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「運用する側の視点」と「弱者の視点」のバランスを考えることが大事 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.801


特集 「運用する側の視点」と「弱者の視点」のバランスを考えることが大事〜〜〜SNS時代に可視化された「現場の哲学」を考える(2)



インターネットが普及する以前から、新聞やテレビの報道はつねに「お客さんの目線」でした。鉄道が事故や災害などで運休したときには、あくまで乗客の目線で報じているのです。しかし一般社会には、現場の人間として「運用する側」として働いている人がたくさんいる。そうした人たちは駅員に突っかかる客の目線ではなく、苦労しながら復旧させる駅員さんや現場スタッフの目線でニュースを見ているのです。マスコミはそれに気づかないから、いつまでも「弱者としての一般市民と大企業や政府権力」というわかりやすい対立構図に落とし込んでしまい、ますます一般社会から反感を買うというマイナスのスパイラルに落ち込んでいるのです。


これまで無視されてきた「現場の側」「運用する側」の目線は、SNSによって大きく可視化されるようになりました。実際に現場に立って仕事をしている人たちの目線が、多くの人に共感されるようになったのです。これはたいへん良い流れであり、このような「現場の哲学」をマスコミの側も理解しなければならない時代がやってきているというのは、本メルマガの前回でくわしく解説したとおりです。


「現場の哲学」が可視化されるようになった背景は、SNSの普及だけではありません。社会の構成が複雑になったこともあります。


昔の言い回しですが、「社会の歯車になりたくない」という表現がありました。歯車を「社会の一部として埋没して生きる」というようなネガティブな意味で使い、社会のためにひたすら働いてすり減るだけというイメージです。こういう言い回しは昭和のころによく目にしました。当時は人生のレールがかなりカッチリと決まっていて、学歴によってほぼ自動的に就職口が決まり、大企業にいったん就職してしまえば終身雇用で仕事がなくなる心配も無く、定年までの人生設計を立てることが普通にできたのです。


当時の社会では、「自分の居場所はどこ?」というようなことを真剣に考える必要はありませんでした。「自分探し」などという風潮が流行したこともありますが、これは身分があまりにも安定しているがゆえに「この安定した場所から外に出てみたい」という贅沢な欲求でしかありませんでした。実際、こういう自分探しの人に対しては「青い鳥症候群」などという呼び方もあったのです。今いる場所よりもどこかに良いところがあると空想してしまう人、という意味です。


20世紀の身分が安定した社会では、自分の位置をつねに確認する必要はなく、ただ目の前の仕事を片づけていけば、給料は常に振り込まれ、職を失う心配もない。そうなると目が行くのは、会社の中という閉ざされた空間での出世競争だったり、家庭内での実権争いだったり。つまりはヒエラルキー(上下関係)の中の階段さえ見ていれば良かったのです。


ヒエラルキーの下にいる「下っ端社員」には、社会の全体像も見えず、自分の仕事が何の役に立っているのかもわからない。認識できているのは、自分がヒエラルキーの下方にいることだけ。そういう視界の人にとっては、「自分は社会の歯車」という比喩はわかりやすかったのでしょう。


しかしこの表現に対し、「歯車で何が悪い」という反論が当時からありました。


なぜなら歯車は、ひとつでも欠けてしまったら全体のメカニズムが動かなくなってしまうから。機械式の時計の裏蓋をこじ開けて、歯車をひとつ取り外してしまうと、時計はもう機能しません。歯車はたしかに「全体の中のパーツにすぎない」と埋没しているように見えますが、同時に全体を動かすためにかけがえのないパーツでもあるのです。


そう考えれば、21世紀の複雑な現代社会は、ありとあらゆる大小の歯車から構成されて、かろうじて駆動している巨大な機械であるとイメージすることもできそうです。言い換えれば、この社会で仕事を選ぶというのは、どの歯車になるのかを選択するということもである。大きくて目立つ歯車もありますが、隅の方に位置して小さく隠れがちな歯車もある。しかしどちらも、欠けたら全体が駆動しなくなるのは同じ。


21世紀の社会は複雑で多層ですが、いっぽうで社会の隅々までそのメカニズムや構成が「見える化」されている社会でもあります。自分の目の前の仕事をただ淡々とこなしていくこともできますが、その仕事が他の仕事やさらには社会全体にどのような影響を与え、どのような位置にあるのかを、ある程度は理解できるようになってきている。これはSNSによって一般社会のさまざまな人の仕事が可視化されるようになったからこその新しい視界でしょう。


最近はセクシー女優やグラビアアイドルの人たちが攻撃されていますが、彼女たちの発信を横断的に読んでいると「自分たちは人々に価値を与えている」というプライドを持たれていることを強く感じます。どんな仕事であれ、社会と接続し、さまざまな人々と相互作用を起こして、良き歯車として社会を構成しているのだなあと感じさせられます。ピッチャーで4番っであろうが、セカンド7番であろうが、それぞれが必要な役割を担っている。ただ目立ちやすい/目立ちにくいという格差が生じるのは、ある程度は仕方ない面もあると思います。


つまるところ現代社会というのは、無数の歯車と歯車が接続された、膨大な相互作用の集合体なのでしょう。あらゆる歯車は目立つと目立たざるとに限らず、関係性はフラットなのです。しかしそういう現代の全体像がわからない人は、社会のあらゆる局面をヒエラルキーや上下関係で見てしまう。


こうした人たちがマイノリティに対して「被害者像を押し付けている」と批判されることがありますが、これはマイノリティを擁護しているように見えて、実はマイノリティを社会の「下」と見ているという、「上下関係で社会を認識する」という古い世界観の裏返しなのではないかと思います。しかし、もうそういう「上下関係」「ヒエラルキー」的な世界観は時代遅れです。これからはフラットな相互作用をイメージした世界観が求められていると言えるでしょう。


話を戻すと、そういう時代の変化の中で、これまで目立たない存在だった「現場の視点」「運用側の視点」というものが浮上してきたと考えられます。これは社会の複雑化とSNSによる社会の可視化によって、必然的な流れだったとは言えます。とはいえ、この「現場の哲学」にもネガティブな側面があることも注視しておく必要があります。


立教大学の中原淳さんはこの記事で、「本当に『現場を知っていること』が『良いことなのか』も考え抜かなければなりません」として、以下のような危険性を指摘されています

   

「たとえば『現場の非効率なやり方に、ズブズブに負の適応』をしてしまって、そこから抜け出せないことも『現場を知りすぎてしまっているから、起こること』なのかもしれません」

   

「『現場を知っている』からこそ『新しい仕事の進め方ややり方を思いつかないこと』もありえるのです。この場合、『現場を知っている』は『負の意味』を帯びることになります」

「『現場を知りすぎていること』は手放しで『よい意味』ではなくなることもあります。これを『過剰適応』『能動的惰性』といったりします」


たとえば、車いすの問題で考えてみましょう。前回に紹介したJR駅での車いすの乗降問題や、最近だと映画館で車いすでの入場を遠慮してほしいとスタッフから言われたという事件が騒動になりました。運用側の視点である「現場の哲学」の目で見れば、エレベーターのない無人駅での車いす乗降や、階段が多く車いすでの入場を前提として作られていない映画館での車いすの扱いは、けっこう困った厄介な事態であるということになるでしょう。

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