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変革の解 第1部

零、月光


深夜。男は気配を察し、目を覚ました。自分の上に何かがのしかかっている。目を見開くと同時に敵との距離をとる、つもりだった。
「貴様ッ?!」
視界に入ったのは、十歳の少女の顔とその手に握られた短刀だった。月に照らされて冷たい光を反射し ている。 男は思いがけない敵に困惑し、その一瞬の困惑が行動を遅らせた。そして、それが生死を別ける。 少女は躊躇うことなく、手にした短刀で男の喉元を掻き切った。子どもの力とは思えない速さで頚動脈 を切断する。何も不思議なことではない。彼ら自身が少女に教えたことであり、彼らの一族にとって物体 に力を注ぎ速度を上げることなど苦もなく出来る事だ。生まれながらにその能力を持っているのだから。
「ぐがっ—-」
仲間を呼ぶために叫ぼうとしたが、男の喉はすぐに噴き出した血液で詰まってしまった。 少女は、すでに鮮血でべたついた短刀を再び男の首に突き立て、今度は完全に男の首を切り落とした。こ れで確実に追手の戦力は減った。あとは逃げるだけだ。おそらく、異変に気づいた他の男達がすぐにこの 部屋に来るだろう。 少女は手近にあった分厚い本を振り上げた。本に力を注ぎ、自分の全身の筋肉を使って本を窓に振り下 ろす。
ガシャン
大きな音をたて、窓ガラスが割れて雨戸が外れた。少女はそこから跳び出し、暗い森の中へ消えていった。
「何があった?!」
少女の去った部屋に一人の男が入ってくる。
「ディル?」
部屋に充満した血液の臭いに鼻を覆いながら、寝台に倒れたままの仲間の名を呼んだが、返事はなかった。
「誰がこんなことをッ!!」
顔中に怒りが広がり、男は拳を壁に叩き付けた。
「これは…」
後ろから初老の男が現れる。先に入ってきた男とは違い、感情を表に出すことはしなかった。この男は室内を見回すと割れた窓の方へ移動した。 「アーサー様、…ッ?!」
さらにもう一人、若い男が顔を出した。初老の男に何か言おうとして、部屋の惨事に言葉を失う。 「どうだった?クライス。」
内側から割られた窓の外を見ながら、アーサーと呼ばれた初老の男は若い男に問うた。
「はい。いなくなっておりました。」
アーサーはクライスの答えを聞いて目を細める。月明かりの下、風に揺れる木の葉の他に動くものはない。
 「逃げたようだな。」
アーサーの言葉に一番最初に入ってきた男も窓の外を見る。
「あのガキが…あいつがやったんだな?」
男の言葉には誰も答えなかった。
「あのガキがディルを殺した…そういうことだろう?クライス。」
クライスはまだ事態を把握していなかった。
「どうなんだッ!」
怒鳴られてクライスは身を縮ませる。
「落ち着け、ベグゼ。」
アーサーが静かに言う。この中で、何が起こったのか理解しているのはアーサーだけだった。この組織 のリーダーであり、全盛期には二十人近い上級能力者に指示を与えていた。戦いの中で死ぬ者も多く、今 では本人を含めて五人になっていた。
(いや、三人か・・・)
一人は殺され、もう一人は逃亡。
「お前の思っている通りだ。だが、今追っても見つける事は困難だ。ディルのことは…惜しい人材を失った。」
「クソッ」
ベグゼは再び壁に拳を突き立て、外を睨んだ。
月が室内を照らし、ディルの血が赤黒く壁に粘着している様子をその場にいた三人に見せつけていた。
「必ず、仇はとってやるからな…」
ベグゼは外を睨んだまま、さっきまで仲間だったものに語りかける。
「必ず」
この大陸に存在する三つの大国のうち二国は戦争下にあり、周辺の小国はそれに巻き込まれていた。十八年にも渡る聖都をめぐる争いの末、両国の戦力はすでに尽きかけていた。 ひとりの男の死と少女の逃亡という、この歴史に残らぬ事件より十日後、戦争は終わりを告げる。


一、覚醒


一人の青年が大きな欠伸をしていた。茶色がかった癖のある黒髪は、朝、時間がなかったのかハネたままである。着ている黒の上下は異常事態対策部隊の制服だが、本来は膝まで丈があるはずの上着は腿の付 け根辺りまでしかない。ダークブラウンの瞳に涙が浮かんでいるのは、さっきの欠伸のせいだ。 終戦から七年。永世中立国であるサルウッドの首都、ここセイメリアにはあまり関係のないことだが、当時戦乱の中にいた彼にとっては意味のある数字だと言えた。
(俺も今年で十七かぁ・・・) 研究室の一角でガラス越しに何だかよく分からない箱のような物を眺める。三年前に発掘されたものらしい。中身は仮死凍眠とかいう、これまた訳のわからない状態の人間が入っているらしい。
「ちょっとエフォラ。何のんきに欠伸なんてしてるのよ。」
 横から声がして隣の女が青年、つまりエフォラの良く伸びる頬を引っ張った。エフォラは女の手をはたいて彼女の方を不機嫌そうに向いた。 淡い金色の肩まで伸びた髪にはウェイブがかかっていて、南の青々とした海を思わせるような瞳がエフォラを睨んでいる。名前はティア…なんとかかんとか。長いのでエフォラは呼ぶときに使う部分しか覚えていない。
「俺の美顔が変形するだろーが。」
 「美顔?童顔の間違いでしょ?」
「うっさいタレ目。」
「目上の人に対してそういう態度はどうかと思うわ。おチビさん。」
的確に相手の特徴を述べあって火花を散らす。
「…あのう」
研究員の一人が申し訳なさそうに口を開く。
 「静かにして頂けますか?」
「あ、すみません。」
ティアは研究員に謝るとエフォラには刺すような視線を送った。 二人は研究員ではない。ティアがエフォラを連れて来たのだが、それを説明するには三時間ほど時間をさかのぼることになる。


「ヤだね。」
エフォラは寮の一階にある食堂で究極に遅い朝食を食べていた。すでに正午を過ぎているので昼食と呼ぶ べきかもしれない。
「別に今日はやる事なくて暇なんでしょ?いいじゃない。」
「ヤだって言ってンだろ?それに俺、今日はやることいっぱいあって暇なんかねぇよ。」
起きたばかりなので体がだるい。
「昼まで寝てた人がよくそんな事言えるわねぇ。何があるのよ?」
ティアが訝しげにエフォラを見ると、エフォラはミルクを飲み干したところだった。
 「メシ喰って昼から寝るだろ。んで、夕食後にまた寝る。」
バンッ
ティアが机をたたいて立ち上がる。
「寝てるだけじゃない!!」
食堂にいた人が全員こちらを向いた。ティアはその視線の主達に適当に愛想笑いで軽く頭を下げ、静かに座りなおした。
「…寝てるだけのように聞こえたんだけど。」
皮肉たっぷりに言ったのだが、エフォラはまったく気にしていなかった。
「おう。一日中寝てるつもりだから、その研究所とやらに行く暇はない。」
 「それを暇って言うのよ。」
ティアが脱力しているのを横目で見ながら、エフォラはデザートのアイスにスプーンをつきさした。
「ちょっと聞いてもいい?」
「あ?」
アイスが口の中で溶ける幸せを実感していたエフォラから、アイスの皿を遠ざける。そして、テーブルを右手の中指で二回たたいてから言葉を続ける。
「ここは、何処でしょう?」
「食堂だろ。」
即答したエフォラに頷いて次の質問をする。
「どういう人に利用許可がおりますか?」
 「メリエーズ教関係者と、その管轄にある組織に所属する者。」
なかなか模範的な解答である。
「それで、あなたのお仕事は?」
「メリエーズ教管轄異常事態対策部隊特殊派遣員。言い方を変えれば、面倒事押し付けられ係。」
エフォラは溶けゆくアイスを見守りながら、面倒くさそうに答えた。
「ちなみに私は誰でしょう?」
最後の質問をしたティアに、エフォラは深いため息をついた。
「メリエーズ教最高神官にして管轄組織の最高責任者。ティア・・・」
「セントメリア・カウマン・クラウリィ。」
エフォラが自分の名前を最後まで覚えていないことを知っていたので、ティアは自分で後を続けた。
「で?」
ニコニコ笑顔で次の言葉を待つティアにエフォラは冷めた口調でそれだけ言った。ティアの表情が固まる。
「それがどうした?」
エフォラは固まったままのティアからアイスを取り返した。ティアが元に戻る。
「そ、それがどうしたって…普通ここで、わかりました行きますって言うでしょ?!」
騒ぐティアの方は向かずに、エフォラは半ば溶けてしまったアイスを口へと運んだ。
「じゃあ、こっちからも質問させてもらうがなぁ。昨日まで俺は何処に行っていたでしょうか?」
「大陸最北端。」
「で、疲れただろうから明日は休んでいいって言ったのはドコのダレでしたかねぇ?」
 「私…だけど…」
ティアが下を向いて何やらもごもご言っている様子を見て、エフォラはここぞとばかりに声を大きくした。
「ほらな?俺は今日、休みなんだよ。だからあんたの言うことを聞く必要はないわけだ。だいたい研究部の ことは研究部がやるって決まりだろ。俺が行くのはおかしいだろうが…そういや、その理由も聞いてないな。と、いうコトで俺は行かない。話は終わり。俺は寝る!!」
エフォラは立ち上がり、その場を去ろうとした。
「これは機密事項なんだけど…」
ティアがポツリとつぶやいた。
「俺は行かんと言ってるだろーが。」
ため息をついて立ち止まる。ティアが立ち上がり、エフォラに顔を近づけた。
「三年前発掘された例の物がやっと解凍できるようになったのよ。」
「ああ、あれか?別に興味ねぇよ。人間らしいって話は聞いたけど。」
ティアが一瞬ほくそえんだような気がした。
 「銀髪のかわいい女の子だったのよ。」
 「何ッ?!」
エフォラがあからさまに反応し、真剣な面持ちにかわる。銀髪は上級特殊能力者が有する特徴だということは一般常識である。
「本当に…かわいいんだろな?」
真面目な顔で問うエフォラに、あきれた笑い顔を浮かべるティア。
「そこはまぁ、食いついて欲しくて言ったんだけど、口に出して欲しくはなかったって言うか…。銀髪の方に反応してよ。」
「いや、だって女のかわいいは当てにならんから確認しておかないと。と思って。」
「あのねぇ…」
ティアは両手を腰にあて、疲れきった様子で首をもたげていた。
「だが、そういう理由なら行ってやってもいいぞ。何故俺なのかがよく分からんが敢て気にしないし。」
ティアが顔を上げる。
「来てくれるなら嬉しいわ。なんで、あんたかって言うと、こう言えば来るだろうと思ったからなんだけど言わない方が良かったかしら?」
 (そう思うなら言うなよ。)
エフォラは心の中でつぶやくと、引きつった笑いを浮かべ、ティアに連れられて研究所に向うことにした。
と、こういう訳である。

