53 最近は落ち着いた?

夕立が上がり、日が傾き始めるとあちこちでネオン看板が点灯し始めた。ケバケバしい光は濡れた道路に滲んで溶けていく。窓から上を見上げても、建ち並ぶビルで空は僅かしか見えない。
ここは、アンチアルゴスD地区サテライトオフィス。
「報告書できましたー」
間延びした声でトミタロウがフォルクハルトに伝えると、彼は落ち着いた様子で「ありがとう。確認しておく」と応えた。
「なんか、落ち着きましたね」
トミタロウはフォルクハルトを眺めて、どこかつまらなそうに呟いた。
「ん?」
フォルクハルトは「どういう意味だ」と言いたげに眉根を寄せて、トミタロウを見た。
「最近はこっそりキスとかもしてないみたいですし」
トミタロウのどう考えても失礼な発言にフォルクハルトは「ああ」と言ったあと、小馬鹿にしたように鼻で笑った。怪訝に思ったトミタロウがハルキを見ると、備品のチェックを終えたハルキは気まずそうに視線を逸らした。
「………え……まさか…」
トミタロウは嫌な予感に口元をひくつかせる。
「俺が本気になれば、お前の目を掻い潜ってキスをするなど容易いことよ」
「なっ!?」
何故か得意げに言うフォルクハルトにトミタロウは畏怖と軽蔑の混じった視線を送る。
「そんな事に本気を使うな」
ハルキは額に手を当てて項垂れ深いため息をついた。
トミタロウは一度は驚いたものの、改めて考え直してみると何の問題もない事に気付いた。
「いや、僕が気づかない所でやるなら、別にどうでもいいです。キスでもなんでも、好きにしてください」
フォルクハルトは「なんでも…」と繰り返す。何故そこに反応したのかトミタロウにはわからなかった。
「いや、なんでもは不味いだろ。ダメだからな、フォルクハルト!」
ハルキがフォルクハルトをキッと睨んで釘を刺す。
フォルクハルトは「ダメか…」と、残念そうにぼやくと、トミタロウから提出された報告書のデータを開いて仕事に戻った。
「トミーも無責任に「なんでも」とか言うな!」
ハルキは怒っているらしくトミタロウの事も睨んだ。
「知らないですよ。それは、あなたのパートナーが色ボケ万年発情期なのが問題なのであって、僕のせいじゃないです。」
「…トミーも言うようになったな…」
うんざりと言い捨てるトミタロウに、フォルクハルトが少し悲しげな顔をする。
「いや、否定してくださいよ!いいんですか?色ボケ万年発情期という評価で」
「………」
トミタロウに言われてフォルクハルトは少しだけ考え込んだ。
「…他のことを疎かにはしていないので、色ボケではない…と思う」
やや自信がなさそうだ。
「万年発情期の方は否定しないんですか?」
トミタロウに言われてフォルクハルトはしばらく考え込んだ。
「…………………直近の自分の行動から否定できる要素が見当たらない」
(ないのかよ)
トミタロウは心の中で呆れたてぼやいたものの、同時に「正直な人だな」とも思った。そんなフォルクハルトをハルキは冷めた目で見ている。
終業のチャイムが鳴った。ハルキは何か不意に思い出したらしく「あ」と声を漏らた。
「今日は用事があるから、先に帰っていてくれ」
先ほどの話は終わりにして、フォルクハルトにそれだけ告げると帰り支度を始める。
「ああ…わかった」
フォルクハルトは、応えて報告書の確認を続ける。一通り目を通して、指摘がない事を確認するとD地区長宛に提出処理を進める。
ハルキは帰り支度を済ませると「お疲れ」と言い残して、そそくさとオフィスを後にした。
「報告書は問題なかった。帰っていいぞ」
淡々と伝えてフォルクハルトも帰り支度を始める。
「そういえば、ハルキさん。最近は定期的に用事があるんですね。習い事とかですか?」
トミタロウに聞かれてフォルクハルトは手を止める。トミタロウが知る限り、ハルキは二週間に一回、同じ曜日にこうやって先に一人で帰っていた。
「いや…知らん」
少し不満そうにも聞こえるフォルクハルトの声に、トミタロウは意外だなと思った。
「あれ?気にならないんですか?」
「聞いたが教えてくれない」
やはり不満げなフォルクハルトに、トミタロウは「へぇ」とだけ言うと、それ以上興味を失って帰り支度にはいった。
「何だと思う?」
帰り支度を済ませたフォルクハルトは、トミタロウに聞く。
「知りませんよ」
トミタロウは冷たく返す。トミタロウにとってはどうでもいい話だ。
「………尾けるか」
ふと思いついて、そんな事を言いだしたフォルクハルトに、トミタロウは心底うんざりした顔でため息をついた。
「…そういうのやめた方がいいと思いますよ」
フォルクハルトは、トミタロウの忠告を無視して、端末を操作し始める。チームリーダー権限でメンバーの現在位置は業務終了の打刻から10分以内であれば確認可能だ。
「職権濫用ですよ」
トミタロウに軽蔑した目で見られたが、それも無視する。ハルキの現在位置は、まだ追いつける距離だ。
フォルクハルトは、「お疲れ」とだけトミタロウに言って、真剣な表情でハルキの後を追うためオフィスを飛び出した。

