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プロローグ 未来は希望か絶望か

最初に、奇妙な問いかけから始めたいと思います。

「未来はあなたの前にあるのでしょうか? それとも後ろにあるのでしょうか?」

この質問そのものを不審がる人は多いでしょう。

当たり前じゃないか、未来は前にあるのに決まっている。そういうイメージは、私たち日本の社会では当たり前にあります。

中学校の教科書に出てくる高村光太郎の詩「道程」の有名な一節でも。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

ところが驚くべきことに、この「未来は前方にあり、過去は後方にある」というのは絶対的な真理ではありません。アメリカ先住民族やニュージーランドのマオリ族などには、未来は後ろにあって過去が前のほうにあるというイメージがあるとされています。アンデス山脈の高地に住むアイマラ族の言語では、前方を意味する「ナイラ」という単語は同時に過去の意味でもあり、後方の意味の「クイパ」は同時に未来の意味ももつそうです。古代ギリシャもそうだったと言われています。

なぜ逆転するのかというと、過去はすでに終わったことだから眼に見えるけれども、未来はまだ起きていないから見えない。だから過去は私たちが顔を向けている前方にあって、未来は背中のほうにあるということなのです。言われてみれば変ではない。

作家の堀田善衛は、この時間の感覚を一九八〇年代のSF映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に引っかけて、「われわれはすべて背中から未来へ入っていく、ということになるであろう。すなわち、Back to the Future である」と書いています。

古代ギリシャでは未来を見られるのは選ばれたごくわずかな預言者だけだった、と彼は言います。普通の人は未来など見えないから、自分の過ぎ去った過去を眺めつつ、後ろ歩きのようにして未来へと向かっていく。いや、そもそも「後ろに歩く」という発想さえなかったかもしれません。時間が未来に向かって矢のように進んでいく感覚さえも、近代に入ってからのものなのかもしれません。

古代から現代まで、さらに世界の各地を見渡してみると、時間の感覚はいろいろです。アフリカの伝統社会には、未来というものはなかったそうです。ケニア出身の神学者ジョン・ムビティは「時間は長い過去と現在だけがあり、未来をもたない」と指摘しています。なぜか。未来のできごとはまだ起きていないのだから、時間の中には存在していないとアフリカ人は考えたのです。時間が経って未来が今になり、未来のできごとが今起きれば、それは順番に時間に繰り込まれて、今になり、過去になる。時間はあくまでも「見えているもの」で、見えていない未来はまだ時間になっていない。そういう観念では、未来のイメージはふわふわとした不定形なものなのかもしれません。

ムビティは、こういうアフリカの時間のイメージは、ヨーロッパに植民地にされる中で変化したと記しています。

アフリカ人はもともと住んでいた土地や共同体から引き剝はがされて、鉱山や工場、都市に移動させられ、人間性を奪われました。たいへんな困難の時代を迎えたのです。農村のような伝統共同体は壊されてしまって、よりどころもなくなってしまいます。そういうつらい生活の中では、もはや「今」を楽しむことはできず、この受難から脱出することを夢見ることしかできませんでした。そういう現実の中で、アフリカ人たちは何を考えたのか。

「せいぜい未来への希望と期待、熱望を約束されるだけ」だったとムビティは言います。現実が苦難すぎるからこそ、未来を期待するしかない。困難の中でアフリカ人たちは未来を期待するようになったというのです。過去にはもはやすがることはできず、現在はつらく、だからこそ未来に期待する。社会の劇的な変化が、時間の軸をギリギリと回し、時間感覚を変えてしまったのです。

これと同じようなことが、古代のユダヤでも起きています。

伝統的なアフリカと同じように、古代のころは多くの民族は時間を「直線」のように考えていませんでした。昼と夜や光と影という「反復」だったり、春夏秋冬という季節の「循環」だったりしたのです。
 世界がいずれ終わる、という終末観もありました。古代バビロニア文明や、時代がもう少し下って南米のアステカ文明にはそういう神話があります。でもこれらは時間を「直線」と考えていたわけではなく、世界の破滅がくり返し、くり返し続いていくという「反復」でした。

しかし古代ユダヤだけは違っていた。彼らは、神によって裁かれる終末はただ一度だけやってきて、そこに向かって時間は一直線に突き進んでいると考えたのです。これが「直線」という時間の観念の始まりだったと、社会学者の見田宗介は書いています。そしてその理由は、ユダヤ民族の受難にあったというのです。古代のユダヤ人は、出エジプトやバビロン捕囚などたいへんな苦労をしました。彼は書いています。

「この絶望のかなたになおも希望を見出そうとする意志としてこれらの『預言』は叫ばれた。パンドラの神話のようにただ希望だけが――すなわち眼前にないものへの信仰だけが――人生に耐える力を与えた」

現在がつらすぎるから、未来に希望を託すしかないとは、なんて悲しい話でしょうか。ここでもアフリカと同じように、社会の劇的な変化と苦難が、時間の軸をギリギリと回したのです。

日本の歴史でも、時間の観念が変化したことがあります。中世の終わりのことです。

本書の冒頭と同じように、もう一度質問を投げかけてみます。

「サキという日本語は、未来を指しているのでしょうか? それとも過去でしょうか?」

頭の中で用法を考えてみてください。気づくのは、サキが過去も未来も両方とも意味しているということです。

「先に行く」「先だつ」「先払い」などは、過去や以前という意味。
「先が思いやられる」「先に伸ばす」「先物買い」は、未来や以降という意味。

ごく日常的な言葉なのに、過去と未来の両方の意味をもつというのはとても不思議です。歴史学者の勝俣鎮夫は、実は戦国時代よりも前にはサキは過去だけを意味していたということを膨大な文献資料から発見しました。つまり中世までは、サキに未来の意味はなかったのです。このころまでは未来を示す言葉はサキではなく、アトだったと言います。

