のコーナーにまっすぐ 向かい、お目当ての製品を探す。貴史が使っていたワックスのメーカー、製品名、種類は記憶している。 ざっと棚を見渡し、洗面所にあったものと同じパッケージを見つけると、美鳥はホッとした。同じ物が無かったら、どれを買っていいのか正直分からない。見つけた製品をカゴに入れ、歯ブラシのコーナーへ移 動すると、貴史用の予備の歯ブラシもカゴに入れた。そして、他に買う物があったかどうか少し考えてか ら、何も思い浮かばなかったので、そのままレジへ向かった。 清算を終えて店を出てから、もう一度ヘアワックスを確認する。洗面所にあったものと同じだ。まったく同じパッケージデザイン。
美鳥の心に何かが引っかかった。 このワックスは八年前からこのパッケージデザインだっただろうか。そもそも、八年前にこの製品はあっ ただろうか。

貴史と共に生活を再開してから六日が過ぎた。明日は調整のため新道ロボット店に行く日だ。 美鳥は、貴史に追加で登録する情報をリストアップしていた。部屋の何処に、何が収納されているか。 歯ブラシの毛はかためが好きな事。箸の持ち方が少しおかしいこと。トイレの後、度々蓋を閉め忘れる事。 細かい部分でも、明らかに違う部分はとにかく書き出した。違和感を感じた事についても書き出してみたが、いくら思い出そうとしても答えがわからなかったので、それについては最終的にリストから外した。それでもやはり小さな違和感は積み重なって、美鳥の中で大きな疑念へと変化していた。 貴史は、本当に貴史なのだろうか。貴史のようなロボットだということは頭では理解できている。しか し、ほとんど貴史そのもので、見た目はもちろん、声も仕草も、ロボットだという事を意識させないどころか、うっかり貴史本人だと思ってしまうほどに似ている。その中で不意に見える貴史でない何かが、気持ち悪さを生んでいる。似ているから、余計に不愉快な気分だ。これが、店長の言っていた「不気味の谷」というものなのだろうか。 正午になり、美鳥は、昼食をダイニングテーブルに運ぶと、リビングで本を読んでいる貴史に声をかけた。 「ご飯できたよ。」
「ああ、うん」 貴史は、すぐに顔を上げると本に栞をはさんでダイニングテーブルにやってきた。テーブルには、フランスパンとサラダ、それにポトフが並んでいた。
「いただきます」
「どうぞ」
美鳥は、貴史が食べ始めるのを見てから、自分も食べ始めた。 食べながらも、美鳥は、貴史の食べる様子を観察していた。貴史はフランスパンを食べ、それからポトフをスプーンですくって食べた。そして、サラダ。またポトフを二、三口食べて、フランスパンを食べる。 貴史は、おいしそうに食べていた。実際「おいしいよ」とも言った。サラダの皿が空になり、パンもなくな り、ポトフの皿も空になった。貴史は、最後までおいしそうに食べていた。
「ごちそうさまでした」 貴史がそう言ったときには、美鳥の手は止まっていた。何か気味の悪い物を見るような目で、貴史を凝視 して、スプーンを手に持ったまま動かなかった。
「どうしたの?」
貴史の問いかけにも、美鳥は応えなかった。表情を変えないまま、代わりに静かな声で、貴史に問いかける。 「それ、茄子が入ってたの。気付いた?」
「うん。おいしかったよ。」
貴史の「偽物」は、何事もなかったかのように応えた。 貴史は茄子が嫌いだ。たまに、こっそり料理に入れるのだが、いつも気付かれる。そして、子供のように怒りだすのだ。これは、貴史ではない。偽物だ。貴史によく似ているが、貴史の皮を被った化け物だ。偽物だ。本物はじゃない。私の貴史じゃない。違う。偽物だ。 同じフレーズが美鳥の頭の中で、ぐるぐると渦巻くように回り続ける。そして、美鳥の頭の中を埋め尽くす。 違う。偽物だ。貴史じゃない。違う。化け物だ。偽物だ。違う。違う。違う。違う、違う、偽物だ。違う、違う、違う、貴史じゃない。違う、違う、違う、違う、違う、化け物だ。違う、違う、違う、違う 違う 違う 違う 違う 違う違う 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違 う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違 う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違 う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違 う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違 う違う違う違う…
美鳥の意識はそこで途絶えた。
次に美鳥が気付いたときには、ロボットは床に倒れて動かなくなっていた。


