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「批判するなら対案を」ではなく「批判するなら理念も示せ」で 佐々木俊尚の未来地図レポート vol.662


特集 「批判するなら対案を」ではなく「批判するなら理念も示せ」で
〜〜理念にもとづいてニュースを立体的に報道することの大切さ


 

「批判をするには対案を」といった意見をツイッターなどでよく目にします。この意見に対して「対案がなければ批判しちゃいけないのか」「明らかに間違ってる事象に対しては、対案がなくても批判するのは当然だろう」という反論もよく聞きます。これらの反論にはわたしは一定の正当性はあると考えています。対案がなくても、誤っているのなら指摘すべきだというのはその通りです。

 では批判をするために本当に必要なのは何でしょうか。それは「理念」です。だからわたしはこういう考えを提示したい。「批判するなら理念も示せ」

 残念なことに「理念なき批判」が、新型コロナ禍では新聞テレビの報道にあふれかえりました。一例を挙げましょう。これは週刊現代も指摘していたことですが、昨年4月に緊急事態宣言が出た際、朝日新聞は社説でこう書いていました。

「朝日新聞の社説は、市民の自由や権利を制限し、社会全体に閉塞感をもたらす緊急事態宣言には、慎重な判断が必要だと主張してきた。特措法にも『(自由と権利の)制限は必要最小限のものでなければならない』という『基本的人権の尊重』の項目がある。その重みを十分踏まえた対応を求める」

 ところが今年3月に2回目の緊急事態宣言が解除された際には、朝日新聞は同じ社説で「展望みえぬ宣言解除 再拡大阻止に全力をあげよ」と見出しを掲げ、こう書いています。

 「新規感染者数の水準はなお高く、一部地域ではリバウンドの兆しがみえる。より感染力が強いとされる変異ウイルスの拡大も心配だ。にもかかわらず、菅首相は緊急事態宣言の全面解除に踏み切った。極めて重い政治責任を負ったといえる」

 最初の社説で、基本的人権の観点から緊急事態宣言には「慎重な判断が必要」と指摘したことは、たいへん良い理念だと思います。日本では緊急時でも、私権制限をなるべくおこなわないという認識がこれまで社会として共有されてきました。だから憲法にも緊急事態条項は盛り込まれず、国民IDはことごとく反対され、政府は国民のプライバシー圏域に踏み込まないできたのです。

 これは戦前の特高警察による人権侵害の反省を踏まえたもので、一定の理念として日本の戦後社会を縛ってきたとわたしは捉えています。それに賛同する人もいるでしょうし、テロや戦争、パンデンミックに備えて緊急事態の法整備を求める人もいるでしょう。それは理念と理念の衝突であり、そこから議論が始まり、どこかで折り合いがつけられればよいことなのです。

 しかし朝日新聞は緊急事態宣言解除に対して「展望見えぬ」「極めて重い政治責任」と批判しました。昨年までの基本的人権擁護はどこに行ってしまったのでしょうか?

 これはメディアだけでなく、政治家も同じです。立憲民主党幹事長の福山哲郎さんは7月7日、感染が増えていることについて以下のようにツイートしています。

今日、7日の東京都の新型コロナウイルスの感染者は920人。明日は、このままなら議院運営委員会で、政府はまん延防止等重点措置の延長を決めると言われているが、本当に単なる延長でいいのだろうか。緊急事態宣言の再発令をすべきではないのか。オリンピックは目前である。

 ところがその5時間後、今度は以下のようにツイートしました。

報道によれば、東京の感染拡大を受けて、明日、政府は4回目の緊急事態宣言の発令方針を固めた、とのこと。期限は8月22日まで。「緊急事態宣言下のオリンピック」が現実になってしまった。最悪のシナリオ。まさに「政府は追い込まれた」としか言いようがありません。

 明らかな「ダブスタ」にわたしには見えますが、私権制限に対する福山さんの理念はどのようなものなのでしょうか。

 緊急事態異宣言に反対するにしろ賛成するにしろ、そういう議論に必要なのは「われわれ日本社会は、どの程度の私権制限を許容するのか。そして許容する場合、歯止めはどのようにするのか」という理念でしょう。どのぐらいの私権制限を認めるのかという理念は政党や個人によってその度合いは異なると思いますが、それらの理念と理念をぶつけ合ってこそ議論はできるし、どこかのポイントで折り合いも付けられるのです。

