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メタバースの現在は、ネットが普及し始めた2000年ごろと似ている 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.700
特集 メタバースの現在は、ネットが普及し始めた2000年ごろと似ている
〜〜メタバースは人間社会の何を変えるのか(1)
最近流行のウェブ3と並んでいま注目されている分野が、メタバースです。メタバースは今さら説明するまでもありませんが、「インターネットの中につくられた三次元の仮想世界」のことです。フェイスブックが「メタ・プラットフォームズ」と社名を変えて「これからはメタバースに全力を挙げる」と宣言してから、一挙にウェブのビジネスの中心に祭り上げられるようになりました。
とはいえ、まだメタバースがどのような世界へと成長していくのかは定かではありません。ここでいったん用語を整理しておきますが(すでに既知の人はごめんなさい)、VRとAR、MRの3つの違いは確認しておいた方がいいでしょう。
VR(仮想現実)=たいていはゴーグル的な大きなヘッドマウントディスプレイ(HMD)で視界をすっぽり覆う。
AR(拡張現実)=HMDよりは比較的小ぶりなメガネっぽい機器で、リアル空間と仮想空間の物体を重ね合わせて見ることができる。
MR(複合現実)=ARの進化型で、リアル空間の物体と仮想空間の物体がきちんと相互作用する。たとえばバーチャル猫がリアルのソファの上に寝転ぶということができる(ARだとすり抜けちゃう)
これらを総称して「XRテクノロジー」などと呼ばれていますが、これとメタバースはイコールではありません。メタバースはあくまでも仮想の「世界」であり、XRテクノロジーはメタバースに入るための「機器」なのです。
さて、今のところはVRがすなわちメタバースのための機器であると捉えられているようです。メタバースに接続する機器としては、メタ社のオキュラス・クエスト改めメタ・クエストが市場をリードし、これをソニーや台湾のHTCなどが追いかけています。そしてこれらはすべてヘッドマウントディスプレイで、視界のすべてを覆うVR機器です。
では、AR/MRによるメタバースというのはあり得るのでしょうか。AR/MRの透過型(リアル世界と仮想世界が同時に見える)機器はマイクロソフトのホロレンズや巨額の資金調達で有名なマジックリープなどがありますが、技術的なハードルがまだまだ多く、一般販売はされていません。ただこの市場に参入すると言われている巨人アップルは、来年春ぐらいにはAR/MR系の機器を出すのではないかと噂されています。もしアップルが実用的なAR/MRを一般に販売し広まれば、ゲームチェンジャーになる可能性はあるでしょう。
では、VRとAR/MRのどちらがメタバース接続機器として本命なのか。
まずVRの「視界をすべて覆う」という特徴は、利点でもあり欠点でもあります。リアル世界とは異なる第二の世界であるメタバースに「没入できる」というのは大きな利点ですが、同時にそれはリアル世界との接続を切られるという欠点にもなるということです。
未来には脳とコンピューターを直結させる技術も出てくるでしょう。実際、テスラのイーロン・マスクは「ブレイン・マシン・インターフェイス」と呼ばれる研究開発を進めています。これが実現すれば、いずれ視覚と聴覚だけでなく、ヒトの五感のすべてをコントロールできるようになるかもしれない。そこまで行けば映画『マトリックス』までは後一歩です。
現状ではヘッドマウントディスプレイで視界と聴覚を覆えるだけです。とはいえ、こんな興味深い体験も出てきています。
足を手術などで切断した際に痛みを感じてしまう「幻肢感覚」のようなものがVRにも存在するとこの記事では指摘されており、たいへん興味深いですね。ヘッドマウントディスプレイを装着しているだけなのに、触った感じやにおいなどを感じ、さらには「風」「温度」までをも実感することができるというのです。わたしはそこまでソーシャルVRをやり込んでいないのでまだ実感がありませんが、触覚や「落下感覚」のようなものはたしかにそうだと思います。
上記の記事を書いたVTuberのバーチャル美少女ねむさんは、「メタバース進化論」という興味深い本を出されています。
この中で、メタバースではリアル人格とは別の人格を表現することができ、分人主義を実現するものだという話が出てきます。
