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高齢者向け新聞テレビには、一般社会との「共体験」が不在という問題 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.652
特集 高齢者向け新聞テレビには、一般社会との「共体験」が不在という問題
〜〜ストーリーではない「ナラティブ」の物語が求められている時代
「ストーリー」と「ナラティブ」って皆さんご存じでしょうか。どちらも日本語に訳すと「物語」なのですが、ストーリーとナラティブには微妙な違いがあります。ストーリーは小説や映画や漫画で語られる一般的な物語ですが、ナラティブはちょっと違う。マーケティングの専門家であるジョン・ヘーゲルという人が以前、自身のブログで語ったこの説明がわかりやすいでしょう。
「ナラティブはストーリーに関連しているが、同じものではない。ストーリーは自己充足的で、始まりと終わりがある。一方でナラティブには終わりはなく、開かれている。結末にいたっても物事は解決されない。ストーリーは私というストーリーテラーについての物語で、あなたの物語ではない。それに対してナラティブは、あなたがとった選択や行動によって結末は変わる。あなたが結末を決定するがゆえに、あなたはナラティブの重要な要素のひとつなのだ」
終わりがなく、読者も参加できる物語がナラティブだと言うのです。では具体的にナラティブとは、どのようなものなのでしょうか? わたしは2019年末の著書『時間とテクノロジー』で、ナラティブについても言及していますので、そこから具体例を引っ張ってきましょう。
ナラティブのわかりやすい例としては、アップル社の「Think Different」があります。これは1997年の有名な広告キャンペーンで、「考え方を変えよう」というような意味になるでしょうか。このコピーとともに、アインシュタインやジョン・レノン、エジソン、モハメド・アリ、ボブ・ディランなどの象徴的な人たちが登場し、スティーブ・ジョブズ本人がこうナレーションしています。
「クレージーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。四角い穴に丸い杭を打ち込むように、物事をまるで違う目で見る人たち。彼らは規則を嫌う。彼らは現状を肯定しない。彼らの言葉に心を打たれる人がいる。反対する人も、称賛する人もけなす人もいる。しかし、彼らを無視することは誰にもできない。なぜなら、彼らは物事を変えたからだ。彼らは人間を前進させた。彼らはクレージーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから」
ジョブズは、単にアインシュタインのような偉人たちを誉めたたえているだけではありません。彼が言っているのは、こういうことです。
「テクノロジーが社会を変えるとしたら、その変化は誰かに与えられるものではない。私たち自身が『Think Different』し、自分ごとにしなければ世界は変わらないんだよ」
同時にジョブズという人本人が、まさに『Think Different』を体現し、苦労しながら社会にテクノロジーを広めてきた当事者でもあった。ここでアインシュタインのような偉人も、メッセージを発信しているジョブズも、そしてそのメッセージを受け止めているわたしたちの側も、すべてが物語の当事者になっていくということ。そしてそれらはリアルタイムで進行していくのだということ。
「物語」がみんなを巻き込んでいき、それがリアルタイムで進行していく。つまりはオンラインゲームに参加するようなもの、とイメージすればわかりやすいでしょう。
PRの専門家として有名な本田哲也さんが今月、『ナラティブカンパニー』という新著を出されました。ナラティブを企業がどう活用するのかということが詳細かつたいへんわかりやすく書かれており、今オススメの本です。以下、この本の内容をすこし紹介していきましょう。
企業とお客さんがナラティブでつながるためには、「共体験」「社会的距離」「自分らしさ」が大事だと本田さんは解説しています。
最初の共体験は、同じ「体験価値」を共有するという意味。たとえばサッカーを観戦してると、いつしか観客席からウェーブが起き、それが他の観客に伝播していって、スタジアム全体に一体感が生まれるようなこと。