 緊急事態宣言が出れば「人権侵害だ」「政府は追い込まれた」と叫び、緊急事態宣言が終わると「感染が増えるのに大丈夫か」と懸念しているというのでは、理念と理念がぶつかり合いようがありません。議論がそもそも成り立たないのです。

 わたし個人の理念で言えば、私的制限をおこなうのであれば法的な整備をする必要があり、いまのように空気の抑圧でなんでも決まってしまい、歯止めがない状態というのはかえって危険だと考えています。アベマプライムでの倉持麟太郎弁護士との議論がまさにその内容なので、紹介しておきます。

★自民党の緊急事態条項をめぐる議論は「野党も共犯」…倉持弁護士が指摘する“リベラル派”の矛盾

 上記の記事で、わたしはこうコメントしています。「こういう議論をすると、必ず権力が暴走するから危ないという意見が出てくるが、日本の近現代史を振り返ると、大抵が“空気”に押し流されることによって悪い方向にどんどん行ったケースが多い。今回のコロナの件もまさしくそうで、お酒については“みんなに怒られるから出さないでおこう”とか、マスクについても“着けてないと怒られそうだから”という空気が世の中を動かしていると思う。このロジック以上に空気の圧力で何でも決まる社会より、法律の枠組みを作って歯止めかけようという方が民主主義的ではないか」

 話題を変えましょう。太陽光パネルの公害問題が、にわかに話題になっています。朝日新聞や毎日新聞が6月末に記事にしたことがきっかけのようですが、それについては元毎日新聞記者の小島正美さんが解説しています。

★毎日新聞が異例の「太陽光発電の公害」を告発! ただ莫大な国民負担には触れず!

 記事にもありますが、7月の熱海土石流崩壊地点そばに太陽光パネルがずらりと設置されている映像が流され、多くの人が「土石流に関係しているんじゃないのか、大丈夫か」と不安を持ったことも後押ししているのでしょう(因果関係はいまのところまったく立証されていません、念のため)。

 では太陽光発電は「良いもの」なのでしょうか、それとも「悪いもの」なのでしょうか。

 山が削られ、ソーラーパネルがずらりと設置されるというのは、自然環境から見れば「NG」です。しかし太陽光のような再生可能エネルギーは、つねに破滅的な事故の可能性がある原子力発電所よりも「OK」であると近年は捉えられてきました。

 たしかに地球温暖化対策で脱炭素が求められているなかで、再生可能エネルギーの推進そのものに反対をする必要はいないでしょう。しかし記事にあるように、太陽光エネルギーを固定価格で買い取る制度が311後にできた結果、家庭の電力料金に「再エネ賦課金」という金額が上乗せされるようになりました。今年は国民全体の負担額が3.84兆円にものぼっているという試算もあるようです。ひとりあたり3万円以上という驚くべき金額。

 いっぽうで経済産業省は最近、2030年の時点で原発の発電コストは太陽光よりも高くなるという見通しを発表しました。311後に原発のきびしい安全対策が求められるようになり、これがコストを引きあげるという理由です。興味深い試算ですが、これだけでもまだ要素は足りません。なぜなら、この試算には太陽光や風力からの不安定な電気の供給を安定させるための、火力発電所のサポートのコストが加えられていないからです。

 発電には「ベースロード電源」という概念があり、季節や天候、昼夜を問わずにつねに一定量の電力を安定的に低コストで供給できる電源のことを指します。再エネでも地熱発電はベースロードになりますが、天候に左右され不安定な太陽光や風力はベースロードにならない。原子力や火力はベースロード電源です。その点で原子力と火力は「OK」。

 しかし火力や石炭は、脱炭素の流れで言えば「NG」だと捉えられてきました。そして原発も、311の原発事故で「NG」とされてきて、今も多くの原発が再稼働していません。

 いっぽうで原子力発電のテクノロジーで言えば、SMR(小型モジュール炉)という従来よりも小型の原子炉が開発され、より安全になっているとも言われています。これが「OK」になるのかどうか、テクノロジーの進化にも目を配っておかなければならないでしょう。

 また火力にかんしても、石炭火力発電では大気汚染をほぼ生じないまでにテクノロジーが進んでおり、効率のよい発電で温暖化ガスを極力出さない方向へと進んでいます。「OK」といえる時代がくるかもしれません。ただし石油や石炭は輸入に頼っており、日本の安全保障としてはこれらに頼り切るのは心配ということもいえます。これは「NG」。