「解凍開始します。」 研究員の声に、再びうとうとしていたエフォラは我に返った。解凍終了までには時間がかかるらしく、もう しばらくは寝ていても良さそうだ。だがしかし、ティアはそうは思っていなかった。腕を組み目を閉じて 寝ようとしているエフォラを突付き、話しかけてくる。ただし、今度は声を殺して。
「なんで、この子仮死状態なんかしてたのかしら?」
「さあ?自分の意思なのか、誰かに何らかの理由で保存されたのか。」
 「あ、そうか。自分でやったとは限らないか。」
エフォラはティアの応えを聞いて、気が重くなった。こんな人間が上司で大丈夫なのだろうか。 「でも、保存されていたんだとしたら誰が何の目的で保存したのかしら?物自体は最近の物だって言ってたから取りに来るなりもっと別の場所に移すなりすればいいのに。」
「…知るか。移動させようとしてたのに、その前にお前らが発掘したんじゃないのか?」
エフォラは「最近の物」という言葉に顔をしかめた。この物体は今の科学技術より多少なりとも進んだものである。この大陸で科学の最先端と謳われているセイメリア研究所でも解凍方法の研究に三年かかった。 確かに、ここより進歩した技術を持った集団はないとは言わない。だが、エフォラはなんとなく失われた古代文明の遺産というイメージを持っていた。
 (…夢、見すぎか。過去に栄えた文明があったなんて。)
「最終段階に入ります。」
研究室内に緊迫した空気が流れる。
 「ねぇ…」
また、ティアが話しかけてきた。
「あ?」
「封印ってことはないよね?開けたらまずいモノだったらどうしよう…」
「女の子なんだろ?まぁ、上級特殊能力者ってのはすごいけど。そんなにヤバイんなら保存する必要がないだろ。悪霊とかじゃないんだから。」 「そう…だよね。」
エフォラは、いまさら何を言っているのかとあきれた顔をしていた。
しばらく様子を見ていると、研究員たちの手が止まった。
「解凍終了しました。これより、医療班による検査が行われます。」
終了の合図とともに別室に控えていた医療班が発掘物のある部屋へと入っていく。
「お!もう見てもいいのか?」
エフォラがわくわくを抑えきれずにティアに聞く。
「いいんですか?」
「見るだけなら、どうぞ。」
ティアが研究部長に確認をとり、返答を聞いてエフォラに頷いた。 さっきの眠気はどこへやら、エフォラは医療班と一緒にガラスの向こうの部屋に入ると箱の中を覗き込ん だ。
中にいたのは十三、四才の少女だった。 端整な顔立ちで、長い銀髪は絹糸のように繊細でつややかである。確かにかわいいかもしれない。が、しかし…。
「おい、ティア…」
「何?」
少女を見つめたまま、エフォラは不服そうな声を出した。
「ガキじゃねぇか。」
「かわいいでしょ?」
ティアはにっこりと微笑んだ。
「いや…そうかもしれんが…」
「かわいいでしょ?」
もう一度同じコトを繰り返す。
「せめて、あと2年…くそぅ…」
「か・わ・い・い・で・しょ?」
「うぅぅ…はい。そうですね…」
ティアに詰め寄られて、しぶしぶ同意する。
と、ティアから少し離れようと一歩下がった瞬間に床を這うコードに足を取られる。
「うおっ?!」
その場にいた全員が凍りついた。少女はまだ眠ったままだ。少女の方に転倒しかけたエフォラは咄嗟に何かにつかまろうとして、少女の入った箱の縁に手をかけた。
ほっとしたのもつかの間、今度はその手が縁からすべり落ちる。
「--ッッ@#$*%!!?」
声にならない悲鳴を上げて、エフォラは箱の縁で思いっきり脇を打った。滑ったほうの手が体温を取り戻 した少女の肩に触れていた。 次の瞬間。エフォラ以外のすべての人が少女の方を向いた。何が起こったのかと、エフォラも振り返る。 少女はそのスカイブルーの双眸を見開いていた。
「…だれ?」
それが、その少女の目覚めて最初の言葉だった。 目覚めた少女はまっすぐにエフォラを見ていた。研究員たちと医療班の小さなどよめきがあった。エフォラはただ呆然としていた。いろいろな人の努力を台無しにした気分だ。
 (違う。俺のせいじゃない。こいつが勝手に起きたんだ。俺がうっかりこけて触れたから起きたわけじゃ ない。違うんだ。だいたい、仕事を減らしてやったんだからむしろ感謝されるべきなんだ。俺は悪くな い…悪くない…はずだ。多分。)
 エフォラは懸命に自分に言い聞かせた。それが、言い訳だろうと正当化だろうとなんでも良かった。とにかく、自分は悪くないと言い聞かせていた。誰もせめてはいないのだが、無言の重圧に冷や汗が頬をつたう。
「誰?」
少女はもう一度エフォラに同じ質問をした。ティアがエフォラを冷めた目で見ていた。
「答えてあげれば?」
視線と同じ冷たい声で言う。エフォラは慌てて少女から離れると周りをきょろきょろと見回した。全員が 今度はエフォラを見ている。
「…俺?」 
「あんた以外に誰がいるの。」
少女はゆっくりと起き上がり、あたりを確認することもなくエフォラをじっと見つめていた。
「誰?」
三度目の質問。 エフォラは一瞬この少女は「誰?」という言葉しか知らないか、そういう鳴き声の人に似た生き物なのでは ないかと思った。エフォラは少女を見つめ返した。 見たことがある…気がする。何か引っかかるものを感じながらエフォラは答えた。
「エフォラ・リライ。特殊能力者だ。そして、ここはサルウッドの首都セイメリアにある研究所だ。」
少女は顔をしかめた。エフォラはその顔を確認してから続けた。どこかで見た事がある気がするが、思い出せない。最近ではないが、どこかで…。
「お前こそ誰だ?」
「…」
少女はエフォラを見つめるばかりで、何も答えようとはしなかった。
「まだ、覚醒したばかりで意識がはっきりしていないんです。あまり、質問をしないで下さい。混乱します。」
医療班の一人が咎めるように言った。
「この目が意識がはっきりしてないように見えるか?」
少女の瞳は意思を宿し、そこにエフォラを映し出している。エフォラは少女をじっと見つめ返していた。少女もエフォラと同じ何かを感じているのかもしれない。
「しかし!」
「今の会話は理解できたか?言葉はわかるか?」
医療班の抗議の声を無視してエフォラは少女に話しかけた。少女は無言で頷いた。
「口で答えろ。」
「わかる。」
少女の答えに頷いて、エフォラはさらに続けた。
「じゃあ、もう一度聞く。お前は誰だ?」
「………」
少女はやはり答えない。
「もう、いいでしょう。これは我々の仕事です。」
さっきの医療班員が明らかに怒りのこもった声でエフォラの腕をつかみ少女から引き離す。エフォラは少女を凝視したまま後ろに下がった。
(見たことがある。いつ?どこで?)
「どうしたのよエフォラ。私が冷たくしたからってあの子にあたることないでしょ。」
 「違う。」
ティアの冗談に付き合う気にはならない。
「急にどうしたちゃったのよ?」
ティアの声がやや心配したような様子に変わったので、エフォラは少し心を落ち着けた。
「いや…なんでもない。」
「それなら、出ましょう。険悪な空気になってるから…」
ティアの提案に、エフォラは頷いてその場をあとにした。 少女はずっとエフォラを見ていた。エフォラが部屋を出た後も、出て行ったそのドアをずっと見つめていた。

研究所を去って、エフォラとティアは食堂に戻った。道中、エフォラは真剣な面持ちで一人で考え込んでいたが大分落ち着いたようではあった。
「落ち着いた?」
「ん?ああ。悪いな、研究部から文句がでなけりゃいいけど…」
「まあ、それは大丈夫よ。」
ティアは能天気にそう言った。
 「何の根拠があってそう言えるんだよ?」
「私、研究部長と仲いいし。」
エフォラは苦笑した。何かが根本的にズレている気がする。
「そんなことより、なんで急にあんなことしたの?」
エフォラは「あんなこと」が何を指しているのか考えた。
「あんなことっていうのは、倒れたことか?それとも質問したことか?」
「両方。」
「…前者は、ティアがあんなところでふざけたからだ。よって、あれはお前が悪い。俺の責任じゃない。」
ティアは文句を言いたそうな顔をしていたが、それを無視して話を進める。
「後者は…俺にもよくわからん。ただ、見たことがあるような気がしたんだ。いつ何処でかも思い出せないが、多分見たことがある。」
「他人の空似じゃない?世の中には似た人が三人ぐらいいるらしいし。」
エフォラは怪訝な顔をした。
「そういうもんか?」
「そういうもんよ。でも、あの子も名前ぐらい言えばいいのにね。」
ティアの言葉にエフォラは呆れ顔になった。
 「あのなぁ…俺の質問の反応から読み取れよ。」 「何を?」
きょとんとしているティアに、エフォラはため息をついた。
「記憶が欠落してる可能性がある。そうでなけりゃ、何か言えない理由があるんだ。」
「記憶喪失ってこと?あの質問でそんなこと分かるの?」
疑いのまなざし。
「あれ、そう古いものじゃないんだろ?サルウッドが大国になってから何年経つ?いくらなんでも名前ぐらい知ってるはずだろ。だが、あの顔は知らないって顔だった。自分の名前も言えない。ってことは、記憶喪失と考えるのが妥当じゃないか?」
「そうかしら?」
ティアはいまいち納得できないようだったが、エフォラはこれ以上ティアと会話を続けるつもりはなかった。
「って事で俺はもう寝てもいいか?」
 「寝る?!まだ、昼過ぎよ?」
今度はティアがあきれた顔をする。
「別にいいだろ。俺が何時寝ようと俺の勝手なんだから。」
「…はいはい。じゃあ、私は退散します。また、何かあったら連絡するから。」
ティアは一方的に言って去っていった。 エフォラはティアを見送って、それから二階の自分の部屋へと戻った。 別に寝るつもりもなかったのだが、ベッドに寝転がると、昨日の疲れがまだ残っていたらしく、すぐに眠り に落ちてしまった。

二、決定


次の朝。エフォラはドアをたたく音に起こされた。
「エフォラ!さっさと開けなさいよ!まだ寝てるの?!」
ティアの声だ。エフォラは眠気眼で時計を見る。十時だ。 むくりと起き上がって、その違和感から自分の格好を見ると昨夜そのまま寝たことを思い出す。そして 若干の後悔をする。制服がしわだらけになってしまった。
「うるせぇ!俺はこの時間は普通寝てるんだよ!!」
叫んで、布団にもぐりこむ。
「あのねぇ、エフォラ。そういうことしてると、勝手に開けるわよ。人が準備する時間あげようと思って起 こしてるんだから素直に起きなさい!」
ティアがドアの外で喚いているが、その声は布団のおかげて先ほどより小さく聞こえる。エフォラは無視 を決め込んだ。
「エフォラ!ちょっと、聞いてる?開けなさいって言ってるでしょ…もう!」
遠ざかっていく足音を聞いてエフォラは布団の中で勝ち誇った笑みを浮かべた。これで、安心してまた眠れる。制服はもうこの際どうでもいい。これ以上しわが増えたところで大差はないだろう。 と、二人分の足音が再びこちらへ向かって来た。
「この部屋です。急用なので開けてください。」 「わかりました。」
ティアと寮の管理人の声だ。続けて、鍵を開ける音がした。
「おい!」
エフォラが飛び起きると既にそこにはドアを開けたティアがいた。去っていく管理人に軽く礼をしている。
そして、こちらを向いて眉間にしわを寄せる。 「あんたそんな格好で寝てたの?」
「昨日そのまま寝ちまったんだよ。」
ベッドに腰を掛け顔を背ける。ティアは肩をすくめてから、後ろを向いた。
「入って。」
エフォラはそのとき始めてティアの後ろに人がいたことに気づいた。返事をするでもなく、入って来たの は女の子だった。澄んだ空色の瞳に長い銀髪。間違いなく、昨日の少女だ。少女は部屋の中を一通り見回 してからエフォラを見た。昨日とは何か違う雰囲気である。覚醒から時間が経って落ち着いたという事だろうか。 それはともかく、今度はエフォラが眉間にしわを寄せる。ティアが少女をここに連れてきた意味が分からない。
「どういうことだ、ティア。」
「ん?ああ、この子ね。私が預かることになったの。ここに座って。」
ドアを閉め、少女に椅子を差し出しながらティアは答えた。少女は椅子にちょこんと座る。
「あの後…私たちが出て行った後なんだけど、この子何にもしゃべらなくなっちゃって、研究部もお手上げ。医療班が検査したけど、どこにも異常はなくて…まぁ、それはいい事なんだけど、どうしようか?って事になって私の方まで話が上がってきたから、とりあえず私がしばらく預かることにしたのよ。」
エフォラは、「ふうん」と相槌をうった。
「で、何で俺の部屋に連れてきたわけ?」
 「エフォラとはしゃべったじゃない。それに、やっぱり能力者のことは能力者が一番よく知ってるだろうと思って。私が一番手っ取り早くものを頼める能力者っていうと貴方でしょ。」
エフォラは頬を引きつらせた。
「あのなぁ…能力者と上級特殊能力者を一緒にすんなよ。」
「何か違うの?上級能力者のほうがすごいだけじゃないの?」
「…お前、よくそれで最高責任者務まるなあ。」
エフォラの言葉にティアが腹を立てた。 「務まってます。何よその言い方。あんた能力使えない人馬鹿にしてるでしょ。」
「してねーよ。お前の無知を哀れんでるだけだろ。」
 「あんたねぇ…まぁ、いいわ。何が違うのよ。説明して。」
エフォラは寝癖だらけの頭を掻いて、説明を始めた。
「一般に能力者と呼ばれてる正式名称、特殊能力者って言うのは、ある特定のエネルギーを他のエネルギーに変えたり移動させたりする能力をもってるんだよ。つまり、エネルギー保存の法則に従ってるわけだ。分かるな。」
ティアは不満そうに頷く。
「で、一方上級特殊能力者、通称、超能力者っていうのは自分でエネルギーが作り出せると解釈されてはいるが、まあ何処からか不思議な力で謎の現象を引き起こせるわけだ。」
ティアはまた力強くうなづいた。
「な、違うだろ?」
「それはよくわからないけど、今ちょっと時間がないから私の用件をさっさと話したほうがいい事が分かったわ。」
エフォラは脱力した。
(なんで無駄な努力をしてしまったんだ、俺。) 「で、預かることになったのはいいけど、私って実は結構忙しいのよね。だから、私の仕事が終わるまでエフォラが面倒見てあげて。」
 「俺は託児所じゃねーぞ!だいたい俺だって仕事が…」
言いかけたところをティアが手で制す。
 「あなたの今日の仕事はこの子の面倒を見ることです。わかりましたか?エフォラ・リライ特殊派遣員。」
「知ってるか?そういうのを職権乱用っていうんだぞ。」
「あ、そうそう。その子名前がわからないんだけど、発掘された箱に『ウィルリウナ』って書いてあったから研究部ではそう呼んでるの。エフォラもそう呼んであげてね。」
ティアはエフォラの言葉を敢えて無視した。エフォラはあきらめてため息をつくと、ティアの話に応えることにした。
「ウィルリウナ?長くないか?せめてウィルぐらいにしようぜ。」
「ウィルじゃ男の子みたいじゃない。」
言われてエフォラはそれもそうかと思う。
「ウィルリウナだろ?ウィル…ウィルリ…」
真剣に考えるエフォラにティアは内心ほくそ笑んだ。
「…ウィルル…ってのはどうだ?」
 「いいわよ。じゃあ、ウィルル。あとはエフォラと遊んでてね。私仕事行ってくるから。」
言ってティアは部屋を出て行く。
「あ!しまった!!おい、ちょっと待てよ!」
慌ててエフォラが追いかけようとドアを開ける。
「あ、エフォラ。ウィルルに変なことしないでよ!」
廊下を少し行ったところでティアが振り返りそう言った。
「するか!!」
ティアはそれを聞くとニコっと笑って階段を下りていく。エフォラはその場に残されてがっくりと肩を下ろす。 
「はめられた…」
何かが服の袖を引っ張った。見るとそこにはさっきまで座っていたはずの少女がいた。
「エフォラ」
なんの表情を作るわけでもなく、名前を呼びエフォラを見ている。多分、特に意味はないのだろう。あるとすれば、あなたの名前覚えてるよ。ぐらいの意味なのだろう。そんなウィルルを眺めて、エフォラは今日一日分の疲労感を感じずにはいられなかった。

