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そもそも「プライバシー」概念には150年の歴史しかなかった 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.682

特集 そもそも「プライバシー」概念には150年の歴史しかなかった
〜〜盛り上がってる「監視資本主義」批判は正しいのか?

プライバシーの問題が大きな議論になってきています。最初のきっかけになったのは、2016年のケンブリッジアナリティカ事件でしょう。これは選挙コンサルティング会社の名前なのですが、フェイスブックから取得した大量の個人データをもとに、イギリスのブレグジットやアメリカ大統領選での投票行動に影響を与える手法を仕掛けていたというものです。これがどのぐらい効果があったのかは結果としてよくわかっていないのですが、「国民のプライバシーを盗んで大統領選に影響を与えるとは何ごとか!」と多くの人が怒り、フェイスブックCEOのザッカーバーグはアメリカやEUの議会に呼ばれて「吊し上げ」に近いほどに激しく問い詰められました。

以来、だれもが使っている皆の友だちだったフェイスブックはすっかり悪役のイメージに墜ち、最近社名を「メタ」に変更したのもイメージ刷新の理由もあったんじゃないかと言われています。

プライバシーの保護についてはもともとEUがたいへんうるさく、「人びとが自分の個人データをコントロールする権利を取り戻す」ということを目的にしたGDPR(一般データ保護規則)という厳しい法律を2016年に施行しています。いっぽうアメリカはGAFAのようなビッグテックが主導して、個人データをガンガンに使いまわす方向に進んでいました。なぜかって言えば、AIの深層学習には膨大なビッグデータが必要であり、「データは新しい石油である」とまで言われてきた中で、個人データをたくさん取得することこそが、さらなるAIの進化には必要だと考えられてきたからです。

しかしアメリカでも、データをガンガン使うという方向は反転しそうな勢いです。日本もアメリカとヨーロッパに追随して、プライバシーをさらに重視する方向に進んでいます。たとえば最近だと、ターゲティング広告で個人データを企業がつかう場合に、事前に「利用してもいいです」という同意を得るようにルールを総務省が整備すると報じられています。


いっぽうで中国は個人プライバシーを企業から守るどころか、政府が主導して個人プライバシーをガンガン集める方法に進んでいます。このまま行ったら中国で深層学習のAIがどんどん進歩し、日米欧は置いていかれるんじゃないかという懸念も出ていますね。

中国人のプライバシーについての感覚は、日米欧とはまったく異なっているようです。最近わたしは中国の大手ネット企業の人とこの話題で議論しました。彼はこう言います。

「中国では1960年代に文化大革命があって、社会全体から信頼が失われた過去がある。どうやって人びとの間に信頼を回復していくのかというのが、中国社会ではずっと大きな課題になってきたんですよ。そういうときに、カメラやネットでの個人データの監視カメラによって『悪さ』がしにくくなるというテクノロジーがやってきた。プライバシーを見られて監視されてるんだけど、それによって悪事がなくなって信頼が徐々に取り戻されてきている。これって良いことじゃないんでしょうか?」

わたしはこれには反論できないと感じました。くわえて、テクノロジーに対する感覚が日本と中国ではずいぶんと異なるということもあるでしょう。中国の人と話しているとつねづね感じることですが、彼らは新しいテクノロジーに対して大いなる好意と信頼を寄せていて、日本人の「テクノロジー怖い」というようなネガティブな感覚はほとんど持っていません。

とはいえ、日本においてもプライバシーに対する感覚は時代によって大きく変化してきています。ここからは、「匿名か実名か」というポイントに焦点をしぼって、その変化を見ていきましょう。

1980年代から90年代前半までの「パソコン通信」はそもそも企業による有料会員サービスだったこともあり、アカウントにはつねに実名が紐づけられていました。しかしこの後の2000年ごろになって登場してきた「2ちゃんねる」などの掲示板は匿名ベース。そして2000年代なかばになって普及したSNSのミクシィは実名。その後に広まったツイッターは匿名で、さらにそれに次いで普及したフェイスブックは実名……とまるで「振り子」のように、実名と匿名のあいだを日本のコミュニティサービスは揺れ動いてきたのです。

