なぜ「ウクライナ人は降伏せよ」と古い知識人たちは言いたがるのか 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.696

特集 なぜ「ウクライナ人は降伏せよ」と古い知識人たちは言いたがるのか
〜〜「20世紀の神話」は今こそ終わらせるとき(第11回)

ロシアのウクライナ侵攻をめぐって、「ウクライナは降伏すべきだ」というコメンテーターの意見がテレビのワイドショーなどで目立っています。たとえばテリー伊藤さんはニッポン放送のラジオ番組「垣花正 あなたとハッピー!」で、こう語ったと報じられている。

「この戦争は5年10年20年と続きます。ですから今は、国民は一度安全な場所に移動してもう一度立て直す、という考え方はどうなんでしょうか」
「それは分かりますよ。じゃあ抵抗して、たぶん今リアルな状況だと、ウクライナは勝てませんよ」
「今この状態で、ウクライナの人がロシアのプーチンの無駄死にしてほしくないんですよ」


これ以外にも、玉川徹さんがテレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」で「死者が増えないようにするのは指導者の大きな責任ですから。誇りを持って戦っている事態ですが、引くということを考えないと」。橋下徹さんも「逃げることは恥ずかしいことでもなんでもない。まずは一時避難だということを勧められる戦争指導を」とフジテレビの「めざまし8」で語っている。


こういう「降伏すべし」論がワイドショーで幅を利かせているのは驚くべきことですが、安全保障や軍事の専門家群からは当然のように異論がたくさん出ています。

玉川さんと同じ「モーニングショー」に出ていたロシア軍事の専門家小泉悠さんは、こう反論しています。

「日本の場合、自分から戦争を始めて、アメリカにものすごい反撃を食らったという事例ですよね。今回、ウクライナには何の非もないのに、ロシア側から侵攻された。早く降伏すべきだというのは道義的に問題のある議論」

また安全保障の専門家、慶應大の鶴岡路人さんも日本テレビの「スッキリ」でこう述べています。

「ウクライナが抵抗する気がある以上は、しっかりそれを支えるという事ですし、『停戦に向かっていくべきだ』とか外部から軽々に言うべきではない」

まったくその通りだとわたしも思います。なぜ他国が不当に侵略されている事態に、第三国のまったく関係ない人が偉そうに「降伏せよ」などと言えるのでしょうか。「上から目線」にも程があるのではないでしょうか。

こういう発言が噴出する背景には、古い知識人の「ナショナリズム」への警戒心があるのかもしれません。


この記事でベストセラー『サピエンス全史』のハラリは、ナショナリズムとリベラリズムはこれまでは相反するものだと考えられていたと述べています。愛国的な右派がナショナリズムで、個人の自由や社会包摂を大事にする左派がリベラリズムだったのです。

ところが、ロシアの侵略戦争に対するウクライナの人々の抵抗によって、ナショナリズムとリベラリズムが合体してしまった。ハラリは以下のように指摘します。

「ウクライナ人は、自由な社会のために戦うのと同じぐらい、国家の自由のために猛獣のごとく戦っています。さらに彼らは、ナショナリズムとは、外国人を憎むことでもマイノリティを憎むことでもないのだと、私たちに思い出させています」

「それは自国民を愛し、人が自分の未来を自由に選択するのを認めることなのです。ナショナリズムとリベラリズムのあいだの深い繋がりをヨーロッパが思い出せるなら、地域内の文化戦争を終結させることができ、プーチンを怖れる理由は何もなくなるでしょう」

ウクライナの人々が自国のために戦うことが、すなわち自分たちの自由を守ることにつながる。そもそもヨーロッパでは近代のはじめ、王政という抑圧への抵抗とそこからの自由こそがリベラリズムの出発点になっていたわけで、21世紀に国際社会が逆行して弱肉強食の環境に陥りつつあるからこそ、いまふたたびナショナリズムとリベラリズムが接近してきたということなのかもしれません。

ウクライナに「降伏せよ」と言っている日本の古い知識人は、この「大逆転」が生理的に理解できず、ナショナリズムにただ直感的に反発しているということがあるように思えます。

くわえて、この「降伏論」には太平洋戦争の記憶が影響しているという指摘もあります。


かなり右派的な思想を感じさせる記事で、わたしはこれに同意はしません。ただ記事内で書かれている以下の指摘は、その通りだと思います。

「日本の場合は、たまたま領土的野心を持たないアメリカに降伏したので、国を奪われずにすんだが、ウクライナ人の場合はそうはいかないということが理解できていないのだ」

玉川さんも実際、太平洋戦争引き合いに出して「日本がもっと早く降伏すれば、例えば、沖縄戦とか広島、長崎の犠牲もなかったんじゃないかと思います」と語っていますね。

たしかにアメリカの進駐軍は日本人に対して残虐非道なことをいっさい行わず、逆に民主主義を根付かせるための努力を惜しみませんでした。これが日本人に与えた印象はきわめて強く、戦後の日本人はアメリカを「戦争を終わらせ、善導してくれた正義の味方」というようなイメージで見るようになったと言えるでしょう。

