52 スポーツジムで会う男

いつものスポーツジムで、ロッカーに荷物を放り込んだあと、最近見なくなった常連が受付に来ているのが見えた。体格のいいコーカソイドなので目立つ男だ。右眉の辺りに古い傷があり、訳ありだろうかとも思っていたが、特に問題を起こすような事もなく、いつも一人で黙々とトレーニングをしていた。それが、ある時からパタリと来なくなっていたのだ。特に話した事があるわけではなかったが、同じ時間帯にいる事が多く、ストイックにトレーニングをしている姿になんとなく親近感を覚えていた。
今日は友人と一緒らしい。受付で会員登録をしているところを見ると友人は初めて来たらしかった。左腕がサイバネで、まつ毛が長く綺麗な男だ。それでいて、なんとなく人懐っこい顔をしている。
傍を通り過ぎた時に、左手薬指に指輪をしてる事に気づいた。そういえば、常連の男も来なくなる少し前から結婚指輪をしていた。結婚して来るのをやめてしまったのだろうかと思ったが、パートナーと来るようにしたという事だろうか。
一旦は、二人がロッカーに荷物を預けるのを見送ったものの、どうも気になってしまい、近くで二人の会話を盗み聞く。
「プールもあるんだな」
ジム内を見渡したサイバネの方が口を開く。男かと思ったが声を聞くと女だった。女性にしては、かなり鍛えている方だなと思う。
「あるが、ハルキは泳げないだろ」
「でも、フォルクハルトが泳いでいるのは見られる訳だ」
女の方はハルキ、男の方はフォルクハルトと言うらしい。
女に言われて男は首を傾げた。
「一人で泳いでもなあ…」
一人でストイックにトレーニングをしていた姿からは想像できない気の抜けた声に若干失望する。トレーニングに人生を賭ける同志だと思っていたというのに、こんな女に絆されてしまったのか。いや、話した事もないので、もともとこういう人間だったのかもしれないし、こんな女だからこそ絆されたのかもしれない。女性でこの筋肉量を維持するのは並大抵の事ではない。アスリートか軍人、傭兵でもなければ、ここまで仕上げて来る女性はなかなかいない。それでいて、なにかぽやぽやした雰囲気があり、ニッチな趣味だとは思うが沼に嵌ると危険かもしれない。とはいえ、女に現を抜かして腑抜けてしまったというのはいただけない。
俺が失望感に堕ちているうちに、二人はストレッチを始めた。女はキョロキョロと周囲を見ながらストレッチをしている。初めての場所なので気になるのだろう。ふと、ランニングマシンにいる男性で視線を止める。
「何を見てる?」
不意に男に聞かれて、何も考えていなさそうな女は正直に答えた。
「いや、あの人の筋肉もなかなか…」
男は、ストレッチをやめて唐突に女の両肩を掴み正面から彼女の顔を見た。
「ハルキ…」
色素の薄いグリーンの双眸が熱のある視線で彼女を見つめる。
「俺だけを見てほしい」
ジムでイチャイチャするな。家でやれ。
そもそも筋肉を見るくらいいいだろう。男の嫉妬はみっともない。俺の美学に反する。情けない男である。俺はまた失望した。
女はポカンと口を開けて、しばし呆然とした。
「…こ、こんな所で恥ずかしい事を言うな…」
周囲を気にして小声で抗議する。当然の反応である。俺以外にも何人かがチラチラと二人を盗み見ている。男の方は一歩も譲る気はないらしく真剣な顔で女を見つめ続けていた。
「…わ、わかった…」
女が渋々了承すると、男は頷いてストレッチに戻った。