ハルキを視認できる距離まで追いつくと、フォルクハルトは身を隠しながら、尾行を始めた。道路はまだ濡れていて、所々水溜りもある。水音を鳴らさぬように気をつけながら後を追う。ハルキはのんびりと歩いていた。商業エリアに向かっているようだ。ハルキが角を曲がった事を確認して、フォルクハルトは歩を進める。
人の少ない路地だ。思いつきで後を尾けたフォルクハルトだったが、今になって嫌な想像が頭を掠める。誰かとの密会だったらどうしよう。それを見てしまったとして、その後はどうするのか。何か文句を言うにしても、勝手に後を尾けたというのはハルキに責められるだろう。最悪、それを理由に「別れる」などと言われた日には…

カンッ

集中を欠いて、足下に落ちていた空き缶を蹴ってしまった。
「だれだ!」
ハルキが振り返る。ギリギリで物陰に隠れたフォルクハルトは、自分の失態を呪った。おそらく尾けられている事を勘づかれていた。
「なぁーン」
フォルクハルトは苦し紛れに猫の声真似をした。
「…なんだ猫か」
ハルキの拍子抜けした声にフォルクハルトは安堵した。なんとか誤魔化せたらしい。
しかし、ハルキその場に止まりキョロキョロと道の端を見渡した。
「ネコちゃーん…どこにいるのかな?」
ハルキは猫撫で声で、ゆっくりと道を戻ってきた。
フォルクハルトはこの時、己のさらなる失態にようやく気づいた。
ネコちゃんが大好きなハルキがネコちゃんの声を聞いたら、ネコちゃんを探しに来ない訳がない。
そして、ここまで戻って来られたら、このデカい図体を隠せるような場所はない。
ぱちゃぱちゃとハルキの足音が近づいてくる。動けば足音で人である事がバレる。動かなければ、結局見つかる。万事休す。
フォルクハルトは目を瞑り、息を殺して天命を待った。
「フォルクハルトじゃないか。ネコちゃんは?」
ハルキの声は思ったほど怒ってはいなかった。ゆっくりと目を開けると、キョトンとしたハルキと目があった。
「えっと…なぁーン」
フォルクハルトは、もう一度ど猫の声をまねた。それを聞いたハルキがギョッとする。
「お前ネコの声真似めちゃくちゃ上手いな」
フォルクハルトは、どう反応して良いのかわからず、目を逸らした。
「という事は、ネコちゃんはいないのか…」
とてもがっかりしたハルキが気の毒になり、フォルクハルトは「…すまん」と謝った。
と、ハルキの目つきが鋭くなる。
「ところで、お前はこんな所で何をしている?」
「う…」
フォルクハルトはうめいて、どう答えるべきか思考を巡らす。
「誰かに尾行されている気配があったが、フォルクハルトか?」
完全にバレている。考えたところで、言い訳不能だ。
「…はい」
おとなしく認めはしたものの、それで済む話でもない。ハルキの眉間に皺がよる。
「何故そんな事をした?さすがに気分が悪いぞ」
ハルキに詰め寄られ、下から睨まれる。怒られるだけならまだいい。謝って済むなら、いくらでも謝ろう。最悪の事態が脳裏に浮かんで、フォルクハルトの心拍は急上昇する。
「すまん!悪かった!何をしているのか教えてくれないから、気になって…」
「…また不倫でも疑ったのか?」
ハルキに冷たい目で睨まれて首を振るが、それを一瞬考えてしまったのは事実だった。ハルキがどう判断するかと固唾を飲む。
ハルキは少し疑いの目を向けたが、その後すぐに嘆息した。
「まあ、いい。そんなに気になるなら着いてこい」
言って歩き出す。
フォルクハルトは許された事にホッとして、ハルキを追いかける。
「い、いいのか?」
困惑して聞いてきたフォルクハルトを一瞥して、ハルキは頭を掻いた。
「見学者が一人くらいはどうにかなるだろう。ただし」
フォルクハルトに向き直る。
「絶対に口出しするなよ」

