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「中央集権」と「アンチ中央集権」の終わりなき戦い 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.691

特集  「中央集権」と「アンチ中央集権」の終わりなき戦い
〜〜GAFAとWeb3はどこへ行く(前編)

監視資本主義ということばが最近使われるようになってきました。人々の行動を監視してデータ化することでビジネスが成り立っていることを批判的に指摘したもので、ハーバードビジネススクールの先生が書いた同名の本は世界的なベストセラーになっているようです。


日本ではGAFAと呼ばれるようなアメリカのビッグテック(巨大テクノロジー企業)は、データによって徹底的な中央集権システムをつくりあげています。これに危惧を抱く人がたくさん出てきているということです。

しかしこれまでのネットの歴史を振り返って見れば、ビッグテックがつくったSNSや検索、アプリなどのプラットフォームは2000年代には「Web2.0」と呼ばれ、自由でフラットなネット世界をつくりあげるという「アンチ中央集権」的なイメージで語られていたはずです。どこでこれがひっくり返ってしまったのでしょう。

今回と次回の未来地図レポートでは、この「中央集権」と「アンチ中央集権」の終わりなき戦いについて解説していきます。

ビッグテックは、もともとはアメリカ西海岸の理想の象徴でした。この文化の源流は、1970年代にスティーブ・ジョブズがガレージでアップルを創業した時代にまでさかのぼります。

それまではコンピューターといえば、企業に鎮座している巨大な大型コンピューターしかありませんでした。ヒッピーに心酔していたジョブズは、幻覚剤をやったりインドに道師を探しに行ったり日本の禅に入門したりした後、「大企業に独占されているコンピューターを、個人でも使えるようにすることこそが人間の解放だ!」と考え、ガレージで個人用コンピューターを作りました。かの有名なパソコンの先駆け「Apple I」です。

パソコンの発明は、まさに「中央集権」からの解放を目指したものでした。大型コンピューターをタイムシェアして使っていた中央集権的な使い方を終わらせ、パーソナルなコンピューターを作ることは、コンピューターの解放であり、それが人間の解放になると考えられたのです。

ここからジョブズやビル・ゲイツの革命がはじまり、パソコンは世界に普及します。ジョブズから最近にいたるまで西海岸ビッグテック企業に流れていた理想は、1998年創業のグーグルの理念に現れていますね。

「Don’t be evil(邪悪になるな)」

邪悪で利益だけを追求する大企業にならないようにしよう、つねにわれらは人間解放の理想を追い求めるのだというスローガンです。そういえばグーグルはこの言葉を最近あまり使っていないような……。


そして1990年代にはインターネットの波がやってきます。インターネットはまさに「アンチ中央集権」でした。個人が投稿などを書き込める場所としてそれ以前は「パソコン通信」と呼ばれるサービスがありましたが、NIFTY-ServeやPC-VANなど大手企業が運営するパソコン通信は「中央集権」で、ルールや規制もしっかり定められていて、それらに違反すれば強制退会されることもありました。

しかし初期のインターネットは、規制もされず完全なる無法地帯でした。

1996年に発表された「サイバースペース独立宣言」という有名な文章があります。ロックバンド「グレイトフルデッド」の作詞家であり、同時にインターネットの表現の自由を求める団体「電子フロンティア財団」の創設者でもあったジョン・ペリー・バーロウという人が書いたものです。長い文章ですが、いくつか引用しましょう(訳文は佐々木)。

「産業の世界の政府たちよ、肉と鋼鉄でできたひ弱な巨人たちよ、私は精神の新たなよりどころであるサイバースペースからやってきた。未来のために、われわれは要求する。おまえたち過去の者どもは、われわれのことを放っておいてほしいと。おまえたちはわれわれにとって、歓迎できない客だ。我々の集まる場所で、おまえたちの権威は何の権威も持っていない」

