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「職能集団社会」が日本の民主主義を支える存在になる  佐々木俊尚の未来地図レポート vol.660

 特集 「職能集団社会」が日本の民主主義を支える存在になる
〜〜古びてしまった「知識人」「インテリ」を乗り越えて


 レジ袋が有料化されてちょうど1年が経ちました。自前でエコバッグを用意する人は7割にのぼっており習慣としてはたしかに根づいたのですが、これが廃プラスチックの削減につながっているかというと、実際にはほとんど効果はありません。これは当初から指摘されているのですが、レジ袋が廃プラ全体に占める割合は数パーセントぐらいしかないからです。

 くわえてレジ袋有料化による副作用もこの1年でさまざまに指摘されています。スーパーでの万引きが増えたとか、エコバッグを製造する方がレジ袋よりも環境負荷が大きいとか、コンビニのカウンターでの手間が無駄に増えたとか。いずれも予想された事態です。

 じゃあなぜ国がレジ袋有料化に踏み切ったのか。環境省は「レジ袋の有料化をきっかけに、使い捨てプラスチックに頼った国民のライフスタイル変革を促していくことである」と説明しています。つまり啓蒙活動ということです。

 ちなみに、この「啓蒙」というのもすごい言葉です。だって「蒙を啓く」ですよ。「蒙」というのは道理に通じない、頭の悪い人という意味です。教養のない愚かな人を指す「無知蒙昧」という言葉もありますね。啓蒙は、そういう頭の悪い人を教え導いてあげるという意味です。「レジ袋有料化で国民を啓蒙」と考えてる人がいるとすれば(実際にたくさんいそうですが)、それは「廃プラスチック問題をなにもわかっていない愚かで頭の悪い国民を、教え導いてあげる。レジ袋有料化は廃プラ削減にはほとんど効果はないけれど、それで国民の蒙を啓かせてやろう」と言ってるのに等しい。

 「啓蒙」という言葉を使う人は、そういう意味が込められていることを役所はもっと意識した方がいい。

 これはマスメディアも同じです。以前、とある新聞関係者と話していてジャーナリズムの未来の話題になり、わたしが「最近はマスゴミなどと呼ばれて、報道機関への信頼が失墜している。本来は報道は社会に必要なもののはずなのに、理解されていないのは深刻な事態では」と言ったところ、「そうですよ!もっと報道の大切さを国民に啓蒙しないとダメですよね」と返されました。

 わたしは「いやいやいや、メディアが国民を啓蒙なんて思ってる『上から目線』だから信頼されないんですってば」と内心思いましたが、たぶん言ったって理解されないだろうと思ったので、とりあえず曖昧な返事を返してその雑談は終わったのでした。この新聞関係者も国民を「愚かな大衆だからメディアが教導しなければならない」と考えており、そういう思い込みをひっくり返すのは容易ではないからです。

 21世紀の社会は、前世紀のような愚かな大衆社会では決してありません。ここは誤解されるといけないのですが、全員が有能だとか頭がいいと言っているのではありません。そうではなく、SNSの普及によって、社会のなかに点在しているさまざまな専門家や職業人たちの専門知が表出しやすい環境ができあがっているということなのです。

 これを「職能集団社会」と呼んでみましょう。職能というのは、ある職務を遂行する能力のことで、そういう能力をもった多様な集団が社会を構成しているという意味です。

 この職能集団社会に対して「啓蒙」を行うというのはあまり適切ではないとわたしは考えています。そうではなく、それぞれの職能にもとづいた知を持ち寄って、そこで議論ができるような場を作っていく方がいい。レジ袋有料化も同じで、国が上から目線で啓蒙するのではなく、国やメディアが「廃プラを減らすのにはどうすれば良いでしょう」という提示を行い、それをもとに職能集団社会が議論をしていく。そういう方向に進んでいくのが良いのではないかと思うのです。

