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農民芸術の修羅――宮沢賢治「農民芸術概論綱要」の続きを書く(2)

 現在の非職業作家たち、「すべての人が芸術家である」時代に生きる有象無象の芸術家たちを、宮沢賢治が思い描いた「農民芸術の産者」と同一視してしまって良いものだろうか?

 「限界芸術の創作」の最良の例として宮沢賢治の思想と実践を挙げている鶴見俊輔の分類に従うなら、固有の作家名を強調して絵画や詩を描くのはむしろ「純粋芸術」に、商業映画や流行歌を範としてそれを個人のスケールで実践しようとするのはむしろ「大衆芸術」に分類されるべきかもしれない。

 だとしたら、飽和してしまった「芸術家と作品」とは、純粋芸術や大衆芸術のたんなる真似事、あるいは、そうした業界での成功を夢見たものたちの成れの果てにすぎないのだろうか? 名声や利益を求め、承認欲求に駆られて制作と発表を続ける芸術家たちは、賢治が理想とした白象やデクノボーの無私無欲な生き方とはほど遠い。農民芸術と呼ぶに値しない。宮沢賢治の思想とは無関係だ。そんなふうに切り捨ててしまうべきだろうか。

 私は基本的に欲にまみれた人間で、賢治のように徹底して無私無欲であろうとすることはできないし、そもそも白象やデクノボーのような生き方が理想だとも思わない。名声や利益を求めること、承認欲求を持つことそれ自体は「悪」ではない。誰かがストイックに自分の理想を追い求めるのは勝手だけれど、その理想を他人に押し付けないでほしいと思うこともある。

 だが他方で――肯定するにせよ否定するにせよ――名声や利益、承認欲求といった言葉で個人の制作活動すべてを片付けてしまおうとする態度、片付けてしまえると高を括る態度には、強い怒りを覚える。仮にそうした欲求がすべてであるならば、「芸術」を志したり「作品」を作ったりすることはあまりにも非効率で、割に合わない営為だ。もっと手軽に注目を集める方法、もっと堅実にお金を稼ぐ方法は他にいくらでもある。それにもかかわらず、わざわざ面倒な「芸術」や「制作」にこだわり続けるのはなぜか。そこには名声や利益に還元できない「何か」があるのではないか。このように考えるのは決して不自然なことではないだろう。

(このことは、制作者の問題であるよりも先に鑑賞者の問題だと思っている。いま目の前にある作品に対する無関心、精密な分析や文脈の理解をサボる怠慢、「自意識過剰な芸術家」という先入観に目が眩んだ、作品鑑賞の恥ずべき解像度の粗さ、「(他に誰も見てくれる人もいないだろうから)私が親切に君の作品を見てあげよう」というような傲慢な自意識――「すべての人が鑑賞者である」以上、こうした批判の目がもっと向けられても良いはずだ。)

 ここで考慮すべきは、白象やデクノボーの生き方は、賢治自身にとってもあくまで「理想」であり、実現困難な夢であったということだ。賢治はデクノボーとしての生き方を書き連ねた上で、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と締めくくる(「雨ニモマケズ」)。それは自分がまだその境地に至れていないと自覚していることの証である。賢治が自己規定した「修羅」とは、自身が理想とする生き方と、それとは矛盾する現実生活の実態とのあいだで苦悩する存在だった(見田宗介『宮沢賢治――存在の祭りの中へ』)。

 この意味で、賢治と現代に生きる芸術家たちはそれほど遠い存在ではない。両者は共に、芸術を掲げることでしか成し得ない(と考えている)理想の追求と、その目標とは無関係であったり矛盾・対立していたりするような邪な欲望、思い通りに行かない現実、自らの行動のふがいなさに悩み、葛藤しながら、それでもなお何かを作ることを止めることができない修羅なのだ。


 これはおそらく、殊更に美化して語るべきことでもなければ、露悪的・悲劇的に語るべきことでもない。人が人として作り続けていく上での、たんなる前提条件なのだろうと思う。

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映像作家、企画者。取手→赤羽→鳥取。