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クラブハウスを引き金に、インターネットは「生々しさ」を取り戻すか?佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.643

特集 クラブハウスを引き金に、インターネットは「生々しさ」を取り戻すか?〜〜クラブハウスと音声メディアの未来(第4回)

 雑談ができる音声SNSのClubhouse(クラブハウス)についての論考シリーズ、第4回です。これまで、音声SNSには雑談テクノロジーとしての大きな潜在可能性があること、しかし普及するためにはリアルタイムで集まる必要があるという「同期」の性質を乗り越え、非同期的な機能が求められるのではないかということ、そしてクラブハウスは「結束型」のSNSでありツイッターとは異なる閉鎖的だが親密な空間を作りやすいということなどを論じてきました。

 今回は、音声がアーカイブされない(という建前の…ですが)というクラブハウスについて、ラジオやテレビと比較しつつその「一過性」の意味について考えていきます。

 音声メディアの古株としてはすぐにラジオを思い出しますが、もはや衰退した先行きのないメディアと思っている人も多いでしょう。実際、ラジオの営業収入のピークはバブル末期の1991年で、2400億円でした。いまは1200億円と半減してしまっています。全体に古いメディアは下落傾向がずっと続いていますが、音楽CDや新聞、出版のピークが1996〜97年ごろ、テレビのピークは2006年ごろだったことを考えれば、ラジオはかなり早くから衰退期に入っていたことがわかります。

 ラジオが衰退した理由は複数あります。1990年代にテレビが「ひとり1台」時代になり、パーソナルな電波メディアとしての立ち位置が揺らいだこと。デジタル化のさらに2000年代に入ると音楽のネット配信が普及し、音楽の玄関口としての意味合いが薄れたこと。さらに日本の場合は、各局が足並みをそろえたデジタル化に失敗してしまったことなど。

 とはいえ、音声メディアの可能性がなくなったのではないことは、これまでもさまざまに言及されてきました。アメリカでのポッドキャストやオーディオブックの市場拡大、Amazon Echoのようなスマートスピーカーの普及はその可能性を指し示しています。しかしこれは日本ではそのまま当てはまりません。本メルマガのこのシリーズ第1回でも指摘したように、日本語は音声の情報量が文字よりも少なく、同音異義語も多くて硬い話だと聞き取りにくい、などのハードルがあるからです。

 では日本において音声メディアの可能性は乏しいのかというと、わたしはそうは考えていません。ラジオの衰退を教訓とし、そうではない新たな音声メディアのありようを検討すれば、日本でも十分にこの市場が花開く可能性があると考えています。そしてクラブハウスの思わぬ盛り上がりは、その未来をかいま見せているようにも思えます。

 ラジオとテレビとネットという3つのメディアの違いについて、深堀りしていきましょう。

 わたしはこの3つのメディアについて、視聴者と放送・配信側の関係の違いについて論じたことがあります。かいつまんで言うと、こういうことです。

・テレビ
 複数の出演者が長机に並んでいて、司会者が「テレビの前の皆さん」と告げる。つまりn対n(多人数vs多人数)の関係。
・ラジオ
 出演者が1人ないし2人ぐらいで(それ以上いると誰が何を言っているのかわからなくなる)、パーソナリティは「ラジオの前のあなたに」と話す。つまり1対1の関係
・ネット
 ラジオと同じように1対1の関係だが、マイクを挟んで向き合っている感じではない。どちらかと言えば、居酒屋のカウンターで互いが横に並び、横に座っているおじさんのよもやま話を横目で聞いているような関係。

 テレビはもともとはリアルタイムの生々しい表現媒体としてスタートしました。放送が始まったころは技術的なハードルから、ドラマも含めてすべてが生放送で行われていたというのは有名な話です。テレビ草創期、当時のテレビマンたちが著した『お前はただの現在にすぎない——テレビになにが可能か」(朝日文庫)という書籍があります。TBSを辞めて、制作会社のテレビマンユニオンを設立した3人が書いた本です。

 この本の最終章にはこう書かれています。

“ 「テレビ——お前はただの現在にすぎない」とは、すなわち、テレビの同時性(即時性)に対する「権力」及び「芸術」からの否定的非難の言葉として、ぼくらに発せられているということなのだ。
 「時間」をすべて自ら政治的に再編したあとで、それを「歴史」として呈示する権利を有するのが「権力」とすれば、そのものの「現在」が、as it is(あるがまま)に呈示しようとするテレビの存在は、権力にとって許しがたいだろう。「テレビ、お前はただの<現在>にすぎない。お前は安定性を欠き、公平を欠き、真実を欠く」——それが体制の警告だ。テレビが堕落するのは、安定、公平などを自ら求めるときだ。”

