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スマホの「次」のUIがロボットとのコミュニケーションになる可能性 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.775

特集 スマホの「次」のUIがロボットとのコミュニケーションになる可能性
〜〜〜ロボットと宗教とテクノロジーのあいだに(1)


ロボットクリエイターの高橋智隆さんと対談しました。対談そのものは近くプレジデント社から配信されると思うのでそちらを観ていただければと思うのですが、非常に興味深いと思ったのが、「スマホの次はロボットになるかも」という高橋さんのお話。


高橋さんが開発された小型ロボット「ロボホン」は、「モバイル型ロボット電話」という呼び方もあるように、スマートフォンを内蔵しています。言い換えれば、スマホに顔と手足を取り付けて、スマホが踊ったり歩いたり、しゃべったりできるようにしているのです。



日経COMEMOに投稿した先日の記事で書いているのですが、PCからスマホへと継承されてきたアイコンをマウスでクリックもしくは指でタップするUIは、VRヘッドマウントディスプレイや音声による対話型AIの登場によって、より人間的なコミュニケーションへと進化する可能性があります。


「対話型AIとVRヘッドマウントディスプレイというまったく異なるジャンルに見えるふたつのテクノロジーが、UIという一点において合流する未来が見えてきます。つまり対話型AIのなめらかな音声コミュニケーションと、VRヘッドマウントディスプレイでの視線やジェスチャーというボディランゲージ」


「この二つがもし合流していくのであれば、それはまさにわれわれ人間が日々、隣人と交わしているコミュニケーションに他なりません。言葉を交わし、手をひらひらしてバイバイの合図をし、アイキャッチで相手への好意を送る。こういう人類のコミュニケーションが、そのまま人類と機械のコミュニケーションにも使える未来がまもなくやってくるのではないでしょうか」


この記事では書いていないのですが、そういう未来が来るとしたら、コミュニケーションをとる「相手」はいったいどうなるのかというテーマが新たに浮上してくるでしょう。VRは人間と同じ方向を向いている機器で、要するに人間の身体の延長です。わたしたちはVRヘッドマウントディスプレイを相手にボディランゲージをするわけではありません。


また対話型AIはいまはスマホを使って音声でやりとりできますが、「スマホの先」を考えたとき、わたしたちが話す「相手」はいったい誰になるのでしょうか。


ボディランゲージと音声のやりとりを、空中に向かってということでしょうか? わたしはそれでも構わないかなと思っていたのですが、冷静に考えれば、相手がいないのにさかんに喋りジェスチャーするというのは、AirPodsを耳に装着して誰かと電話をしている人を端で見ているような、なんだか滑稽な感じもします。


そこで、スマホの「次」としてのロボットの可能性が浮上してくる。高橋智隆さんは、「スマホの次の時代には、わたしたちはロボットを相手にコミュニケーションし、電子デバイスに指示を出すようになるのではないでしょうか」という趣旨のことを語られていました。これは実に鋭く、可能性のあるご指摘だと感じます。つまりロボットを相手に私たちは音声で語りかけ、ボディランゲージし、それをロボットがカメラとマイクでインプットして、アウトプットをやはり音声とボディランゲージで返してくれるというわけです。


さらに高橋さんのお話で「なるほど!」と思ったのが、わたしが「ロボホンをはじめとして、なぜ高橋さんのロボットは小さいのですか?」と訊ねたことに対する回答。「小さい方が怖い相手にならないし、コミュニケーションの相手としては小型で十分。逆にロボットが大きいと、可能な仕事への期待値が高まりすぎてしまうということもあります」


どういうことかというと、たとえば人間と同じぐらいの大きさで硬質な金属でできたロボットだと、いかにも力強く見える。そうすると重い荷物を持ったり、人間を賊から守ったりできるという期待感が生まれてしまう。でも小さいロボットならそういう期待感は生まれません。逆に「人間の側が守ってあげなければ」という保護欲求さえ生じ得る。


そもそもロボットが家事のような複雑な作業をするのは、非常に困難です。お掃除をしたり、料理をしたり、皿を洗ったり、洗濯をしたりといった万能の家事ロボットの出現が期待されていますが、人間のかたちをしたヒューマノイド型のロボットでそれらを実現するのは容易ではありません。掃除ひとつをとってみても、ヒューマノイド型ロボットががホウキを持って床を掃くよりも、ルンバのような円盤形の掃除専用ロボットが担う方が経常的には理に適っているのです。


