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重信房子氏率いる日本赤軍は、1970年代には「カッコ良かった」(と思われていた) 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.761

特集 重信房子氏率いる日本赤軍は、1970年代には「カッコ良かった」(と思われていた)〜〜〜日本の学生運動の歴史から、テロ報道のありかたを考える


安倍元首相事件報道で露呈したように、なぜマスコミは、テロリストを「被害者」化した物語を描いてしまうのでしょうか。


さる5月末には、日本赤軍のリーダーだった重信房子氏が懲役20年の刑期を満了し、出所しました。「闘いの中で無辜の人たちに被害を与えた。おわびします」と彼女はコメントしましたが、一部メディアが彼女の登場を大歓迎し「王の帰還」のようにあつかったことに違和感をおぼえた人も少なくなかったのではないでしょうか。


なぜこのような扱いになってしまっているのでしょうか。これは日本赤軍という軍事組織が1970年代初頭に、日本社会でどのような位置を占めていたのかから解き明かす必要があるでしょう。


重信房子氏が率いた日本赤軍はもともと、1969年に結成された共産主義者同盟赤軍派というセクトでした。赤軍派は単純にいえば「世界中で革命を起こす」「武装闘争をする」というふたつを主張していたのですが、やがて三つのグループに分かれます。


第一のグループは、1970年3月に日航機よど号をハイジャックして北朝鮮にわたった「よど号犯」たち。第二のグループは、1971年2月にパレスチナにわたってPFLP(パレスチナ解放人民戦線)と合流した重信房子氏たち。このグループが後に「日本赤軍」と名乗るようになります。


第三のグループは海外にわたらず、国内で銃砲店を襲撃して銃を奪ったり、銀行強盗をしたり、群馬の山中で軍事訓練をしたりしました。このグループは京浜安保共闘(日本共産党革命左派)という別のセクトと提携するようになったので、「連合赤軍」と名乗ります。


そしてこの連合赤軍が、歴史に悪名高いリンチ事件とあさま山荘立てこもり事件を引き起こしました。


あさま山荘事件が起きたのは、1972年2月。連合赤軍は警察の捜査を逃れるために群馬の山中などにアジトをつくり、転々と移動していましたが、最終的に追い詰められて長野・軽井沢にある「あさま山荘」に管理人の妻を人質にとって立てこもります。


「山荘」という名称や当時の映像などから、事件はおそろしく山深いところが現場になったように錯覚してしまいますが、あさま山荘は当時は河合楽器の保養所。立地も南軽井沢にあたらしく作られていた新興別荘地レイクニュータウンの一画で、決して奥深い山中ではありません。とはいえ建物は、たいへん急峻な崖のような土地に垂直にへばりつくようにして建っており、まさに山城の感。現地に立ってみると、警察が攻めあぐんだのも当然だろうなあという感想を抱きます。


さて、あさま山荘事件は9日間もつづき、テレビはNHKも民放もCMヌキで休むことなく生中継し、最終日の2月28日の視聴率は全局トータルで89.7%という前代未聞の数字を叩き出しました。日本人のほとんど全員がこの事件の成り行きを固唾を呑んで見守っていたのです。


連合赤軍兵士5人と警察隊のあいだでは激しい銃撃戦があり、最終的に警察官2人、勝手に現場に侵入してきた民間人1人の3人が亡くなっています。警察官の負傷者は26人にも上りました。報道陣もひとり負傷しています。


では、日本の民意は連合赤軍をどう見ていたのでしょうか。ニュースではもちろん亡くなった警察官を追悼し、連合赤軍兵士たちを非難しています。しかしこの事件中継に向き合った日本人の民意は、当時真っ二つに割れていたのではないかと思います。60年代末の学生運動から赤軍派の武装闘争にいたるまでの運動にシンパシーを感じていた人たちと、学生たちの跳ねっ返りな運動に眉を顰めていた人たちと。


