「さん付け」呼称の変化から見る日本社会の移り変わりとは 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.737
特集 「さん付け」呼称の変化から見る日本社会の移り変わりとは〜〜〜昭和の「上下関係」型から令和の「円環」型へ
あけましておめでとうございます。2023年の幕開けとなりました。今年もよろしくお願いいたします。
さて昨年末のサッカー・ワールドカップ解説で、本田圭佑さんが現役選手を「さん」付けで呼んでいたことが話題になりました。「体育会系」という言葉もあるように、スポーツといえば上下関係に厳しい世界というイメージが昔からあったのですが、もうそういう時代ではないことを本田さんの姿勢は如実に示しています。
これはスポーツの世界のみならず、日本社会全体に広がっている姿勢なのでしょう。
フリーアナウンサーの宮本ゆみ子さんが書かれたこの記事が、実に正鵠を射た分析をしていました。本田さんは若い選手を「さん」付けした一方で、一部の選手についてはニックネームで呼んでいたことについて。
「年令に関係なく、親交のある選手に対しては『さん』づけでなく愛称で呼ぶ。本田さんと各選手の距離感が伺い知れるようで、サッカーの内容とは別にとても興味深いものがありました」
「主従関係を明確にできる敬語は、戦前までは重宝されていました。しかし、今はその当時のような明確な上下関係を強く意識させる必要はありません。身分に上下なく、誰もが平等に認められることが基本です」
「そんな時代にふさわしい敬語の考え方は、『上下関係』ではなく『自分と相手との距離感に応じて考える』ことです。まさに、本田さんが解説で『さん』をつける選手とつけない選手を自然に分けていたのと同じように」
本当におっしゃる通りだと思います。この「上下関係」から「距離感」へというのは、非常に面白い指摘です。
古い日本では、さまざまな場面に「上下関係」がはめ込まれていました。たとえば名刺交換。SNSや電子メールのなかったころは、相手の連絡先や正確な氏名、肩書きなどを確認するために必要なツールだったのですが、そのようなアイデンティティ確認以外にも、昭和時代に葉実は別の目的があったという話があります。
それは名刺を交換する相手との上下を確認する手段だったということ。
相手の勤め先の会社は東証一部上場か二部上場か、それ以下か。財閥系かそうでないか。一般への知名度はどうか。そのあたりの基準で、自分の会社と相手の会社の「格の違い」を、名刺をちらりと見た一瞬で判断するのです。さらに、役員か部長か課長か係長かという社内での肩書き。この肩書き要素を、会社の格の評価に加えて、相手が自分より上か下かをとっさに判断し、それによって相手への態度を決めるのです。
ようするに名刺交換が、マウンティング合戦の土俵になっていたということです。
今となっては信じられない話かもしれませんが、前世紀にはこういう人がいっぱいいました。そういえば私が新聞記者を辞め、出版社勤務を経てフリーランスになったころのことです。旧知の全国紙記者にばったり出会って「新聞社を辞めてフリーになった」と話したら、私よりも少し年上のその記者は「俺も異動になったよ」と名刺を放るように私に投げつけ、去って行きました。以前はソフトな印象の人だと思っていたんですが、その印象は私自身が彼と同じような全国紙記者というポジションだったからなのか……とその時ようやく気づきました。
フリーになって、さまざまな仕事を手がけました。企業の担当者に取材し、その事業内容や取り組みを原稿にまとめるという広告案件はけっこうギャラが良かったのでかなりの数をこなしたのですが、驚いたのは取材者がフリーランスだと知ったとたんに態度が豹変する人が実に多いこと。ある会社の担当者は「世の中には自分の名前で本を出してるライターも多いのに、あんたはこんな下請けの仕事しかできないんだな」と実に侮蔑的な言葉を投げつけてきて驚かされました。
2022年にはもはやこんな人はいないとは思いますが、20世紀の残滓がまだ色濃くあった2000年代初頭には、こんな光景が当たり前だったのです。相手との「上下関係」を確認し、「下」だと認知したらとたんに態度を変える。そういう人が本当にたくさんいました。
「上下関係」の確認は、伝統的な共同体意識の強い田舎ではまだ生き残っているようです。私は2015年から福井にも家を借り、東京・長野の拠点とあわせて三拠点移動生活を続けていますが、福井の友人と一緒にいると面白いなあと感じるのは、見知らぬ地元の人と出会うとすぐに「中学どこ?何年生まれ?」と聞こうとすること。
たとえば「生まれは1972年。中学は敦賀の気比中」と返事がきたとすると、すかさず「ほなら気比中の鈴木は知っとる?」「あ、はい1年先輩です」「そうか、知っとるか!」と続くわけです。つまり「生まれ年」「出身中学」によって、相手との「友達の友達」関係性を確認し、ついでにスクールカーストにおける上下関係も確認するということ。
これも名刺交換と同じような一種のマウンティング合戦なのですが、面白いのは企業人同士のマウンティングが「現所属企業」「現肩書き」による戦いであるのに対し、田舎のマウンティングは中学時代のスクールカーストの上下による戦いになっているということ。なんで今さら昔の中学時代?と不思議にも思いますが、田舎には大企業が少なく、農業や漁業などの一次産業に従事している人も多く、現所属では上下関係を確認しにくいということも影響しているのでしょう。
地方では中学時代のスクールカーストが大人になっても維持され、だから中学から高校にかけてカースト頂点にいた人たち(要するに強いヤンキー系です)は大人になっても親密な仲間たちや敬意を払ってくれる後輩たちに囲まれて安楽。いっぽうで中学時代にパンを買いに行かされていた人たちは、頭が良ければ進学して田舎を脱出し都市に向かう道もありますが、そうでなければ田舎で一生ずっとパンを買う生活が待っている。
そういう人たちがしかたなく田舎を脱出し、非正規雇用の工場労働者となってホーボーのように全国を放浪している……というのは以前、わたしがケータイ小説を書いてる人たちを取材したときに発見した構図でもありました。
話を戻します。あらゆる関係を「上下関係」に引きずり込んでしまう、このようなヒエラルキー型の社会は21世紀には急速に消滅しつつあります。非正規雇用が増えたことや会社組織がフラット化してきたこと、そもそも会社員であっても自分の前人生を会社に捧げるようなワークスタイルが廃れてきたことなどが原因でしょう。
「上下関係」が薄れた社会は、冒頭に紹介した本田圭佑さんの新しい「さん」付けに見られるように、「その人と遠いか近いか」で関係性が決まってくるように変わります。これは図形として見れば、「上下」ではなく「円環」「同心円」です。
これは実のところ、フェイスブックやツイッターのようなSNSの構図と非常によく似ています。かつてのオンラインコミュニティであるパソコン通信や2ちゃんねるは、中心に掲示板や会議室のような広場がありました。その広場にユーザーが集まり、投稿して去って行く。
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