 まさに「安定、公平などを自ら求める」ようになったテレビは、堕落していったと言えるでしょう。テレビはリアルタイムを生々しく見せるものではなく、よりヒエラルキーで安定したものへと変わっていきます。当初はまるで計算されずハプニングのように作られ、ドキッとするような発言も飛び出していたテレビの番組は、徐々に計算され尽くしたショーへと変化していきます。

 1981年には『オレたちひょうきん族』という画期的なお笑い番組が登場し、それまでのお笑い番組にはなかった「スタッフの笑い声」が音声に乗っているのが非常に斬新でした。

★ひょうきん族、いいとも、スマスマ‥‥「新しさ」でバラエティーを改革した名物プロデューサーの功績~佐藤義和さんを偲んで


 これは元お笑い芸人でその後作家に転じた松野大介さんが、フジテレビの名プロデューサーだった故佐藤義和さんにインタビューした内容です。こう書かれています。

「喜劇役者と違って漫才師は『本番は台本と違うこと言うぞ』と芸人気質が働くから、アドリブをやったら、カメラさんと音声さんが笑っちゃって、笑い声が録音されたんですよ。スタッフは絶対笑ったらいけないから、普通は撮り直すけど、私は『スタッフの笑い声っていいじゃん!』と閃いた」

 スタッフの笑い声が入ることによって、テレビはどう変わったか。それまでは表に出ない黒子だったプロデューサーやディレクターといったスタッフが、テレビの「内輪の人」として表舞台に立つようになったのです。『ひょうきん族』がスタートした同じ1981年には、『気まぐれコンセプト』という漫画がビッグコミックスピリッツで連載開始しています。この漫画も、それまで裏方だった広告代理店の人々を描いて人気を博し、このあたりから「業界人」ということばも生まれてきました。バブル期にかけて、テレビや広告などの派手なメディア業界にいる人たちが特別扱いされるようになっていったのです。

 つまり『ひょうきん族』のテレビスタジオは、言ってみれば「選ばれた人たちによる祝祭空間」という位置づけになり、一般社会からは憧れの目で見られるという神話的な立ち位置を獲得したと言えるでしょう。ここに来てテレビは「ただの現在」どころか、社会のヒエラルキーの頂点に立つ存在へとのぼりつめました。

 テレビがこういうヒエラルキー的な立ち位置を確保し、自らを選ばれた祝祭空間として位置づけていったのであれば、そこからは空気の読めない出演者などは弾き飛ばされ、テレビならではの空気感の抑圧に支配されていくことになったのは、不思議ではありません。今のワイドショー番組は、一見は「毒舌」に見えるけれども、その実は高齢視聴者にとって口触り良いだけのステレオタイプな言説にまみれてしまっていますね。この不思議な風潮も、テレビのヒエラルキーという流れに沿えば納得できるというものです。もちろん、それが良いと言っているわけではありませんが(笑)。

 ちなみに先ほどの『おまえはただの現在にすぎない』には、1969年の東大安田講堂攻防戦の話も出てきます。大半のテレビ局のカメラはつねに機動隊の後ろ側にあり、学生の側から攻防戦を描こうとはしませんでした。しかしそのなかでただひとり、機動隊の背後からではない場所から中継しようと考えたテレビ朝日の記者がいました。

 彼は高いところにカメラを構えて俯瞰で撮影するだけでなく、1台だけはローアングルで撮影し、できるだけ籠城する学生たちをクローズアップしたいと考えました。機動隊が突入していくなかで彼も講堂の中へと入って低いアングルで撮影し続け、学生たちが壁に書いた落書きを読み上げます。

「人間を最も欲している者が、何故最も非人間的に見られるのだろう」「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」

 落書きを読み上げていく記者の言葉は、「机や椅子が壊れています」「放水の水が滝のように流れています」というステレオタイプな現場レポートとは一線を画していました。その報道ぶりについて、同書はこう評しています。

「視聴者は学生たちの内面を記者の言葉によってうかがい見た思いがしたのである」「人々は学生たちのバリケード内での生活と、彼らの素顔を垣間見ることができた」

 まさに「ただの現在」をそのままに映し出そうとした試みでした。

 このテレビ朝日の記者はその後、順調に昇進し、1990年代には報道局長に就任しました。そして1993年、民放連の会合でこう発言し物議を醸します。

 「今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」

 彼の名前は椿貞良。椿氏はこの発言が偏向であるとして強く批判され、国会に証人喚問される事態にまで進展します。いわゆる「椿事件」です。1969年にリアリティにこだわった椿記者は、四半世紀を経た後には予定調和的なシナリオを描く側に回ってしまったのだと考えると、『ひょうきん族』(別の局ですが)を挟んだ時期にテレビがリアリティから乖離し、ヒエラルキーの頂点へと変容していったことがよくわかります。

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