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社会正義な人たちは、中世カトリック教会やポピュリスト右派に似ている 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.739

特集 社会正義な人たちは、中世カトリック教会やポピュリスト右派に似ている〜〜〜英エコノミスト誌が特集で指摘した大きな問題とは


「リベラリズム」ということばの定義が近年、大きく揺らいできてしまっていることは内外の多くの人が指摘しています。


そもそもリベラリズムとは何でしょうか。その源流にあった背景事情は、ヨーロッパにおけるキリスト教会の支配です。カトリック教会は長い中世の時代に支配と隷従で人々を縛り付けてきました。異端審問や魔女狩り、焚書など日本のアニメにもよく使われる恐怖のモチーフはたいていこの時代のものです。


この支配と隷従からの脱却の思想として、リベラリズムはスタートしたのです。聖書だけを金科玉条とするのではなく、科学に基づいた合理的な考えや、議論による多様な意見の交換、そして宗教と政治の分離を求めたのです。


リベラリズムは直訳すれば「自由主義」ですが、この古典的な自由の考え方は、「支配からの自由」「圧政からの自由」というようにつねに「~からの自由」でした。しかし19世紀に入ると、この自由への考え方も少しずつ変わっていきます。格差社会への目線が共有されるようになって、みんなが自由にビジネスをしているだけでは、格差が広がるばかりということが言われるようになります。そこで格差を解消し、「みんなが安心して暮らせる自由」「文化的な生活を送る自由」という「~への自由」を実現しようということになったのです。


これが積極的自由と言われるもので、特にアメリカではこのリベラリズムが広まりました。その流れを抑えたうえでの現代のリベラリズムの基本理念は、こう定義することができるでしょう。


「人々には生まれながらの自由がある。みんなが自分で人生を選択し、自由に生きていくためには、それを妨げるような格差や不公正さを取り除かなければならない」


ところが。


21世紀に入って、このリベラリズムが再び危機に瀕しています。しかもその危機の原因は、トランプのような右派の台頭ではなく、「リベラル」と名乗っている勢力の内側からやってきているのです。


英エコノミスト誌は一昨年、2021年9月4日の号に「リベラル左派の脅威」という特集記事を掲載しました。


この中でエコノミストは、いまのリベラル左派はかつてリベラリズムが戦ったはずの宗教国家と同じようなことをしている、と強く批判しているのです。


リベラリズムが、右派から攻撃され続けてきたことはもちろん間違いない事実です。いまもアメリカでは、トランプを支持する右派の人たちと民主党支持のリベラル派の間で激しい応酬がおこなわれていますm。しかしリベラリズムは、トランプのような右派からの攻撃だけではなく、左派からの攻撃にもさらされているというのが、エコノミスト誌の指摘です。


この左派の人たちも「リベラル」を自称しているのがわかりにくいところです。「左派」という用語はマルクス主義者の意味にもなってしまい、リベラルとは本来はイコールではないという根深い問題もあります。「リベラル左派」という用語もありますが、ここには自己矛盾がはらんでいるとも言えるのです。


先週の号で『「社会正義」はいつも正しい』という本を紹介しました。


この本で書かれていることはエコノミスト誌の主張とかなり重なり合っているので、「リベラル左派」「左派」といった紛らわしい用語は使わず、ここでは彼らのことを「社会正義派」と呼んでみることにします。社会正義派はリベラルを自称していますが、彼らはリベラリズムを攻撃しているので、リベラルではありません。


さて、社会正義派とリベラルは、一見すると同じゴールを目指しているように見えます。エコノミスト誌は書いています。


「表面的には、非リベラリズムな左派とエコノミスト誌のような古典的なリベラル派は、同じことを望んでいる。どちらも、性別や人種に関係なく、人々が活躍できるようになるべきだと考えている。権威や凝り固まった利益に対する疑念を共有している。彼らは変化の望ましさを信じている」


ゴールはこのように同じなのですが、そのゴールに向かうルートが社会正義派とリベラルではまったく異なります。リベラルが多様な人々による議論によってゴールへと進もうとするのに対し、社会正義派は反対者を「排除」することによってゴールに向かおうとするのです。そしてエコノミスト誌は、このやりかたは中世のカトリック的な宗派国家とまったく同じだ、と断罪しています。