ストレッチを終えると二人はランニングマシンへ向かい、軽くジョギングを始めた。
「そういえば、最近ジムに来てなかったのは何故なんだ?」
走りながら女に聞かれて男は彼女の方を見た。
「家でハルキといる方が楽しかったからな。なんとなく、足が遠のいた」
結婚して来なくなったというのも、あながちハズレてはいなかったようだ。そんな腑抜けだとは思わなかった。女といるのが楽しいからトレーニングをサボるなど筋肉への冒涜であり、言語道断である。
「ふーん…じゃあ、一緒に来れば万事解決か」
「…そうだな」
女の方は納得したようだったが、男の方には何か不満があるようにも見えた。
しばらく走って、一汗かいた所で二人は水分を摂り休憩する。
女がTシャツで汗を拭こうとしてるのを見て男が慌てて止めた。そしてタオルを手渡す。
「タオルを使え。オフィス内の簡易ジムじゃないんだぞ、腹を出すな」
オフィス内に簡易ジムがあるのか、いい職場だ。是非、どこで働いているのか教えてほしい。この言い振りからすると、二人は同じ職場で働いているらしい。
女は少し嫌な顔をして、渡されたタオルを受け取ると「お母さんか」とぼやいた。
男はムッとした。
「誰がいやらしい目で見てるかわからないだろ」
「たぶん、一番いやらしい目で見てるのはフォルクハルトだと思う」
ややうんざりしながら、女はタオルで汗を拭く。男は周囲をぐるっと見回した。俺は慌てて見ていないフリをする。
「………俺か…?」
どうやらバレずに済んだらしく、男はひとりそんな事を呟いていた。なんかもう、イメージと違いすぎる。解釈違いもいいところだ。失望に失望を重ね、憎しみすら湧いてくる。

「次は問題の大胸筋だな」
女がそう言いだし、二人はベンチプレスへ向かう。
男が準備をしている間、女は近くのベンチに座って男を眺めていた。
「ハルキはしないのか?」
女はニコニコとしていた。
「フォルクハルトだけを見ている」
言われて男は照れたように目を逸らして、頭をかいた。
「改めて言われると…恥ずかしいな」
「自分が言ったんだろ?」
女に笑われて、つられて男も少し笑う。
だからジムでイチャイチャするな。家でやれ。
男がトレーニングをしている間、女はその姿を眺めていた。
首筋を伝う汗と、Tシャツの下で躍動する筋肉にうっとりしているようだ。それは、とてもよくわかる。
「惚れ直してしまうな…」
女は、ふふと笑う。
この男の筋肉に惚れ惚れしてしまう事に関しては同意する。この女、さては相当の筋肉好きである。
男は「何しに来たんだ」と呆れ顔を作ったものの、内心は少し喜んでいる気配があった。
苛立ちが募る。だから、女に褒められたくらいで喜ぶな。もっとストイックであれ。
トレーニングが終わり休憩に入ると、女は男の傍までやってきて彼の大胸筋をポンポンとたたいた。
「大きくなれよ」
育てている植物に話しかけるように筋肉に話しかける。
もしかすると、この女との方が気が合うかもしれない。この様子では、女に言われてジムに通う事を再開した可能性すらある。俺は心の中で、この女にエールを送った。そう、トレーニングは決して怠ってはならない。
男は咳払いをした。それから、水分を取ろうとして、ボトル内の飲料を飲み切った事に気づく。
「ちょっと飲み物買ってくる」
「あ…うん」
女は一瞬何か言おうとしたが、男は気にせずに行ってしまったので、その場に取り残されてしまった。
少しすると50代くらいの男が、彼女に話しかけてきた。何か「やり方わかるかい?教えてあげようか」みたいな事を言っている。彼女は迷惑そうに苦笑いを浮かべて「大丈夫です」と断っていたが、男はなかなか引かない。いわゆる教えたがりの迷惑客だ。彼女の筋肉をよく見ろ、どう見てもお前よりよっとぽど鍛えている。それすら見抜けないとは素人もいいところだ。フォローに入りたい気持ちもあったが、こちらが変に絡まれるのも嫌だし、あのガタイのいいパートナーに勘違いされるのも怖い。俺は、陰ながら彼女のパートナーが早く帰ってくる事を祈った。
そわそわと様子を見ていると、飲み物を買い終えた彼女のパートナーが帰ってきた。
「いや、あの、連れがいるので…」
女は困り顔でそう言って、パートナーが戻ってきた事に気づくとパッと安堵した表情になり手を振った。
「何か用ですか?」
迷惑男の後ろに立ち、男はギロリと睨んだ。
そう、これだ。言葉少なにドンと構えて威圧的とも言える筋肉で全てを語るのだ。俺が求めているのはこういう事なのだ。
「いや…やり方を教えよてあげようと…」
迷惑男は急に現れたガタイのいい男を見てギョッとすると、弱々しい声でそう言った。
「彼女は一通り知っているので、教えてもらう必要はありません」
男がはっきりと告げると、迷惑男は何かもごもごいいながら去っていく。
「なんだあれは?」
怪訝な顔の男に、女は長いため息をついた。
「ジムは一人でいると、ああいうのが話しかけてくるんだよなあ。面倒くさい」
よくある事の様に言う女に、男は驚いているようだった。確かに、俺もジムで他人に話しかけられた事はほとんどなかった。器具の使い方を聞かれた事はあったが、それも1回だけだ。
「そうなのか…わかった。できるだけ離れないようにする」
男に真剣な眼差しでそう言われて、女が恋する顔になったのがわかった。
「かっこいい…好き」
だからジムでイチャイチャするな。家でやれ。
「え…そ、そうか…?」
男は少し困惑したようだったが、満更でもなさそうな顔をしていた。
幻滅だ。俺の思い描いていた、この男への幻想は粉々に砕け散り、深い失望と悲しみが心を支配する。悲しみは憎しみに姿を変え、俺は暗黒面へと堕ちていく。
いや、待て。
そこで、我に返る。俺はいったい何をしているんだ。
そもそも、話した事もない全くの他人だ。勝手に幻想を思い描いて、勝手に失望して、何になる。こんな事をしていないでトレーニングに集中しなければならない。
俺は、この情けない男について忘れる事にして、背筋を鍛えるべくラットマシンへ向かった。