新道は、いつものように店の奥で作業をしていた。四谷夫人が夫のアンドロイドを試験的に持ち帰って から二週間が経っていたが、新道の心配をよそに、夫人からは特に何の連絡も無かった。特に問題ないのなら、それに越した事は無いのだが、内心不安で仕方がなかった。一週間後に一度メンテナンスを行う予定で話をしていたはずだが夫人は店には来なかった。連絡をとることも考えたが、年末にわざわざ仕事を 増やす事もないだろうと思い、それは年が明けて正月休みを終えてからすることにした。 新道にとっては年末年始も正月休みも、実のところ特にいつもと変わらない日々ではあった。母を早くに亡くし、父も他界した今、兄弟も妻子いない新道にとって、帰る実家はこの店ということになるが、集まる親戚もいない。結局のところ、店の奥で作業をするか、店の二階で寝転がってぼーっとするくらいなも ので、初詣にも行かない。父と母の仏壇は部屋に置いているし、墓も寺にあるが、別段仏教徒というわけで もない。神道もよく知らないし、クリスチャンでもない。イスラム教徒でもないし、その他の宗教も特に 信仰していない。ただ、世の中が浮かれ気分な年末年始を、この店の二階から静かに眺めているだけなのだ。形だけ、年越しそばと餅を食べれば、それで満足だった。 今日は正月休み最後の日だ。明日には店を開けて、世の中もまたいつもの生活に戻る。そんなことを考えてひとつ息を吐き出した丁度その時に、インターホンの音がした。新道は訝しく思った。店を開けていないときに来客など、ほとんどあった試しがない。父が生きていた頃は父の友人が来る事もあったが、今はそれもない。こういう場合は、悪質な訪問販売や宗教の勧誘と決まっている。新道は居留守を決め込んで作業に戻った。ピンポーン、とインターホンの呼び出し音が再び鳴ったが、それも無視した。 三度目の呼び出し音で、新道はようやく腰を上げた。なかなかしつこい相手のようだ。顔ぐらいは拝んでやろうと、インターホンのカメラに映った画像を確認すると、訪問者は二人の男だった。自分よりは一回りは若いであろうスーツ姿の男と、その後ろに貫禄のある定年間際と思われる男が僅かに映っていた。訪問販売や、宗教の勧誘ではなさそうだと思い、迷った末に新道はインターホンに出ることにした。
「はい」
「警察です。少しお伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
サスペンスドラマのように、若い男はカメラ越しに警察手帳を見せた。新道は俄に四谷夫人の事が頭に浮 かんだ。やはり、犯罪がらみだったのかもしれない。「いや、まだ本物の警察とは限らないぞ」と思い直し、 呼吸を整える。
「はい、少々お待ち下さい。」 新道は玄関に向かい、念のためドアのチェーンロックをかけてからゆっくりとドアを開けた。
警察を名乗る男は、カメラ越しに見たときと同じように警察手帳を見せ、ドアの隙間から顔を見せた。それから、「申し訳ありませんねぇ、正月休みも明けてないっていうのに」と言って見え透いた愛想笑いを浮 かべる。新道が相槌くらい返そうかと口を開きかけたが、男はそれを遮るように目の前に写真を出した。
 「この方の事、ご存知ですか?」
写真には中年の品のある男性が写っていた。知らない顔だ。
「いいえ」 新道がそう答えると、若い男は上司であろう後ろの男と顔を見合わせた。写真は新道に見せたまま、続ける。
「どこかでチラッと見かけたとか、そういうのでもいいんですが…ありませんか?」 言われて、もう一度写真をまじまじと見つめてみるが、やはり知らない顔だ。
「そう言われましても…知りませんねぇ」
 首を傾げて返答してから、新道の頭にふと似た顔が浮かんだ。
「何かお気づきの点がございましたら、どんな些細な事でも構いませんので、おっしゃってください。」
新道の小さな表情の変化を読み取り、男が話を促してくる。 気付いた事は、確かにあった。写真の男性よりも若いがよく似た顔と、つい最近まで毎日のように顔を突き合わせていた。四谷貴史のロボットだ。しかし、ロボットは十年ほど前の四谷貴史氏の姿だと考えると、今この写真の男性こそが現在の四谷貴史なのではないだろうか。新道は、一瞬、警察を名乗るこの男達にそのことを話しそうになったが、寸でのところで守秘義務を思い出した。
「いえ、知りませんね」
本物の警察かどうかも分からない上に、何の捜査かもまだ聞かされていない。少なくとも今の段階で話すわけにはいかない。本人には会った事もないから、知らないというのも嘘ではない。
「そうですか…この方、三ヶ月前から連絡がつかないということで、ご両親から捜索願いが出ているんです。もし、何か思い出されたり、どこかで見かけられたらご連絡願います。」
 男の言葉に新道は耳を疑った。もし、写真の男性が四谷貴史だとすれば、行方不明になったのは八年前のはずだ。三ヶ月前に両親から捜索願が出されたということは、よく似た別人ということだろうか。新道の混乱をよそに、男は別の写真を新道の前に差し出した。
「ちなみに、こちらの方についてはご存知ですか?」
写真に写っていたのは四谷美鳥だった。さすがにこちらは知らないとは言えず、新道は黙って頷いた。男が、当たりだとばかりにニヤリとしたのが目の端に映った。
「どういったご関係で?」
「お客様です。」
「こちらはロボット店ですよね。この女性は、どのようなロボットを?」
「守秘義務がございますので、お答えしかねます。」
新道の事務的な態度に、男は眉を寄せた。そして、写真を胸ポケットにしまいながらフンと鼻を鳴らす。
「捜査令状が必要ですかね。」
「申し訳ありませんが、そうなります。」
男は後ろで黙っている年配の男に再び顔を向けた。年配の男は、一度目を閉じて、それから若い男の前にでた。若い男とは違い、ドアの隙間からでも存在に威圧感がある。
「先程の行方不明の男性は、この女性、四谷さんの夫です。お話ししましたように、三ヶ月前から連絡がつかない状態です。」
やはり写真の男性は四谷貴史らしい。新道は黙って話を聴いていた。
「ただ、年末にこの男性を見たという方がいらっしゃるんですよ。それも、髪を染めたのか、随分若くなった様子だという話でしてね。しかし、四谷さん宅に伺うと、奥さんは夫は八年前に行方不明になったきりだとおっしゃる。」 新道は黙っていたが、年配の男は一向に気にした様子もなく連絡先の書かれた用紙を新道に差し出した。
「何かお気づきの事や思い出した事がございましたら、こちらまでご連絡願います。」
 新道が「はあ」と応えて受け取ると、二人の男は「ご協力ありがとうございます」と一礼して去っていっ た。二人を見送ったあと、新道はしばらく玄関で立ち尽くしていた。