「いまメタバースではアイデンティティを自在にデザインして『なりたい自分』で生きていくことができるようになりつつあります。それはもはや人間がもともと持っている多様な側面を認める、という時限を完全に超えています。私たちの心の中の多様な側面『分人』を積極的に探し出して、姿かたちを与えて、自由に活動させることができるようになったのです。『なりたい自分』として人生が送れるということです」
これは非常に面白い議論です。先ほども書いたように映画『マトリックス』に近いような没入感が実現してくれば、十分のその実現可能性はあるでしょう。ただ、もしそうなった場合にはその「メタ人格」は「リアル人格」とどのような関係を持つことになるのだろう?という疑問も生まれてきます。
2000年代にSNSが普及してきたとき、「ネット人格」についての議論が盛んになったことがありました。リアル世界では温厚でおとなしい人が、なぜかネットでは別人のように攻撃的になったりする現象が見られるようになり、これはいったいどういうことなのか?と多くの人が不思議に思ったのです。
この現象については、かなり古い記事ですがサイバーエージェントの藤田晋さんが2014年に書いたブログ記事がたいへん正鵠を射ていると思います。
「ネットでは印象の悪かった人だったけど、会うと良い人だったというのなら、むしろリアルの場のほうを疑ったほうが良いでしょう。
1対1や、1対少人数だと誤魔化しが効いても、不特定多数、衆目に晒されるネットで誤魔化すことは絶対に不可能です。ネットで本性は絶対に隠せないのです」
結局のところはネット人格もリアル人格も同一の地平にある。ただしリアル人格は、世間体や恥の感覚などがあるのでうまく誤魔化されていることが多い、というたいへん身も蓋もないけれどストレートで鋭い指摘ですね。
昔を振り返ってみれば、ツイッターは東日本大震災以前のころまではたいへん平和で穏やかな世界でした。利用者がまだ少なく、しかも多くがITリテラシーの高い人たちだったからです。そもそもインターネット自体も、かつてはそういう「隠れ家」的な場所だったのです。これはデジタルネイティブの第1世代と呼ばれた1970年代生まれの人たちがよく言っていたことですが、90年代から2000年代ぐらいまでは「楽しいギークの楽園」だったネットが、2010年代ぐらいになると「リア充」にどんどん侵食されるようになり、リアル世界とつながっていってしまった。「オレたちの逃げ場が奪われてしまった。楽園は失われたのだ」と。
2010年代には「リア充」、すなわちミレニアル世代の明るい一般ユーザーたちだけでなく、大量退職時代を迎えた「団塊の世代」も流入してきたと言われています。これがツイッターなどをきわめて政治的にしてしまった背景だったともひそかに言われているのですが、いずれにせよこのようにして「ギークの楽園」だったネットはひたすらリアル世界に侵蝕され、リアル世界と同一平面になっていったということは言えるでしょう。
いまのメタバースは、インターネット草創期と同じなのかもしれません。書籍『メタバース進化論』にも書かれていますが、現在のソーシャルVRに参加するにはゲーミングPCが必要だったり、アバターの着せ替えに高度なスキルが必要だったりと、かなりのITリテラシーの人たちが集まっていることが想像できます。これが今後の普及局面で、一般人が大挙して流入してきたらどうなるのか。それでも楽園は続くのか、それとも楽園の終わりがやってくるのか。
残念ながら後者の可能性もあるとわたしは思っています。端的に言えば、こういうことです。「メタバースのツイッター化」。
もちろんメタバースが身体性を得て、その世界の中に本当に没入して生きていくことができるようになれば、なんらかの劇的な変化があるかもしれません。ヒトの性質そのものがテクノロジーによって変化し、良い意味での分人主義が実現するかも知れません。でもそれはもう少し未来の話です。
では近未来において、メタバースの方向性はどのようなもので、いったい何を実現することになるのでしょうか。
わたしはメタバースが引き起こすのは、「移動」というもののコペルニクス的転回だと考えています。メタバースは、ヒトの「居場所」というものの意味を変えてしまうのです。
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