三、予感


午前十一時、セイメリアの中心からやや東にあるカウマン通り商店街は活気にあふれていた。買い物客と観光客、それを呼び込む店員の声、店頭で焼かれるクレープの香ばしい香りと、そこに列んだ女性達の楽しげな声、飲食店は昼食時の準備で慌ただしくしている頃だろうか。エフォラは久しぶりに街の空気を感じながら商店街を歩いていた。しばらく大陸の最北端にいた身としては、暖かいのが何よりありがたい。 ウィルルはその後ろについて歩いていた。 仕事で休みの様なものをもらったのだから、時間は有効に使わせてもらおう。エフォラはそんな事を考 えていた。 エフォラは普段あまりセイメリアにはいない。異常事態対策部隊の寮に自分の部屋はあるものの、寝る以外に使うことはほとんどない。特殊派遣員という仕事上、地方に泊まりがけで行く事が多く、部屋に帰るのは多くて二、三日に一回。一ヶ月帰れないことも頻繁にあった。帰っても専ら夜中なので、店の開いている時間にはセイメリアにいない。加えて、休みの日は大抵寝て過ごしている。そのため、私物と呼べるものはほとんど持っていない。所持しているのは、特殊派遣員の制服数着と生活に必要な最低限の物だけだった。私服も、一着しかない。もっとも、着る機会もほとんどないのだから、必要ないのかもしれない。 今日は名目上は仕事ということで制服で来たのだが、目立っている事は分かっていた。通り過ぎる人が 皆振り返って自分とウィルルを見ている。
(特殊派遣員がセイメリアにいるだけでも珍しいのに、その上、上級特殊能力者連れて歩いたら、そりゃあ 目立つよなぁ…)
「よお、エフォラ。珍しいな、こんな時間に。制服着てるってことは仕事か?」
 声をかけられ、エフォラはそちらを向いた。声の主は、エフォラと同じくらいの年齢の赤毛の青年だった。 大きな荷物を運んでいる。酒場の調理見習いのジャノだ。
「お前こそ、こんな時間に何やってんだ?」
 「買出しだよ。見りゃわかるだろ?あ、そうそう。うちのマキ姉さんがエフォラが最近こなくてつまんないって言ってたぞ。時間あるなら顔出せよ。なんなら、今からでも来るか?」
 エフォラは眉間にしわを寄せた。
「マキさんもお前も俺のことからかって遊んでるだけだろ。それに、今日は子守しなきゃならんから行けねえよ。」
言って、目でウィルルを指す。
男は目を丸くしてウィルルを見ると、感嘆の声を上げた。
「へぇ~。なんかスゲェことしてるなぁ。」
「すごくない。ただの子守だ。」
「あ、でもまだ開店してないから、子供が来ても大丈夫だぜ。客がいるわけでもないし。昼飯まだなら、食べていけよ。安くするからさ。」
昼飯と言う言葉に引かれ、エフォラの心は揺れた。少し早いが、そういえばそんな時間だ。
ぐきゅるるる 腹の虫が鳴いた。エフォラのではない。見ると、ウィルルが物欲しそうな顔でエフォラを見ていた。その姿にジャノが笑う。
 「はっはっは!嬢ちゃんも腹減ったか?来いよエフォラ。姉さんも喜ぶ。」
「わかった。行くよ…」
顔に手をあて、ため息をついてエフォラはジャノの後についていこうとした。
「———!!」
エフォラは後ろを振り返った。背中に嫌な視線を感じたような気がしたのだが、そのあたりには誰もいない。道行く人が通り過ぎていくだけだ。
「どうした、エフォラ?」
ジャノが、エフォラが足を止めたことに気づいて振り返る。エフォラは視線を感じたほうをじっと見つめていた。嫌な視線は感じなくなっていた。気のせいだったのだろうか??
「…いや。なんでもない。」
ジャノにはそう答えたが、かわりに嫌な予感だけが残っていた。
 (…まさかな。)
狙われる理由などない。そんな覚えのある事は最近していない。
 (気のせいだ。考えすぎだろう。だいたいこの国であんな感じの悪い気配を出せる奴なんかそうそういない。まして、それを瞬時に消せるような奴も…)
「さっさと行こうぜ。そんな所に突っ立ってると通行の邪魔になるぞ。」
 「ああ」
言われてジャノの方に向き直ると、エフォラはその場を後にした。その後をウィルルが追いかける。
三人は大通りから少し外れた場所にある酒場に向かった。
「closed」の看板のかかった酒場の裏口に向かい、ジャノは入ってすぐの倉庫へ向かった。
 「ちょっと待っててくれよ。すぐ終わるから。」
廊下の右手奥には厨房があり、その向かいにはカウンターがある。倉庫の横には店員の控え室があり、そ こから談笑している女達の声が聞こえていた。
ジャノが倉庫から出てきた。
「悪いな。先に行ってもらってもいいんだが、いきなりだと・・・・ほら、姉さんの都合もあるからさ。」
そう言って、困ったように笑う。
「…そうだろうな。こっちは別に急がないから、ゆっくりやってくれ。」 
「ありがたいねぇ」
ジャノは肩をすくめて、隣の部屋の戸をノックする。
「マキ姉さん。エフォラ連れてきたよ。」 「え?!」
戸の奥から聞こえていた談笑が消え、急にバタバタと音がする。
「昼飯まだらしいから、なんか作ってやりたいんだけど厨房使ってもいいかな?」
「何、馬鹿言ってんの!あんたの半人前料理を客にだすつもり?」
「半人前じゃないっスよ。この前シェフに三分の二人前ぐらいになったんじゃないかって言われました。」
ウィルルのお腹がまた鳴ったのが聞こえた。
「ちょっと待ってなさい。私が作るから。」
「マキ姉さんよりは、俺の方がうまいと思うけど…」
赤毛の男が聞こえないように小さな声で言う。
戸が開いた。
「んんん?もう一回言ってくれる?ジャノ。」
上品な微笑みが戸の間から見える。ストレートの黒髪がさらりと肩から落ちた。それを耳にかけ直して、 マキはエフォラに会釈した。清楚で可憐なイメージを受ける女性ではあるが、その奥に毒が見え隠れする。 この店の姉御的存在であり、看板娘である彼女は夜用の化粧はしていないが、十分に美人ではあった。もとがいいのだろう。
「髪、黒くしたんですか。」
マキのヒールに足を踏まれたジャノのことは敢えて無視して、エフォラはマキに話しかけた。
「ん?ああ。久しぶりねエフォラ。そう!黒くしてみたの。どう?」
「あ、えと…似合うよ。なんか落ち着いた感じ。」
「エフォラ、あんまり褒めるなよ。調子に乗るから。」
ジャノが痛そうに足を抱えながら口をだし、マキに頭をたたかれる。
 「ありがとー♪うれしいわ。昼ごはんだったわよね?すぐ作るからちょっと待っててね。ほら、あんたたち、出来るまでお客さんを暇にさせちゃだめよ。」
部屋の中にいた数人の女たちがマキの指示で、外に出てくる。
 「じゃあ、食堂に行きましょう。」
 「エフォラさん、最近来なかったけど何処に行ってたんですか?」
「まさか、他のお店行ってたんじゃないでしょうね。」
二人の女性店員が矢継ぎ早にエフォラに話しかける。
ジャノが立ち上がった。
「お前らうるせーよ!エフォラの相手は俺がするから引っ込んでろ!」
怒鳴り散らしてエフォラの腕を引っ張る。
「相変わらずここは騒がしいな。」
 「教育がなっていなくて申し訳ない。まぁ、あの二人の上司はマキ姉さんだからしょうがないんだけどな・・・。」
「そんなこと言ってると、また殴られるぞ。」
エフォラが半分あきれながら低い声で忠告すると、その予言通りに厨房からボウルが飛んできて、ジャノに命中した。
「ほらな。」
言ったエフォラと飛んで来たボウルを交互に見て、ジャノはつぶやいた。
 「地獄耳かよ。」
後ろでウィルルの腹の音がする。
「あれ?この子どうしたんですか?」
さっきの女性店員の一人がウィルルに気づいた。 「ああ、それはエフォラの」
「かわいい~!何?どうしたの?どこから来たの?名前は?」
 「きれいな髪してるわねぇ…これって地毛?いいなぁシルバーかぁ。」
ジャノが答えようとしたのをさえぎって二人はウィルルの前にしゃがみこんで歓声をあげていた。
ウィルルは驚いたらしく、目を丸くしている。「…人の話聞けよ…」
ジャノは肩をおとして力なく首を横に振っていた。
「エフォラさん。どうしたんですか?この子。あ!もしかして、エフォラさんの…きゃ!」
何か言いかけた三つ編みの女性店員の頭をグーで殴ったのはもうひとりのショートカットの店員だった。
「仕事の関係の子?こんなところに連れてきていいの?」
「ああ、今日ちょっと預かってるんだけど、社会勉強と思えばいいんじゃねぇの?」
エフォラは軽く答えたが、ショートカットの店員はしかめっ面をしていた。
 「社会勉強にしても早すぎるんじゃない?営業中じゃないからいいけどさぁ。」
 「え?俺はじめてここに来たとき、そのくらいの歳だったけど。しかも営業時間だったろ。」
ため息をつかれてエフォラは少し気分を悪くした。
「あれは、迷子になってるところをマキ姉さんに連れてこられたんでしょうが。」
「ああ、そういやそうだったな。俺も見習いになったばっかりの頃だったよな。特殊派遣員の制服着て、この辺の店の女に囲まれて困ってたんだっけ?」
「なっ・・・」
ショートカットの女性店員とジャノに言われて、エフォラが赤面する。
 「そんな昔のことどうでもいいだろ!」
 「言い出したのあんたじゃない。」
ショートカットの店員に言われて、返す言葉もなく顔をそむける。三つ編みの店員はつまらなそうにしていた。
 「な~んだ。隠し子じゃないのか。」
「「それはない」」
ジャノとショートカットの店員が同時に否定した。
そんな様子で、二人の店員とジャノの話を聞いたり、大陸 最北端の様子などを話しながら時間をつぶす。
しばらくすると、マキが厨房から出てきた。
「できたわよ。」 香ばしいチーズの香りがしている。
「ありがとうございます。」
 エフォラが礼を言うと、マキはクスッと笑った。
「安くはするけどタダじゃないわよ。勝手に無料で提供すると店長に怒られるから。はい、あなたもどうぞ。」
マキはテーブルに皿を置いて、ウィルルをそこに行くよう促した。ウィルルは喜ぶでも礼をするでもなく、 そこへ走っていって食べ始めた。よほどお腹が空いていたのだろう。
「また、面倒な仕事してるみたいね。」
 マキに話しかけられ、エフォラは動かしかけた手を止めた。
「別に面倒じゃないけど、ティアにうまいこと利用されてる気がする。」
 「あら、気に入られてるのよ。エフォラが可愛いから。」
「…あの、一応もう17なんですけど。」
笑顔で言ったマキに、エフォラは苦笑を返した。 「エフォラ、無駄な努力するなよ。どうせお前は年上に好かれる運命なんだ。それで、可愛いとか言われるんだよ。これからもずっと。な。」
 いつのまに持ってきたのか頭を氷で冷やしているジャノが、哀れみの目でエフォラを見ていた。 エフォラはやっぱり来るんじゃなかった、と思いながら熱いグラタンを口に運んだ。