翌日、電話口に出た四谷夫人は、困った様子でアンドロイドが故障して自分一人では運べない旨を新道に伝えた。新道は「ご希望の日時に車で伺います」と夫人に伝えて日時を決めてから電話を切った後、小首を傾げた。アンドロイドの基本的な部分は、長年使用している既製品で、そうそう障害が発生することはない。ハードの初期不良は稀にあるが、ソフトウェアの障害で再起動すら出来なくなることは新道の経験 上ではなかった事象だ。再起動方法がわからないという顧客も確かにいるが、それも通常であれば自動的に再起動されるはずだ。いくら考えても、原因が思い当たらない。新道はしばらく考えたのち、実際に実物を見てみるしかないという結論にたどり着いて、車の準備を始めた。 車の荷台に乗っていた雑多な小物を降ろし、代わりにキャスター着きのストレッチャーを積み込む。ア ンドロイドの軽量化が進んだとはいえ、成人男性程度の重量があるので、一人で運ぶのは骨の折れる作業になる。夫人にも多少は手伝ってもらう事になるだろうが、女性の力ではやはり心もとない感は否めなかっ た。とはいえ、急には人を雇う事も出来ない。もう一体手伝い用にロボットを用意しておけば良かったかと、今になって思いついたが、今日明日にどうこう出来る訳もなく、また、維持費を考えると現実的ではないと、ひとり嘆息を漏らした。 一通り必要な機材を車に積み終わった頃には、時計は十一時を回っていた。約束は十三時なので、まだ 時間はある。特にすることも、できる事もなく、新道は一息ついて作業場で腰を降ろした。そして、天井を 仰ぎながら昨日の事を思い出す。連絡先の書かれた紙は作業場の机の上に置いたままだった。 何か事件に関わっていると疑われたのだろうと思うと不愉快なのと同時に不安もあった。知らないうち に、犯罪に加担しているのかもしれない。昨日の警察官の言うことを信じるなら、四谷夫人は嘘をついている事になる。とてもそうは見えなかったが、人間は解らないものだから、嘘をついている可能性は十分 にある。嘘をついているとなると、何のための嘘なのかが問題になる。例えば、夫がいなくなった事を周りに悟られない為に夫のロボットを作ったとする。新道にはロボットを作らせるために嘘をついたのだろうと推測できる。しかし、そうなると、警察にも同じ嘘をつく意味が解らない。何しろ警察が提示した事実と噛み合わないのだ。敢えて八年前の姿のロボットを作らせたのも合点がいかない。周りに気付かれないようにするなら、直近の姿のロボットの方が適切だ。誰も嘘をついていないと仮定すると、四谷貴史は、 八年前に夫人の前から姿を消し、三ヶ月前までは実家と連絡をとって普通に生活していたという事になる。 ありえない話ではないし、単に事故か何かで行方がわからないだけかもしれない。逆に、四谷夫人が三ヶ月前に夫を殺したなんて可能性もある。警察は後者で考えていると観て間違いない。後者だった場合、自分は午後から四谷夫人の家に単独で行って本当に大丈夫なのだろうか。 「何かお気づきの事や思い出した事がございましたら、こちらまでご連絡願います。」 年配の男の顔と声が思いだされる。一度警察に連絡しておくべきだろうか。そう考えて、一度机の上の紙を手にとったが、結局ズボンのポケットに紙を突っ込んだだけで、連絡はしなかった。

ダイニングに通された新道が見たのは惨憺たる光景だった。血液は飛び散っていないが、サスペンスド ラマの殺人事件現場を思い起こさせるような絵面で、ロボットが床にうつ伏せで倒れていた。遠目にも、頭部が破壊されているのがわかるほどで、血の代わりに周囲には頭部の破片と部品が散らばっていた。新道は、暫しの間言葉を失って、目に映った映像に釘付けになっていた。部屋の他の箇所は整然としており、それがかえってロボットの受けた衝撃を際立たせていた。 新道は黙って事切れたロボットに近づくと、かがみ込んで破損部位の確認を始めた。何が壊れて、何処が無事なのか。それが問題だ。主記憶装置は胸部にあるため、よほどの衝撃を受けていない限り無事だろうが、頭部のセンサー類は、ほぼ取り替えなければならないと思われた。あとは配線と外装の問題だろう か。いずれにしても、部品の発注が必要なのは間違いなく、修繕にも時間がかかるのは明らかだった。 「現時点で正確な数字は出せませんが、修繕には時間が掛かりそうです。どういった状況で、こうなりましたか?」
新道の問いに、四谷夫人は困った顔をして頭を振った。
「わからないんです。」
「わからない、と言いますと?現場に居合わせなかったということですか?」
四谷夫人はうつむいて、少し考え込んだ様子だった。
「そうかもしれません。」
この曖昧な答えに新道は眉を潜めた。自分がいたかどうかという質問に、「そうかもしれません」とは、ど ういうことだろうか。問い質そうかと思ったが、それはあまり重要ではないと思い直し、新道は別の質問をした。新道にとっての一番の問題は金だった。
「修繕には破損した部品の買い直しを含めて別途費用が掛かりますが、宜しいですか?現時点で開発を中止される場合は、これまでの作業分のみの金額とさせていただく事も可能ですが」 「お金はお支払いいたします。どうか、貴史を元に戻して下さい。」
顔を上げた四谷夫人の声は、はっきりと力強いものだった。新道としては、警察の事もあるため、ここで終わりにしたかったのだが、夫人のロボットへの想いは予想以上に深いようだった。新道は四谷夫人に「申し訳ありませんが、運び出すのを手伝っていただけますか?」と言って立ち上がった。夫人が「はい」と答 えたのを聞いて、新道は車へストレッチャーを取りに戻った。