着いて行った先は料理教室だった。フォルクハルトは、入り口でポカンとする。
「習いたいなら俺が教えてやるのに」
そして、ハルキに睨まれる。
「フォルクハルトは口うるさ過ぎる。教えるプロから習う方がいい」
フォルクハルトは気不味くなって、僅かばかり体を縮ませて反省した。
「それにしても、これなら別に隠さなくても良かっただろ。」
不満そうに言うフォルクハルトに、ハルキは頬を膨らませる。
「こっそり上手くなってフォルクハルトを驚かせたかったんだ」
「なんだ、その可愛い理由は…」
「お前が台無しにしたけどな!」
ハルキに怒られて、フォルクハルトは小さな声で「…すまん」と言った。
「ところでネコちゃんの鳴き真似うまかったな。もう一回やってくれ」
ハルキに言われてフォルクハルトは少し嫌な顔をしたが、「まあ、それで気分が晴れるなら」と喉の準備をした。
「なぁーン」
ハルキの顔がパッと明るくなる。
「かわいいー!よしよし」
背伸びして手を伸ばしてきたハルキに頭をクシャクシャされる。
「バカ!やめろ!セット崩れるだろ!」
フォルクハルトは、慌てて身を引いてハルキに抗議したが、ハルキがご機嫌になったので、内心ホッとしていた。

翌日、トミタロウがオフィスに着くとハルキは興奮気味に話しかけてきた。
「トミー聞いてくれ!フォルクハルト、猫の鳴き真似めちゃくちゃ上手いんだ!」
トミタロウは「また、この人はどうでもいい事を…」と思いながら、適当に話を合わせた。
「へーそうですか。ちょっとやってみてくださいよ」
「断る!」
フォルクハルトは拒絶した。
「そんな事言わずに、な?お願い」
ハルキに上目遣いでお願いされて、フォルクハルトは恥ずかしそうに目を逸らす。
「…………なぁーン」
「あ、予想以上に上手いですね」
トミタロウは素直に驚いて感嘆の声を漏らす。
「かわいいー!よしよし」
ハルキは、手を伸ばしてフォルクハルトの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「バカ!やめろって言ってんだろ!」
フォルクハルトが抗議するが、ハルキはわしゃわしゃするのをやめない。
「かわいいー!」
トミタロウは、うんざりして窓から外を眺めた。
曇天に灰色の鳩が二羽飛んでいく。
「さ、仕事しよ」
トミタロウは二人を無視して、仕事に取り掛かった。


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