四、衝突


マキやジャノとしばらく話したあと、エフォラは買い物を済ませてティアがいるはずの大聖堂へと向かった。今の時間なら最高神官室で書類に目を通しながらお茶でも飲んでいる頃だろう。 大聖堂の正門から十数人の聖職者が出てくる。奉仕活動にでもいくのだろうか。エフォラが軽く会釈 すると、向こうも小さく頭を下げた。 神官や巫女は白を基調とした服を着ているのに対して、異常事態対策部隊は黒を基調とした格好をする。 白い団体と黒い人が互いに礼をしている姿ははたから見たら不思議な光景かもしれない。エフォラはなんとなくそんなことを考えていた。 と、何かがエフォラの袖を引っ張る。見るとウィルルがエフォラの後ろに隠れる形で袖をつかみ、目を見開きじっと去っていく聖職者たちを見ていた。
「どうした?」
街を歩いていてもほとんど何にも興味を示さなかったウィルルが、明らかに聖職者たちを避けている。
(いや、警戒か?)
どちらにしてもエフォラには分からなかった。何をされたわけでもない、それどころか彼らは友好的ですらある。
(まぁ、俺以外の特殊派遣員にならそう友好的でもないだろうけどな。)
教会のことは教会がやる。ただの縄張り意識か、誇りか、それとも分業か。それは分からないがこの国にはそういう風潮がある。そのため、他の管轄の人間が自分達の管轄域に入るのを嫌う。もちろん、ここは誰もが礼拝できる大聖堂である。礼拝時間に来るのはむしろ歓迎される。しかし、礼拝時間外である今の時間に好意的に迎えてくれるのはエフォラがティアと行動していることが多いからだ。 ウィルルは聖職者たちの白い姿が視界から消えるまでエフォラの影でじっとしていた。
「いいか?」
ウィルルの手の力が弱まったところでエフォラは歩き出した。 最高神官室は大聖堂の2階にある。エフォラには信じる神はいない。礼拝堂を無視して階段を昇り目的地へ直行する。最高神官室の前で止まると、ノックをした。
「異常事態対策部隊特殊派遣員エフォラ・リライです。」
「ああ、入って。」
中からティアの、のんびりとした声がした。中に誰かいると困るので形式的に名乗ったのだが、どうやら特に問題はなかったらしい。 エフォラは扉を開け、礼もすることなく中に入った。ウィルルが中に入ったのを確認して扉を閉める。 ティアは予想通りティーカップを傍らにおいて今日渡された書類を睨んでいた。
「どうかした?」
書類からは目を離さずにエフォラに聞く。
「どうかした?じゃねぇだろ。人に子守押し付けといて…」
「私、忙しいのよ。用がないなら出てってくれる。それとも、手伝ってくれるの?」 「………。」
冷たくあしらわれて、エフォラはムッとした。
「ああ、そうですか!そりゃあ、悪うございましたね!!どうせ俺は暇ですよ。」
口をへの字に曲げてそっぽを向いたときに、初めてティアが顔を上げる。
「本当に暇だったのね。」
言って、目でエフォラの提げた紙袋を指す。
「こ…これはっ…いいじゃねぇか!いつも忙しくて時間ないんだから、たまには買い物したって。」
「ウィルルに服でも買ってあげた?」
「なんで俺がそんなことするんだよ。」
ティアはあきれ顔をした。
「あんた、自分の買い物に女の子連れまわしたの?」
「連れまわしたって…何もそんな言い方しなくても…」
ティアは聞いている様子もなく書類に視線を戻して、それからふと顔を上げた。
「……変な店、行ってないでしょうね?」
「なんだよ。変な店って。」
「あの、裏通りの酒場。あんた常連客でしょ。」 「…!いや、行くわけないだろ。昼間だぜ?営業してないし。」
ティアは、またもエフォラを無視して今度はウィルルに笑顔で話しかけた。
「ウィルル、楽しかった?」
ウィルルは無言で頷いた。
 「そう、よかったわ。何処で何したの?」
「女の人がいっぱいいるところでご飯食べた。」 「そぉ、ご飯食べたの。おいしかった?」
ウィルルはまた頷いた。
 「女の人が、いっぱいいる所で。」
ティアは不適な笑みを浮かべてエフォラを見た。 「いや、ちょっと待て!あ、あれはあそこの調理見習いに偶然あって、昼飯をごちそうしてくれるというから行ったのであって決してマキ姉さんとかに会いに行ったわけではなく、まして営業してないから客がいたわけでもなくなんら子どもに悪影響を与えたりはしないはずっ!!」
「エフォラが行くのは勝手だけど、ウィルルをそういうところに連れて行かないでよね。」
 威圧的な態度でくいっと紅茶を口に運んだティアに、エフォラはただ従うしかなかった。
「はい。もう、しません…。」
「そうだ、エフォラ。買い物してるとき何もなかった?」
カップをおき、ティアは書類の山を漁り始めた。 「?いや、何も。」
 「ふーん。ならいいんだけど。あ、あったあった。」
書類の中から一通の手紙を取り出しエフォラにさしだす。
「なんだこれ?」
「とりあえず、読んで。」
エフォラは言われるままに封筒から手紙を取り出し、中を読んだ。 エフォラの表情が強張る。
「…どういうことだ?」
 「書いてあるまんま。本当かどうかは分からないけど。」
エフォラはしばし考え込んだ。
 「可能性はある。商店街を歩いてるとき嫌な視線を感じた。」
 「どうする?内密にしたほうがいいとは思うけど。確証はないわけだし。」
「でも、放っておくわけにもいかんだろ。」
 「やっぱり、あんたがやるしかないと思うわ。」
「やっぱりそうなるのか。」
「頑張って。異常事態対策部隊。」
 「…特殊派遣員ってとこはどうなるんだ?」
ティアと話し込んでいると、ウィルルが腕を強く引っ張った。
「?どうし……!」
視界の端。窓の向こうに何かが光る。
「伏せろ!!」
叫ぶと同時にウィルルをかばう形でしゃがみこむ。
窓ガラスが耳を劈くような音をたてて割れ、横殴りの雨のように降ってくる。
エフォラの耳を何かがかすった。
「———ッつ!」
床に刺さったのは片手に収まる程度のナイフだった。 音がおさまったところで辺りを見回すと、床には割れたガラスに交じってさっきのナイフと同じものが数本 刺さっていた。エフォラとウィルルはティアの机の陰にいたのでほとんど怪我を負わずにすんだようだった。
「?!」
 違和感を感じ、エフォラはウィルルを突き飛ばすと、自分は逆へ転がった。そこに新たなナイフが突き刺さる。 エフォラは先ほど自分の耳にかすったナイフを床から抜き取ると、振り返りざまに机の上空に放った。放っ たナイフは急激に減速し、ありえない場所で完全に停止するとそのまま床に落ちた。乾いた音が響く。 机の上には黒い革製の服を全身にまとった女が立っていた。銀色の髪を後ろでまとめ上げ、氷のような目をした女。
(上級能力者?!)
エフォラは反射的に右手をかざし叫んだ。
「光れ!」
瞬間、室温が下がり女の目の前に大量の光が発生する。
(とにかくウィルルだ)
あの手紙の内容が本当ならば、一番危険なのはウィルルだ。女の視力が回復する前に、エフォラはウィルルの所に駆けつけた。
「っくそ!」
常備している武器を、一式部屋においてきたことを後悔したが、今はそんな場合ではない。
(逃げなければ。逃げるんだ。こいつの目の届かないところに、逃げるんだ。ウィルルをつれて逃げる。)
エフォラは頭の中でそう繰り返していた。
(だが・・・・・どうやって?)
何の考えも思いつかぬまま敵を見据える。
(時間を稼げ。機会を待つんだ。必ず突破口はある。)
「なんなんだお前は!何が目的だ!!」
万に一つに望みをかけて、会話を試みる。依頼された暗殺者であれば無意味だ。彼らは仕事を淡々とこな す。目標をこの世から消すことしか頭にない。
だが、女はそうではないようだった。もし、そうであれば、エフォラが無駄口をたたいている間に次の一撃が放たれていたはずだ。
「自分の命が惜しくば、そこをどけ。」
 「…どうやら、あの手紙に書いてあったのは本当のことらしいな。」
「どけ。」
「俺は事前にお前のことを知っていた。この子を殺そうとしている奴がいるってな。手紙に書いてあったんだ。」
女の顔にわずかに驚愕の色が浮かんだ。
(今か?!)
瞬間、エフォラの背筋が凍った。 ドアの外、廊下からだ。目に見えない何かが膨れ上がっている。商店街で感じた殺気。 女は瞳に憎悪を燃やしドアを睨みつけたが、すぐに後ろにとび、窓から逃げていった。 エフォラが何が起こったのかわからずにいると、ドアが開き、三人の男が入ってきた。皆、白い服を着ているが聖職者の成りではない。
「危ないところでした。大丈夫でしたか?」
先頭の初老にさしかかった男が声をかけてくる。
「…は、はい。」
「ウィルリウナも無事ですか?」
後ろに控えた若い男も口を開く。
「え?・・・あ、大丈夫か、ウィルル?」
振り向くと、ウィルルは小さく頷いた。見たところ怪我はないようだが、手が震えている。よほど怖かったのだろう。
 (まあ、普通の神経ならそうだよな。)
エフォラはそう思い、ウィルルの頭をなでてやった。
「手紙は読まれましたか?」
初老の男が問いかける。
もう一人の中年の男は女の逃げて行った窓の外を睨みつけていた。
「あ、はい…」
答えてエフォラは、ハッとした。
「そうだ!ティア!!」
机を見るとその下から白い手がにゅっと出てきたところだった。
「私ならここにいるわよ。…手紙は拝見しました。詳しくお聞かせ願えますか?」
ウィルルはエフォラの腕を強くつかんでいた。

五、疑惑


男達の話した内容はこうだった。 自分達は上級特殊能力者の保護団体であり、ウィルル(彼らはウィルリウナと呼んだ)を保護しに来たので引き渡して欲しいということだ。さらに、自らも上級特殊能力者であることを明かした。目立たないよ うに髪を染めているらしい。そして、さっきの女はとある研究に携わっているらしく、ウィルルはその研 究の実験体だったらしい。「だった」と過去形にしたのはサルウッドの研究部が掘り出してしまったからだ。その実験が、どうもヤバイものらしく、外に出てしまった実験体の消去。すなわち証拠隠滅のために女はウィルルを殺そうとしているらしい。
「どう思う?」
「半分は嘘じゃないかしら?」
ここは再びエフォラの部屋。エフォラはベッドに腰を下ろし、ティアがその向かいの椅子に座っている。
ウィルルはベッドにチョコンと座り、ベッドの枕元にあるライトのスイッチをつけたり消したりしていた。
「嘘をつきなれてる感じがしたもの。どこが本当で何処が嘘かまでは判らないけど。」
ティアの返答にエフォラは真剣な面持ちで同意した。
「信用できないのは確かだ。」
「でも、守ってくれるならいいんじゃないの?」
しかし、今度は同意しなかった。
「敵の敵だからといって味方とは限らない。それにあいつらが守るのはウィルルだけだ。場合によれば俺達もあいつらの敵になりうる。」
 「エフォラだって、ウィルルしか守らなかったでしょ。」
先刻のことを言われて、エフォラは気まずくなった。
「あれは…咄嗟のことで…だいたい無事だったんだからいいじゃねーか。」
 「それは結果論よね。で、どうするのよ。」
さらりと流したティアの言葉の底に冷たいものを感じる。根に持つタイプなのかもしれない。 「・「それが問題なんだよな。」
「実際問題。エフォラにあの殺し屋をどうにかできるの?」
痛いところを突かれてエフォラは頭を抱えた。 「出来なくはないと思うんだが…少々時間をくれないと対策の練りようがないってういか…」
「正直に言いなさいよ。」
「現状では無理です。」
エフォラは顔を上げて即答した。
「じゃあ、守ってもらうしかないじゃない。」
ティアの意見に、苦い顔をしてエフォラは考え込んだ。確かにそれ以外方法はない。
現状では。
「なら、ティア。ウィルルはどうするんだ?」
自分の名前が出て、ウィルルがエフォラの方を向く。
「そうよねぇ…」
「あいつらに全面的に守ってもらうなら、当然ウィルルはあいつらに引き渡すのが筋ってもんだろ。」
 「そうなのよねぇ…」
「言ってることの半分は嘘な奴らに渡して大丈夫なのか?」
「それよねぇ…」
「……お前、ちゃんと考えてるか?」
「……………」
「おい!」
エフォラが立ち上がる。
ティアは顔を上げ、エフォラの顔をまっすぐに見た。
「やっぱりエフォラが守るしかないわね。」
 「はぁ?!だから現状じゃ無理だって言ってんだろ!」
ティアはエフォラを見続けた。
「時間があれば出来るってことでしょう?」
時に見せるティアのこの顔には有無をいわせぬ力がある。
ティアから視線をそらすとウィルルが目を丸くしてみていた。
(どうしろって言うんだよ…)
エフォラは泣きたい気持ちをぐっとこらえて、ティアに向かった。
「お……おう。」
「彼らには時間を稼いでもらいましょう。」 「?「?…どういうことだ?」
ティアはひとつの結論にたどり着いたようだった。良く考えてみれば、方法はこれしかなかった。
「あの殺し屋をどうにかするまでは協力する。引渡しはそのあと考えます。」
 「引渡しを考えるって…お前人の話聞いてたか?!」
「建前よ。でも、彼らがことを荒立てたくないのは確かでしょ。わざわざ話し合いに持ち込んだんだから。」
エフォラは良く分からないまま頷いた。
 「なら、当然。この取引を飲むはずよ。」
エフォラはやっとティアの言いたいことを理解した。
 「期日までには、なんとか。」
「頼みましたよ。エフォラ・リライ特殊派遣員。」
ティアが口の両端を小さく上げた。 ふと、ティアの向こうにいたウィルルが目に映る。いつの間に移動したのかは知らないが、タンスを開けようとしている。
「?」
エフォラの視線を追って、ティアもそちらを見る。
「どわぁぁああ!!」
エフォラは叫びながらタンスへと走った。
間に合わないことは知っていた。だから、時間を稼ぐ。
タンスの辺りでフラッシュのように、光が瞬間的にその辺りを白く覆う。エフォラが能力を使ったのだ。
ウィルルが目がくらんでいるうちに、タンスの引き出しをダッシュで閉めに行く。
「何勝手に開けてんだよ!!」
 エフォラは真剣な顔でウィルルを怒鳴りつけた。ウィルルは目を丸くしてエフォラを見ていた。その小さ な口が動く。
「ここにはないの?」
ウィルルの発言にエフォラとティアは顔をしかめた。
「何がだ?」
「おもちゃ」
「?…おもちゃがここにあるのか?」
エフォラは、タンスの一番下を指して聞いた。ウィルルが頷く。
「あそこにはあった。」
エフォラはティアと顔を見合わせた。
記憶が戻ったのだろうか。それとも、何かの拍子に部分的に記憶の断片が出てきたのだろうか。
「あそこって何処だ?」
「家」
「ウィルルの家か?」
ウィルルは首を振る。
「私がいたところ。」
 「いや、だから国とか地方とかいろいろあるだろ?」
エフォラの問いに、ウィルルは眉を寄せただけだった。 エフォラは考え込んだ。どう聞くのが一番いいのだろう。今の答えからでは、記憶が完全に戻ったとは考えられない。
「何か、自分のことを思い出したのか?」
「私のいた家のタンスの一番下にはおもちゃが入ってた。」
ウィルルのまっすぐな瞳に自分の姿が映っていた。 これ以上聞いても何もなさそうだ。エフォラはそう思い、ため息をついた。そしてウィルルの頭をなでてやる。
「そうか…わかった。悪いな、ここには遊び道具はないんだ。」
 「っていうかエフォラ。何をそんなに必死に隠してるの?」
ティアがふと思ったことを口にする。
「企業秘密だ。」
エフォラは真顔で答えてウィルルをタンスから離れた椅子に座らせる。
 「ああ、そう。」
半ばあきれたようにティアが言う。
「で、さっきもやってたけど、あの光を出すのがエフォラの能力なの?」
「ん?まあ、別にそれだけじゃないんだが、そんな感じだ。」
 「じゃあ、炎をだしたりもできるわけ?」
ティアの期待に満ちたまなざしを蔑視し、エフォラは苦笑した。
「俺はできねぇよ。一般的に各能力者はひとつの能力しか持ってない。知らないのか?」
 「何それ。ケチ臭いわねぇ。」
ティアはエフォラの視線などまったく気にした様子もなく、つまらなさそうに言った。
「ケチってるわけじゃねぇよ。生まれつき能力二つも持ってる奴がいたら天然記念物扱いされるぞ。」
「ふーん、そんなにめずらしいの。」
ティアは興味なさそうに適当に返してきた。 「お前さぁ…国家をまとめていくんだろ?そのくらい知っとけよ。」
「あー!!もうこんな時間!ウィルル、そろそろ寝ましょうか。」
 エフォラの言葉をさえぎって、ティアはウィルルに駆け寄った。
(逃げやがったな。)
「じゃあエフォラ。私達、隣の部屋で寝るから、何かあったら宜しくね♪」
言って、出て行こうとする。
「隣?隣はロイの部屋だろ。」
エフォラのふとした疑問に、ティアはにっこりと微笑んだ。
「ああ。あのさえない優男のこと?彼なら別の部屋に移動してもらったわ。今日付けで。」
今日付けって酷すぎないか。とか、さえない優男は言いすぎだろう。とか、ここ男子寮ですけど。とか、エフォラは言いたい事があったのだが、言っても無駄なのだろうなと悟った。
「…はは…そうですか……」
「ええ、そうよ。じゃあ、おやすみなさい」
エフォラは乾いた笑いでティアとウィルルを見送った。
二人が去り静かになった自分の部屋で一息ついて天井を仰ぐ。
「何とか、しなきゃな。俺が。」
一抹の不安を感じつつ、エフォラは一人で殺し屋に対する対策を練りはじめた。

