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水戸芸術館クリテリオム98 西澤諭志

2022年3月、水戸芸術館で西澤諭志の写真展を見た。以下、備忘録として残しておく。

「クリテリオム」は、若手作家と当館学芸員が共同企画する新作中心の展覧会シリーズです。
西澤諭志は、カメラを用いて個人の身近な生活を記録し、そこに浸食し写り込む社会的、経済的な側面へと意識を向けた写真作品や映像作品を制作してきました。2018年からは、日常的な風景に遺された記念的造形物(モニュメント)に眼を向け、第二次世界大戦の遺構や展示・観光施設、復興後の被災地等のモチーフにも取り組んでいます。
今展では、これまでの主題に加え、日常に溶け込んだ行動変容や眼に見えない制約が垣間見える2019年以降の風景の記録を再編集し発表します。

 例えば長崎県島原市平成町、島原復興アリーナで撮られた写真。遠くにそびえる雲仙普賢岳を背にして、サッカー日本代表のユニフォームを着た坂本龍馬像が佇んでいる。さらにその手前の広場では、お揃いのユニフォームを着た中学生か高校生の一団が時間を持て余している。島原に龍馬像が設置されていることについては、ここは龍馬ゆかりの地(彼が初めて長崎に足を踏み入れた場所)だからというもっともらしい理由がつけられるが、龍馬がサッカーボールに足を乗せていることには、いかなる弁明も説得力を持たないだろう。寄せ集めのイメージがコラージュされ、その土地に固有な場所性が剥奪されたヘテロトピック(混在的)な風景。

 西澤諭志が撮影したこの写真から、1969年に松田政男ら6名の映画作家たちが目撃した「奇妙な祭り」を連想することは容易い。

 松田らは、連続ピストル射殺魔・永山則夫が見たはずの景色を辿る旅に出て、訪れた網走の地で、本来その土地には存在しなかった大名行列を模した祭列に遭遇する。その祭りは、地域の伝統に根ざした祭りではなく、メディア等を通じて形成されてきた「祭り」のイメージを寄せ集めて形成されたものだった。松田はこの経験をもとに、日本全国が総東京化し、地域の固有性が失われた均質化した風景に覆われつつあると指摘。さらにその風景の背後にある「権力」の作動を喝破し、多くの論者を巻き込んだ「風景論争」の口火を切った。

 だが2022年に水戸で西澤の個展を見る鑑賞者は、島原の龍馬像を「奇妙」とまでは感じないかもしれない。松田らによる「奇妙な祭り」の発見からすでに50年以上が経過している。当時からすでに全国各地で見られるようになっていた均質な風景は、隅々にまで行き渡り、浸透し、もはやそれ以前の風景を想像することすら難しくなった。

 1983年生まれの西澤にとっても、島原の龍馬像は新たに「発見」されるべき風景ではなく、あらかじめ与えられた風景である。2018年にTAP Galleryで行われた個展のタイトル「[普通]ふれあい・復興・発揚」が示すように、それは「普通」の風景なのであり、展示の目的ではなく出発点に据えられなければならない。すなわち、この普通の風景の背後で、いかなるかたちで権力が作動しているのかを探ること。水戸芸術館現代美術センター学芸員の後藤桜子の言葉を借りるなら、普通の風景から「わたしたちの生を取りまく力学」(会場配布のリーフレットより)を炙り出すことが試みられている。

 西澤は複数の写真をフレームに収める組写真の手法で作品を展示している。隣り合う写真毎、あるいは組写真毎の比較から、それぞれの共通点や差異を読み取らせようとする。だが展示全体を見渡した時、イメージの選択に関する明快な方針や共通の図式を見出すことは難しい。永続/仮設、隠蔽/露出、忘却/想起、都市/地方、構築/解体……といった対立軸を当てはめようとしても、かならずその仮説を裏切るイメージが現れ、鑑賞者を戸惑わせる。

 こうした図式化の拒絶を、作品を神秘化して批評から防衛する打算的な意図や、あえて(作者はその答えを知っている)謎を残して鑑賞者に無限の思考を促す啓蒙的な意図に還元するべきではない。おそらく西澤の狙いは、風景の背後で複雑に絡み合った権力の力学を解きほぐして「分類」することにあるのではなく、そのように複雑に絡み合った力学をそのまま展示空間に移し替え、「再現」することにある。全体は部分の総和と同じではない。分類して配置を変えてしまえば、権力の作動を正しく把握することができないという考えがベースにあるのではないか。

 だとすれば、西澤の作品を論じる上でも、その複雑さを複雑さのまま記述する高度な技術が要求されるのかもしれないが、いまの私にその準備はない。ここでは野暮を承知で、西澤作品の一側面にフォーカスし、風景と権力の関係についての私なりの発見を記しておくことにしたい。

 福島県双葉郡富岡町、白一色の外装に覆われた廃棄物処理施設。東京都千代田区、皇居前広場に仮説的に建造された令和の大嘗宮。札幌市中央区北方領土啓発の広場、伸びた木に埋もれつつある石碑。東京都新宿区、新宿駅構内に設置された北方領土イメージキャラクター「エリカちゃん」の顔はめパネル——今回の個展には、こうした「覆い隠す」イメージが繰り返し現れる。このことは、会場配布のリーフレットで共同企画者の後藤桜子がモニュメント(追悼施設)について述べた「凄惨な体験を覆い隠すための「無難さ」」という言葉とも響き合う。先の個展で西澤が掲げた「普通」がここでは「無難さ」と言い換えられ、新たな含意が加わえられている。

 だが、こうした普通で無難な風景は、松田らが1969年に発見した風景とはどこか違って見える。というのも、前者の風景は、隠すべきものが隠しきれていない。杜撰であるとか、余裕がないと言い換えても良い。廃棄物処理施設の無骨さと巨大さは、震災と原発事故による傷痕の大きさを如実に物語っているし、国の威信がかかっているはずの大嘗宮は、コスト削減のためか、プレハブ住宅のような簡素な佇まいである。北方領土啓発の広場は広大な敷地の維持管理の苦労が偲ばれるし、領土問題を背負ったエリカちゃんは、可愛さをアピールすることで却って禍々しさを増している。風景というヴェールは剥がれかかっており、そこから垣間見える権力の姿はどうにも貧しく、弱々しい

 このことを、素朴に権力の弱体化として見て良いのだろうか?

 確かに、日本代表ユニフォームの龍馬像や、北方領土のゆるキャラを個別に批判したり、笑い飛ばしたりすることは容易い。だがそうした風景は、意外と庶民的なお茶目さと、苦境に立たされた哀れな己の姿をチラつかせて、人々の「情」に訴えかける。共感や同情、憐憫を抱かせることによって、弱者や被害者の立場を装うと共に、自らを批判する者や対立する者の暴力性を訴え、彼らを加害者に仕立て上げる。その風景を切り裂こうとする21世紀の永山則夫は、人々の支持を得られず、一犯罪者として淡々と裁かれるに違いない(そしてそれは、ある面では完全に正しいからこそ厄介である)。一見貧しく、弱々しく、可愛くも見える風景は、その実、暴力や痛みに敏感な「優しい」人々を共犯者として巻き込むことで己の維持・強化を図る、権力の新たな作動形態なのである。

 以上のことを踏まえれば、西澤が風景の諸相を分類・図式化しようとするのではなく、複雑に絡み合った力学をそのまま展示空間に移行・再現しようとしたことにも納得がいく。要するに、私たちは現代的な権力の作動形態に気づきながら、それを正しく対象化し、批判するための有効な手段を、いまだ獲得できずにいるということだ。

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