「戦争を起こした日本の軍部=悪」
「戦災に痛めつけられた日本人=弱者」
「戦争を終わらせたアメリカ軍=善」

という単純な構図です。しかしこの構図の中には、「戦争を戦った日本人兵士」たちの肖像がまったく出てきません。

なぜ彼らは戦ったのか?
どのような思いで戦地に赴いたのか?
戦後に兵士たちは自分の戦いをどう振り返っていたのか?

そういう当事者たちの思いは、上記のような単純な構図の中にまったく埋め込まれていないのです。だから私たち日本人は、2022年のいまウクライナのために戦っているウクライナ人兵士を見ると、どう向き合えば良いのかまったくわからなくなってしまい、思考がバグってしまうのです。「降伏しろ」なんていうおかしな声がコメンテーターから出てきてしまうのは、そういうことなんじゃないかと思います。

つまりは当事者意識の欠如なのです。自分たちは戦争の当事者ではなく、あくまでも「戦災に痛めつけられた日本人=弱者」という意識しか持てなかった。戦後一貫して、そういう意識しかなかったのです。だからアジアなどへの「戦争加害」問題も、自分たちが加害したという意識を持っていない。「日本の軍部が加害した」「軍部が悪い」と勝手に決着させてしまったのです。

これは日本の戦後処理がうまく行かなかった大きな原因になっているとわたしは思っています。「本当の加害者」を「軍部」というもはや消滅した遠くにあるものに負わせて、自分たちはちゃっかり被害者側を代弁するかのようにポジションしているのだと思います。

2013年に『レイルウェイ 運命の旅路』っていう英豪合作映画がありました。これは第二次世界大戦で日本軍の捕虜となり、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設に従事させられた英軍兵士エリック・ローマクスの手記をベースにした物語です。

ローマクスは捕虜収容所で日本兵から拷問を受け、それが戦後もPTSDとなって彼を苦しめ続けました。そんな時に戦友のひとりから、捕虜収容所で通訳を務めていた日本人男性が、タイで戦争体験を語り継ぐような仕事をしているという記事を教えてもらう。

彼は復讐するため、自分の無残な戦後に決着をつけるため、ひとりタイに向かいます。この実在の通訳永瀬隆を、真田広之さんが演じています。タイでローマクスと対面した永瀬は、実に淡々と、戦後は連合軍の戦争墓地調査隊に同行し、たくさんの捕虜の遺体を発見して、運んできちんと埋葬したんだと説明します。

ここからのやりとり(あくまで映画の中のセリフで、実際にこういう会話があったわけではないようですが)が非常に興味深いので、書き起こして紹介しましょう。

ローマクス「自分が捕虜収容所で殺させた人々を、戦後に埋葬したのか?」
永瀬「多くの遺体を見て、その時知ったんだ……想像もしなかった。あれほど大勢死んだとは」
ローマクス「『死んだ』じゃなく、『殺された』。殺された、というべきだろう。大勢殺された、と。そう言え」
永瀬「そう、殺された……そうとも、それを知ったんだ。あまりにも大勢殺されていた。だからわたしはそれを語り継ぐ。わたしは巡礼をするんだ。和解のために力を尽くすんだ。この戦争の悲劇を、決して忘れさせない」
ローマクス「これは悲劇じゃない!これは犯罪だ。何が悲劇だ、おまえは犯罪者じゃないか。おまえは頭もよく教育も受けていたのに、何もしなかった。犯罪者で嘘つきだ」

「悲劇」ということばには、「自分が戦争を引き起こしたわけではなく、どこかの誰かが起こしたものだ」という「他人ごと」感がありますね。しかし拷問され殺害された側から見れば、こんな無責任なことはないでしょう。ローマクスが激高したのも当たり前です。

ここで誤解しないでほしいのですが、わたしは「いまの日本人は、自分の戦争加害を認めて頭を垂れよ」と言っているのではありません。そうではなく、「戦争で当時の日本人がどういう気持ちを持っていたのかを学び、それにきちんと向き合おう」と言っているのです。

実はその「向き合い」を見事に成し遂げたのは、2016年の傑作映画『この世界の片隅に』です。その終戦のシーンの描き方は実に的確でした。

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