六、交錯


深夜、エフォラは外の様子を窺っていた。対策を練るべく思考を巡らしてはみたが、決定的な効果を得られる方法はなさそうだった。外にはいつもと変わらぬ街灯が等間隔に並んでいるだけで、他には何もない。
(なるほどねぇ…)
視覚では確認できないが、複数の気配がしている。
(2・・・・3か?)
どうも平和ボケしてきているらしい。気配の正確な数も把握できない。 気配をわざと消さずにいるのは、おそらく例の女殺し屋に見張っていることを主張し、攻撃を受けることを避けるためだろう。その殺し屋も、この近くにいる可能性が高い。ただし、こちらは完全に気配を消していることだろう。
エフォラはなんとなく、最近の仕事内容を振り返ってみた。 一昨日までいた大陸最北端の村では、たちの悪い強盗団体に成り下がった元テロリスト達を捕縛。とりあえず、刑務所送り(一部は病院送り)にしてやった。その前は、戦争の元凶である二大国の国境付近に物資を運び込むのを手伝った。あの辺りは、未だに治安が悪い。最近では紛争も治まってきたが、物資を狙っ て武装した集団が襲ってくることもしばしばある。 当の二大国はお互い戦場になったこともあって、痛手は大きい。あげく、クォートル帝国はクーデター により政府が壊滅。現在、新政権のもと復旧を急いではいるが、さすがに国の端々にまでは目が行き届かない。対するジュマン王国も戦争後の政府内の混乱からは立ち直ったものの、未だにその機能を活かしきれる状態にはなっていない。何より、両国には金がない、人もいない。 そこで、立ち上がったのがサルウッドの元最高神官だった。戦災孤児の保護、物資に配給、復旧作業の資金援助。よくもまあ、そんなことまで面倒をみてやるものだと、エフォラはあきれていた。とはいえ、エ フォラも戦災孤児としてサルウッドに保護された身である。死にかけているのを死体と間違われて死体の 山に放り込まれ、危うく火葬されるところだった。そこをたまたま通りかかったティアがエフォラが生きていることに気づき、2 代前の最高神官であるティアの母親の世話になってここまで成長したわけである。 ティアの話では、「死体の腕が動いていたから、怖くて泣いたわよ。」ということらしい。そのときの記憶はないのでエフォラには自分が動いていたかどうかなどわからなかった。泣き声だけは聞こえていたような 気もする。
実は、戦災孤児ではなく元々孤児だったのだが、そんなことはどうでもよかった。 (重要なのは今生きてるってことと…昔並の感覚はなくなってるってことだ。)
あの頃の研ぎ澄まされた感覚を思い出せば、もしかすると、今回の問題はなんとかなるのかもしれない。 窓から離れて一息つく。3 人が見張っているなら問題はない。自分がいなくてもウィルルは大丈夫だ。もちろんティアも。
夜風にでもあたろう。こういうときは部屋にいても気がめいるだけだ。 ウィルルが開けようとした、タンスの一番下から取り出した武器を制服に仕込み、廊下に出る。部屋をで たところでエフォラは欠伸をかみ殺し、階段を下りた。誰もいない食堂を通って出口へ向かい、ドアに手をかける。
「-ッ?!」
違和感と寒気が同時にし、エフォラは後ろを振り返った。
「………。」
食堂には、相変らず夜の沈黙が立ち込めていた。 気のせいだったのだろうか。 エフォラは心に一抹の不安を残したまま、ドアを開けた。
(いや、違う!)
不安を確信に変え、エフォラはもう一度振り返った。やはり食堂に変化はなかったが、代わりに背後に何かが音も立てずに降ってきた。
(しまっ・・・・)
いつから自分はここまで迂闊になったのだろうか。エフォラは自分の愚かさを悔いた。
 (上にいたのか?!)
右手を後ろに締め上げられ、口をふさがれた。しかも、締め上げたその手に何かもっているらしく、それを背中に突きつけられている。おそらくは刃物だろう。
「一緒に来てもらおうか。」
耳元でささやかれたその声は間違いなく、昼間の女殺し屋の声だった。 従うしかない。自分の命が惜しいのであれば。エフォラは、女に従い押されるままに外に出た。ひんやりとした夜風が頬をなでる。普段なら心地よいのだろうが、エフォラの内心はひんやりどころではなかった。 殺し屋に、背中に凶器を突きつけられているのだ。背筋の凍るシチュエーションである。 だが、背筋を凍らせている場合ではない。エフォラは頭をフル回転させて、自分が「生かされた」理由をさぐった。さっきの状況なら、殺すことはいたって簡単だった。あの上級能力者達の注意は、当然のことながらウィルルに向いている。 今、エフォラを守れるのは己自身だけだ。そして、エフォラとこの殺し屋の力の差は見えていた。一対一 では、確実にエフォラが負ける。 弱い戦力であったとしても、敵を減らしておく事が確実に敵を殲滅させる方法である。
(なのに、何故俺は殺されなかった?)
何かを聞き出したいのか、利用価値でもあるのか。相手の意図を正確に読まなければ、次の瞬間に生き残る正しい選択はできない。何かを聞き出したいのであれば、それを話したらあとは用無しだ。何らかの利 用価値があると考えているならば、その利用価値がなくなれば、やはり死が待っているのだろう。まれに 殺す価値もないという理由で生かされることもあるが、この殺し屋はそんな奢った人間ではない。
(俺は、こいつに有用な情報を持っているか?)
あの上級能力者達から聞いたのは、彼らの事情ぐらいだ。作戦でも知っていれば話は別だろうが、そんな話まではしていない。おそらく彼らはエフォラを戦力としては見ていないだろう。だから、作戦を話す意味などない。
(俺の利用価値…そっちの方が謎だ。)
上級能力者の戦いに関与できるほどの力をエフォラは持ち合わせていない。 少なくとも、今のエフォラにはない。
「お前は奴らを信用していないな。」
エフォラの思考をさえぎって、殺し屋が声を発した。奴らというのは、あの3人の上級能力者達のことだろう。
「だとしたら、何だ?」
エフォラは低く声を絞り出す。
「私に協力しろ。我らの利害は一致する。」
エフォラには意味がわからなかった。
「どういうことだ?」
「お前は死にたくないのだろう?」
意図がつかめない。エフォラは迷った。どう、答えるべきか。
エフォラの沈黙を肯定ととったのか、女は続けた。
「ならば私に協力しろ。やつらを全滅させる。」 「そのあと、お前はウィルルを殺すんだろ?」
「ウィルル…ウィルリウナか。そうなるな。」
「利害が一致しているようには思えないが?」 「…そうか?」
この殺し屋が何を考えているのかわからない。ただ一つわかったのは、あの三人とこの殺し屋の力は拮抗 しているか、三人の方が強いかのどちらかだということだった。 だから、例えわずかであってもエフォラの戦力を自分側に加えたい。
「私が死んだあと、お前は奴らには勝てない。ウィルルを渡さないならば、あの女はともかくお前は確実に死ぬ。」
「あの三人を倒したとして、俺はあんたに勝てない。」
 「奴らを殺すのと、私を殺すのはどちらが可能性がある。考えてみるがいい。」 「・・・・・・・・・・・そのわずかな可能性に賭けろと?」
言葉の端に女の焦りが見えた。この殺し屋は追い詰められている。
「奴らに引き渡せば、ウィルリウナはまた研究室に戻され、仮死状態にされる。」
「あんたに渡せば殺されるんだろ。」
エフォラは女の言葉に返してから、妙な不等号に気づいた。
「研究室に戻される…だと?お前が研究室からの刺客じゃないのか?」
あの三人はそう言っていた。しかし、殺し屋の話では、あの三人が研究の関係者のような言い方だ。
 「……なるほど。奴らはそう言ったのか。」
女は一人で納得すると、皮肉めいた苦笑を漏らした。
「どういう事だ?」
あの三人が言っていたことが嘘なのか、それともこの殺し屋がエフォラをだまそうとしているのか。はたまた、どちらも本当のことなど言っていないのか。 ティアなら、この殺し屋が嘘をついているかどうかわかったかもしれない。彼女の嘘を見抜く能力は異常なほど研ぎ澄まされている事をエフォラは知っていた。
エフォラの問いに女は答えた。
「研究に固執しているのは奴らだ。私は、その逆の立場にいる。」
「研究をやめさせるためにウィルルを殺すって事か?」
「違う。」
即座に答えた女にエフォラは怪訝な顔をした。もっとも、女には見えなかっただろうが。
「じゃあ、何のためにウィルルを殺すんだ?」
女は答えなかった。
「理由もわからない殺し屋に協力しろっていうのは無理があるんじゃないか?」
エフォラはこの殺し屋が追い詰められていることに気づいていた。 自分があの上級能力者達に協力すれば、おそらく彼女は負ける。自分がこの殺し屋に協力すれば、彼女は勝つ可能性がある。そう確信したからこそ、出た言葉だった。 短い沈黙があった。実際、1秒か2秒ほどの時間だったのだろう。それが、エフォラには酷く重く長い時間に感じられた。
冷たい目をした女は重い口を開いた。
「…………自分であるために。」
 重く、強い意志に満ちた声だった。 だが、意味がわからない。自分であるため。
「?それは、どういう意味だ?」
「長話が過ぎたな。エフォラといったか、あの三人には気を許すな。協力の件考えておけ。」
殺し屋は早口に言葉を吐き捨てると、エフォラを突き放し後ろに跳んだ。
瞬間。エフォラは凄まじい殺気を感じた。ウィルルと町を歩いていた時に感じたものと同じだ。
見ると、目の前に男が立っていた。あの三人のうちの一人だ。
「何をしていた?」
殺気を放ったまま問うその目はギラギラとほの黒く光っていた。
その目は、エフォラを見てはいない。その後ろ、まだそこにいる女に向けられていた。
「ベグゼか。お前一人で私に勝てるとでも思っているのか?」
殺し屋はあくまで冷静だった。
「ここで、戦闘になればすぐにアーサー様とクライスも来る。そうなればお前に勝ち目はあるまい。」
「なるほど。」
殺気と憤怒を撒き散らしているベグゼとは対照的に女は淡々と返した。
空気が緊迫する。
その空気のちょうど真ん中にエフォラは立っていた。 機を逃した。今、この場で動くことは出来ない。危険だ。とはいえ、この状態のままでいるのも危険だ。何がきっかけで戦闘に突入するかわからない。そうなれば、エフォラがその被害にあうのは目に見えていた。 唐突に声が響いた。
「ベグゼさん!」
ベグゼの後方に三人の上級能力者のなかで一番若い男がいた。
一瞬。ほんの一瞬だけ、べグゼの注意が殺し屋から逸れた。
地を蹴る音もなく、女はさらに後方へ跳躍した。そして、暗がりの中に消えていく。
「ックソ…」
「あ…」
ベグゼが舌打ちするのを見て、ようやく状況を察したらしく若い男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いい、クライス。気にするな。それより…」
べグゼがエフォラの方に歩いていく。
「何をしていた?」
ベグゼは鋭い視線をエフォラに向けた。その視線に不快感を感じてはいたが、エフォラは平静を装った。
「いや…助かった。ありがとう。」
エフォラの短い返答に、ベグゼはたいした反応も見せなかった。
「そうか、あまり一人でうろちょろするな。お前まで守ってやる義理はない。」
 「わかってる。」
二人のやりとりに、クライスと呼ばれた若い男が気まずい顔をしていた。
「戻るぞ、クライス。」
「はい!」
ベグゼの後ろにクライスがついていく。
 「お前もさっさと部屋に戻れ。」
ベグゼはエフォラにそう言い捨てて去っていった。
 「ああ。」
エフォラは応えると、一度だけ殺し屋の去っていた闇を見つめ、それから自分の部屋に帰るため歩き始 めた。 道は、何事もなかったように静まり返っていた。等間隔に並んだ街頭がエフォラの足元に二つの影を落とす。
朝は、まだ遠い。