「われわれの間には、選挙によって選ばれた政府は存在しない。またそんな政府を持とうとも思っていない。だから自由それ自身が持っている言葉以上の権威は、私の言葉の中には存在していない。われわれが作り上げようとしているグローバルなこの空間は、おまえたちが押しつけようとしている圧政から、明らかに独立しているのだ。おまえたちがわれわれを何らかのルールに縛ることのできる道徳的な権利はどこにもないし、われわれを畏怖させるような強制力も持ち合わせていない」

「サイバースペースはさまざまな取引や、人と人の関係、そして思考そのものから成り立っている。それはわれわれのコミュニケーションの網の目の中に、定常波のように広がっている。われわれの世界はあらゆる場所に存在し、あるいはあらゆる場所に存在しない。しかしそこには物理的な肉体は無いのだ。われわれは、人種や経済力、軍事力、生まれながらの身分などによるいかなる特権も偏見もない世界を作り上げようとしている。われわれの作り上げようとしている世界では、だれもが自分の信じることをいかなる場所ででも発信することが可能だ。仮にその考えが風変わりであっても、沈黙や順応を強制されることはない」

「われわれはサイバースペースの中に、精神文明を作り上げていくだろう。そしてその文明が、今までおまえたちが作ってきた政府よりもずっと公正で、人間的であることを祈る」

この「宣言」で語られていることは、とてもシンプルです。大型コンピューターや大企業という「中央集権」から逃れて、インターネットとパソコンの世界に「アンチ中央集権」を作ろうということ。

実際、1990年代から21世紀はじめごろまでのネットは、この日本でも途方もなく自由だった記憶があります。

「ホームページ」と当時は呼ばれていたウェブはまだ規制もされず、怪しい裏情報や違法な「なにか」がそこらじゅうに転がっていました。だれも全容を把握できない広大な海だったのです。検索エンジンはあったが性能が低く、とくていのウェブサイトや情報にたどり着くのには「運まかせ」のようなところもありました。情報は可視化されておらずリーチしにくかったからこそ、「隠れ家」であることができたのです。

外部環境として、90年代の日本は、紙の雑誌の業界でも「鬼畜系」と呼ばれたエロやグロ、悪趣味や冷笑な文化が溢れていました。こういうサブカル文化の背景もあって、日本のインターネットはエログロ悪趣味とテクノロジーと「中二病」的な恥ずかしさが入り混じった独特なテイストの世界だったと言えるでしょう。そこにはテレビや新聞にはない「アンチ中央集権」的な色がたしかに濃厚にありました。

ところが2000年代なかばになると、ネットの「隠れ家」感は急速に薄れていきます。

ポイントは二つあります。ひとつは、検索エンジンとSNSの進化と普及。グーグルが2000年代に普及させた独自の検索エンジンは高性能で、人々はあらゆるウェブサイトに到達できるようになります。そして面白かったり興味深かったりするウェブページは、リンクをつかってSNSで共有されるようになりました。

この結果、「隠れ家」は消滅しました。ネットの世界の極北のような場所でこっそり書こうとも、誰かに見つかればシェアされたちどころに全世界に知られてしまう。ネットのすべてが可視化されてしまう時代がやってきたのです。この話はすこし前、この未来地図レポートでもSFの傑作「三体」になぞらえて書いたことがあります。


もうひとつは、プラットフォームという概念の登場です。

1990年代のインターネットは、コンテンツを人々に送り込む方法を紙や電波から、ウェブに変えただけでした。しかし2000年代になるとブログのサービスが普及し、だれもが気軽に文章を書いて発信するようになります。さらに2010年ごろからはツイッターやフェイスブックなどのSNSが広まり、情報のやりとりが完全な「双方向」に変わりました。ユーチューブやインスタグラムによって、文章だけでなく動画や写真も「双方向」になります。

この構造の変化は当時、Web2.0と呼ばれました。それまでの古いウェブや紙媒体、電波媒体と異なり、情報の流通が「垂直統合」から「水平分離」へと移行したということを指したのです。

この「2.0」の意味を、たとえば新聞というメディアで考えてみましょう。

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