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「社会正義派」からリベラリズムを取り戻すために必要なこととは 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.740

特集「社会正義派」からリベラリズムを取り戻すために必要なこととは〜〜〜本当の多様性と言論の自由を奪われないために


現代リベラリズムは、このような理念を持っています。


「人々には生まれながらの自由がある。みんなが自分で人生を選択し、自由に生きていくためには、それを妨げるような格差や不公正さを取り除かなければならない」


ところが、本来はリベラリズムを推進するはずだった人たちが21世紀に入って一面的な社会正義を押し付けるようになり、リベラリズムそのものが危機に陥っています。表現の自由を擁護していたはずなのに、キャンセルカルチャーを乱発して自分たちの意に沿わない研究者たちを職から追い払い、昔は宗教保守派が行っていたような性的な表現を抑圧する側にも回っています。


多様性を訴えてきたはずなのに、自分たちが認める一部の「弱者」「マイノリティ」以外の多様性は認めず、意に沿わない思想に対してはきわめて排斥的です。


こうした光景には、昭和のころにたくさんいた「抑圧的で偉そうな中年男性」を見ているような既視感があります。先週号でも紹介しましたが、英エコノミスト誌は「リベラル左派は、中世カトリック教会のような宗教国家へと復帰している」と警告を発しています。


彼らはもはやリベラリズムからは遠い存在になってしまったので、先週号に引き続いて彼らのことを「社会正義派」と便宜上呼ぶことにします。それにしても、なぜこんな逆回転が起きてしまったのでしょうか。山形浩生さんが翻訳した『「社会正義」はいつも正しい』は、その原因をポストモダン思想に求めています。




1980〜90年代に日本でも一世を風靡したポストモダン思想は、かんたんに言えば「現実をどう見るのか」という姿勢には普遍性など存在しないという考え方をとります。普遍的な事実や客観など存在せず、それらは社会の成り立ちや言語や教育によって自分がそう信じ込ませられているだけと考えるのです。


社会正義派の人たちは、この考えを応用したのです。「さまざまな差別や権力関係は社会のなかに知らず知らずのうちに埋め込まれており、人々はそれに気づいていないのだ」と。


ここから、近代的な理性や科学も欧米の白人男性の権力によって構築されたものだから、信用ならないものでありひっくり返さなければならない。アジアやアフリカの女性たちの考えに寄り添うことが最も正しいことなのだ、というような方向に進んでいきます。つまりマイノリティの気持ちの方が、理性や科学よりも上位であると社会正義派は考えるようになったのです。


これはきわめて過激で危険な思想であるのは間違いありません。アメリカではこの過激思想が大学などを席巻しているようにも見えます。日本にもその萌芽は見えかくれしていますが、これが社会を覆うようになることには断固として立ち向かわなければなりません。


では、どうすれば良いのでしょうか。


まず第一に、議論の多様性を死守すること。


ここで社会正義派と対立し、反対運動を起こし、シュプレッヒコールを上げるというようなことはわたしは効果的ではないと考えています。そういう行為はそもそも排除の論理であり、リベラリズムではありません。必要なのは対立を煽ることではなく、同意してくれる良識的な人たちを増やすことです。


社会正義派は、自分たちの意に沿わない意見に対しては徹底的に排除するというキャンセルカルチャーで対応してきました。日本のツイッターでも、こうした排除の論理をかざしている社会正義派の人たちはたくさんいます。


しかしこのキャンセルカルチャーには大きな落とし穴があります。それは、キャンセルカルチャーに最も影響を受けたのは過激な右派や陰謀論のような人たちではなく、まっとうで穏当な議論をしようと考えていた中道の人たちだったということです。穏健な人たちは当たり前ですが、激しい議論に巻き込まれ、自分の職を追われるようなことは望みません。私だってそうです。


いっぽうで、過激な人や陰謀論の人は、「自分には失うものなど何もない」という強烈な覚悟を決めている人が少なくありません。ネットスラングでいう、いわゆる「無敵の人」もいます。そういう人たちばかりがキャンセルカルチャーなど気にせず、声を大にして社会や政治についてさまざまな極端な意見を言うようになる。そしてこれらの過激な人に、社会正義派がさらにかみつき、大乱戦になっていく……という不毛な状態を作ってしまっているのです。


ツイッターでも、このような「社会正義派vsアンチ社会正義な極端右派の戦い」という不毛な光景を、皆さんはよく目にしているのではないでしょうか。穏当な中道の意見を持っている人たちは、言葉をはさもうものなら自分の側に恐ろしい刃がやってくるのが怖く、何も言えなくなってしまっているのです。おまけに社会正義派や極端右派は声も非常に大きい(少ない人数の人たちが、大量のツイートをして数を大きく見せているという実証的な指摘も何度となく出ています)ので、勢力が大きいように見えてしまうのです。そこで穏当な人たちはますます「サイレント」になってしまいます。


しかも極端な右派の人々が社会正義派に対して罵声を浴びせれば、社会正義派は「ほら見たことか!わたしたちの訴えてきたように、こんな酷いヘイトばかりが横行する社会になってしまっている!」と自己肯定できるようになり、ますます社会正義派は声高になっていってしまいます。実際には「酷いヘイト」を言っているのはごく一部の極端な人たちだけなのですが、社会全体がまるでそうであるかのように彼らは訴えることができてしまうのです。


これは何とも不毛な事態です。だからそのような事態が進行していってしまう前に、良識的で穏健な人たちはもっときちんと意見を言っていく必要があると思います。


そのような言論の自由を実現するには、声を上げてもキャンセルされないような文化を作ることが必要です。社会正義派の意に沿わない意見を言っただけで自分が社会から追放される心配があるのなら、穏健派はだれも声をあげることなどできません。


言論にも、多様性が必要です。言論が一色に染められるのは、非常に良くない事態です。


わたしがレギュラーで出ているネット番組「アベマプライム」では、何度となく選択式夫婦別姓についての議論をしています。わたしは基本的には選択式夫婦別姓には賛成しています。しかし夫婦同姓を選びたい人がいるということも、尊重すべきだと考えています。選択式夫婦別姓制度が実現した時に、それでも同姓を選ぶ人たちが「あの夫婦は同姓を選択してるの?信じられない」などと非難されるのは良くありません。それは「夫婦は別の姓を選択する自由もあれば、同じ姓を選択する自由もある」という多様性ではなく、「夫婦は別姓でなければならない」という一様性です。


ところがその番組に出ていた社会正義派寄りのゲストが「日本社会は多様性に逃げて、選択式夫婦別姓制度の実現を阻害していないか」などと発言されており、わたしは非常に驚きました。「多様性に逃げる」って……。これこそがまさに、社会正義派の好きな一様性です。


社会正義派の主張は単純明快です。しかし、本来のリベラリズムは脆弱であり、正解をすぐに出せるものでもありません。イスラム過激派から「宗教と政治を分離するようなリベラリズムの考えには反対だ」と言われても、イスラム教を否定することはできません。なぜならイスラム教の主張を否定してしまうと、みずから多様性を棄て去ることになってしまうからです。


ではイスラム過激派にどう向き合えばいいのか?という難題がすぐに立ち現れてきますが、これに対してリベラリズムは明快な答を出すことができません。しかしそれでも多様性をなんとか守っていこう、というのがひ弱なリベラリズムの矜持(プライド)なのです。


第二に、「誰が権力者で、だれが弱者なのか」という強者・弱者の関係を固定的にとらえないこと。



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