ここで本田さんは、残念な例として『100日後に死ぬワニ』を挙げています。ツイッターで連載しているときは、おおくの人がワニの日常に一喜一憂して、みんなが書く感想までもが作品の一部となり、まさにこれは開かれたナラティブでした。すばらしい共体験だったのです。
ところが連載の終了後に、みながワニを看取ってしみじみする暇もなく、映画化やグッズ、ストアなどの展開が発表されてしまい、いきなり興ざめになってしまいました。これが共体験を壊してしまったのです。本田さんは書いています。
「ツイッターで『商業体験をやってもいいが、せめて喪が明けてからにしてくれ』という意味のファンのつぶやきを見かけたが、つまりはワニと100日を一緒に過ごしたファンを大切にしていたものを、踏みにじってしまった」
「社会的距離」は、ソーシャルディスタンスという言葉でコロナ禍の流行語となりましたが、ナラティブの文脈では「距離をとって離れよう」という意味ではなく、企業と消費者の間合いのとりかたを変えようという意味あいです。コロナ禍でこれまでのように同じ空間を共有するということができなくなっていることもあり、だったらその物理的距離からいったん解放されて、企業と消費者の関係を見直そうということなのですね。
たとえばサンリオピューロランド。昨年の春に臨時休業したとき、 ユーチューブで「ピューロランド、休んでたって…」という動画を配信しました。お客さんのいない館内の電球を交換したり、レストランの新しいメニューを開発したり、キャラクターがダンスの練習をしたりと、コロナ禍の舞台裏を紹介したのです。これによってピューロランドは、物理的な距離が離れていても、ファンとのエンゲージをさらに強くすることに成功したのですね。
最後の「自分らしさ」。本田さんはこれを英語のオーセンティシティ(authenticity)のことだと言っています。ではオーセンティシティとはなんなのかと言えば、ひとことでまとめれば「人間として裏表がないこと」。
つまり「言ってること」と「やってること」がちゃんと一致しているかどうか。たとえば企業がスローガンで「自然を守ろう」とうたっているのに、車内では紙をむだ遣いしてたりすれば、それはオーセンティシティが欠如してる。裏表があって、信頼できないということです。
この失敗例として、ナイキがBLM(ブラックライブスマター)運動のときにSNSに「For once,Don’t Do It.(こんどこそはやめよう)」というメッセージを投稿したことが挙げられています。最初は素晴らしい投稿だと賞賛されたのですが、日が経つうちにだんだんとネガティブなコメントがついていくように。要するに「メッセージを言うだけなら誰でもできる。じゃあナイキは具体的に何を支援してくれるの?」ということが問われたわけです。
そしてきわめつけは、ワシントンポストがナイキの役員が白人ばかりであることを報じ、これでナイキの裏表ぶりはすっかり暴露されてしまいました。「偉そうにメッセージを発信する前に、まずお前のところの役員構成を何とかしろよ」というわけです。
「共体験」「社会的距離」「自分らしさ」。つまり同じ価値体験を作れるかどうか、そして互いのつながりの距離を保てるかどうか、そして裏表がなく信頼できる会社であると言えるかどうか。その三つが両立して、はじめてナラティブは成功するということなのですね。
ちなみに『ナラティブカンパニー』では、日本のアベノマスクにもちょこっとだけ触れられています。当時マスクは品薄になっており、綿マスクを配布するという計画そのものはわたしはあの時点では悪くなかったと思いますが、そこにナラティブをうまく構築できていなかったという同書の指摘はまさにそうでしょう。「なぜマスクを配る必要があるのか?」という物語が共有されず、逆に「日本は現金給付や補償もしないでマスクだけ!」みたいなネガティブな批判のほうが高まり、そうした批判のほうが日本社会全体に共有されるナラティブになってしまっていた感はあります。
実際には給付も補償もし、財政出動の額は日本は先進国の中でも米国に次ぐ規模だったのですが、そのナラティブが共有されなかった。同じころ、星野源の音楽とともに安倍首相が愛犬とくつろぐ謎の動画が配信されましたが、あれも火に油を注ぎましたね。政府はいったいあの動画でどのような物語を提供しようとしていたのでしょうか。
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