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ポスト近代には恋愛も結婚も職業選択の自由も、すべて抑圧になった 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.654

特集 ポスト近代には恋愛も結婚も職業選択の自由も、すべて抑圧になった
〜〜現代社会における「実力主義」の困難さを考える(第2回)


 いま日本に求められているのは、新しい社会観です。2000年代には過度な実力主義ばかりがはびこり、「このジャングルで生き抜け」人生哲学が流行しました。これはあまりにも、厳しい社会です。かといって時間を逆回転させて、サザエさんやクレヨンしんちゃんのような昭和の古いライフスタイルに戻っていくのも無理でしょう。今さら専業主婦の存在を前提とした核家族に戻れるわけもありません。昭和への回帰ではない、新しい社会観。それは実力主義に過度に進みすぎずに、しかし同時にみんなが「居場所」を見つけられるような方向だとわたしは考えています。

 さて、本メルマガではその結論にすぐには入りません。いったん回り道して、ロジックを積み重ねつつゴールに向かっていきましょう。

 実力主義はメリトクラシーとも呼ばれますが、要するに個人の能力によってその地位や収入が決まるべきであるという考え方です。これは近代が始まった段階では、意味のある考えだったのです。なぜなら近代以前の世界では、地位や収入は自分がどういう境遇に生まれてくるのかによって決まっていた階級社会だったから。どんなに能力があっても、下層階級の人は下層階級のままだった。インドのカースト制度なんかが典型的ですが、日本でも江戸時代の士農工商があり、その後も太平洋戦争前まではけっこうな階級社会でした。恋愛さえもが自由ではなく、親の決めた相手と結婚するのも普通でした。

 だから近代になって工業化が進み、富が分配されて社会がフラットになっていく中で、階級が壊されて自分の実力でのし上がれるようになったことは、喜ばしい変化だったのです。しかし自由というのは、往々にして慣れてしまうと喜びではなくなり、逆に抑圧に転じてしまうことも多い。

 以前、「お見合い結婚は是か非か」という議論をトークセッションの場で行ったことがあります。お見合い結婚を肯定なんてすると、「まともに交際もせずに親が用意した相手とちょっと会っただけで結婚するなんて!」と怒られそうですが、本当にそうなのか。

 歴史を振り返ると、昭和の前期まではお見合い結婚が一般的で、だからこそ自由な恋愛を成就させて結婚するという恋愛結婚は光り輝いていました。終戦直後の1947年には、『青い山脈』(石坂洋次郎)という男女の恋愛結婚を高らかに言祝ぐ小説が現れ、映画化もされて大ヒットしたのです。ラストシーンでプロポーズを受けた英語教師の島崎雪子先生は、お見合い結婚ではない恋愛結婚の素晴らしさをこう宣言するのです。

「世間には、結婚して、子供でもできてしまうと、わるく安心して、お互いの欠点を遠慮なくさらけ出して、だらけた、ノビきった生活をしている人たちがありますけど、私たちの場合はそうでなく、結婚はお互いの人格をより豊かに充実させる一過程であるという風な心持で暮していきたいと思います」

 戦後の青空があまりにも眩しすぎるような文章ですね。しかしこの『青い山脈』から70年以上経って、いまや結婚や恋愛はジャングルでの戦いになってしまっている。モテる人とモテない人で格差が生まれ、「恋愛しなければならない」という義務感が抑圧に転じてしまっているのです。

 そういう中で、お見合い結婚ってもう一度見直してもいいんじゃないかという「思考実験」をしたのが、先ほどのトークでの議論でした。これはわたしが「お見合い結婚最高!これからはみんなお見合い結婚せよ!」というウルトラ保守的な考えをリアルに持っているということではありません。あくまでも思考実験です。

 たとえば恋愛結婚は、結婚をゴールに考えてしまうことが多い。すごく愛しているから大恋愛し、成就してついに結婚し、ついにゴールにたどり着いた!という感覚です。だから恋愛結婚でゴールすると、その先は単なる「余生」になってしまいかねない。情熱的な恋愛感情はたいていの場合数年で終わってしまうので、だんだん情熱も薄れ惰性になっていく。まさに島崎先生の言うように「だらけた、ノビきった生活」になっちゃう。じゃあ島崎先生たちのように結婚時に高らかにこれからの抱負を語れば「ノビきった」にならないかというと、現実はそう簡単ではないでしょう。

 いっぽうでお見合いは、下手すると結婚前に一回ぐらいしか会ってなかったりするわけだから、結婚がスタート地点です。その先にゴールはあるのかないのかわからないけれど、とりあえずはゴールは見えていない。逆に相手をまったく知らないところから始まると、「実はこんな素敵な人だったんだ」ってだんだん気付いたりとか、そういう良いこともあるかもしれない。そこからしみじみと情が深まっていくこともあるでしょう。

 もちろんそんな良いことばかりじゃなく、中には「こんな酷い人だったのか…」と驚き呆れることもじゅうぶんあり得る。しかしお見合いの場合は、そこに逃げ道があるのです。どういう逃げ道かというと、「この人はわたしが選んだ相手じゃないから」という心理的逃げ道。これが恋愛結婚だと、いくらあいての酷さが結婚後に発覚しても「そうはいってもそれを見抜けなかったのはおまえの責任だろう」「おまえが選んだんだから」と言われてしまう。自己責任に追い込まれてしまうのです。

 結局はなにを結婚の目的にするのか、という話でもあるのかもしれません。恋愛とその成就という自由と情熱が目的なのか、それとも安逸と平穏な生活が目的なのか。もし後者が主たる目的であるのなら、必ずしも恋愛である必要はないと言えるのではないでしょうか。

 話を戻しましょう。メリトクラシー(実力主義)もそれと同じです。封建的な階級社会から脱却したときは、自分で仕事を選べ、自分の能力で道を切りひらいて高い収入を得られるようになることは大きな喜びでした。しかし職業選択の自由も実力主義も当たり前になってくると、今度は実力主義が抑圧に変わってしまう。仕事がつまらなく収入が少なくても、「それはおまえがその仕事を選んだからだろう」と自己責任を突きつけられてしまうのです。階級社会時代のほうがまだしも「しょせんは親父の仕事を継ぐしかなかったから、こんな仕事をするしかないのさ」という諦観に安逸さを感じたことができたのかもしれません。

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作家・ジャーナリスト。近代の終焉と情報通信テクノロジーの進化が社会をどう変容させるのかをライフワークとしています。