サキは漢字では「先」「崎」で、尖ったものや空間的にいちばん前のほうというのが本来の意味です。そこから転じて、時間的な前後も指すようになりました。ということは中世までは、先のほうが過去だったということ。つまり日本人も過去は前方にあるというイメージをもっていたということなのです。

ではサキは、いつから未来をも意味するようになったのでしょうか。

勝俣は、一六〇〇年ごろに境があるとしています。関ヶ原の戦いのころです。戦国末期に日本に来たキリスト教の宣教師が刊行した一六〇三年の日葡辞書には、サキは「空間的な前方」と「時間的な過去」の意味だけが記されているそうです。でもほぼ同じ時期の『ロドリゲス日本大文典』という辞典には、「マエはただ過ぎ去ったことだけを意味し、サキは過ぎ去ったことと来るべきことを意味する」とあり、未来の意味がここで登場してきているといいます。未来としてのサキはこのころから徐々に広がり、十七世紀後半、つまり江戸時代の元禄のころになると一般的に使われるようになったというのが勝俣の推定です。

それにしても、なぜ関ヶ原のころが境目だったのでしょうか? 彼は「戦国時代という大きな社会変動の時代の中からその新しい語意が生み出されたことが予想された」と書いています。

「新しい社会の新しい価値観を表現するのにふさわしい語として、人々から共感され、支持されて、その後、次第に伝統的に旧い語意をもつ語を圧倒して優位に立ち、現代にいたっているのである」

戦国の混乱は、一四六七年の応仁の乱から始まり、百年あまり続きました。織田信長が上洛して天下人となり、豊臣の時代を経て徳川へと移り、関ヶ原のころにようやく落ち着いてきたのです。

戦国時代に、室町時代までの中世の社会はいったん破壊されています。昔の日本というと私たちは江戸時代のようなムラ社会をすぐにイメージしますが、中世の姿はもう少し異なっていたようです。権力は集中しておらず、朝廷・貴族と武士、お寺という三つの力が互いにバランスをとってからみあっていました。ルールや法律ははっきりせず、この三権のパワーバランスでものごとが決められていました。人間関係もムラ社会のようなピラミッドではなく、個人と個人がつながって縁故やコネを形づくり、コネを活用して人々は政治や商売や仕事をしていたのです。こういう寄り合い的な文化の中で、利益も細かく配分されていたと言います。

たとえば誰かが誰かに損をさせられる。今だったら「これは裁判に訴えるしかない」となるところですが、正規の裁判だと遅々として進まない。そこで貴族やお寺は、裁判を執り行なう幕府の奉行人とコネをしっかりつくっておき、一大事のときはコネをフルに活用して対処しました。

このネットワークには貴族と武士とお寺だけではなく、普通の平民も加わっていました。地下人と呼ばれていた普通の人たちは、仕事は貴族にもらい、住まいはお寺に借り、主従関係では武士に従っていたのです。さまざまなレイヤーが複合して大きなネットワークがからみあう社会だったと言えるでしょう。

ところが応仁の乱のころから、繰り返される戦いくさによってネットワークは破壊されていきます。主従関係でつながっている武士が敵に敗れると、自分もそれに巻き込まれてしまう。巻き込まれないためには、コネを断ち切って独立するしかない。そういう場面が無数に起きて、三権にぶら下がるという構図を維持できなくなっていくのです。

三権のネットワークがうまく機能しなくなって、普通の人たちが頼ったのは、近所で生活していて日常的に接している地域のつながりでした。「近所」という小さなネットワークをつくり、その中で生計を立てて、お互いの身の安全を保証するようになったのです。

中世が戦国時代に破壊されて、再び中央集権的な社会が戻ってきます。その先頭に立っていた織田信長は、町人たちの「近所」ネットワークをうまく活用し、その上にかぶせるようなかたちで新しい権力構造を打ち立てて、京都の支配を強化したと言われています。

こういう強烈な時代の変化が、当時の日本人の意識に大きな影響を与えたことは想像にかたくありません。それが時間の軸をギリギリと回し、サキのような言葉の意味さえも変えていったのではないでしょうか。

私たちは今、自分自身の人生やこの社会を、時間の流れに乗った一直線のものとして見つめています。つねに始まりがあり、今があり、終わりがある。母親のお腹から誕生し、甘酸っぱい思春期を経て成人し、社会人として仕事をし、いずれは老いて人生を終えていく。

日本という社会も同じ。縄文時代があり、農耕が始まり、大陸からの帰化人とまじわって弥生の文明が勃興し、やがて強力な朝廷ができて律令制が始まり、しかしそれも武家権力に侵略され、そして戦国時代が起きた。過去から現在に至る長い一直線の歴史があり、それは令和の時代より先にも、日本人が滅びない限りどこまでも未来へと続いていく。つねに未来は私たちの前に開け、過去は郷愁とともに背後に置いていく。

しかし時間の感覚は、時代とともに変わるのです。中世まで未来が背後にあり、あるいは存在さえしないものとして捉えられていたのが、突然のように前方の視界へと移動したのであれば、同じようなことがまた起きないと誰が断言できるでしょうか。

続いての第一章はこちら。



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