七、憤怒


七日が経った。あれ以来、殺し屋は姿を現していない。 エフォラとウィルルはベッドの上に座り、その前には、三人の上級能力者達が座っていた。自分の部屋 にいるにも関わらず、エフォラにとっては居心地が悪いことこの上なかった。ティアは通常業務があるため、大聖堂にいる。ティアが心底うらやましかった。本気でうらやましかった。なにしろ日増しに空気が ピリピリしてきている。 原因は主にベグゼとかいう男だ。ベグゼは苛立ちを隠そうともせずに、その怒りをそのままエフォラに向けていた。年長者であるアーサーは、相変らず落ち着きを払っていたが、それもどこまでが本心かはわからない。内心、なんらかの焦りはあるのかもしれない。一番若い(といってもエフォラより一回りは年上だろう)クライスとかいう男は、そんな空気にビクビクしていた。もしかしたら、エフォラよりも居心地が悪いのかもしれない。じっと座ってはいるのだが、その視線はキョロキョロと落ち着きなく動き、 常に肩に力が入っている。ウィルルも、その空気のせいか警戒心をむき出しにしている。 エフォラは、なんとなくこのクライスという男に同情していた。彼とは仲良くなれそうな気がする。 それはともかく、エフォラはうんざりした調子で口を開いた。
「それで、今日は何の御用でしょうか?」
社交辞令もここまでくるとイヤミでしかない。エフォラのその態度がベグゼの神経を逆撫でしたらしい。 思いっきり睨まれて、エフォラは肩をすくませた。
「冗談だよ。緊迫した空気をやわらげようかと思ったんだ。」
「いらぬ気遣いだ。」
ベグゼはエフォラの言葉に突き刺さるような返答をする。
「ベグゼ」
アーサーがベグゼを制し、エフォラに話しかける。
「我々は、そう長く此処に居座るわけにはいかない。べグゼは、それで苛立っているのだ。申し訳ない、許してやってくれ。」
ベグゼは何か言いたそうな顔をしていたが、「フン」と鼻を鳴らして顔を背けた。
「いえ、別に気にしていません。それで、早急にことを済ませたいということですね?」
 「…そういうことに、なるな。」
エフォラはじっとアーサーを見ていた。この男は一体何を考えているのか。それがわからない。少なくとも、この男からボロが出るようなことはないだろう。
(…つまり、俺がいくら考えたって無駄ってことか)
エフォラはいくらか開き直ってアーサーと向かい合った。
「それで、俺にどうしろと?」
あくまで軽い調子で言うエフォラを、今度はアーサーがじっと見ていた。
「率直に言ってください。どうせお互いを利用しあっているだけなんです。それに…俺はそう賢くないんでね。」
 エフォラは沈黙したアーサーを促し、相手の言葉を待った。アーサーは一呼吸おいてから、重い口を開い た。
「奴を引きずり出すために、囮になって貰いたい。」
予想通りの要望に、内心ニヤリとしたがエフォラは真剣な表情を作ってアーサーの目を見た。
「…詳しく、聞きましょう。」 作戦は単純だ。まず、ティアが三人にウィルルの引渡しを決める。それに納得できないエフォラがウィル ルを連れて、三人を振り切って逃走。場所をあらかじめ決めておいて、三人はそこで待機。エフォラとウィ ルルがその場所に向かう。そこで、標的を待ち、出てきたところを全力で潰す。
こんなところだ。
「本当に、それで出てきますか?」
エフォラに疑問にアーサーはさらりと答えた。
「罠とわかっていたとしても、我々がウィルリウナを連れて行くとなれば出てこざるをえまい。」 「俺とウィルルの安全は?」
「我々が保障しよう。」
「信用できないな。」
「………」
アーサーは何の表情も示さずにエフォラを見ていた。
「ウィルルの安全は保障されるだろうさ。あんたらの目的はそこにあるんだからな。で、俺の安全はどう保障されるんだ?実際、俺が死のうが生きようが関係ないだろ?」
ベグゼが鼻で笑った。
「よくわかってるじゃないか。」
 アーサーはベグゼを手で制し、エフォラを凝視していた。
「どうしても自分の命が惜しいのであば…ひとりで逃げても、こちらとしては一向に構わんよ。」
エフォラの視線が鋭くなったのを見て、アーサーは片眉を少し上げてみせた。 お前のような若造に、我々を欺くことなどできんよ。そう言っているようだった。
「なるほど、わかりました。やってみましょう。」
 鋭い視線は変えないまま、エフォラは決意した。なんとしても、この三人とあの殺し屋を出し抜いてやる。
 「それともう一つ。今からは、クライスと行動を共にしていただきたい。」
 アーサーからの、もう一つの要望にも同意する。 エフォラが頷くのを見て、クライスを残し、二人はエフォラの部屋から出て行った。 二人が見えなくなってから、クライスが安堵の息を吐き出した。エフォラは、これがベグゼでなくてよ かったと思いながら、クライスに右手を差し出した。
「よろしく。」
クライスが目を丸くしてエフォラを見ていた。まさか、見張りである自分に握手を求められるとは思っていなかったのだろう。
「あ、はい…よろしくお願いします。」
 クライスも右手を差し出した。 なんとなくだが、この腰の低い男とは仲良くやっていきたい気がした。
夕方、ティアが仕事を終えて寮に帰ってきた頃、アーサーがやってきてティアに作戦の説明をした。
「研究部との手続きの都合がございますので、明日の夕方頃でもよろしいでしょうか?」
ティアは話を聞くと、即座にそう聞き返し、アーサーはそれに軽く感謝の意を述べた。
アーサーが去り、エフォラとティアとウィルル、それにクライスはエフォラの部屋でしばらく黙り込んでいた。
「私、今のうちに書類書きたいんだけど、机借りていい?」
ティアがそう言って立ち上がった。
「ああ」
エフォラが頷くとティアは机に向かって何か書き始めた。
クライスは所在なさそうにしている。 ウィルルは相変らずベッドの枕元のライトをつけたり消したりしている。何が楽しいのかはわからないが、 どうもライトが気になるらしい。
「エフォラ、ペンは?」
「あ?」
ティアはよくエフォラの部屋にくる。ペンの位置ぐらい知っているはずだ。
「……ああ」
エフォラはティアの意図することを察して机の傍までいくと引き出しをあさり始めた。
ティアの手の中に何か文字の書かれた紙切れが見えた。
『大丈夫なの?』
ティアはその紙を引き出しの中に落とす。
「ちょっと待てよ…確かこの辺に…」
エフォラはペンを探すフリをしながらその紙と新しいペンを手でつかんだ。
 「あ、あった。ほらよ。」
エフォラは新しいペンだけを机の上におき、ティアが使っていたペンと紙切れをクライスから見えない側のポケットに収めた。
「ありがと。」
ティアはペンを受け取ると書類を書き始めた。
エフォラはそのまま部屋を出ようとした。
「どこへ行くんですか?」
クライスが立ち上がる。エフォラは少しうんざりしながら答えた。
「小便だよ。」
「・・・・あ」
クライスが一瞬固まった。
 「エフォラ、もうちょっと言い方考えなさいよ。女の子がいるんだから。」
ティアがさらりと言った。
「あー、そうだったな。ごめんなウィルル。今度から気をつけるよ。」
「……私に喧嘩売ってる?」
大真面目に言ったエフォラをティアが睨んだ。
「は?何が?」
エフォラはわざとわからない振りをする。
 「…いいわよ。さっさと行きなさい。」
ティアがあきれて言ったのを聞いて、エフォラはドアを開けた。
「そうですか、じゃあ行きます。」
 「ああっあっ…私も行きます!」
クライスが慌ててエフォラのあとについていく。
(やっぱり俺の見張りか)
エフォラはそんなことを思いながらトイレに向かった。
クライスがエフォラに追いつき、真面目な顔でやや後ろを歩く。
エフォラは横目でそれを見ながらため息をついた。
「あのさぁ…もしかしてそうやって四六時中俺の後ろついて回るわけ?」
「はい。」
ごく真剣にはっきりと答えられ、エフォラは頭を抱えたい気分になった。
「勘弁してくれよ…これでも思春期の少年なんだぜ?」
都合のいいときだけ少年になるものだと自分でも思いながらもエフォラはそんなことを言っていた。
「…そういえば、いくつなんだい?」
クライスが今までとは違い、少し年上らしい口調で話しかけてきた。これは、多少なりとも心を許したということだろうか。少なくとも、エフォラを自分より下と見たことだけは確かだった。 「17。」
エフォラは短く答えた。
「………………」
数秒の間があった。
「………へぇ…」
それからクライスの相槌。
「いくつだと思ってた?」
エフォラの冷たい質問に、クライスは戸惑ったようだった。
「え…いや……もう少し下かと…」
いつものことなので慣れたものではあった。それでも不愉快なのには変わりなかった。
 「あんたはいくつなんだよ。」
エフォラは突き放すようにクライスに同じ質問をぶつける。
 「25だ。」
「へぇ…」
こちらは間をおかずに適当に相槌を打って、エフォラは立ち止まった。トイレに着いたからだ。 「あのさ、個室使ってもいいかな?見られてると思うと落ち着けないし。」
 「ん…あ、ああ。」
エフォラは不機嫌な顔のまま個室に入っていった。心の中では小さくガッツポーズをとっていた。 エフォラはポケットからさっきの紙切れとペンを取り出し、トイレの壁でティアへの短い返事を書き始め た。その間、水は流しておく。
『何とかなりそうだ。』
それを再びポケットに入れると、エフォラは外に出た。 クライスが待っているため、エフォラは不機嫌な顔をつくり、帰りは何の会話もないまま自分の部屋に帰っ た。
ティアは書類を書き終えると、ウィルルと一緒に隣の部屋に移動した。 部屋から出る前にエフォラはウィルルに飴玉をいくつかやった。その中にティアに渡す紙切れも交ぜて。 二人が出て行き、クライスと二人きりになると会話も無く、なんともいえない気持ち悪い空気が流れた。
「何か、飲む?」
エフォラが聞くと、クライスは一瞬びくりとして、それから頷いた。
「あ…ああ」
何にそんなにおびえているのか。エフォラはそれが気になった。どちらかというと、単純に気が小さいだ けな気はした。 それにしても、自分と比べれば明らかに年下である相手と二人になることがそんなに恐ろしいことだろ うか。逆にそれが怖いのかもしれない。こんな子どもに敬語も使ってもらえないなんて、舐められてるんだろうか。等と考えているのかもしれない。 エフォラは、そんなことを考えながら一番下のタンスからティーパックと錠剤を取り出した。 棚からコップを出し、ティーパックを入れて水差しから水を注ぐ。 この水差しは、ティアがエフォラの部屋で紅茶を飲むために用意しているもので、夕方ティアが来る頃にはいつも水を入れて部屋においておくのだ。
「あの…それは?」
エフォラが出した錠剤が気になり、クライスは不安そうな顔でエフォラに聞いた。
「ん?胃薬。ストレスで胃に穴が開きそうだから。」
「あ…そう。」
エフォラはティーパックを入れたままクライスにコップを差し出し、自分はその錠剤を口に含むと、お茶で流し込んだ。
クライスはその様子を見てから、コップに口をつけた。
「大変そうだな。」
特に何か話したかった訳ではないのだが、エフォラはなんとなくクライスに話しかけた。黙り込んでいるのも、気分のいいものではないからだ。
「え?何が?」
クライスはキョトンとしていた。
「いや、なんかあの二人。一緒にいて大変じゃないかと思って。」
「二人って…アーサー様とベグゼさんのことかい?」
 「ああ。頭固いのと、気性の激しいの。」
エフォラの表現にクライスの表情が恐怖で少し引きつった。
「いや……そんなこともないと思うけど。」
「そうか?ま、俺は付き合い長いわけじゃないからあんたの方が正しいんだろうけど。」
エフォラはそう言って、コップに残っていたお茶を飲み干した。
それを見て、クライスもお茶を飲み干す。
エフォラはそんなに気を遣うこともないのに、と思いながらクライスを眺めていた。
「アーサー様は慎重なんです。あの戦乱を生き抜いた方ですし、あの方のおかげで私は生き残れたんだと思うんです。ベグゼさんは仲間思いで、今ああやってイライラしてるのだって仲間のためなんです。」
エフォラは興味もなかったので、適当に相槌を打って話の内容は特に聞いていなった。
「何度か助けられたことだってあるし…ってこのままじゃいけないんでしょうけど…でも…その…」 クライスの様子が変わり始めたのを見て、エフォラはクライスに近寄り、肩に手を置く。
「大丈夫か?」
「いや…ちょっと…」
どうやら眠いらしい。
「ベッド。使うか?別に俺は気にしないし。」 「いえ…でも…」
エフォラはクライスを立たせて、ベッドに座らせた。
そして、自分は机の前におかれている椅子に座る。 クライスは、なんとか起きていようと努力したが、結局ベッドの上に倒れこんでしまった。 エフォラはクライスに近づくと、クライスの目の前で手を振ってみる。反応はない。ゆすってみたが、特 にコレといって抵抗することもない。
エフォラはため息をついた。
 「…なんで、こんな古典的な罠にはまるかなぁ…。錠剤が中和剤とか考えろよ。」
何を言ったところで今のクライスには聴こえない。
「ま、ぐっすり眠ってくれ。」
言ってエフォラは、ポケットからペンを出した。
そして、机の上に意識を集中させる。 数秒待ってから、持っていたペンを勢いをつけて机に向かって投げる。 壁に突き刺さらんばかりの勢いで跳んでいたペンは、机の上で何かに上から力を与えられたかのように、机に引き寄せられ勢いよく落下した。
「戻ったな。」
エフォラはその様子を見て、そうつぶやいた。

