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自分はADHDだと思ってた。②

「自分はADHDだと思って思ってた。①」に書いたように中学・高校当時の私はとにかくADHDの特性としてよく言われている「不注意」「多動性」を網羅した人間でした。

中学生の頃は忘れ物が多くても、うっかり空気の読めない発言をしても「○○らしいね。」と周りは笑っていてくれたので「自分は少し変わり者なのかな?まあいっか。」としか思っていませんでした。この時点で周囲と比べると少しどころか圧倒的にずれていたと思うのですが、周りのフォローがあったり、中学生と言っても小学生に毛が生えたみたいなもんだったので自分と似たような忘れんぼは他にもいました。つまり「自分の存在が浮く」ことはなかったのです。

状況が変わり始めるのは高校に入ってからでした。今までは「できないうちの一人」だったのがだんだん「私だけができない」になっていきました。周りが成長し、個人差はあれど落ち着きを持っていく中で意識してもいつまでたっても多動・多弁が消えてくれることはありませんでした。そして周りの人が無意識にできていることが自分には意識してもうまくできない場面も増えていくのです。「会話の流れに沿っておしゃべりする。思ったことをすぐに口に出さない。場面を見て話す。」多くの人が気づかぬうちにできていることが自分にはできず友達に「どうしたらできるようになる?
?」と聞いても明確な答えは返ってきませんでした。そらそうです。意識してやってませんから。

高校生になると受験を筆頭にお金に関する書類など難しくて重要な提出書類が増えていきます。多くの人は重要な提出物と言われると「普段は提出期限とかあんまり気にしないけどこれはちゃんとしよう」と思い、普段は締め切りにゆるい人もここぞという時にはちゃんと期限を守って提出します。普段だらけているだけでたいていの人はなんだかんだ言って「できる」人ばかりでした。そうすると「周りの人は当たり前にできていること」がいよいよ当たり前にできないことにきづくのです。しかし、当時の私を苦しめたのは「当たり前ができない」ことだけではありませんでした。

「当たり前」ができないという事実は私に非常に大きなダメージを与えました。いつまでたっても同じミスを繰り返す自分に対する失望感、ストレス。また同じミスを繰り返してしまうのではないかという不安、トラウマ。この精神的なストレスが余計に物忘れ、落ち着きのなさを助長し、頑張れば頑張るほど空回りし、次第に気力も体力もなくなっていきました。そして高校3年生のある朝、学校に行けなくなりました。

不登校になることはありませんでしたが学校にいけない日や登校しても学校に居られなくなって早退する日々が続きました。私は精神的ストレスがピークだったこの時期の記憶があまりありません。覚えていないのだと思います。学校でどんな行事をしたか、クラスメイト、自分のクラスや名簿番号、そういったことを思い出すことができません。私が思い出せる当時の思い出は「とにかく辛かった」これだけです。

そんな辛い状況が一気に晴れるのは自分が想像してた以上にあっけなく、そして今まで話してきた「できない」もあっという間に改善されていくのでした。




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