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登山の魅力を「官能的」ということばで再定義する〜フラット登山という提案⑤

登山で「登りたい山ランキング」などを見ると、上位にはそりゃそうだろうなあ〜という山々が並んでいます。富士山、槍ヶ岳、奥穂高岳、剱岳、北岳、白馬岳……。たしかにこれらの山は魅力的だしカッコいいし、とくだん異論があるわけではありません。しかしわたしがこういうランキングを見るといつも微妙な気持ちになってしまうのは、毎年リクルートがやってる「住みたい街ランキング」と同じにおいを感じるからかもしれません。

「登りたい山」と「住みたい街」は似ている

たとえば2024年版の「住みたい街ランキング首都圏版」を見ると、1位は7年連続で横浜。以下、大宮・吉祥寺・恵比寿・新宿・目黒・池袋・品川・東京……と続く。まあ横浜には緑の多い北部の街もありますし、横浜の海沿いも渋い街並みが並んでいるのでわからないではない。しかし、新宿とか池袋とかはそもそも住む場所なのか? 9位に食い込んだ「東京」という回答にいたっては、それが何を意味しているのかさえわかりません。

結局のところこのランキングは「住みたい街」と名乗っているけれど、「有名」「巨大」「ブランド」といったステレオタイプな基準で選ばれた美人投票に過ぎないのです。「登りたい山ランキング」も同じです。富士山も槍ヶ岳もたしかに素晴らしい山ですが、そういう山の話ばかりするというのはメイン料理しか出てこないフレンチのコースみたいなもので、お腹がいっぱいになってしまう。

そこで、低山や里山、そもそも山でさえないようなところを歩くという提案をすると、今度は「登山マウンティングおじさん」が現れてきます。おじさんたちは高い山や難易度の高い岩稜の山こそが至高であると考えていて、低い山をバカにしたがるのです。

「登山マウンティングおじさん」は面倒くさい

だいぶ以前に、山仲間たちとと関東地方の自然歩道を歩いたことがありました。わたしたちがやってるグループは「来る者は拒まず」の方針で会員制度も何もないので、そのときどきでいろんな人が参加し、継続して続ける人もいれば、一度限りでお別れになる人もいます。ゆるやかな集まりなのです。

自然歩道を歩いたその日も、新しく参加した男性がいました。森の中を縫うように続くコースは、途中に山頂も岩稜も何もありません。ただ自然を愛でながら歩くだけです。4時間ほど歩いて大休止をとっていたら、その彼が「こんなコースばかり歩いてるんですか?」と聞いてきました。

「そうですよ」「もっと高い山に行こうとか思わないんですか?」「まあこれでも十分楽しいから」「へえ」

彼は「冬山もやっている」という触れ込みで、「こんな誰でも歩けるようなコースを歩いて何が楽しいのか」とバカにしている雰囲気が満々でした。おじさんというほどの年齢の人ではありませんでしたが、まさに登山マウンティングおじさんです。わたしも30代前半ぐらいまでは登攀も含めた冬山をやっていたので、アルピニズムの面白さを否定するわけではありませんが、岩と雪のクライミングとトレイル歩きを上下関係で考えるのがそもそも間違っています。岩雪とトレイルは、舞台が同じ山岳地帯というだけで、それ以外に共通するものはほとんどありません。代々木公園の陸上競技場で400メートル走をやってる人が、公園を散歩してる人をマウンティングしてバカにするぐらいに変です。


槍沢ルートから槍ヶ岳を登る。たしかに素晴らしい山だけど、山の魅力は槍ヶ岳だけじゃない

登山をしていると、次のような人もよく見かけます。ベンチなどがあり皆が休憩しているようなスポットで、話しかける相手をさがしている高齢の男性。単独行の若者をつかまえて「今日はどこから来たの」と話しかけ、最初は相手の話を少しは聞いているのですが、その後はすぐに自分の話に持っていくのパターンが大半です。「奥穂高は登ったことある? 私は去年二度目の登頂をしたよ」「○○岳は行った?」「日本百名山はもう八十座は行ったからね」と延々と「登った山自慢」をしている。

日本百名山マウンティングもいっぱいいる……!