貴史ロボットをストレッチャーに乗せ、車に積み込むと、新道は室内に散乱した部品を回収し、軽く掃除 を済ませた。四谷夫人は、黙って新道の手伝いをしていたが、ようやく作業が終わった頃に「あ、そうだっ た」と何か思い出したらしく声をあげ、寝室に入っていった。新道が何かと思って待っていると、夫人はす ぐに一枚の紙を持って寝室から出てきた。
「これを、貴史に登録しておいて欲しいのですが...」
「拝見いたします」
新道は夫人から紙を受け取ると、そこに書かれた内容を読み始めた。 部屋の何処に、何が収納されているか。歯ブラシの毛はかため。箸の持ち方が少しおかしい。トイレの後、 度々蓋を閉め忘れる。ナスが嫌い。お酒はあまり飲めない。梅酒が好き。ビールは嫌い。洋梨は好き。歯磨きはお風呂でする。A4の用紙に、びっしりと貴史に関する情報が書かれている。 新道は、何か常軌を逸した物を感じながら書かれた内容を読んでした。夫人は新道の様子を見て不安になったらしく、おずおずと新道に話しかけた。
「あの...難しいのでしょうか?」
新道は夫人の問いに、言葉を選ぶため、やや間を置いてから答えた。
「技術的には時間さえ頂ければ可能です。ただ...」
そこまで口にして、先の言葉をもう一度考え直す。どう言えば伝わるのだろうか。
 「以前も申し上げました通り、どこまで情報を追加しても、ご主人を完全に再現することは不可能です。四谷様が感じておられる違和感を消すことは出来ません。」
「大丈夫です。かなり近い所まで来ていましたし、これだけ情報を足せばきっと」
 四谷夫人の声には、不安も疑念もなかった。奇妙なまでに、ただ純粋にそう信じている。 新道には、説得する自信はなかった。かといって完全に再現する自信もなかった。いい金ヅルだと思えるほど悪くもなれないどころか、少し憐憫さえ覚えた。四谷夫人は、このままいくと「あの人」の様にいずれ絶望することになるだろう。そこには、科学技術では埋められない、深い深い溝があるのだ。完全な人間はいない。完全な生き物はいない。不完全な人間が作り出すものは、やはり不完全さを孕んでいる。不 完全でゆらぎのある物を完全に再現することなど出来はしないのだ。この理屈をいくら口で説明したところで、夫人は納得しないだろう。実際に体感し、絶望する以外に諦めてもらう方法はないのかもしれない。 新道は渋々夫人の要望を承諾し、帰路についた。


店の駐車場には、見た事のない白い車が停まっていた。「本日閉店」の看板を表に出していたというのに、 一体誰だろう。と、新道は訝しく思いながら車を自宅の駐車場に入れた。 車からストレッチャーに乗ったままの無惨に壊れたロボットを運び出し作業場に着くと、ひと息着く間 も無く自宅のインターホンが鳴った。新道は、インターホンのカメラ画像を確認してギョッとした。昨日の警官二人組みだ。駐車場にあったのは警察の車だったのかと、苦々しく思う。見張られていたかと思う と気分が悪い。今帰って来た所を見られているため居留守という訳にもいかない。
「はい」
数秒の逡巡の後、新道はインターホンに出た。 「警察です。お休み中失礼します。度々申し訳ありませんが、もう一度お話伺えませんか?」 新道の頭の中で昨日の会話が再生される。行方不明の四谷貴史。その四谷貴史のロボット。そのロボットが壊れた。四谷夫人への疑念。
「捜査令状は?」
「ああ、申し訳ありません。まだ手続き中でして、可能な範囲で結構ですのでお時間頂けませんか?」
「警察手帳の提示をお願いします。」
「どうぞ」
インターホンのカメラに映った手帳の名前を確認し、インターホンから一旦離れて近くの交番へ電話をかける。彼らが本当に警官であることが確認できると、積み重なった事実をもとに、新道は警察に協力することを決めた。
「店の入り口へお回りください。」
インターホンの向こうの警官にそう伝えると、新道は店の入り口へと向かった。手早く受付を片付けて、自動ドアのロックを解除する。
少しすると、若い方の警官が愛想笑いを浮かべて入り口の前に現れ、その後から年配の男がやってきて、神妙な面持ちで会釈した。
「ご協力ありがとうございます。」
 店内に入ると、若い男が例の見え透いた愛想笑いのまま、そう言った。
 「どうぞそちらにおかけください」
カウンターのすぐ横にあるソファへと二人の警官を促すと、若い男は「これはどうも」と言ってソファへと 腰掛けた。年配の男は「失礼します」と低い声でつぶやき、その隣に座った。
「お茶をお持ちしますので少々お待ちください。」
言って店の奥へと戻り、父の代から使い続けている銘柄の茶葉を急須に入れ、電気ポットからお湯を注いだ。それから湯のみを三つ食器棚から出して一度お湯を入れて温める。
お茶を淹れてソファへ戻ると、机の上には昨日の四谷貴史の写真が置かれていた。新道はお茶を警官二 人と自分の座る前にそれぞれ置いて、緊張を悟られないように平静を装ってソファに座り込んだ。
「ご協力ありがとうございます。私は山本と申します。よろしくお願いいたします。」
 年配の男は座ったまま名乗ると会釈をした。
「田上と申します。」
若い男が続いて軽く頭を下げる。
「店長の新道と申します。」
新道が頭を上げると、若い男―田上はすぐに話を始めた。
「この方の事、ご存知ですか?」
「昨日、四谷貴史さんだとあなた方から伺いました。お会いした事はありません。」
 新道の間を置かない返答に、田上は山本へと視線を送る。山本はそれには反応しないまま、新道を見て いた。
「では、四谷美鳥さんがどのようなロボットをあなたに依頼されたかは、お話いただけますか?」
続いた田上からの質問に新道は最後に数秒ためらいを感じたが、正直に答える事にした。 「八年前に行方不明になった夫のロボットを作って欲しいというご依頼でした。」
「八年前、ですか?」
田上は眉をひそめ、やや威圧的に身を乗り出す。
「はい。四谷様からは、そう伺っております。」
「四谷貴史さんの代わりのロボットを依頼されたということで間違いありませんね?」
「はい」
「昨日、四谷貴史さんの写真を見たときにはご存じないとおっしゃいましたが、それは何故ですか?」
「ロボット作成用に四谷様から頂いたデータは、いずれも十年以上前のものでしたので、同じ方だとは認識できませんでした。」
「なるほど」
田上がソファに背を預けると、今度は山本がゆっくりと身を乗り出す。
「データが十年以上前のものだった、というのは?」
「ファイルの作成日が十年以上前のものでした。不思議に思って四谷様に確認しましたところ、八年前に行方不明になったとおっしゃっていました。」
山本は何かを深く考え込んだ様子で「そうですか」と言った。
「他に何か、四谷美鳥さんについて気になった事はありませんか?」
山本に問われて、新道は今しがた四谷家で起こった事件を思い起こす。一体何があって、ロボットは無惨な姿になってしまったのだろうか。警察ならば破損の状況から何かわかる事があるかもしれない。
「…少し、見ていただきたい物があります。」
 新道は立ち上がると二人を作業場へと促した。二人の警官は視線を交わし、山本が無言で頷いた後、新道 へ続いてカウンター奥の作業場へと向かった。

