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原将人『世界‐内‐存在の風景論的眺望』を読む

 原将人の論考「世界‐内‐存在の風景論的眺望」は、第二次『映画批評』創刊号(新泉社、1970年10月)に掲載され、後に単著『見たい映画のことだけを……』(有文社、1977年)にも「風景論的眺望」と改題して収録された。同論は、原将人の映画制作の方法を知る上でも、また松田政男や足立正生、中平卓馬らによって議論された風景論争を読み解く上でも、欠かすことのできない重要な位置を占めている。だが、私も含めて当時を知らない世代にとっては、原将人という映画作家を取り巻いていたコンテクストを正確に把握することの困難はもちろん、ポール・ニザンやマルクス、ハイデッガー、メルロ=ポンティなど様々な論者の言葉がブリコラージュされた難解な文体も相まって、読み解くハードルが非常に高い論考になってしまっているように思う。そこで以下では、ある程度は平易な言葉で、私なりの問題意識から同論を要約することを試みた。いずれ書くつもりの原将人論、そして「風景論争」論のための研究ノートのようなものだが、近しい領域に関心を持つ人がいることを期待し、ここに公開する。(2023.1.5)

風景論としての『アデン、アラビア』

 「世界‐内‐存在の風景論的眺望」は、作家・活動家のポール・ニザンによるエッセイ『アデン、アラビア』を風景論として読むことから始まる。21歳のニザンは、ブルジョワジーによって堕落させられたパリでの生活を憎み、ヨーロッパを相対化すべく東洋への旅に出た。だがユートピア(どこにもない場所)を求めて辿り着いたアラビアの都市アデンは、ニザンの目には、パリと何ら変わらない「何処にでもある風景」と映った。そこはイギリスがアジア支配へ向かうための拠点となる植民地であり、ヨーロッパ的なものが極めて凝縮されて現れている場所だったのだ。

 原は松田政男の風景論を念頭に置きつつこう語る。一世代前の人々なら、マルクス主義の理論を持ち出し、ニザンの見た「何処にでもある風景」とは世界市場の出現であり、プロレタリアートによる世界革命が実現するための現実的条件なのだと解釈するだろう。すなわち、風景は自らの存在を抑圧する権力である。そのような情況に置かれていることが、権力に対する我々の戦いの「オリジン」——自らの行動を決定する根拠や動機——である、と。しかしこうしたマルクス主義に依拠した解釈では、ニザンの一面しか捉えることができていない。

 原は自身の世代の時代感覚をニザンに重ね合わせながら、我々はすでに古典的・近代的なオリジンが崩壊した後の時代を生きていると言う。別の言い方をすれば、戦うべき敵の姿が見えなくなり、行動を決定する根拠が喪失した時代を生きている。もはや「現実」は自らを抑圧するものとしての確固たる像を結ばず、マルクス主義のように抽象化された理論の中にも闘いのオリジンを見出すことができない。ところが上の世代は相変わらず「密室は権力だから破壊せよ」「風景は権力だから切り裂け」と抑圧・対立構造をでっちあげ、オリジンの崩壊をまともに見ようとしない。それゆえ、やはりオリジンなきまま旅を始め、むしろその旅の中で自らの戦いのオリジンを発見したニザンを捉え損なっているのだ。

憎悪の「まなざし」に開かれる風景

 一方の原は、『アデン、アラビア』においてニザンがあらゆるものに向ける苛烈な怒りに注目する。「ぼくらの行動のひとつたりとも怒りと無関係であってはならない」「もはや憎むことを恐れてはならない。もはや狂信的であることを恥じてはならない。ぼくは彼らに不幸の借りがある」——ニザンには、戦うべき敵やマルクス主義の理論に先立って「憎悪」があった。そして、その憎悪に己の闘いのオリジンを見出した。現実からも理論からも出発できないことから出発し、自分には確固たるオリジンがないことを自覚した上で、憎悪に己の闘いのオリジンを——あくまでがそれが虚構でしかないと知りつつ——仮構したのだ。この解釈からすれば、「何処にでもある風景」とは、世界市場が拡大してヨーロッパ化・均質化した風景を意味しない。パリであろうがアデンであろうが、ニザンが等しく憎悪の「まなざし」を向けたという意味で「何処にでもある風景」なのである。

 加えて原は、ニザンには憎悪の「まなざし」と同時に風景の「まなざし」も介在したと指摘する。そうでなければ、『アデン、アラビア』の随所に見られる、土地ごとに固有の襞と表情を持った美しい風景の描写を説明することはできないだろう、と。ここで言われる「まなざし」とは、「主観‐客観」図式に基づき、他者を対象化して捉えるサルトル的な「まなざし」ではなく、主客が未分化で、見るものが同時に見られるものでもあるという両義性を持つメルロ=ポンティ的な「まなざし」である。ニザンはあらゆるものをただひたすら憎悪する「まなざし」を介して風景と一体となり、「主観‐客観」もしくは「主体‐客体」、「認識‐表現」といった近代的な二元論の枠組みを超えたのだ。

 原によれば、松田政男の風景論にはこの「まなざし」が決定的に欠落している。松田は60年代に盛んに論じられた「情況」という語が形骸化し、いまや特権的な高みから語りたいインテリ好みの言葉に堕していると指摘し、情況論から風景論への転換を訴えた。だがそこで松田は、「風景は権力だから、永山則夫はそれを切り裂くために弾丸を発射した」というかたちで、古典的・近代的なオリジンや「主体‐客体」の二元論を前提とした思考をしてしまっている。別の言い方をすれば、他者を対象化して捉えるサルトル的な「まなざし」に留まっている。それでは結局、「情況」から「風景」に言葉を替えただけで、主体たる松田が特権的な高みから客体(風景)を語る構造は温存されたままだ。