そう、日本百名山……! 全山クリアを目指すのは個人の趣味なのでなにも言うことはありませんが、やたらと百名山マウンティングする人が日本の登山者には多いのです。特に中高年の男性。「あんたはいくつ登った?」と切り出す人には要注意です。

日本において「登るべき山」とされているのは、日本百名山に入っていたり、標高が高かったり、峨々とした岩稜帯があって厳しかったり、そういうステレオタイプな基準で選ばれているのが実情なのです。

百名山も高い山も岩稜の山もわたしは否定するわけではありませんが、もっと違う基準で選んだ山や山道を歩いてもいいのではないでしょうか。先ほどの「住みたい街ランキング」に話を戻せば、実際に人々が住んで愛されている街はけっして新宿や池袋や大宮のようなメガタウンではありません。裏路地が縦横無尽にあり、大手チェーン店ではない個人経営の飲食店が充実していて、そぞろ歩きが楽しい街。東京で言えば、文京区の谷根千や西荻窪、神楽坂といったこじんまりとした街なのです。

「官能都市ランキング」に学ぶ

2016年にLIFULL HOME'S総研の島原万丈さんが「官能都市ランキング」という非常に興味深いレポートを発表しています。これはその後、書籍化もされました。街の魅力を、「官能」というキーワードを物差しにして測ろうという非常に興味深い試みでした。

「官能」について同書にはこう書かれています。

日本語の「官能」には、若干不埒 なイメージが含まれます。しかし本来の意味は「感覚器官の動き」です。英語の「Sensuous」が帯びるのは、「感覚の」「五感の」、あるいは「感覚を楽しませる」「五感に訴えかけるような」といったもの。「官能都市」が意図するのは、ポルノチックなニュアンスではなく、人間の生身で都市を評価してみようという目線なのです。

「本当に住んで幸せな街」より

そして官能ランキングの評価基準は、次の通り。

  • 共同体に帰属している(たとえば、常連客と盛り上がれる居酒屋がある)

  • 匿名性がある(平日の昼間から飲んでても、とやかく言われない)

  • ロマンスがある(デートをしたり、異性との出会いがある)

  • 機会がある(面白いイベントがあったり、友人知人のネットワークで出会いがあったり)

  • 食文化がある(地元の食材で旨い料理を出す居酒屋)

  • 街を感じられる(商店街からいいにおいが漂ってきたり、街の風景をゆっくり眺められたり)

  • 自然を感じる(木陰で心地良い風を感じたり、水に触れられる親水公園があったり)

  • 歩ける(遠回りしていつもは歩いていない道を歩く)

もっとも官能的な都市は東京都文京区、そして大阪市北区

これらを数値化してランキングを作成し、全国で1位になったのは、谷根千のある東京都文京区。2位は大阪市北区。以下、武蔵野市・目黒区・大阪市西区・台東区……と続きます。東京大阪以外の都市だと、8位に金沢、12位に静岡、14位に盛岡、17位に福岡が入っています。

官能都市ランキングは、個人的な経験でも非常に納得できるランキングでした。こういう評価基準が、いまあらゆる分野にも求められているのではないでしょうか。たとえば音楽。CD売上ランキングを見ても何も心が動きませんが、サブスクでの再生やSNSでの言及度も考慮したビルボードの人気音楽ランキングが登場したときは「そう!これこれ!」と感じたのとまったく同じだと思います。

そしてこれは、登山の世界にも求められている。つまりは「官能トレイル」「官能的な山道」のような価値観がほしいのです。

「官能的な山道」という新たな提案

ここでわたしが重要だと考えているポイントは、「官能的な山岳」ではなく、「官能的な山道」であることです。このフラット登山シリーズで書いてきたように、登山の魅力は、山頂や山容だけではありません。わたしは登山の魅力は、歩くことにこそあり、歩く山道に沿って展開される光景や空気感に求められるのではないかと考えています。見晴らしの良い山頂はたしかに気持ち良いのですが、山の魅力は山頂だけではない。

「ぜいぜい言いながら汗を大量にかいてつらい思いをして山を登り、ようやく山頂にたどり着いたら絶景だった。これまでの疲れが吹き飛んだ」みたいな山行記をそこらじゅうで見かけますが、山頂に着くまでにつらい思いをしなければならないというルールや決まりがあるわけではないのです。つらい思いをしないで山道を歩き、良い道を歩くことの気持ちよさを知れば、山頂なんかどうでも良くなるのです。これが「官能的な山道」の本質です。