作業場にはストレッチャーにうつ伏せのままのアンドロイドが置かれていた。頭部の破損具合を見た二人の警官は、その惨状に顔をしかめた。「これは?」と山本に促され、新道は四谷家での出来事を説明し始めた。説明の間、田上はアンドロイドをぐるりと見てまわり、損傷部位を入念に観察しながら空中に指で何か書き、ブツブツと独り言を呟いていた。聞き取れた単語から推察するに、計算しているようだった。暫くして、「ふん」と田上が一息ついたところで、山本が「どうだ?」と声をかける。
 「誰かに背後から鈍器で殴られたんじゃないですかね。」
「そうか」
山本の反応を確認してから、田上は新道に愛想笑いを向けて「専門じゃないんで、確実ではありませんけど ね」と付け加える。
「顔を見せていだだけますか?」
山本に言われ、新道は「はい」と頷くと慎重に頭部を持ち上げ顔を横に向けた。アンドロイドの瞼状樹脂は 閉じておらず、目は見開かれたままだった。山本はその顔をじっくりと見ていた。田上はその後ろから覗き込み、持っていた四谷貴史の写真と見比べて「確かに若いですね」と言う。 山本はアンドロイドを注視したまま田上を手で制して新道に問いかけた。 「このロボットは、この後どうされるんですか?」
「四谷様が修理をご希望ですので直します。」
「歳を取らせる事は可能ですか?」
 「シミュレーションで技術的には可能ですが、四谷様からは十年前のままにして欲しいとのご依頼です ので…」
新道の答えに山本は腕を組んで考え込んだ後にこう言った。
「動かなくていいので、顔だけ作る事はできませんか?」
「そんな予算ありませんよ」
 山本の言わんとする事を察した田上が釘をさす。山本は田上を軽く睨みつけたが、田上は首を横に振った。 ややあって、山本は溜息をつくと「すみません、忘れて下さい」と言った。田上が話を変えようと新道に話題を振る。 「それにしても、よく出来ていますね。こういった実際に存在した人間のロボットは、よく作られるんですか?」
新道が答えあぐねていると、田上は「捜査とは関係ない個人的な好奇心です。無理に答えなくてもいいで すよ」と付け加えた。
「通常は、お断りしています。」
少し間を置いて答えた新道に「何故です?」と田上がすぐに疑問を返す。
「それらしい物ができたとしても、完全に本人と同じになる訳ではありませんから」
 新道は四谷夫人にした不気味の谷の説明を、二人の警官にも話した。二人の警官は、それなりに興味深そうに聞いていたが、田上の反応は少しワザとらしくもあった。話を聞き終えると、山本はまた腕を組んで考え込み、田上に視線を送ると「ご協力ありがとうございました。本日はこれで失礼いたします。」と話を切り上げた。
店を出る直前に、不意に山本が何かを思い出した様に振り返る。
「ああ、最後に少しだけ。これも個人的な好奇心からの質問ですが」
新道の目を見て問いかける。
「不気味の谷というのは、ロボットも感じるものですか?」
「いいえ。」
「では、ロボットには自分がロボットだという自覚はあるんですか?」
「あります。食事や充電の問題がありますので、自分が人間だと誤認識する事はありません。」
山本は少しの間、新道の顔を見た後、静かに微笑んだ。
「そうですか。ありがとうございます」
二人の警官は軽く会釈して車に乗り込み、新道ロボット店を後にした。 

