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AIだけで文化を創造し、それを私たちは楽しめるようになるだろうか 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.744

特集 AIだけで文化を創造し、それを私たちは楽しめるようになるだろうか〜〜〜ジェネレーティブAIの現状と可能性を文化の側面から考える


画像生成AIや対話型AIなど、総称してジェネレーティブAI(生成型人工知能)と呼ばれるAIが爆発的な進化を遂げており、世界が震撼しています。この先の未来に、文化やコンテンツはどう変わっていくのでしょうか。AIがすべてを生成し人間はそれを消費するだけになっていくのか、それとも。


ここで論点として考えられるのは、二点あると思います。


(1)文化空間をAIだけで創造することが可能になるのかどうか。

(2)「AIが生成した」と知ったうえでもわれわれはその文化を楽しめるのか。


まず(1)について。


わたしはマス市場向けの暇つぶしコンテンツについては、AIが生成したものでも十分ということになる可能性は高いと思っています。


しかしまったく新しい世界観をもった革新的な作品は、今後も人間の手によって切りひらかれていくことになるだろうとも考えています。藤井聡太さんがAIによって将棋の指し手を進化させたように、文化の分野でもジェネレーティブAIによる支援はとても有効なパワーとなるでしょう。


とはいえ、わたしがここで気になってくるのは「文化のすそ野」の問題です。たとえば漫画の世界で言えば、「SLAM DUNK」や「進撃の巨人」のような天才による革新的な作品が存在します。しかし井上雄彦さんや諫山創さんは何もないところから突然現れたわけではありません。


日本の漫画には長い歴史があり、膨大な数の漫画家がいて、その中から切磋琢磨して才能が現れてくるのです。それは富士山の広いすそ野のようなものであって、一般社会の人々の視界に入るのは雪を被った美しい富士の高嶺だけれども、その下の方には多様な木々に彩られた森が広大に広がっているのです。


この構図は、わたしがかつて仕事をしていた雑誌ジャーナリズムの世界もそうでした。頂点には月刊文藝春秋などの総合誌に長いルポを書く仕事があり、原稿料や経費は豊かで、知名度も上がります。しかしそこにいきなり到達できる人はめったにいません。たいていは少部数の雑誌や下請けの編集プロダクション、さらには成人雑誌の白黒ページなどで下積みの仕事を重ね、そこからだんだんとステップアップしていく。そうういうすそ野があったのです。


つまり文化には、「上澄みとしての頂点」と「玉石混淆のすそ野」がある。その二つが存在してこそ、良い文化が生み出されるのです。


この「すそ野」がAIに明け渡されたときに、果たして人間は「上澄み」を生み出せるのでしょうか? ここはひとつの論点となるとわたしは考えています。


続いて(2)「AIが生成した」と知ったうえでもわれわれはその文化を楽しめるのか、ということについて。


たとえば将棋や囲碁の世界では、すでにAIが人間の能力を凌駕しています。しかしそれでも私たちは、藤井聡太さんと羽生善治さんの王将戦を夢中で観戦するのです。なぜか。それは藤井さんにも羽生さんにも、それぞれの人生の物語があり、そうした背景の物語を知ったうえで私たちは王将戦というコンテンツを楽しんでいるから。


AIはAI同士で対戦しています。2016年に世界トップの棋士を破ったAIの「アルファ碁」は、自分自身の分身をつくって分身と膨大な対戦を行い、強くなっていきました。ではアルファ碁同士の対戦を私たちは楽しめるでしょうか。プロの棋士ならAIの指し手を採り入れるためにAI対戦を学ぶでしょうが、果たしてそれらの対戦は一般社会におけるコンテンツとしてはどうなのか。


AIに人格や感情はありません。だからAIには、彼らの人生の物語というコンテキストが存在しません。だから現状では、AIの対戦を一般社会が物語的に楽しむというのは無理ではないかと思います。しかしAIに擬似的な人格や感情を付与するという試みはすでに行われています。実際、対話型AIのChatGPTと対話していると、無機物なはずなのに感情の揺らぎのようなものを感じることがあります。