 一方、連続ピストル射殺事件を起こした当人である永山則夫は、松田の解釈とは異なり、風景を敵対してくる権力と捉えて弾丸を撃ったのではない。むしろ永山はニザンと同様に、あらゆるものに憎悪あるいは殺意の「まなざし」を向けることによって、「風景を切り裂いたのでは決してなく、むしろ風景を完成させた」のである。

大島渚と「世界‐内‐存在の視点的展望」

 続いて原は大島渚という作家と作品を論じる。ここまで、主にポール・ニザンと松田政男の言説を通して検討して来たのが「存在」におけるオリジンであったとすれば、ここから検討されるのは「芸術」におけるオリジンの転換についてである。

 さしあたり、原は「大島渚の戦いのオリジンは何だったのか」と問い、そこで「世界‐内‐存在の視点的展望」なる概念を持ち出す。「世界‐内‐存在」は哲学者マルティン・ハイデッガーの存在論の中核を成す概念で、人間が存在するとはどういうことか、その根本的な構造を解明するために用いられる。曰く、人間——厳密には「現存在」、すなわち自己が現にそこに在ることを自覚している存在者——は常にすでにこの世界の内に投げ出され、それと志向的・構成的に関わり合うという仕方で存在している。ここで注意しなければならないのは、「世界‐内‐存在」は主観(主体)と客観(客体)の関係の言い換えではなく、むしろ主客未分の状態であり、またそうした主客の分離という認識が生み出される源泉でもあるということだ。だが人間は普段、このような本来的な存在の構造を意識することはなく、それを飛び越えて、認識論的に——主客の分離を自明のものとして——世界を見つめようとする。これが「世界‐内‐存在の視点的展望」であり、またそのような高みから眺められた世界の像が「情況」と呼ばれるものである。

 原によれば、大島渚の戦いのオリジンは「世界‐内‐存在の視点的展望」のうちにあった。大島は自らの存在のオリジンと芸術のオリジンを相剋的に語る。すなわち、自分自身の体験と理論を往還しながら世界の確固たる像(情況)を描き出し、「私」はその情況に向かい合う主体となる。映画においても同様に、表現主体である「私」が世界(客体)と向き合い、そこで認識した世界を表現していくのだという発想で制作に取り組むのである。

 その具体例として、原と佐々木守が脚本を執筆し、大島が監督を務めた『東京戰争戦後秘話』(1970)が挙げられる。原は、同作の主人公・元木が遺書代わりに残したフィルムに映る風景を——ニザンや永山則夫の場合と同様に——己の戦いのオリジンが無いことを自覚しつつ、それでもなおオリジンを仮構することによって開かれる風景として描き出そうとした。だが大島はそれを理解せず、元木のフィルムはあくまで主体が認識した世界の表現として撮られている。その証拠に、カメラ位置は一貫して俯瞰か凝視が選択され、後半の風景を探し歩くシーンでも、視線の高さから撮られたショットは僅かしかない。そこにあるのは、自己と風景が渾然一体となるような「まなざし」ではなく、世界を対象化して俯瞰的に捉える「まなざし」である。『東京戦争戦後秘話』は一貫して情況論の高みから撮られたのだ。

方法としてのフェティシズムと「世界‐内‐存在の風景論的眺望」

 それでは、「世界‐内‐存在の視点的展望」を乗り越えるにはどうすれば良いのか。古典的・近代的なオリジンを前提とせず、「認識‐表現」の二元論から脱却した映画制作は如何にして可能だろうか。原は、その鍵になるのは「方法としてのフェティシズム」だと言う。

 「フェティシズム」はマルクスによって経済学に導入された概念で、商品の価値は人間の労働によって物に付与されるにもかかわらず、あたかも商品自体が初めから物としての価値を持っているかのような幻想が生み出されることを意味する。原はマルクスの言う「価値」を「オリジン」に、「物」を「作品」(タブロー)に置き換えた上で、フェティシズムによって、古典的なオリジンを必要とせずにオリジンを仮構することができると主張する。そして、認識と表現、あるいは内容と方法が不可分であり、渾然一体なまま開けてくる場を——「世界‐内‐存在の視点的展望」と対比するかたちで——「世界‐内‐存在の風景論的眺望」と名づけるのである。

 方法としてのフェティシズムを具体的な映画制作に導入するなら、それは「撮る」ことの自己追求、すなわち「撮ることについて撮る」こと以外にないと原は言う。「撮ることについて撮る」と言っても、それは決してメタな視点に立って撮るということではない。撮ること自体へのフェティシズム、つまりは撮るために撮るというトートロジカルな欲望を自らの表現のオリジンとして仮構することで、「認識‐表現」の二元論を突破し、その先に「私」と「風景」が不可分で渾然一体となった「作品」が残るのではないか……。

 以上のような仮説を提出して、この論は閉じられる。原はその後も「先験的映画創造」「仮構表現論」「映画の《肉体》論」などの概念を用いて思索を続け、その試行はやがて『初国知所之天皇』(1973)という具体的なフィルムに結実するだろう。作中、原自身によって時に語られ、時に歌われる「まるで映画を見ているようだ」「こんな旅は無駄だと知って あてのない旅を続ける」「私が映画の舞台となるのだ」といったフレーズからは、確かに本稿での思索がフィルムに息づいていることが感じられる。

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