運転していた田上は、新道ロボット店が見えなくなった頃に口を開いた。
「あの人はシロですねえ」
山本は助手席に座った時から腕を組んだままだった。
「…この件に関してはな」
「は?」
山本はそれ以上は何も語らずに、目を細めて前方を睨みつけていた。


三月。修繕を終えたアンドロイドを四谷夫人に引き渡した後、新道は作業場で考え込んでいた。向かいには引き渡したアンドロイドよりも歳を重ねた四谷貴史の顔があった。夫人には結局見せなかったものの、 なんとなく作ってしまったものだった。あの後、警察は来ていない。四谷貴史に関する情報も特になく、それらしいニュースもないので、未だ行方不明のままらしかった。名刺は何処を探しても見つからなかったので、特に使う予定もなかったが新しく作り直した。 新道は、四谷夫人が夫を殺した可能性もあるとは考えていた。だが、証拠はもちろん夫人からは怪しい 気配もない。アンドロイドを見る夫人の表情は、純粋で子供のような喜びで満ちていた。八年前に行方不明になったという話も、少なくとも夫人は本当にそう思っているようだった。正月明けのアンドロイドが 破損した時も、誤魔化そうとしているというより、本当に何が起こったのか分からないようだった。新道が答えの出ない思考を巡らせていると、受付の呼び出し音がした。聞き慣れた電子音のグリーンスリーブ スに思考を遮られ、新道は店の受付に向かった。
受付で待っていたのは常連の杉岡さんだった。新道を見ると、杉岡さんは豊かな白髪のショートカット を撫でていた手を止めて、金縁の老眼鏡の奥で微笑んだ。今年で八十になる女性だが、その立ち姿は溌剌としている。
「いつもお世話になっております。何かありましたか?まだ定期検査の時期には早いですよね。」
「いえいえ、マコトは元気なんですが、ちょっと相談したいことがありましてね」
マコトとは、杉岡家のお手伝いロボットの名前だ。
「どうぞお掛けください。今、お茶をお持ちいたしますので、少々お待ちいただけますか?」
「ああ、ありがとうね。」
 新道に促され、杉岡さんは「よっこらしょ」と言ってソファに腰掛けた。新道はお茶を淹れに店の奥に戻り、茶葉を急須に入れ、電気ポットからお湯を注いだ。それから湯のみを二つ食器棚から出して一度お湯 を入れて温める。
お茶を淹れてソファに戻ると、杉岡さんはソファの横に置いてあったお手伝いロボットのカタログを眺めていた。
「どうされましたか?」
問われて、杉岡さんは深い溜息をついた。
「孫がねえ…新しいのが欲しいって言うんですよ。」
「お孫さんというと、ひよりさんですか?」 「あら、よく覚えてらっしゃるのね。もう中学二年生になりまして…お友達と何かと比較しがちな年頃でしょう?友達の家のお手伝いロボットは最新式で、綺麗だし性能もいい、うちも新しいのにしてくれって五月蝿くてねぇ…でも、マコトもいるし二台は維持できないし、かと言ってマコトを棄てて新しいロボッ トを買うっていうのも…私としてはマコトに愛着もありますし」
ここまで話して、杉岡さんはもう一度溜息をついた。新道は黙って頷きながら話が終わるのを待っていた。
 「ひよりの気持ちもわかるんですよ?もうマコトも家に来てから、ずいぶん経つでしょう?」 「ええ、八年ですね。」
「あら、もうそんなになります?でもやっぱり、私としては手放したくないんです。家族みたいなものです から。」
「そこまで想って頂けると、ロボットとしても嬉しいでしょうね…」
「何かいい方法ないかしら…」
「そうですね。マコトもあと二年程でメーカーのサポートが切れますし…少々お待ちください」
新道は立ち上がってカウンターに置いてあるタブレット端末で、お手伝いロボットのカタログを検索した。
 「半年前に同じシリーズの後継機が出ていますし、そちらに買い換えるという方法があります。これなら、 今のデータの引き継ぎも出来ますし、形も似たものがありますよ。」
検索結果を杉岡さんに見せる。
「あら、本当。マコトとそっくりね」
「最新型になりますので値段はそれなりにしますが、同シリーズの古いロボットを下取りで割引がございますので、一度ご検討ください。」
 杉岡さんは「そうねぇ」と言いながらカタログを眺め「いいわねえ、ロボットは」と呟いた。新道がキョト ンとしていると、杉岡さんは口元を隠して上品に笑った。
「新しい体に交換できるのが羨ましいと思ってねえ。人間はあちこちガタがきても交換できませんものね」
新道は合点がいくと「そうですね」と笑い返し、少し複雑な面持ちでこう続けた。
 「メーカーが造ってくれる限りは。ですけどね…」
杉岡さんは少し世間話をした後、新道に「ありがとうございました」と言って帰っていった。