ルンバと同じように、料理や皿洗い、洗濯などの他の家事も、専用の形状をしたロボットがそれらを担う方がいい。皿洗いだったら、現在の食洗機がさらに進化して、食洗機のかたちをした箱形のロボットがより精密に皿を洗ってくれる方が良いのです。いずれは食洗機と食器棚が合体したような完全自動なロボットへと進化するかもしれません。


そのように専用ロボットがそれぞれの家事を担うようになったとしたら、ヒューマノイド型ロボットに役割は残っているのでしょうか? そこで考えられるのが、「人間と会話し、専用ロボット群に細かな指示を出すヒューマノイド」の可能性です。つまりわれわれはヒューマノイド型ロボットに「掃除しておいて」「皿を洗って」と指示を出す。するとヒューマノイドが「わかりました!」とタチコマのように明るく返事をしてくれて、そしてタチコマが各専用ロボットにネット経由で指示を出す。これぞまさにIoT(モノ同士がつながるインターネット)の進化形です。


ヒューマノイド型ロボットがそのようなIoTの司令塔的な役割を果たし、同時に現在のスマホが担っている友人とのメッセンジャーや道案内、検索などの機能も担当するのであれば、サイズは小さくても十分というのが、高橋さんの説明でした!なるほど。


小さなロボットと人類が音声とボディランゲージでコミュニケーションし、それが現在のスマホの役割を担うようになれば、小さいロボットはわたしたちの生活になくてはならない存在になるでしょう。さらにそれだけでなく、小さいヒューマノイド型ロボットというのは人間にとってさらに大きな意味を持つようになるかもしれないと感じます。


ここで補助線を引きます。写真家藤原新也さんの2003年の著書「なにも願わない手を合わせる」(東京書籍)。


この本は、「人は何のために仏に向かって手を合わせ、願うのか」ということについてエッセイ的につづったものなのですが、それは決して上位の神への御利益を願うためだけではないということが書かれています。


藤原さんは四国巡礼を歩きながら、こう考えます。


「札所における祈りというのはおおむね自分よりずっと偉大な御大師や大日如来に祈るわけであり、そこにはおのずから主従の関係が生じる。そういった関係の中で自己救済の祈りのかたちも生まれるわけだが、仮にその主従の関係が逆転した場合にはどうなるだろうかということである」


「つまり祈られる方より祈る方が大きな立場になったらどうなるかということだ。一体そのような奇妙な祈りの関係というものがこの世の中に存在するのかと訝(いぶか)しるかもしれない。しかし私はあるときそのような祈りのあることを知った」


旅の先々で、藤原さんは野辺に置かれたお地蔵さんと出会います。地蔵菩薩はもともとは民を救う菩薩ですが、野辺の地蔵さんはそんなすごいものではなく、死んだ人を意識して作った仏であることも多い。また水子供養に地蔵が作られるように、年若くして死んでしまった子どもを模したものも多いのです。


「私は行く先々でこの小さな仏に対面しながら、そこに人の数ほどの表情があるのに気づく。中には仏でありながら不安や孤独さえ漂わせているものさえある。私はそのような吹きさらしの雨風の中に一人佇む小さな仏たちを見ながら、ふとまた自分のために祈ろうと思った。それは御利益祈願という意味での自分のためということではない」


「海のような自分になりたい」


「そのような願いを込めて祈りはじめたのだ。私はこの旅を終え、再び俗世間に立ち戻る。そのますます救いようもなく荒れ果てようとする人間の世紀の中で、どのような他者の不安や心の荒廃をも受け止め得る、海のように揺るがぬ自分になりたい。野辺の地蔵たちは、そのような祈りの姿があることを私に気づかせてくれたのだ」


御利益をもたらしてくれるのではなく、ただ人に寄り添う野辺の地蔵たちという考えかたが、呈示されているのです。神が上にあり人が下にあるという一神教的な上下関係ではなく、人と神は対等であり、人は神を大事にし、神も私たちに寄り添ってくれるという感覚は、日本人の古層にある宗教観ではないでしょうか。

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