 先日、わたしはツイッターで以下のように連投しました。

「いまSNSで起きているのは、本来的な意味での「反知性主義」(より的確に表現するのなら、反知識人主義・反権威主義)だなあと思います。知識人と思われてきた人たちの思考の射程の短さに、一般社会があらためて気づいた1年だったのでは」

「それなのにこういう状況に「一般人は反知性だ、知識をないがしろにしてる、バカになってる」と上から目線で思っちゃう人がいるから、ますます彼らが社会と乖離していってしまう」

「いずれにせよ時代は進む。時代についていけない古い「知識人」は置き去りにされ、20〜30代の若い世代から新しい知識層が生まれつつあり、彼らが21世紀に適合した新しい知性と新しい良識を形づくっていってくれるでありましょう」

「前から何度も言ってるけど、わたしは今の日本社会は古い言い方の「大衆社会」じゃなく、ありとあらゆる分野の様々な専門家で構成される職能集団に基づいた社会だと思ってる。その人々の総体としての良識を信じるのは大事だと思います」

「職能集団としての日本社会の良識が、マスメディアや古い知識人のおかしな言説を真っ向から批判し訂正するような場面が、毎日のように起きてるのがいまのSNSだと思う」

 この連投に対して「311のずっと以前から知識人はそんなものだったのでは」というリプライもけっこう多くいただきました。そこを補足しておくと、311とコロナ禍であらわになったのは、第一には日本の人文系知識人の科学や技術に対するリテラシーの低さ。第二には、これまでの日本のメディア空間ではあまり目立っていなかった自然科学の研究者や技術者が、表舞台に立つようになったことだと思います。

 もちろん研究者や技術者にも信頼できる人と信頼できない人がいて、すべての研究者が正しいわけではありません。しかし研究者・技術者にはゆるやかなコミュニティがあり、そこには「総意」「共通認識」のようなものが存在します。

 たとえばコロナ禍での感染症の専門家で考えてみましょう。昨年来、感染症の専門家としてテレビに出ている人はたくさんいます。そのなかには、テレビ業界のなかでは高い評価を得て、頻繁に露出されている方もいます。彼ら彼女らはどのぐらい信頼できるのでしょうか。

 わたしは医療や感染症は門外漢ですから、新型コロナの感染が広がり始めた頃に、とりあえず専門家を片っ端からフォローして、専用のリストを作りました。そしてなるべく多くの人の発信に目を通しつつ、専門家の群れから評判が悪そうな人は、その都度リストから外していく。そういう活動を1年以上続けてきたのですが、そうするといろいろ見えてきたこともある。

 たとえば「群れ」の投稿を見ていると、とあるテレビで人気の「専門家」に言及している人が多く、しかも誰もその人を高く評価していませんでした。むしろ大半の人が「あの人は専門家ではない」とまで言っている。あるいは当初は信頼されていたのに、テレビに出演してもてはやされることで、いつのまにか極端な意見ばかりを発信するようになった人たちがいて、やっぱり途中から「群れ」から批判されるようになっていく。

 つまりひとりの意見ではその人が信頼できるかどうかは分からないけれども、たくさんの専門家をフォローするとその共通認識が見えてくるのです。わたしは、このように専門家を群れとして捉えたときの共通認識こそがもっとも全体像に近いと考えています。たとえ専門外の分野でも、その分野の全体像をある程度把握することで見えてくる集合知を信頼することが一番効果的な方法なのです。

 専門家全員が間違えるということは基本的にはありません。なので、自然科学のように専門家のあいだで一定の認識が共有されている分野においてはこの方法は有効なのです。

 ただこのアプローチは、人文科学系にはあまり当てはまらない。総意や共有認識がない分野も多いからです。たとえば経済学で言うと、主流派経済学とMMT(現代貨幣理論)とで見解が180度異なりますし、社会学だと「一人一派」みたいなところがあります。どの主張が正しいかは、いずれ何十年か先に検証されてわかるかもしれませんが、現在のところ「どれがおおむね正しいか」は判断しようがないことが多いのです。

