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歩き迷える「ウォーカブル」な街こそが21世紀の都市の魅力だ 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.803



特集 歩き迷える「ウォーカブル」な街こそが21世紀の都市の魅力だ〜〜〜歩いて楽しめる街にはどのような要素が必要なのか


「歩く」ということに近年、注目が集まっています。とはいえ本稿では「健康のためには歩くことが大切だ」「身近な散歩から始めよう」と言った、よくあるステレオタイプな話に終わらせるつもりはありません。「歩く」が2024年現在、社会においてどう位置づけられ、これが未来にはどう変化していく可能性があるのかを、さまざまな補助線を引きながら予測していきましょう。


さて、「歩く」には街づくりの観点から国も注目しており、国土交通省は2019年から「ウォーカブルなまちづくり」という概念を提唱しています。ウォーカブル、つまり「歩ける街」を作ろうというスローガンです。ポータルサイトまで作るという力の入れ方です。

ではウォーカブルな街とは、どのような街でしょうか。これは歩くことが当たり前である東京や大阪、福岡などの大都市に住んでいると、案外気づかない観点かもしれません。一般的には、ウォーカブルな土地には次のような要素が必要であると言われています。


(1) 商店や飲食店、駅、住宅などさまざまな要素が混在していること。

(2)交差点と交差点の距離が短く、歩道なども整備され「歩くインフラ」が整っていること。

(3)歩いていて気持ちの良い美しい景色があること。

(4)交通事故や犯罪に遭いにくい土地であること。


このうちの(2)の交差点と交差点の距離、言い換えれば街路のブロックの大きさはけっこう重要な要素だとわたしは感じています。たとえば東京の街で言えば、お台場や西新宿高層ビル街はあまりにもブロックが大きすぎて、歩いていて楽しくありません。歩いても歩いても景色が変わらず、退屈してしまうからです。これは田んぼのど真ん中を貫く国道や県道を歩くときもそうですし、海外で言うと米テキサス州のオースティンのようなビルも道路もバカでかい都市を歩いたときの途方の無さもそうです。コロナ禍の少し前にSXSWで訪れたのですが、オースティンの街は本当に歩いてて疲れた……。


街路ブロックの大きな街というのは、基本的にクルマ移動に適した都市設計がされている街であることが多いようです。結果としてそうした街は、(1)の要素の混在度が低く、住宅街と駅前のショッピング街が分離されています。ショッピング街は整然とした広い道路で整然と区切られてていて、路地などが少ないという特徴がある。広い駐車場などが用意され、クルマでの買い物には便利なのですが、歩くのには適していません。


わたしが拠点を設置している軽井沢・敦賀のある北陸新幹線沿線で言えば、長野の佐久市や富山市などは典型的なクルマの街。これに対して金沢や長野の上田市・小諸市、福井の敦賀市などはウォーカブルな街になっています。こうしたウォーカブルシティはいずれも街路ブロックが比較的小さく、(1)のように住宅や商店、飲食店などが混在していて、歩いていると楽しい発見があるのです。


とはいえ、この「混在」のありかたについては、もう少し検討が必要でしょう。ここで補助線を引きます。日本ファンで知られる経済学者ノア・スミスの論考です。


「東京のすばらしいところはたくさんあるけれど、その筆頭は、建築環境だ.そして、それが他のすべてを束ねている。モールやアウトレットストアや高層オフィスビルが建ち並ぶ幹線道路にはさまれた地域やそこから奥にはずれた地域には無数の狭い裏通りが入り組んでいて、そこには住宅やレストランや小さな独立系店舗がごちゃまぜにひしめき合っている」


「大半の都市では、小売店はたいてい地上階に店舗を構えていて、上の階は住居になっている。東京にもそういう建物はあるけれど、小売店の大多数は『雑居ビル』にある――東京と聞いて人々が思い浮かべがちな、複数の階層に複数のテナント小売店の空間があって、ビルの横に大きな看板が並んでいる情景、あれをつくっているのが雑居ビルだ」