八、反目


明朝、エフォラが椅子の上で目を覚ますと(昨晩は結局椅子に座って寝ることにした)クライスが目の前の床に正座してエフォラを見上げていた。
「あ...おはよ」
なんとなく反射的にそう言って、エフォラは床で寝たほうがまだマシだったかもしれないと後悔しながら伸びをした。座りながら寝ると体がだるくて仕方がない。
「申し訳ありませんでした。」
突然、クライスが改まって頭を下げた。寝起きでまだ意識がぼんやりしているエフォラには、何のことか さっぱりわからなかった。怪訝な顔でクライスを見つめていると、クライスは顔を上げないまま後を続け た。
「部屋の主を差し置いて、布団でぬくぬくと寝てしまうなどということはあってはならないこと…申し訳ありません。」
エフォラはここまで言われて、やっと昨夜のことを思い出した。
「え…ああ。いや、いいよ別に。」
クライスはまだ睡眠薬を飲まされたという事実に気付いていないのだろうか。それとも、気付いてはいるが、それ以上に自分がベッドで寝てしまったことに対する罪悪感が強いのだろうか。エフォラには、それはわからなかった。しかし、敵として見るには憎めないタイプであることには違いなかった。 クライスがエフォラの顔色をうかがいながらゆっくりと顔を上げる。 エフォラはクライスは放っておいて自分の机の前に移動した。昨夜投げだペンが机の上でクシャリとつぶ れていた。そのペンを机の一番上の引き出しにそっとしまい、エフォラは未だに床に座っているクライス へと目を向けた。クライスはじっとエフォラを見ていたらしかった。
「…いや、だから気にしなくていいから床に座るのをやめてくれ」
それでも動こうとしないクライスに、エフォラは若干腹を立てながらエフォラが寝ていた椅子に座るよう 促した。そして、自分は机に寄りかかる。
「さて…で、俺はどうしたらいいんだ?」
クライスはようやく立ち上がり、軽く会釈してから椅子に腰掛けた。
「ここで、アーサー様の指示をお待ちください。」
「わかった。」
クライスの真剣な目に押されながら、エフォラは頷いた。
突然のノックの音に二人はドアを見た。
「エフォラ、起きてるなら開けてくれる?」
ティアの声だ。
「ん」
エフォラは短く応え、すぐにドアの鍵を開けた。
ドアを開けると、そこにはティアとウィルルが立っていた。
アーサーとべグゼの姿は見あたらない。
「今から、ちょっと研究部と話をつけてくるからウィルルの面倒みといて。あと、手続きとかもあるし。」
ティアは部屋の前でそれだけ言うと、ウィルルを部屋の中に入れた。 ウィルルは相変らず、まっすぐな澄んだ瞳で不思議な世界を眺めているようだった。キョトンとした顔でエフォラとその後ろの部屋を見ている。
「わかった」
エフォラは頷くと去っていくティアを見送り、それからドアを閉めた。 ウィルルを見ると、ウィルルはエフォラをじっと見ていた。その澄んだ空色の瞳を見つめ、エフォラは目を細めた。
(ただの子供じゃないか。)
上級能力者でも、よくわからない機械から出てきても、ただの子供であることに違いはない。 記憶をなくし、自分が何者なのかもわからない。そんな不安もあるはずだ。 その、ただの子供を殺そうとするヤツがいる。自分であるために。それが、ただの子供を殺す理由だとい う。 保護するといって、何かの目的で連れていこうとする奴らがいる。目的も、理由もわからない。ただ、信用 できないことだけは確かだ。 そして、自分はそれを阻止しようとしている。目的も、理由もない。ただの自己満足なのかもしれない。 そう考えると、このただの少女を本気で守ってやろうという人間はこの世界にはいないことになる。 この世界は、本当かどうかもわからない与えられた名前以外何も持たないこの少女に、広い世界でたった 一人で自分を守るすべもなく生きていけと、そう言うのだろうか。 エフォラは、そこまで考えてひとつの決意を固めた。 このただの子供が、自分を守るだけの力を身につけ、生き方を覚えるまで自分が守ろう。 かつて、戦い方以外なにも知らなかった自分を守り、導いてくれた人がいたように。今度は自分が、導くことはできなくとも、せめて守り抜こう。 その決意が通じたのかはわからないが、ウィルルはじっとエフォラの目を見続けていた。エフォラは小さく微笑んだ。
「悪いが、今日は外には遊びに行けないぜ?つまらんだろうが、この部屋でのんびりしてくれ。」 ウィルルは頷くと、いつものように枕もとのライトに駆け寄った。 クライスは、二人の様子をじっと眺めていた。その視線に嫌なものを感じ、エフォラはクライスを睨みつ けた。クライスはビクリと体を縮め、目を逸らした。 気のせいだったのだろうか、実験動物を見るような、そんな視線だった気がした。エフォラはなんとなく 不安を覚えながら、ベッドに腰掛てウィルルに話しかけた。
「解体して、中見せてやろうか?」
クライスへの警戒を解かないまま、エフォラは夕方まで部屋ですごした。
食堂で夕食を食べ終えたころ、アーサーとベグゼが部屋にやってきた。
「用意はできたか?」
ドアを開けて早々にベグゼが鋭い目つきで問いかけた。エフォラは苦笑で返す。
 「挨拶もなしにご苦労様です。できてますよ。」
それを聞いてアーサーは頷き、ゆっくりと口を開いた。
 「先刻、大聖堂からの使いが来た。ウィルリウナを連れて最高神官室へ来るようにと...」
 「わかったよ。」
エフォラは応えながらクライスが唾を飲んだのを気配で察した。
エフォラとウィルルに続いてクライスが部屋から出て、ベグゼとアーサーの後についていく。
道行く人が自分達を見ていることにエフォラは気付いていた。白装束の男達に連れられた上級能力者の少女と特殊派遣員。異様な光景なのは間違いなかった。 エフォラはウィルルに自分の前を歩かせた。
列の真ん中にすることと、自分の視界に入れておくためだ。 ウィルルは、これから何か起こることを感じて不安になっているようだった。たびたび振り返ってはエフォ ラの顔を見ていた。 大聖堂に入り、最高神官室に向かう間も聖職者達に奇異な目で見られた。エフォラは、初めて特殊派遣員 の制服を着て大聖堂に来たときを思い出した。あのときもすれ違う人全員に嫌な顔をされた。 最高神官室に着くと、エフォラは扉の前に出た。そして、いつものようにノックをする。
「異常事態対策部隊特殊派遣員エフォラ・リライです。」
「どうぞ」
いつもと同じようにティアの声が返ってきてから一呼吸おいて扉を開ける。
「失礼します。」
言って入ると、正面の机の向こうにティア、手前に白衣の男が立っていた。エフォラの記憶によると、研究部の部長だ。
エフォラに続いて、ウィルルとあとの三人も部屋に入り、クライスが扉を閉めた。 ティアが改まった表情で話し始めた。
「本日、研究部と話しました結果ですが」
 エフォラは右にアーサーとベグゼ、左後方にクライス、そしてすぐ後ろにウィルルがいることを悟られぬように確認した。
ティアが話し続ける。
「上級能力者のことは上級能力者の方にまかせることに決まりました。」
 エフォラは反発するフリをしようとして、こんな演技になんの意味があるのかと考えた。 あの殺し屋は本当に見ているのだろうか。という疑念が湧いたが、おそらく見ているのだろう。だが、ここでワザとらしい演技をしたら殺し屋が出てくるのだろうか。それは甚だ疑問だ。意味があるとすれば... 考える間もティアは続けていた。
「よって、サルウッドはサルウッド研究部が保護していた上級能力者ウィルリウナを」
エフォラは下を向いた。
(...こいつらへの従属か)
「上級能力者保護団体に引き渡します。」
ティアの言葉が終わると同時にエフォラは右足で地面を蹴って、左足を軸に回転し、その視線をクライスへと向けた。
(誰が従うか!)
クライスが咄嗟に両腕でエフォラの攻撃を防ごうとした。 が、エフォラは左手でウィルルの腕をつかむとクライスの横をすり抜け、空いた右腕を振り上げクライス の背中めがけてひじを打ち込んだ。
クライスが反応しきれずに一瞬遅れて振り返ろうとする。 アーサーとベグゼが反撃しようとしたその瞬間エフォラはすでに右手に持っていたナイフをクライスに向かって投げた。 ベグゼが能力を使おうとしたが、至近距離では間に合わないと悟りナイフに飛びかかった。しかし間に合わない。 振り返りざまにナイフの存在に気付いたクライスはギリギリのところで体をひねり、ナイフはクライスの首筋をかすめた。
「追え!」
アーサーが叫んだときに、エフォラはウィルルを連れて最高神官室の扉をくぐり抜け、3人がそれを追って走り始めた頃には廊下の窓の下を大聖堂の外へと走り始めていた。 部屋に残されたティアと研究部長はしばらく呆然としていたが、ティアはあることを思いつき立ち上がっ た。
「研究部長。ここは一端エフォラ・リライ特殊派遣員を探しましょう。」
ティアに声をかけられて、研究部長は我に返った。
「は...はい。しかし、一体何がどうなって...」 「ことが終わりましたら説明いたします。とりあえず保安部へ行って、エフォラ・リライ特殊派遣員を探してもらいましょう。」
ティアはニッコリと微笑んだ。
「かしこまりました...」
研究部長は釈然としないまま頷くしかなかった。 廊下に出ると、開け放たれた窓の前にアーサーとクライスがいた。どうも、クライスに何かあったらしい。 ベグゼはエフォラを追いかけたのだろう。
「治療いたします。エフォラ・リライとウィルリウナもこちらで探しますわ。」
ティアがそう言うと、アーサーは感情のこもらぬ声で答えた。
「お心遣い感謝いたします。しかし...部下の非礼を詫びるのが先ではありませんか?」
ティアも、顔に浮かべた微笑とはかけ離れた冷たい声で返す。
「...そうですね。失礼いたしました、申し訳ありません。部下の非礼をお許し下しさい。でも私、彼がこのような行動にでた気持ちもよく理解できますので。」
アーサーはじっとティアの微笑を浮かべた顔を見ていた。
「なるほど」
ティアは笑顔の最後に冷たい目を見せて、それからクライスの様子をうかがうと研究部の医療施設へゆっくりと向かった。

九、策略


エフォラが走りながら感じたのは、ウィルルは意外と走るのが速いということだった。そんなことをのんきに考えている場合ではないが、エフォラは少しほっとした。 エフォラとウィルルを追ってきたのは、思ったとおりベグゼだけだった。ナイフには即効性の麻酔が塗ってあった。クライスは、少なくとも数十分はまともに動けないはずだ。アーサーは戦力を欠いた時点で殺し屋と戦うことに危険を感じ、新たな作戦を考えるに違いない。追ってこなかったのも、何か策があってと考えるのが妥当だ。そして、ベグゼは仲間を傷つけたエフォラに怒り、もはや周りなど見えていない。 戦力は分散した。殺し屋がこの機を逃す手はない。 ウィルルを連れて走りながら、エフォラは後ろを振り返り、ベグゼの位置を確認しようとした。 視界に捉えられず、エフォラは焦りながら人のいない路地裏に入り込んだ。この先に開けた空き地がある。 狭い道を通りながら、エフォラは周囲を警戒する。 なんとか引き離したのならいいが、ウィルルを引っ張っているエフォラとベグゼでは、間違いなくベグゼ の方が速い。姿を隠して、機をうかがっているのかもしれない。 細心の注意を払い路地を出て空き地に出た瞬間、頭上に殺気を感じ、ウィルルを突き飛ばす形でエフォラ はとっさに横に跳んだ。
さっきまで自分がいたところにベグゼがいた。 「避けたか。褒めてやろう。」
言いながらベグゼは地面に突き刺さった小型の斧を引き抜いた。見た目は小さいが、強度は高いのだろう。 能力で破壊力を上乗せすれば人を殺すには十分だ。 エフォラは服の中で冷や汗があふれ出るのを感じながら鼻で笑った。
「そんだけ殺気を撒き散らしてりゃ、子供だって泣くぞ。」
「そうか...」
別段気にした様子もなくベグゼは斧を構えた。 「商店街で感じた、あの嫌な視線はお前だったんだな。」
「.........」
エフォラの言葉には答えずに、ベグゼはエフォラを睨みつけていた。 殺し屋がいつ出てくるのかはわからない。最悪、出てこない可能性もある。 いや、本当の最悪の場合はエフォラがベグゼに気をとられているうちに殺し屋がウィルルを殺すことだ。 エフォラは周囲に注意を払いながらベグゼと話し続けることを選んだ。ベグゼに決定的な隙を作る必要がある。それが、殺し屋を引き出すエサだ。
「だが、あの時点で俺達に殺意を向ける理由はなかったはずだ。なぜだ?」
「.........っ」
ベグゼの表情が変わった。目はエフォラを睨んだまま口の両端を吊り上げ、クツクツと笑い始める。
「そのガキを見て思い出したんだよ。...殺された仲間をな。」
「どういうことだ?」
「お前には関係のないことだ!」
言い終わると同時にベグゼが地を蹴った。エフォラはそれに対抗すべく袖に隠した短刀を手にした。 瞬間、ベグゼの表情が変わり、上体を向かって左にずらす。一瞬遅れて、エフォラもベグゼと同じ方向 に体をひねる。その際、ウィルルを腕で庇うことも忘れない。視界の右端を後方から何かが通過したのが分かった。
「来たか...」
ベグゼは静かに、だがこの上なく嬉しそうにつぶやいた。ベグゼの左目の上は切れて、そこから血がじわ じわと流れ始めていた。怒りと狂喜に支配された男には、エフォラなど見えていなかった。見ているのは、 その後方。
エフォラが振り返ると、建物の上に銀髪の女がたたずんでいた。
「目はつぶさずに済んだか。...ご苦労だったな、エフォラ・リライ。」
殺し屋の声に、エフォラは応えなかった。
「ふん...そういうことか。くだらぬ事をしたものだな。リウナよ。」
エフォラはベグゼの言葉を聞き逃さなかった。リウナ。おそらく殺し屋の名前なのだろう。
「そうでもない。お前一人なら十分勝てる。」 「アーサー様がすぐに来る。私は時間さえ稼げばそれでいい。」
ベグゼの返答に、殺し屋は小さく笑ったようだった。
「...ところで、ディルはその後どうだ?元気にしているか?見たところ、一緒にはいないようだが?」
エフォラには、ベグゼがあふれ出す怒りを抑えようとしているのがわかった。
「殺した相手のことを、よくもそんな風に言えるものだな。」
「ほう、死んだか。」
斧を握る手にひときわ力が入る。
 「それはよかった。」
殺し屋のこの一言を聞くや否や、ベグゼは斧を振り上げ叫び声とともに殺し屋に向かって投げ放った。能力が上乗せされた斧は回転しながら高速で殺し屋に接近する。殺し屋は屋根から飛び降り、ベグゼに向かっ て走り出した。ベグゼはそれを予想していたらしく、すでに短剣を手に構えている。殺し屋がベグゼのす ぐ前まできて、ベグゼが殺し屋に切りかかろうとした瞬間、殺し屋はベグゼの横をすり抜けた。 ベグゼが舌打ちをして、地を蹴り前に転がる。 殺し屋めがけてユーターンしてきた斧がベグゼと殺し屋の頭上を通り抜けていった。
「お前達の中にいた私が、それを見抜けないとでも思ったか?」
転がったベグゼを見下ろして、殺し屋が言った。
ゆっくりと起き上がったベグゼの下腹あたりから血が出ていた。
「貴様...」
「動かすことだけが攻撃ではない。この程度の罠にかかるとは老いたなベグゼ。」
「いやに饒舌だな...。お前が話すなど珍しいではないか。何におびえている?」
ベグゼは傷口を手で押さえながらネットリとした笑いを浮かべた。 金属音とともに、空中に浮いていた鈎針のようなものが地面に落ちる。殺し屋がベグゼの周囲に仕掛けて いたらしい。前に転がった瞬間にそれがベグゼの下腹に刺さったのだろう。
「.........」
殺し屋は、答えずにベグゼを睨みつけていた。
「ディルの仇をとるまでは、死にはしない!」
ベグゼが短剣を持って走りだした。殺し屋は細かい礫のようなものをベグゼに投げつけた。ベグゼは、そ れを相殺することもせずに、そのまま突っ込んでいった。 殺し屋が驚愕し、ベグゼに対抗すべく自分も短剣を出し、構えた。完全にベグゼを殺そうと意識を集中し、 短剣に力を載せて標的に向ける。
突っ込んできたベグゼは礫で顔も体もあちこち切り、白い服に血がじわじわとにじんでいた。 殺し屋とべグゼの短剣が高い音を立てて接触する。 一瞬だった。二人の様子を見ていたエフォラの視界の隅に見たことのある顔が見えた。咄嗟に、エフォラ は能力を使った。
(昨夜、自分の机の上でやったことと同じことをすりゃいい。それだけだ。) 自分に言い聞かせると、自分とウィルルの周りに空気の壁をつくる。 次の瞬間、エフォラはわが目を疑った。自分の目の前で鉄製の長い杭が止まっていた。 その杭は、間違いなくベグゼの胸を貫いていた。 そして、ベグゼの向こうで殺し屋の首が半分なくなっていた。
「アー...サー......様」
ベグゼが声を絞り出し、目の前に現れた男の名を呼んだ。
「何故.........」
その表情はエフォラからは見えなかったが、声には動揺と失望、そして悲嘆がにじんでいた。
ベグゼは静かに殺し屋とともに地面に崩れ落ちた。
その奥にたたずんでいたのは、アーサーだった。
「ベグゼよ、ご苦労だった。お前の立派な働きぶりは忘れはしない...」
「.........」
エフォラは何も言えずに、ベグゼと殺し屋が息絶えるのを見ていた。
「エフォラといったか...能力者よ。その能力、以前に使っていたものと違うな。」
アーサーは静かにエフォラに向かって歩き始めた。
「だから...どうした。」
エフォラは冷静を装おうと必死だった。大きく息を吸い、ゆっくりとそれを吐く。
「能力者というのは、私の記憶では一人一つの能力しか持たないはずだが?」
歩きがてらに、アーサーは殺し屋の死体を蹴った。
エフォラが顔をしかめるのを見て、アーサーは目を細めた。
「こいつには、散々苦労させられたからな。」
説明を付け加え、アーサーはエフォラにさらに一歩近づいた。
「その殺し屋のこと、お前ら知ってたんだろ。親しかったんじゃないのか?」
「何故だ?」
エフォラの質問にアーサーが足を止める。
 「あんたの部下が、名前を呼んでたぜ。リウナってな。」
アーサーがベグゼを一瞥し、眉間にしわを寄せた。
 「知る必要のないことだと思うが?」
「なら、俺のこともあんたが知る必要のないことだ。」
「なるほど」
納得すると、アーサーは再び歩き始めた。 「ウィルリウナを引き渡してもらおう。君では、私には勝てまい。」
 「やってみなけりゃ分からない。」
 「君はまだ若い。死に急ぐこともあるまい。」
ウィルルがエフォラの後ろで震えていた。
「ウィルルが恐れているのは、あんたらだ。」
だから白い服の人間を警戒していた。
 「あんたらには絶対渡さない。」
 「渡してもらいます」
後ろから声が聞こえ、エフォラはそれに反応する間もなく、激痛に悲鳴を上げていた。 ウィルルの小さな悲鳴が微かに聞こえるが、それもすぐに自分の声にかき消された。 両足のひざ付近に走った痛みの原因はクライスが放った鈎針のようなものだった。おそらく先ほど殺し屋 がベグゼに対して使ったものと同じものだろう。鈎針は刺さると同時に中で変形し肉を引き裂き、エフォ ラの両足の骨と地面を固定する。
「それは、そう簡単には外れませんよ。」 クライスがそう言って、ウィルルの腕をつかんだ。ウィルルは抵抗するが、それは意味のないものだった。 痛みがエフォラの集中を乱し、意識が遠のいていく。視界が狭くなり、頭の中でなり続ける自分の叫び声が無音のように感じる。まわりの光も音も自分の中から締め出し、おそらく数秒のことだったのだろうが、 何もない時間と空間がひどく永く続いたように感じた。 何もない、思考もない。白か黒かもわからない空間。誰かがブツブツと何かをつぶやいている。何を言っているのかはわからない。あるはずのない視界の中で、何か大きなものが動いた。そして、理解できる言葉が耳に入る。
「エフォラ!」
 ほとんど聞いた記憶のないウィルルの声が叫んだ自分の名前。それに急速に現実に引き戻されて足の痛みがよみがえり、自分の叫び声に耳も痛くなる。
(誰がこんなところでっ!!)
「うああああああああああああああああああ!!」
悲鳴を自分を奮い立たせる叫びに変えて、エフォラははっきりと視界をとりもどした。 最初に視界に入ったのは、すぐ近くで自分を心配そうに見ているウィルルだった。そして、その次にその奥に背を向けて立っているクライス。
「?」
エフォラは叫ぶのを止めた。何かがおかしい。 アーサーがいなかった。代わりに、クライスの足元にボロ雑巾のようなものが落ちている。ボロ雑巾が小さく動き、何かしゃべった。
「クラ...イス...」
力も威厳も失っていたが、それは紛れもなくアーサーの声だった。