前者の例をひとつ挙げましょう。1950年生まれのフォークシンガー友部正人さん。連合赤軍の兵士たちよりやや若いですが、ほぼ同世代です。当時21歳だった彼は、あさま山荘の最終日2月28日を歌にしています。「乾杯」という曲です。


「電気屋の前に30人ぐらいの人だかり 割り込んでぼくもその中に 『連合赤軍5人逮捕 泰子さんは無事救出されました』 金メダルでもとったかのようなアナウンサー かわいそうにと誰かが言い 殺してしまえとまた誰か やり場のなかったヒューマニズムが今やっと電気屋の店先で花開く」


「ニュースが長かった2月28日をしめくくろうとしている 『死んだ警官が気の毒です 犯人は人間じゃありません』って でもぼく思うんだやつら ニュース解説者のように情にもろく やたら情にもろくなくてよかったって どうして言えるんだい やつらが狂暴だって」


「新聞はうすぎたない涙を高く積み上げ 今や正義の立て役者 見だしだけでもってる週刊誌 もっとでっかい活字はないものかと頭をかかえてる」


「結局その日の終わりにとりのこされたのは 朝から晩までポカーンと口を開けてテレビを見ていたぼくぐらいのもの」


明言はしてないけれど、歌詞の向こう側には、友部さんの連合赤軍兵士たちへのそこはかとないシンパシーを感じることができるでしょう。このシンパシーの背景には、21世紀の現代と当時とでは警察官に対する市民感情がまったく異なっていたということもあります。1970年代初頭の警察官は、今のように温和で紳士的ではなく、けっこう乱暴な態度の人が多かったのです。


いっぽうで、当時の学生運動には「前衛たるエリートが大衆を率いて革命を起こす」というレーニン主義的な色彩があり、大衆蔑視的な空気があったことも否めません。当時、機動隊員として学生運動の制圧をしていた警察官に、わたしは後年になって学生運動への思いを聞いたことがあります。この警察官は1990年代には警視庁の幹部になっていたのですが、こう話してくれました。


「石を投げゲバ棒で武装した学生たちと街頭で対峙していると、『とっとと帰れ高卒!』みたいな低学歴をバカにするヤジがいっぱい飛んでくる。こっちは仕事でしかたなく出てるのに、なんでこんなにバカにされなきゃいけないんだと涙が出そうだった。学生の暢気な遊びに付き合わされてるって気持ちがずっとありましたよ」


戦前のような「末は博士か大臣か」という大学生がエリートだった時代は終わり、人口の多い団塊の世代が大学進学した1960年代終わりには大学は「サラリーマン予備校」ぐらいの扱いになっていました。大学も大量の学生を引き受けるのに四苦八苦し、巨大な教室に学生を詰め込んで講義を受けさせる「マンモス授業」が問題になっていたほどです。


こういう大学生の扱いの変化に苛立ったことが、学生の反乱の背景にあるというのは以前から指摘されていることです。しかし大学の実態がこのように変わっているのにもかかわらず、団塊世代大学生はあいかわらず「大衆」や「庶民」に対してエリート意識を持っていたということなのでしょう。こういうエリート意識への反感も当時の日本社会には色濃くありました。「乾杯」の歌詞「かわいそうにと誰かが言い 殺してしまえとまた誰か やり場のなかったヒューマニズムが今やっと電気屋の店先で花開く」という描写は、このあたりの反感のありようを巧みに描いています。


このように当時の日本社会は、学生運動に対して二分された思いを持っていました。赤軍派が登場して武装闘争へと走ったことで、さすがに学生運動に対するシンパシーはだいぶ薄れていくことになりますが、あさま山荘事件まではまだ何とか維持されていたといえるでしょう。


ところがこの薄れ行きシンパシーは、あさま山荘事件の翌月に完全に吹っ飛ぶことになります。彼らがあさま山荘に立てこもる以前、12人もの仲間をリンチし殺害していたことが明らかになったからです。これが世に名高い「山岳ベース事件」です。


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