世代によってもかなりプライバシーの感覚は違います。たとえば1970年代生まれの人たちは、最初にインターネットを使いこなした「デジタルネイティブ第1世代」と呼ばれたりしますが、彼らはけっこうプライバシーの保護に敏感な傾向があると感じます。

ところがその後の世代、1990年代生まれぐらいになると、プライバシーの感覚はかなり異なっています。その好例が2000年代なかばに大流行した「プロフ」「プロフサイト」と呼ばれるガラケーのサービスです。最大手としては「前略プロフ」というのがありましたが、どれもだいたい似たようなしくみで、自分の顔写真や誕生日、性別、名前、趣味などたくさんの個人プロフィールをサイトに登録できるというものでした。プライバシーがかなりだだ漏れのサービスなのですが、90年代生まれの高校生たちはほとんど気にしていなかったようです。

ところがこの90年代生まれ世代の間で、最近は「顔隠し」が盛り上がっていると言います。インスタグラムに自撮り写真を投稿する際に、後ろ向きや下向きなどで顔を出さなかったり、さらには渦巻き模様の画像を顔に丸ごと重ねて見えなくしたり。インスタグラムにキラキラの自撮り写真を投稿することが盛り上がりすぎたことへの反動なのか、以下の記事によると「盛っている・きめている自分を見せるのは恥ずかしい」「後ろ姿の方が雰囲気や世界観を作りやすい」といった声が出ているようです。


Vtuberや最近盛り上がってるメタバースに見られるような仮想のキャラクター化というような方向性もあり、顔を隠すことで仮想キャラクターになりきりやすく、トークも自由に攻めやすいということなどが要因としてあるのでしょう。

さらには、これまで書いてきたように時代によって匿名から実名へ、実名から匿名へと左右に振れながらSNSは進んできているのですが、写真や動画が中心のインスタグラムやユーチューブでは匿名になるのは難しい。匿名化の願望が、このような「顔隠し」表現として表れてきたということもあるのかもしれません。SNSでの炎上劇がひんぱんに見られるようになった結果、プロフなどで実名を好んだ90年代生まれのZ世代も、「身バレ」せずプライバシーを保護したいという気持ちに切り替わってきたという要因もありそうです。

このような実名と匿名の振り幅は、アメリカでも見られます。もともとは日本と同じようにアメリカでもネット文化は匿名ベースでしたが、2000年代なかばにフェイスブックが普及し、フェイスブックはもともと大学生同士の交流を目的に作られたSNSだったこともあって、ユーザーには実名が求められました。実名をベースにすれば、卑怯なネット中傷がなくなることも期待されていました。当時マーク・ザッカーバーグは、アイデンティティはひとつに絞るべきだとして、こんなことを言ってますね。

「自分自身に2つのアイデンティティをもつことは、誠実さが欠如している最たる例です」

しかし実名をベースにしてもネットの誹謗中傷はあまり減りませんでした。名前が出るかどうかなんて気にしないで罵倒しまくる人、というのは一定数存在するのです(日本にもいっぱいいますね……)。加えて、香港の民主化運動などを見ればわかるとおり、匿名は強い権力からの圧力を守るための手段になるという認識もアメリカでは出てきたようです。実名での自由な発言というのは、アメリカに住む白人のような人たちだからこそ謳歌できる文化で、抑圧された人びとにとっては「匿名」であることが武器にもなるのだという考え方ですね。

いま盛り上がっているメタバースが普及するようになってきたら、その世界は実名ベースなのでしょうか、それとも匿名ベースなのでしょうか? この質問に対する正解はわたしは「ない」と思います。そのときどきの時代の空気によって、匿名か実名かどちらかに振れるであろうということなのだと思います。