「彼らは、敵対する者や逆らう者を排除することによって、イデオロギーの純粋性を強制する戦術も持ち込んでいる。これは18世紀末に古典的なリベラリズムが定着する以前にヨーロッパを支配した、宗派国家と同じメロディを奏でている」


そもそも重要なポイントとして、ゴールが「性別や人種に関係なく、人々が活躍できるようになる」としても、そのゴールがどのような社会制度になるのかという具体的なビジョンは現時点では明白ではありません。マルクスの共産主義のように「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる」という社会システムを考えたとしても、それはゴールとして適切なのかどうかは検証されていないからです。


だから次のような議論が必要なのです。「将来はこういう社会にしたいが、どのような道筋が可能か」「何にリソースをかけて、何にリソースをかけないようにするか」「社会システムにある改善を加えたら、どのようなプラスとどのようなマイナスがあるか。その適切なバランスはどこにあるのか」


このような議論によってボトムアップ的に社会を改善していく。だれかが独裁者になって勝手な方法を振り回さないように、権力は分散しておく。それがリベラリズムです。


ところが社会正義派は、そう考えません。エコノミスト誌の言葉を借りると、社会正義派は「自分たちのパワーを物事の中心に置く。なぜなら、真の進歩は、人種的、性的、その他のヒエラルキーが解体されるのを見届けてから、初めて可能になると確信しているからである」。つまり小権力を振るって、差別主義者だと思われるような人々を排除することがゴールへの道筋だと考えているのです。そのためには、表現の自由を制限することも当然必要だと考えているのです。


エコノミスト誌を引用しましょう。


「ミルトン・フリードマンはかつて『自由よりも平等を優先させる社会は、結局どちらも得られない』と言った。彼は正しかった。社会正義派たちは、抑圧された人々を解放するための青写真を持っていると考えている。しかし、その実態は、個人を抑圧するための計画であり、その点では、ポピュリスト右派の計画と大差はない。左右の両極端な人々は、それぞれ異なる方法で、プロセスよりも権力を、手段よりも目的を、個人の自由よりも集団の利益を優先させている」


痛烈ですね。表現の自由を抑圧し、弱者の味方をする者たちだけに権力を集中するというのは、聞こえはいいのですが、やってることは専制国家と変わりがありません。21世紀初めにはリベラルな西欧寄りの指導者だと思われていたプーチンがやがて暴力的な独裁者に変貌して行ってしまったのを見ればわかるとおり、権力の集中と自由の抑圧が良い結果を招くことなどあるわけがないのです。


それにしても、なぜリベラリズムは衰退して、社会正義派や右派ポピュリズムに押し戻されるようになってしまったのでしょうか。その原因のひとつとして、SNSの普及も関係しているとわたしは考えています。社会正義派と右派が激しく対立し、暴言を投げ合い、エスカレートしていく様子は日本でもアメリカでも多く目にします。この結果、リベラリズム寄りの人たちは恐れをなして激しい対立空間に近寄れなくなってしまった。


つまりは議論をできる空間が失われてしまっているのです。本来ならSNSのこの状況に対して、新聞やテレビなどのマスコミがより中立的なメディア空間を提供すべきだったのでしょう。ところがネットの台頭で読者や視聴者を失いつつある古いマスコミは、派手に目立つ社会正義派や右派に迎合してしまい、もともと依拠していたリベラリズムから逸脱していってしまいました。


くわえてエコノミストは、リベラリズムに「人間の本能に反する側面がある」という問題も記しています。


どういうことかと言えば、リベラリズムでは、相手が間違っているとわかっていても、その発言権を擁護しなければならないという姿勢が必要だからです。哲学者ヴォルテールのものとされる(都市伝説という話もありますが)セリフ「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」ですね。


さらには自分の信念も間違っているとわかれば、疑ってかからなければなりません。選挙の投票で負ければ、敵の勝利も受け入れなければならない。人間には狩猟採集時代の共同体概念が本能に埋め込まれており、共同体に反する者や外部の者は必ず敵対するという敵・味方の心理からは逃れられないのです。しかしリベラリズムは、決してこの敵・味方の考え方をとらないのです。


エコノミスト誌は端的にこう書いています。「要するに、本物のリベラルであることは大変なことなのだ」


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