上記は東京と欧米の都市の違いについて、興味深い指摘です。住宅と商店が混在しているのではなく、東京では住宅と繁華街が分離され、賑やかな駅前に「雑居ビル」があり、そこにあらゆる商店や飲食店が集中している。これが迷宮的な楽しみを提供しているというのですね。


しかもそうした雑居ビルは渋谷や新宿のような大きな街にあるだけでなく、私鉄沿線などの小さな街にも存在していて、それが歩く楽しみを倍加させている。(1)の「商店や飲食店、駅、住宅などさまざまな要素が混在していること」にこのファクターを付け加えるのなら、雑居ビル的な迷宮感が大事ということでしょう。


人類学者の今福龍太さんは、「迷う」ことこそが歩くことの楽しみであるという指摘をされています。これは2019年の暮れに環境省主催で東海自然歩道構想50年を記念したシンポジウムが開かれ、ここで基調講演に登壇された今福さんが話されていたことなのですが、昔は散歩や山歩きのような行為はほとんど「迷う」と同義だったと言います。


たとえば松尾芭蕉の有名な紀行文「おくのほそ道」で、芭蕉は江戸から東北、北陸をまわり、岐阜の大垣まで歩いています。一部は馬を使いましたが、大半は徒歩。そして今福さんによると、「おくのほそ道」には「終(つい)に路(みち)ふみたがへて」と言う言葉がよく出てくるそうです。これは「道を間違えた」という意味で、旅行者向けの道など整備されていなかった17世紀当時は、芭蕉はほぼ常時迷っていたというのですね。つまりは歩くことが、迷うこととほとんど同義だった。


「迷う」というのは、21世紀の現代ではネガティブな印象があります。「道に迷う」「人生に迷う」「闇をさまよう」どれもあまり良いイメージではない。しかし「迷う」ことの再発見は、実は「歩く」という行為の面白さにダイレクトにつながっている。


これはわたし自身の体験でも強く感じるところです。私は登山をしますが、北アルプスのような有名山岳地帯に行くと、登山道はきれいに整備され、道を外れないようにロープまで張られていたりします。景色は素晴らしく十分に山を堪能できるのですが、同時に「歩かされている」感もある。今のようにスマホでGPSを使った登山地図を使えるようになると、よほどの悪天でもない限り、道に迷う可能性はほとんどありません。登山地図アプリを見て、自分の現在地を確認し、赤線で描かれている登山道をただなぞっていく。コースタイム(標準的な歩行時間)もアプリに表示されているので、目的地へのだいたいの到着時間もわかってしまいます。


もちろん景色は素晴らしく、山の空気は気持ちいい。だから登山に行くわけなのですが、しかしそこには「迷う」ということへの懸念がなさすぎ、だから自ら道を見つけていくというようなワクワク感はありません。


それに比べると、近年私が好んで歩いているような都市近郊の里山は、たいした景色も見えず雄大な岩稜もありませんが、登山道は不明瞭です。登山道というようりも単なる踏み跡だったり、獣道だったりする。そういう道は時に民家の軒先に消えていたりして、迷いまくります。登山地図の対象地域の外なのでコースタイムや登山道を確認できませんし、Google Mapのような地図アプリでは、細い山道までは掲載されていないので、あまり役に立ちません。


でもそうやって迷いながら歩くことが、実はとてもおもしろいのです。峠を越えた向こう側に新鮮な景色を発見したり、思わぬ場所に素敵な食堂があったり、山裾の無人販売所を見つけて野菜を買ったり。いろんな予想外のできごとが起きる。これこそが「歩く」の究極の面白さではないかと感じています。


これはSNSの時代にも結果的に適合していると言えるでしょう。SNSの普及であらゆるものが可視化されるようになりました。見つけにくい場所にある穴場のレストランも、グルメアプリなどですぐに共有されてしまいます。でもそういう時代だからこそ、意図的に迷い、歩く。迷い歩くことによる新鮮な発見や感動を逆にSNSの時代には大事なのです。


このような「迷宮感」を楽しむためには、目的地は必要ありません。スタート地点があってゴール地点があり、ゴールを目指すのではなく、ただその場所に滞在し、迷い歩き回っていることが大事だからです。


先ほどの記事でもノア・スミスがこう書いています。

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