さて、いったんプライバシーの根幹に話を戻しましょう。実名/匿名の揺れの問題と同時に、冒頭で紹介したケンブリッジアナリティカ事件に見るような「プライバシーをどこまで企業にわたしても大丈夫なのか」という論争は、近年たいへんホットになっています。そのひとつの表れが、世界的ベストセラーと銘打たれてる以下の本。


なんと6000円!なんと600ページ!読むのさえはばかれるものすごい物量です。書いたのはショシャナ・ズボフというハーバードビジネススクールの70歳になる女性教授で、個人データをベースとした新しい資本主義が台頭してきており、これに世界は反旗を翻して立ち向かわなければ
ならないと訴える内容です。

独占しようとする伝統的な企業は、モノとサービスを独占して、競争を排除して価格をつり上げようとします。しかしGAFAのような新しい企業は、モノとサービスを独占するのではなく、ユーザーからの個人データ(=原材料)を囲い込むことで独占するというのが、この本の中心的な主張です。

そのために企業は、ユーザーが意識しないほどに気持ちよくテクノロジーを活用できるようにしている。コンピュータ科学者のマーク・ワイザーという人が1991年に書いた次の二つの文章は、その方向を的確に表していますね。

「最も発達したテクノロジーは消えゆく運命にある。それは日常生活に入り込み、やがて見分けがつかなくなる」

「コンピュータ自体が背景に溶け込むだろう。……人間を機械の環境にフィットさせるのではなく、機械のほうが人間の環境にフィットし、コンピュータの使用を森の中での散策のように快適なものにする」

こういう方向への進化は便利になっていいじゃないか、と私は思うのですが、ズボフは激しく批判しています。これによってコンピューターが私たちを「あやつり人形」にしているのだと。そしてこれを「道具主義」「道具化」と呼んでいるのです。わたしたちがインターネット上で行うさまざまな行動や経験をあやつって、データをしぼり取ってそれをビジネスにしているのだと言うのです。

そして道具主義は、暴力で人を支配する全体主義とは違い、人間の行動を知らず知らずのうちにコントロールすることによって成立する新たな全体主義なのだと言います。

「(彼らは)わたしたちの苦悩や恐れに興味はなく、意図や動機にも無関心だ。道具主義者が関心を向けているのは、測定可能な行動を測定し、わたしたちのあらゆる行動を、絶えず進化する計算・修正・収益化・制御のシステムに常につなげておくことだけだ」

……と、まあこういう感じでロジックが展開していく本です。データを軸とした監視による資本主義という概念は前から言われていたことではあるものの、このように分厚い本としてまとめた意味は大きいと思います。ただ私としては、この本はあまりにプライバシー保護に寄りすぎで、けっこう偏ったモノの見方も散らばっているなあという印象を受けました。たとえば中国について、「中国文化は西洋文化ほどプライバシーを重視しない」と指摘しているのは良く、中国語で「プライバシー」を意味する「隠私」は 1990 年代なかばまでは辞書に載っていなかったという話などは「ほお〜」と感心したのですが、しかし中国人が監視を受け入れている理由について、以下のように書いているのはちょっと一面的すぎるのではないかと思います。

「過去何十年にもわたって中国社会では監視と人物調査が当たり前に行われてきた」「人生のきわめて詳しい情報を記録していく毛沢東時代のシステムは、教師、共産党員、雇用主によって更新されており、市民にその内容を見る権利はなく、ましてや異を唱えることは到底できない」

もう少し歴史の射程を伸ばして、プライバシーについて検討してみましょう。中国のみならず、そもそも欧米でもプライバシーというのは近代になってからの概念なのです。産業革命の前ぐらいまでは、ヨーロッパ人だってプライバシーをそんなに気にしていなかったのです。

ここから、プライバシーの歴史を眺めていきます。

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