 「職能集団としての日本社会の良識」というところに、話を戻しましょう。さまざまな分野の専門家の知が、SNSによって表舞台に出てきたというのは医療に限らずさまざまな分野に当てはまります。わたしはツイッターのまとめサービスTogetterが好きで良く見ていますが、本当にありとあらゆる分野の知や教養がツイッター上で交わされてることにはいつも驚くばかりです。

 先日はこんなまとめもありました。とある方が祖母から譲り受けた箪笥に鍵がかかっていたため、断念してオークションサイトで売却したそうです。購入した方はその鍵を開けることができ、中から戦前の祖父の遺品が大量に出てきたため、送り返してくれた。それだけでも驚くのですが、さらに凄いと思ったのは、ツイッターでその話を披露したら、さまざまな人たちが出てきてその遺品の価値を教えてくれたということ。特攻兵器の話まで出てきたのにはびっくりしました。

 これはささやかな一例にすぎません。たとえばなにか流通関連のニュース題が出てくると、ツイッターではたちどころにスーパーやコンビニなどの現場で働いている人たちやトラックドライバー、流通業界でコンサルタントの仕事をしている人などさまざまな専門家が現れてきて、それぞれの知見を提供してくれる。そういうケースが無数に起きているのが、いまのSNSの世界です。「パヨクが暴れてる」「ネトウヨがうるさい」というようなところばかり見ていると、決して気づかない豊穣な言論空間なのです。「パヨク」「ネトウヨ」と日々怒ってる人たちは、せっかく面白く楽しい異国の街に来たのに、刺激的な人々が交流する広場のカフェには足を向けず、公衆便所の裏側にわざわざ言って「汚い!汚い!」と叫んでるようなものです。

 21世紀の社会は複雑で多様であり、前世紀的な「権力vs反権力」とか「市民の目線で」といったシンプルな世界観だけではもはや対応しきれません。この複雑で多様な社会のさまざまな分野を理解するためには、それぞれの分野に携わっている人たちの知や現場の声に直接触れ、理解した方がいい。高所に立っていると勝手に自認している知識人や新聞記者たちの古くさい世界観だけでは、社会の認識には到底追いつかないのです。

 だから21世紀の日本人というのは、もはや「無知な大衆」ではない。もちろん無知な人だっているでしょうが、それ以上に優れた専門知を持った人たちがたくさんいる集合体であり、つまりは職能集団社会です。昔から専門知を持つ人はたくさんいましたが、そういう知が広く交換されることはなかった。それを可能にしたのがSNSということです。

 そのような専門知が交換されることによって、いまの日本社会全体の知は底上げされていると捉えたほうがいい。そうした集合知を信頼し、ていねいに見ていくことが大事で、それこそが陰謀論やデマに惑わされないために大切なことなのです。

 コロナ禍がはじまった昨年4月、トイレットペーパーが買い占めされてスーパーの店頭から消えるという現象がありました。「無知な大衆がデマを信じてトイレットペーパーを買い占めに走った」と感じた人も多かったと思いますが、実際にはそうではなかったということが検証されています。実際にはテレビが「買い占めが起こりそうだ」と報じ、そのニュースを耳にした人たちが「買い占められたら店頭から消えてしまうかも」と危機感をいだいて、「なくなる前に買っておこう」とスーパーに走ったのです。

 つまり、みんな「どこかに愚かで無知な大衆がいて、その人たちが買い占める」と思っているけれども、その無知な大衆はいったいどこにいるのか?という問題です。自分を「無知な大衆」だと思っている人は少ないでしょう。だったら実は「無知な大衆」は幻想の存在にすぎないのではないでしょうか?

 しかしこのような職能集団社会にも、いくつかの問題があります。ここからはそれを見ていきましょう。

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