「匂いがね、しないんですよ。」
修理したロボットの引き渡しから一週間後、メンテナンスの為に貴史と共に訪れた四谷夫人はそう言った。 新道は言葉もなく、夫人が「あれが違う」「これが違う」と並べ立てるのを黙って聞いていた。ロボットは作業場でハードウェアの自動点検中だ。
メンテナンスに店まで来てくれた事には安堵したが、まさか、まだ注文をつけてくるとは思わなかったため、新道は半ばうんざりしていた。
「何度も申し上げていますが、どこまで情報を追加しても、ご主人を完全に再現することは不可能です。四谷様が感じておられる違和感を消すことは出来ません。まして匂いといわれましても、実際の匂いが今現在なければ再現のしようがありません。」 
四谷夫人は、ハッとして残念そうに少し俯いた。
「…そう…そうですね…」
呟く夫人に、新道は、やっと分かってもらえたかと安堵して息を吐いた。しかし夫人はすぐに顔を上げる。
「では、匂いは諦めます。」
新道は、しばし唖然とした後、どうしたものかと思考を巡らした。
このままでは埒があかない。ある程度の所で諦めてもらえるような、決定的な何かが必要だ。四谷夫人がなんらかの衝撃を受けるような…
そこまで考えて、新道は作業場に置いてある四谷貴史の顔を思い出した。頑なに十年前の容姿に拘る四谷夫人にとって、あれは何かを引き出す鍵になるかもしれない。
作業場からハードウェアの点検完了の通知音が聞こえた。
「少し見て頂きたい物があるのですが、よろしいですか?」
「…はい」
新道は立ち上がると、四谷夫人を作業場へ促した。四谷夫人は、キョトンとしたまま新道についていく。
「ご依頼いただいた時に、顔は10年前のままにするという話でしたが、シミュレートして現在の貴史様のお顔を形だけですが作成してみました。一度ご確認いただいて、それから今のまま進めるかどうかご判断いただければと」
「はあ…」
新道は言いながら歳を重ねた貴史の顔に掛けていた布を取り払った。
瞬間、四谷夫人の顔からサッと血の気が退き、呼吸が止まった。明らかな異常に気づき、新道は慌てて布をかけ直す。
四谷夫人は、胸を押さえて膝から崩れ落ちた。
「大丈夫ですか?!」
新道が駆け寄ると、四谷夫人はようやく浅く短い呼吸を開始した。そして、「すみません」「大丈夫です」と小さな細切れの呼吸の合間にかすれた声で応えた。見開いたままの目からは、涙が溢れていた。
しばらくして、新道に支えられながらようやく立ち上がった四谷夫人は、支えられたまま受付のソファへ戻り、もう一度「すみません」と呟いた。呼吸が荒く、心拍が乱れている。大きなストレスに晒された時の反応だ。
新道は、四谷夫人が落ち着くまで待った。それから、出来る限り優しく聞こえるように気をつけながら言葉をかけた。
「残念ながら、ご主人に似たロボットでは、四谷様の心はいつまでも満たされないように思います。お力になれず申し訳ありません。以前の暮らしを取り戻すのではなく、何か環境を変えてみてはいかがでしょうか?」
四谷美鳥は憔悴しきった様子で暫く黙っていたが、最後に「はい」と小さく頷いて帰っていった。


新道が四谷美鳥を次に見たのは、一ヶ月後のニュース記事だった。
リフォーム業者が、大型の冷蔵庫を移動しようとした時に中にあった遺体を発見し通報。遺体は、行方不明となっていたその家に住む男性だった。当初、亡くなった男性の妻は容疑を否認していたが、警察の取り調べで夫の殺害を認めた。容疑者は殺害の動機を「年をとって変わってしまった夫の事が次第に気味が悪くなった」と供述している。
記事の内容は、概ねそんな所だった。


記事が出たその日には、マスコミが店の周りにも押しかけ、インターネット上でも話題になり、ワイドショーや週刊誌にも取り上げられたようだった。当面は店を閉める事になり、迷惑な電話や悪戯もあったが、新道は静かに耐え続けた。
「本人は、遺体が見つかるまで、まったくその事を忘れていたと言っているんですよ。」
「え?そんな事あるんですか?」
「はい、警察にも八年前に行方不明なったと言っていて、本当にそう思っていたと」
「おかしいでしょ、そんなの」
テレビのワイドショーのコメンテーター達の声を聞きながら、新道は一人で薄暗い作業場に座っていた。シャッターを下ろし、電話の電源も切った。静かな作業場には、コンピュータの排熱ファンの音と、騒がしいテレビの声が混ざり合って振動していた。
一週間もすると世間の興味は他の事にうつり、次第に落ち着いてきた。
一ヶ月もすると話題はすっかり入れ替わり、四谷美鳥の話をする人は、ほとんどいなくなった。

