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自分の可能性を信じている人へ

まえがき

不完全だ。人は本当に不完全な生き物だと思う。だがそれでいい。余地がないのは生きてて苦しいだろう。

勝手に完璧に思われている人たちも、実は栄光の裏に影があるとかなんとか?

そんな物は置いておく。

感性を高める前に

ここ最近、子供の個性を伸ばそう、感性を育てよう、教養をつけるといったことが多く聞かれるようになった。

アート思考とか、ビジョン思考とか、デザイン思考とか色々あって僕も「いやーおもろいね」と思うことが多い。

ところで感性ってなんだろう。感性自体がふわふわしているから言葉の定義はどうでも良い?そんなことは無い。言葉の定義は大事だ。定義をどうするかで物事に取り掛かる姿勢が変わる。当たり前だ。当たり前だから何回も反芻していい。

ひとまずGoogleで調べてみることにする。

「感性を豊かにするには?」

「感性が豊かな人の3つの特徴とは?」

「感性を磨くためには」

どこかで見たことあるようなタイトルが多い。そんなもんだろう。

調べた内にはいらないかもしれないがWikipediaには

「受動的な知覚を担うものであり、また、人間的な理性よりも下位にあるために、より動物的なものだと論じられることもある」

とかなんとか書いてある。

少しわかりにくいので輪郭をはっきりさせておきたいところだ。

例えば、感性が優れている、良いねとなる瞬間はどのような時か。

一つは自分の意見を素直に聞き入れ、「これって〇〇なことですよね」と違う言葉で言い換えたりする瞬間だ。物分りがよく、感性いいね〜などと言ったりする。

他には、自然を見て感じることの感想の言葉のチョイスや、赤ちゃんに用いられることが多いだろうか。

「自分が認識していなかったことを言語化した人」

これが感性が良い人、みたいな定義ではないか。

この事を行うには何が必要か。

それは型であり、フォーマットであり、巨人の肩に乗る、そういったことかもしれない。

自分の中にタンスがある。引き出しでも良いか。これはこういったことですよ。これが自分の中の正解ですよなど。

とにかく何でも良いがまずは染まれ、型にはまれ、どっぷり浸かって、理解できるできないはまず置いておくんだ。話や、ある情報を受け取る主眼は「完全に理解すること」に置くのではなく「自分の中でタンスにしまえるかどうか」に主眼を置くべきだ。

「俺なら考える」「俺はこう思う」

まずは型にハマりつつこういった事を考えてみる。これが自分のタンスにしまえるかどうかに主眼を置くということだ。これは理解しないと考えを表明してはいけない何てことはないんだから、未熟なものでも、不完全なものでもいい。むしろ、不完全だからこそいいのだ。自分の中に不完全なものはしまわずにさっさと外に出してしまった方が良い。

そしたら頭の良いオトナが正してくれる。それをまた「俺はこう思う」で対応していけばよいのだ。

自分の個性なんて大したこと無い

これを聞くと

「個性的じゃなくなる」

「独創性が出せない」

「オリジナリティが制限される」

と言いたくなるだろう。気持ちはわかる。大事に守りたいよな、自分のこと。そしていつか芽が出て、大きな花を咲かせてみんなに注目されたい。

残念ながら、その欲求自体みんな持っているようなものだ。その欲求の没個性から考えなければならない。

でも僕ははっきり言うけど注目されるならされたいし、チヤホヤされたい。もし興味ない人がいるなら、僕はあなたの型をインストールしたい。一緒に話そう。

シンプルに聞くが、独創的な人って当たり前なことをしていないか?

めちゃくちゃ作ったり、めちゃくちゃ稼いだり、めちゃくちゃ失敗して、めちゃくちゃ成功したり。

そういった過程があって、注目される人は成り立っている。シンプルな話だ。勝てば注目され、負ければ忘れられる。

では、その当たり前をなしていない君は何を残せるのだろう?自分という世界の中で築いたちっちゃい、妖精みたいな価値観が後世に残るのか?

僕もこんなことを書いているが、同じことを書いた人なんか世の中に何人いるというのだ。何番煎じか分からない。

インターネットが発達していない時代にもうファーストペンギンは現れていたと思う。自分なんかが生まれる前から、すごい哲学の人はいろいろなことを考えていたし、人類はいろいろな経験をしている。

その点で言えば自分は生まれた時代的に負けている。

だから自分の個性なんて大したことないのだ。まぁそんなに絶望することはない。何をやっていけばよいか、自分なりにと言っても他人の知恵を借りて少し考えてみた。

さっさと巨人の肩に登り、ゴミを吐き出せ

巨人の肩に登る、というのはあまりにも有名な話だ。

つまり、今までの人類が築き上げたものを知ろうぜってこと。

昔から生き残っている本や、練習等色々なものがあるだろう。それを読む。できるだけ高速に、というのがポイントなきがする。

そもそも今同じ時代に生まれた人の言葉を理解するのも難しいのに、昔の人はもっと無理。ここでも「理解する」ということの主眼を置かない。

とにかく

「こんな事書いてある」

と少し分かればラッキーだ。それを何回も繰り返せば、一応少しは理解したような感じになるはずだ。理解したとは違う。

これを繰り返して思うことをなにかに落とし込む。自分以外の人の目に触れるところに置く。

これだけで自分の世界が良くなる。20年生きている人がやるものは(一部の天才を除いて)どうせ足掻こうがゴミなのだ。

そうなら、人に見てもらうゴミのほうがゴミとして磨きがかかる。いいじゃないかそれで。

苦手なら、自分だけが見るメモ帳を用意すればいい。そして丸めて捨てて、もう一生書かないと後悔しても良い。うっかり人に見せて恥ずかしくなってもよい。書いただけ、少し行動を変えただけえらいんだ。

偉そうなことを書いた。やっぱり僕もいろいろな人の文章をパクって書いているということがよくわかった。

アウトプットはインプットに比例する。

それでも書く

自分だけのもの、いつになったら書けるだろう。何年後か分からない。

もしかしたら、一生かけないかもしれない。

おとなになって見返したときに死にたくなるかもしれない。いってしまえばこれはデジタルタトゥーだから。

でもいいじゃないか。一人の部屋でうじうじ悩んで一歩踏み出せないより、一歩踏み出してダサいほうが僕は好きだ。

人生はクソかもしれない。そんな瞬間が無数にある。僕も、この手を止めた時に向き合うべき時間が来ることが怖い。孤独が、怖い。

でもやる。なんかいいから。いつかの日に、自分が書いてよかったなと思える瞬間が来るかもしれない。勿論、来ないかもしれない。

でも書くという行為は、なんとなくいい。それくらいでいい。

あんまり考えすぎないで、今日もやっていけばいいじゃん。いいぞ、諦めるという世界は。

個性がほしいと言っている人間が一番個性が無いんだ。そうなら僕は、喜んで型にハマりにいく。

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