ジムに行く前の様子

ハルキは普段社給ジャケットの中に着ているタンクトップにジャージ姿で、スポーツバッグを肩からかけて出かけようとしていた。
フォルクハルトは黒のTシャツにハーフパンツで部屋から出てきた所だった。今から二人でスポーツジムに行くのだ。
フォルクハルトはハルキの格好を見て眉根を寄せた。
「それで行くつもりか?」
「そうだが、それがどうかしたか?」
ハルキは前屈みになって、履き掛けのスニーカーのつま先をトントンと地面に打ちつける。
「襟ぐりの狭い服にしておけ」
「何故だ?」
ハルキはキョトンとしてフォルクハルトを見上げる。
「前屈みになった時に下着見えてるぞ」
「え!…そうなのか…」
驚いたあとに不満げな顔で今し方履いた靴を脱ぐ。部屋に戻りかけて、ふと気になり、フォルクハルトに振り返る。
「それは、今気づいたのか?」
問われて、彼は目を逸らした。
「…………だいぶ、前…」
ハルキの目が険しくなる。
「何故、今の今まで黙っていた?」
「いや…その…異性からは言いにくいだろ。そういうのは」
ハルキは「ふうん」と言って腕を組む。
「なるほど、結婚する前については、それで納得しよう。しかし、今の関係になってからなら、いつ言っても問題なかったと思うが?」
フォルクハルトは気不味い顔で顎に手を当てて考えるが、ハルキを納得させられるような答えは思い浮かばなかった。ハルキも別にまともな答えを期待した訳ではなかったのでフンと鼻から短く息を吐いて、それ以上は追及しなかった。ただ、一つだけ気掛かりな事はあった。
「トミーも気づいてたんだろうか」
ハルキの言葉にフォルクハルトは目を剥いた。トミタロウが見ていた可能性を想像して、苦い表情になる。
「まあ、今更仕方ないか。以後気をつける」
ハルキはそう言い捨てて、部屋に戻ると襟ぐりの狭いTシャツに着替えた。

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