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穏健化していた社会運動が、21世紀に先祖返りして「過激」になった 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.709

特集 穏健化していた社会運動が、21世紀に先祖返りして「過激」になった
〜〜1960年代の学生運動時代から社会はどう変わっていったのか

『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(邦訳は紀伊國屋書店、2014年)という超刺激的なタイトルの本でも知られている社会心理学者のジョナサン・ハイトが、米アトランティックに『アメリカ社会がこの10年で桁外れにバカになった理由』というこれまた刺激的なタイトルで寄稿しています。邦訳は有料メディアのクーリエジャポンで読むことができます。


この記事でハイトが言っているのは、「SNSが政治的分断を推し進めている」というこれまでもあちこちで繰り返されている議論です。だから全体としてはさほど新味はないのですが、第3回のところで重要なことが書かれています。それはSNSが、一般社会の人々すべてを分断しているのではなく、少人数の過激なグループの分断を深めているだけなのだというポイント。

以下に引用しましょう。

「政治学者アレグザンダー・ボールとマイケル・バン・ピーターセンの研究調査によれば、ソーシャルメディア上で地位の獲得に汲々とし、そのためなら進んで他者を傷つけるのは、ある少数の人々のグループであるという」

「ボールとピーターセンは8つの調査を通じて、ほとんどの人々はオンライン上だからといって、普段より攻撃的にも敵対的にもならないことを発見した。むしろオンライン環境は、もともと攻撃的な少数の人々が多くの犠牲者を攻撃することを許してしまっているのだ」

「少数の嫌な奴らが、討論の場を支配してしまう場合もある。というのも、普通の人たちは、オンライン上の政治的な議論から簡単に撤退してしまうからだ」

もう全力でうなずくしかない指摘ですね。「少数の嫌な奴らが、討論の場を支配」「普通の人たちは、オンラインの政治的な議論から簡単に撤退」というのは、日本のツイッターでも日常的に見られる光景ではないでしょうか。

さらにこの記事では、モア・イン・コモンという団体による政治的党派についての調査結果が紹介されています。最も右翼的なグループと最も左翼的なグループとして、アメリカには以下のふたつの党派があるという設定。

献身的保守派(極右) 人口の6%
進歩派アクティビスト(極左) 人口の8%

そしてこの「進歩派アクティビスト」がSNSではダントツに活発なグループで、過去1年でここの7割の人が政治的な内容を共有していたとか。ついで「献身的保守派」が56%だそうです。そしてこのふたつのグループは、白人と富裕層の割合が多いこと、倫理や政治について均一な価値観を持っていることでとても共通していると言います。

なぜ均一な価値観に染まっているのかと言えば、「この研究の著者らの推測では、こうした意見の均一化は、ソーシャルメディアにおける思想取り締まりの結果である可能性が高い」とか。これもよく見る光景ですね。自分たちの党派の大勢と、少しでもちがう意見を言うと袋叩きになってしまうのです。

そしてハイトは、身も蓋もなくこう言い放っています。

「政治的過激派は敵対する者だけを射るのではなく、自陣営における反対者や、より繊細な考えの人々に対しても矢の雨を降らせるのだ。かくして、ソーシャルメディアは妥協に基づく政治形態を機能停止へと追い込むのである」

それにしてもなぜ政治についての言論空間が21世紀にこんなことになってしまったのでしょうか。

しばらく前に、水道橋博士さんのこのツイートが話題になっていました。


このツイートに対しては「その通り」という意見もあれば、「いやいや、左翼教育が戦後は普通だっただろう」など、さまざまな意見や賛同、異論が寄せられていました。水道橋博士さんは1962年生まれでわたしとほぼ同世代ですが、実際のところこの世代の戦後の空気感はどうだったのでしょうか。

これは育った土地や学校、家庭環境などによってまったく異なるので一概には言えないと思います。ここからはわたしの経験も踏まえてその空気感を記述してみようと思います。ただしこれは定量的な調査に基づくものではなく、わたしの観測範囲に限っている部分もあり必ずしも一般化できるわけではないということは留意ください。

1960年代末に学生運動のうねりが起きたことは歴史的に知られています。1972年の連合赤軍・あさま山荘事件や、最近重信房子さんが出所して話題になった日本赤軍の一連のテロなどは、この学生運動時代の末期に起きたできごとです。この運動の中心世代になったのは、終戦直後の1946年から49年にかけて生まれたベビーブーマー、日本では「団塊の世代」と呼ばれている人たちです。重信さんは1945年生まれなので、団塊のいちばん上ぐらいに位置しています。

彼らがなぜ60年代末の青春時代に広範囲に大きな左派運動を起こしたのかは、さまざまな要因がからんでいます。アメリカでベトナム戦争への反対運動が盛り上がっていたという外的な要因。人数の多い団塊世代では進学率が高まって大量に大学入学するようになり、大学生が「末は博士か大臣か」とかつて言われていたようなエリートではなくなってしまったことへの現代的な不安感があったことも指摘されています。

そしてもうひとつの要因として忘れてはならないのは、上の世代との軋轢です。団塊の世代の親世代はおおむね大正生まれで、いわゆる「戦中派」。父親はアジア太平洋戦争で戦った兵士たちで、皇軍教育を受けた人たちです。この世代の人たちは「お国のため」と信じて戦地に赴いたのにもかかわらず、戦後は戦争を否定されたことで深いわだかまりを抱いていたというのは、吉田裕さんのこの名著にも詳しく書かれています。



戦後の反戦的な空気のなかでも、戦中派の人たちは心情的には「皇軍派」でした。どの時代にも親と子の価値観は常に衝突し、子は親の世代の価値観に反発するのが世の常。団塊の世代の息子娘たちが、戦中派の親たちの価値観への反発があり、これが左派的な思想への傾斜を強めたという要因もあったのです。

ちなみに21世紀に入り、団塊ジュニア以降の若い世代が左派離れしつつあるのもこの「親子衝突」という要因がからんでる部分はありそうですね。

話を戻すと、1960年代末に最高潮に達した学生運動は、中心的な世代が大学卒業を迎えるのと同時に退潮し、連合赤軍事件やたび重なる凄惨な内ゲバなどがとどめを刺して、70年代前半に一気に終了してしまいました。団塊の世代の若者たちは、70年代に入って就職していきます。しかし学生運動に携わっていた人たちは一般企業への就職に苦労し、思想的な問題に比較的寛容だった新聞やテレビ、出版などの業界へと多くが流れ込んでいったと言われています。

このあたりの話は新聞記者時代、学生運動の闘士だった上司からさんざん聞かされました。わたしが新聞記者をしていた1990年代には、団塊の世代の人たちは40代から50代の管理職で、酒の席になると「佐藤訪米阻止闘争のときはすごかったなあ」「そうそう、みんな逮捕されてたいへんだった」「王子野戦病院闘争ぐらいから石を砕いて投げるようになったんだよねえ」みたいな話題で盛り上がっていたのを印象深く覚えています。

このような学生運動からマスコミへの大量人材流入が、その後のマスコミの空気感を決定づけ、21世紀の現在に至るまで左派色の濃さを残し続けている遠因になっているのではないかとわたしは考えています。

マスコミと同じぐらいに、学生運動の受け入れ先になっていたのは公務員と教員、そして生協だったと言われています。そういえばわたしが通っていた田舎の小学校にも、非常に左派色の強い先生がいました。1973年ごろの話なのでまさに連合赤軍事件の翌年だったと思うのですが、わたしの学級の担任をしていたその先生は道徳の授業に、北朝鮮の「朝鮮少年団」の活躍を描いた書籍を副読本に使っていました。

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