店は再開したものの、常連の何人かはサポート契約を解除し、店の経営はますます落ち込んでしまった。とはいえ、新しい顧客を探して営業する気にもならず、店をたたむ事も頭をかすめるようになっていた。
作業場で取り扱っている人型ロボットメーカーからの通知を見ていると、インターホンの音がした。新道は、インターホンを無視して「人型ロボットHaRmony-TPシリーズ開発終了のお知らせ」というタイトルの通知の内容を読み続けた。「Z4を最後に開発終了」「シリーズのサポートは最大で3年」。再びインターホンの音がして、新道はようやく腰を上げた。インターホンのカメラを確認すると、そこに映っていたのは山本だった。今日は若い方の男、田上はいないようだ。新道は訝しみながら、「はい」と応答した。もう四谷美鳥の件は終わったはずだ。
「すみません、警察です。少しお伺いしたい事がありまして…お時間よろしいでしょうか?」
山本は落ち着いた様子で、ゆっくりと言うと、静かに新道の応答を待った。新道は「はい、少々お待ちください」と言って、玄関へ向かいながら、何かまだあっただろうかと思いを巡らせたが、結局何にも思い当たらないまま玄関にたどり着いてしまった。
山本は「どうも、お久しぶりです。何度もすみませんね」と軽く会釈し「少し込み合ったお話でして…いえ、以前の件とは別なんですが、中でお話しできますか?」と言った。最初に来た時とは違い、その目や声に張り詰めたものはなく、どこかのんびりとしていた。新道は「どうぞ」と短く言うと、山本を永らく誰も招き入れた事のない居間へ通した。
山本は勧められるままにソファに座ると一息ついて「いやあ、年をとると長く立っているだけでも辛くなっていけません」と言って笑った。新道が愛想笑いを浮かべ「どのようなご用件でしょうか?」と聞くと、山本は「ああ、そうでした」と話を切り出した。
「この近所の川原で男性の遺体が見つかりましてね。随分と腐敗が進んでいまして、少なくとも一年以上は前のものだろうと。何かお心当たりはありませんか?」
「いえ、分かりません。何か私に関係があったのですか?」
新道の答えを聞いて、山本は体を乗り出した。
「おそらく、亡くなられたご本人の物と思われる名刺が近くにありました。」
新道の頭に、探しても見つからなかった名刺の事が浮かぶ。あの名刺は結局どこにいったのか。
「新道孝太郎さん。あなたの名刺でした。」
新道は山本の目を見た。山本は目を伏せる。
「もちろん、名刺だけでは本人かは分かりません。他人の名刺持っていただけかもしれない。何より、私が、あなたと一年以内に会っています。」
山本はソファにもたれかかると、ゆっくりと息を吐いた。
「ですので、遺体が誰なのか調べました。」
山本は少し黙ってから、また前屈みになり、今度は新道を真っ直ぐに見つめた。
「新道孝太郎さんでした。」
新道が何も言わない事を確認してから、山本は続ける。
「さて、そうなると、ひとつ疑問が残ります。当然の疑問です。私や田上が会って、会話をした、新道ロボット店の店長は、いったい誰なのか?」
山本は、新道がやはり何も言わない事を確認してから、急に前屈みになって自分の左足をコンコンと叩いた。その音が、生身の足のものではない事を、新道は直ぐに理解した。
「義足です。かなり前に左足を無くしました。これのせいで前線を退きました。今なら、生身より性能の良い義足もありますが、どうにも合わなくて…まあ、合ったとしても、今じゃ生身の体側がついていけませんがね。」
山本は自嘲気味に小さく笑って、後を続けた。
「今のコレは違いますが、実は最初の義足はここで造っていただいたんですよ。先代の店長さんに。」
新道は即座に記憶上の顧客リストを検索したが山本に一致する人物は見つからなかった。
「そんな訳は…」
「もう十五年以上前の話です。」
十五年以上前では顧客リストには登録されていない。
「息子さん、新道孝太郎さんとも会ったことがあります。彼は、一度会った人の顔と名前を忘れないそうですね。お父さんが客商売向きだとおっしゃっていました。」
確かに彼は、会った人の顔と名前を忘れない。
呆然とする新道に、山本は最後の言葉を放った。
「あなた、ロボットですよね?」
3秒ほど静寂があった。
「いつ…気付きましたか?」
「二回目に伺った時でしたかね。帰りにロボットについて二三質問をしたでしょう。あの時に確信しました。」
飄々と答える山本に、新道孝太郎のロボットは恐る恐る聞いた。
「不気味の谷…ですか…?」
「いえ、ただの刑事の勘…ですかね。過去にご本人に会っていなければ気づかなかったでしょう。」
「そう…ですか…」
ロボットは少し安堵して天井を見上げた。サポートが切れたら、自分はどうなるのだろうかと思っていた所だった。そして、自分をこの世界から解放してくれるであろう刑事に、ぽつぽつと話し始めた。

父親が亡くなってから、彼は不気味の谷をなくせないかと、研究の為に自分自身のロボットを造った。そして、自分自身のありとあらゆる情報をロボットに流し込んだ。彼の日々の記録を同期し、様々な調整を行った。しかし、いくらやっても、どうにも違和感が消えない。次第に彼は精神が不安定になっていった。何もかもうまくいかない。
彼の死にたい心に気付いたロボットは、あの日、彼に懇願され、彼を殺した。
「だから、名刺が無かったんですね。」
彼があの日、ロボットの知らない所で持っていっていたから。そして、その日のデータを同期しないまま、死んでしまった彼を、そこに置いてきてしまったから。


いつもの定食屋で日替り定食を頼んだ山本と田上は、定食屋のテレビから流れるロボットに人権を求めるデモのニュースを聞きながら、車の中でしていた話の続きを始める。
「で、そういう場合はロボットってどうなるんですか?」
軽い口調で田上が問う。
「持ち主がいないから、廃棄だろうな」
山本は、やや疲れた様子でため息混じりに答えた。
「でも、それって他殺になるんですかね?」
「さあ、自殺か事故の扱いだろうさ。ロボットは法律上道具でしかない。」
「やっぱり、そんなとこですかね。」
田上は運ばれてきた定食を一口咀嚼し、ふと疑問に思って手を止める。
「なんでロボットだって気付いたんですか?やっぱり不気味の谷なんじゃないんですか?」
「お前は気づいたか?」
問い返されて田上は少し考えた。
「いいえ。普通に人間だと思ってました。」
山本は頷いて「勘だよ」と小さく笑った。
「ということは、不気味の谷は越えてたってことですかね?」
「どうだろうな。近しい人がいたら、気づいたのかもしれん。」
テレビの話題は芸能ゴシップに変わり、最近離婚した俳優についてのフリップが表示されていた。「原因はクシャミの音?」というテロップとともに、コメンテーター達が何か話し始める。「そんな事まで期待します?」という女性芸能人のその声は、定食屋の雑多な音の中に消えていった。

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