 ここまでを整理すると、エネルギーをめぐる議論は以下のような要素に分解することができます。

・火力発電
ベースロードとしてOK。しかし脱炭素の流れでNGになったが、テクノロジー進化で脱炭素にも対応できOKになるかも、しかし石油・石炭を輸入に頼っており安全保障上心配でNG。
・原子力発電
破滅的な事故の心配があるのがNGだが、ベースロードになるというメリットはOK。SMRという新しいテクノロジーが登場しているのはOK。
・太陽光発電
脱炭素としてOK。しかしベースロードにならないのはNG。また自然環境を破壊する点でNG。

 このように整理すると、どの発電がいいのか、あるいは組み合わせた方がいいのかは、もっと議論しなければいけない難しいテーマであるということがよくわかると思います。少なくとも「再生可能エネルギー万歳!」と言っていれば何となく環境に関心がある感じがする、というような幼稚なレベルの話ではありません。

 先ほどの記事で小島さんも、以下のように書いています。

「そこを詳しく突っ込んでいくと、石炭などの火力発電所や原子力発電所の再稼働問題に踏み込まざるを得なくなる。反原発路線で記事を書いてきた毎日新聞の限界が、ここで露呈する。原子力発電所の再稼働は貴重なバックアップ電源になるはずなのに、そこには触れたがらない。結局、毎日新聞は太陽光発電の開発と環境保護の両立が必要だという極めて凡庸な論調で締めくくった」

 朝日新聞の記事も同じような論調で、議論の要素をまったくそろえられていないことがよくわかります。

★再エネ、推進か規制か 太陽光発電、各地で苦情:朝日新聞デジタル 


 朝日や毎日のこれらの記事には、どのような理念があるのでしょうか? 「反原発」を理念とするのであれば、火力・原子力・再エネのOKな点、NGな点をきちんと提示し、そのうえで論じないと説得力を持ち得ません。

 本メルマガの前号でも解説しましたが、マスコミがやるべきことは単なる権力批判ではなく、職能集団社会における専門知を共有するプラットフォームになるべきです。そのためには、そもそも議論の題材に必要な論点をすべて揃えていかないと、まともな議論は成立しません。新聞は理念もなく、要素も揃えられず、ただ声高に批判を繰り返すだけの機械になってしまっているようにわたしには思えます。

 さて、ここからは「ではどうやって議論の要素を揃えていけばいいのか」ということを解説していきましょう。わたしの見るところ、新聞やテレビの人はあまりにもものごとを一面的に見過ぎです(これはまあ昔からですが)。だからステレオタイプな発信に陥ってしまう。

 必要なのは、いま起きているさまざまな出来事を立体的に見えることです。なぜなら世の中で起きるできごとの大半は、構造的で立体的なものだからです。

 たとえばアドルフ・ヒトラーは二十世紀最大の極悪人と言われますが、ではヒトラーがいなかったらユダヤ人へのホロコーストや第二次世界大戦は起きなかったでしょうか?

 もちろん、起きなかった可能性もゼロではありません。しかし一方で、ドイツが当時置かれていた、第一次世界大戦に敗北して巨額の賠償金を課され、経済は破壊的な状況になり、ドイツ国民は窮乏していたという背景事情も見なければならない。かろうじて成立した民主主義的なワイマール共和政は、非常に脆弱でした。そういう悲惨な状況では、アドルフ・ヒトラーでなくても、ユダヤ人を仮想敵として国民を統合しようとしたり、大戦の敗北を乗り越えて他国に侵攻しようと考える別の政治的リーダーが現れてきた可能性は否定できないと思います。

 ヒトラーは独裁者でしたが、しょせんはひとりの個人です。政治や社会、経済などさまざまな要素が相互作用をおこす壮大な力学のなかで、ひとつの役割を果たした「駒」にすぎないのです。駒がどう動いたのかを観察するのは大事ですが、駒がすべてを支配し動かしていたわけではありません。そうやって個人の「悪」にすべてを帰してしまうことは、逆に正確な理解を阻む原因になります。

 そうではなく、さまざまな力学の結果、駒が動かされ、それによって世界が変化したととらえるべきなのです。

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