そう考えれば、いずれ人格や感情を備えた(ようにみえる)AIが登場し、それらのAIの人生の物語をコンテンツとして楽しむという文化も生まれてくるでしょうし、それはそう遠くない未来でもないのかもしれません。しかしそこまで進んでしまったら、AIに人権を与えるべきではないかという議論もまた生じてくるかもしれません。


いずれにしても、もう少し先の話です。


この先に何が起きるのか、まだわからないことだらけですが、産業のみならず社会に多大な影響を与えることは間違いないでしょう。そして、この「影響」には当然のようにネガティブな面もポジティブな面も起きてきます。


以降は、現時点で起きているジェネレーティブAIの影響を検討していこうと思います。


まず第一に問題になっているのは、「ジェネレーティブAIは著作権侵害か?」というポイント。「生成」と言っても、ジェネレーティブAIはゼロからオリジナルな画像や文章を生み出しているわけではありません。インターネットには画像共有サービスやSNS、ECなどに膨大な点数の画像が掲載されています。それらの画像にはキャプションと呼ばれる説明テキストも添えられています。画像生成AIはこれらをクロール(ローラー式に探索し収集すること)して、これらの画像と文章を読み込んで学習し、そのデータをもとにして画像を描いているのです。


たとえば代表的な画像生成AIのステイブル・ディフージョンは、インターネットから集めてきた58億5000万もの画像とテキストの組み合わせから学習しています。


さて、この「学習する」という行為が著作権の侵害に当たるかどうかは、今までのところ各国ともそれほど議論が進んでいませんでした。AIが学習して結果を吐き出すにしろ、その成果物が著作権侵害になるようなケースがあまり存在しなかったからではないかと思います。少なくとも数年前までは「AIの学習は著作権侵害にはならないだろう」という通説も(明快な根拠はないと思いますが)広まっていました。


がところが画像生成AIは、ここを一気に飛び越えてしまいました。


たとえばステイブル・ディフージョンで「ゴッホが描いた渋谷」というお題を与えると、まさしくゴッホ風のタッチの渋谷スクランブル交差点の絵を生成してくれます。交差点の地面が濡れたようになっているのはゴッホの作品「星降る夜」を思い出させますし、空が刷毛で塗ったように黄色くなっているのは、お馴染みのヒマワリなどにもよく見られる背景です。「渋谷」という地名からは、スクランブル交差点やTSUTAYAの入っているQFRONT 、109などのモチーフが抽出されたのでしょう。


ゴッホは1890年に亡くなった19世紀の人なので作品の著作権保護期間は満了しており、ゴッホの絵を真似ても著作権侵害にはなりません。しかしこれが現代の現役のアーティストやイラストレーターだったらどうでしょうか。自分の作風とそっくりの作品、しかも自分が描いていない作品がAIによって大量に生成されてしまえば、今後だれもその人に作品を依頼しなくなってしまうかもしれません。


わたしの妻は松尾たいこというイラストレーターなのであのあたりの業界事情を少しばかり知っているのですが、作品が認められて知名度が上がってくると、当然のようにギャラも上がっていきます。そうなると予算に制限のある広告会社や出版社などは著名なイラストレーターを使いにくくなる。そこで、まだ知名度がない新人に「松尾たいこさん風の絵で描いてくれる?」などと安価なギャラで依頼したりするケースが多いのです。結果として、著名なイラストレーターに似たような画風のポスターやブックデザインがそこらじゅうにあふれていくということになる。


残念ながら「画風」に著作権は認められていないので、こういう「疑似○○風」を著作権侵害で訴えることはできません。「松尾たいこ風」の作品に対して、松尾たいこが著作権を要求することもできません。


そしてこれと同じ問題がいま、画像生成AIの世界で起きているのです。


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