十、軌跡


「何故などと聞くつもりなら、あなたもベグゼさんと同じですね。」
クライスが淡々と返す。そして、短剣をアーサーの上から落とし、それを踏みつける。
「これが私の任務だからですよ。」
うめくアーサーを無視して、クライスは続けた。 「あなたたちに生きていられると、困る人たちがいるんですよ。ここまで言えば分かりますよね?聡明なあなたなら。」
 言いながら、ベグゼの斧を拾い上げる。ウィルルは心配そうにエフォラの足を見ている。血は出ているが、 そう痛くはない。人間が感じる痛みには限界がある。今はもう耐えられる程度の痛みになってきていた。 放っておけば出血多量で死んでしまうかもしれないが、幸い動脈を傷つけられずに済んだらしかった。 クライスが斧を振り上げ、その気配を察したのか、ウィルルが振り返ろうとした。
「見るな!」
ゆっくりと、斧が重力に従って落下を始める。 エフォラは叫ぶと同時に、自由のきく膝から上と腕を伸ばし、ウィルルを抱き寄せた。新しい刺激に足に 再び痛みが走る。
ザン
と、鈍い音をたてて、斧が地面にとどいた。
「時代は変わるんですよ。悲しいことに。」
事切れたアーサーに、クライスは少しの同情心もなくそう言い捨てた。そして、くるりと踵を返しエフォラの方へ向かって歩き始めた。
「何をした」
エフォラはクライスを睨みつけ、最大限の威嚇を表してはみたが、身動きが取れないため、それが価値がないことは自覚していた。奥の手としてあるはずの能力もすでにクライスに見られている。 「戦争の後片付けです。心配しなくても、あなたとウィルリウナに危害は加えません......これ以上は。」
クライスは両手を軽く挙げて戦う気がないことを表したつもりらしいが、エフォラは警戒をとかなかった。
「それ以上近づくな。何故だ?」
エフォラは忠告してから話を続ける。
 「皆さん、何故とばかり問うんですね…答えは同じですよ。任務ではないから。ウィルリウナに関しては、リウナの元ではありますが、本人が直接あの集団に属していたわけではありませんからね。」
クライスは足を止め、小さく肩をすくめて軽い口調で答えた。
「元になった?」
意味がわからずに聞いたエフォラにクライスがニヤリとした。
「現在、一般的には空想の世界のものとされるクローン技術というものがありますね。ある科学者がそれ完成させたんです。科学の最先端は、この国という訳ではありません。」
疑いのまなざしを受けて、クライスは鼻で笑った。
「信じないなら、それでも結構です。」
エフォラは考えていた。これが本当だったとしたら、確かにあの殺し屋の言っていたことにも納得がいく。
自分であるため。誰かの代わりでなく、自分が自分として存在するために。無二の存在であるため。だがしかし、そんな話を急に信じられるわけがない。
「もし仮に、それが本当だったとして...俺に話す意味がどこにある?」
クライスがまた笑った気がした。
「その科学者。今は行方がわからないんです。あなたが...その科学者に良く似ているものですから、もしかして何か関係があるんじゃないかと思いまして。それと...」
クライスはエフォラから視線をはずし、ウィルルへと目を向ける。
「ウィルリウナについて、少し知って欲しかったからです。」
その目は、この上なく優しかったのをエフォラは見ていた。理由はわからない。クライスは優しく、そし て少し寂しげにウィルルを見ていた。 遠くから複数の足音が聴こえてきた。その音で、クライスは表情を消した。
「さて、そろそろ私は退散させていただきます。」
 「待て!」
エフォラが叫ぶと、クライスは立ち止まった。 「私があなたに危害を加えない理由は、あの施設から抜け出し生き延びた成功例を消せという命令を受けていないからです。まさか、そんなものがいるとも思っていませんでしたし、それだけです。指示されてい ないことまでやるほど仕事熱心じゃありませんから。」
早口に言い捨てると、クライスは路地裏に姿を消した。
「おいっ!!」
今度はエフォラの声には応えずに、クライスは去っていった。
「エフォラ!!」
ティアが呼ぶ声が聞こえた。その後ろから保安部の小部隊がかけつけてきていた。エフォラの目の前には、時代に取り残された哀れな 3 人の死体と、何が起こったのかおそらく理解できていない生き残ったウィルルがいた。
「大丈夫?!」
ティアがエフォラに駆け寄り、エフォラの肩に触れた瞬間。
「んな、わけ、ある...か...」
精一杯の憎まれ口で返答をしたエフォラの視界が再び狭くなっていく。
(血、結構出てたみたいだな...)
そして今後こそ本当にエフォラの意識は暗い何もない闇の中に静かに落ちていった。

闇の中で、少女の手が見えた。少女の手なのは分かるのだが、それが妙に大きい。 見ると、自分の手が小さかった。子供の手だ。 少女の手は、自分の手を引っ張ってズンズン前に進んでいく。
闇の奥に小さな温かい光が見えた。
光は急速に近づいた。光の中に入って一瞬だけ、その世界を見る。
小さな家だった。
少女の手はいつの間にか消えて、気付くと自分はまた一人で闇の中にいた。 自分の手が少し大きくなっている。周りにおなじような手が出てきては引っ込んでいく。だれも、お互いに触れようとはしない。 その中の一つが、自分を押し出し今度は急速にその手の群れが遠ざかっていく。そして十分に遠ざかっ たところで、手の群れがいたところに光がともる。 遠くに見える光は業火だ。あそこにあったものをすべて焼き払う。 火の光も消え、またひとり暗闇にいると、今度は上から何かが降ってきた。 それは次々と重なり、重さを増していく。 目の前に腕があった。動こうとしない腕。大人の腕、子どもの腕、赤ん坊の腕、男の腕、女の腕。さまざま な人の腕が自分の上にあるのが見える。 重さに押しつぶされてこの上なく苦しい。しかも異臭もしている。 いい加減、自分はここで死ぬんだと思った。 そこで腕と腕の隙間からわずかに光が漏れていることに気付く。 なんだかわからないまま、それに触れたいと思い手を伸ばそうとした。
「いつまで寝てるのかしら?」
「おかあさん!!」
声が聞こえた。女の声と少女の声。
少女は泣き喚いている。
(うるせ)
「おかあさんっ!!」
少女は泣きながら母親を呼ぶ。
「おかあさん!おかあさん!!おかあさんっ!!」
呼び続ける。
(うるせえよ)
「もう、いい加減起きる頃だと思うんだけど。」
少女の声に混ざって、また女の声が聞こえた。 だんだんと体の上に乗っていたものが軽くなる。そして、腕がひとつ、またひとつ消えていく。少女は泣き止まない。
光があふれた。
「エフォラ?」
頬に痛みが走った。
「っ...」
エフォラは初めて闇の中で声を出し、その声が自分のものであると気付いた。
「おーきーなーさーい」
女の声と、頬を引っ張らる感覚にエフォラは違和感を覚えた。
目を開くと、自分の頬を引っ張っていた手を払いのける。
「お前、俺の顔を何だと思ってんだっ?!ティ......」
エフォラは、起き上がるとそこまで勢いで叫んで、目の前の現実に一人唖然としていた。
「ア...」
とりあえず、最後まで続けてエフォラは目を瞬いた。
そこは、闇の中でも光の中でもなく、ただの研究部の医療施設だった。
「あれ?」
あたりを見渡すと、どうも個室らしく他にベッドはなかった。
窓辺に花が飾ってあり、正面にムスッとしたティアがいた。
「おはよう。」
ムスッとしたままのティアが嫌味ったらしく挨拶をする。
「あ...おはよう......ございます。」
エフォラは控えめに小さな声で返した。
「足、動かしたらダメだからね。まだ治ってないし。」
そう言って、ティアは背を向けた。
「え?」
エフォラは一瞬なんのことかわからずに自分の足を見て、それからやっと思い出した。そして、はっとする。
「ウィルルは?!——つッ!」
うっかり足を動かしかけて、痛みで再びベッドに仰向けに倒れこむ。
「だから動かすなって言ったのに。」
ティアがぼそっと言ったのをエフォラは聞き逃さなかった。
「うるせぇ。ウィルルは?」
痛みに耐えながら搾り出した質問にティアは短く答えた。
「元気よ。」
「よかった...」
ティアの答えに全身の力が抜ける。
「ウィルルー。エフォラ起きたから入っていいわよー。」
「え?外にいんの?」
エフォラの質問が終わるのを待たずに、ドアが開く。
次の瞬間エフォラはわが目を疑った。
「な...」
エフォラが口をあんぐりと空けている横で、ティアが歓喜の声をあげた。
「かーわーいーっ!ウィルル可愛いーっ!!」
そっと入ってきたウィルルは淡いピンクのヒラヒラしたワンピースを着ていた。おそらくティアに着せられたというのが正解だろう。
「アホかっお前!人形じゃねぇ...——痛っ!」
エフォラはティアに拳を伸ばしかけて、またも足の痛みにのたうった。
痛い痛いと小さく言っているエフォラの視界の隅に、心配そうなウィルルの顔が映った。
「イタ...くない。別にたいした事ないし、騒ぐほどじゃあない...かなぁ」
咄嗟に痛みをこらえて無理に笑顔を作る。それでもウィルルは心配そうにエフォラを見ていた。
エフォラは顔を背けて、咳払いをした。
 「そんなところで強がらなくてもいいのに。」
ティアのひとり言も無視して、エフォラは窓から外を眺めた。
クライスの言ったことは結局、本当だったのだろうか。
それはわからない。どちらにしても、今エフォラにできることはなにもない。
「あ、そうだ。それから、これ酒場のお姉さん達がお見舞い。」
ティアがそういって、入り口近くの小さな棚の上に並んだ酒瓶を指した。
「病人に酒って...しかも俺未成年なのに...」
「たぶん、イヤガラセだと思うけど。」
平然と言うティアにエフォラは苦笑した。
「イヤガラセは言いすぎだろ。からかって遊んでるんだろ。たぶん。」
「それ、自分で言ってて悲しくならない?」
「ちょっとなる。」
ティアはクライスの話を聞いていない。いなくなったことに対する疑問はあるのだろうが、今は聞いてこないようだ。おそらく、エフォラの治療を優先したいのだろう。 もし、クライスの言っていたことが本当だとしたら、七年前に終わったはずの戦争は未だに終わってい ないことになる。
小さな残り火。それを、血で消火しようとしてる。そんな人間がいる。 エフォラの気持ちとは裏腹に、外は気持ちいいほどの快晴だった。
「エフォラ?」
「ん?」
ウィルルに名前を呼ばれて振り返ると、ウィルルは少し安心したように微笑んだ。それに応えるように、エ フォラも微笑み返す。 戦争と、その終結が見出したはずの答え。どうやら、まだ、本当の答えにまでは行き着いていないようだ。


第1部 完
第2部へ続く…

第2部 >>https://note.mu/sasami_oishi/n/na82edb5652cd

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