では「官能的な山道」「官能トレイル」を評価するとしたら、基準となるのは何でしょうか。わたしは以下の5つの要素を考えてみました。これらをすべて満たすような山道はほとんどあり得ないので、どれかを満たせば官能的な山道であると考えてください。ANDではなくORということです。

  • すぐそこに異世界がある

  • 広大で畏怖がある

  • 変化に富み、足に快感がある

  • 冒険心が満たされる

  • 霊性を感じさせる

ひとつずつ説明しましょう。まず「すぐそこに異世界がある」。たとえば富士山の青木ヶ原樹海を歩いていると、とても現実とは思えない異世界を間近に見ているような感覚に陥ります。平安時代の貞観噴火で溶岩が山麓に流れ、冷えて固まってぎゅっと凝縮した結果、そこらじゅうに空間や穴ができた。その上にツガやモミやミズナラなどの樹木がもくもくと生え、根が溶岩のスキマに入り込み、さらに苔がそれらを覆い尽くし……。グネグネとした不思議な地面が、森の奥へとどこまでも続いている。こんな光景、他のどこにもありません。異世界そのものです。実に官能的です。


溶岩と木の根と苔がからみあった不思議な世界を歩く。青木ヶ原樹海。

「広大で畏怖がある」。峠を越え、あるいは山裾をまわると、突然のように広がる平原や湿原。広大な景色を前にすると、神の存在に接したかのような畏怖を感じます。こういう感覚について、書籍「Chatter(チャッター))頭の中のひとりごと」(イーサン・クロス著、東洋経済新報社、2022年)が的確に解き明かしています。

言葉にできない雄大なものを前にすると、自分や頭の中の声が、世界の中心だとは考えられなくなってくる。それによって,思考のシナプスの流れが変わる。畏怖を感じるときは、精神を集中して視覚を働かせたり、心を乱す体験を再構築したりする必要がない。自分の名前を言うぐらいに簡単。畏怖の念を誘う光景の中に身を置き、自分を小さく感じる「自我の収縮」という現象を感じるとき、抱えている問題も小さく感じられる。

自分がひたすら小さくなっていく感覚。これも官能の醍醐味でしょう。


富士山の宝永山火口。あまりの巨大さにただ畏怖を感じるのみ……。

「変化に富み、足に快感がある」
どんなに楽しい登山道でも、単調にずっと同じような道が続くと飽きてしまいますし、そもそも足が痛くなります。たとえば尾瀬などの湿原にある木道。木の根っこや岩に足をとられることがなく、泥にまみれることもなく、なめらかで平坦で歩きやすい。普通の登山道よりもずっと気持ち良く感じます。

しかし木道が延々と続くとどうでしょうか。わたしの経験では、木道を6時間以上もあるくと足裏が耐えがたいほどに痛くなってきます。土の道にくらべて木道は表面が硬いからです。これは舗装された車道も同じ。山道よりもずっと歩きやすく感じますが、延々と車道を歩けば、いくらクッション性に優れた登山靴であっても、だんだんと足が痛くなってくる。

山道でも、山頂からの長い下りにウンザリした経験は登山者ならだれにでもあるでしょう。あれにウンザリするのは、道が単調だからです。もし下山ルートがジグザグに山腹を下るだけでなく、ときに沢筋に出て流れに沿って歩いたり、ときに平坦な草原地帯を縫って少しずつ下ったり、と変化に富んでいれば、そんなに疲れません。疲れは体力的な面だけでなく、精神的な面も大きいのです。

だから山道は、変化に富んでいる方がいい。変化に富んでいれば、その変化のたびに気持ちが入れ替わって新鮮さがよみがえり、そして足裏も疲れにくく、心地良い疲れを感じられるようになるのです。

「冒険心が満たされる」
登山でわざわざ危険を冒すのは御法度ですが、しかし自分の能力の範囲内でアドベンチャー感を味わえるのであれば、それも気持ち良い官能のひとつです。

もう5年ほど前になりますが、人類学者の今福龍太さんの講演を聴講したことがありました。かつては散歩や山歩きのような行為はほとんど「迷う」と同義だったというお話でした。

「おくのほそ道」で有名な松尾芭蕉は江戸から東北、北陸をまわり、岐阜の大垣まで歩いています。一部は馬を使いましたが、大半は徒歩。今福さんによると「おくのほそ道」には、「終(つい)に路(みち)ふみたがへて」と言う言葉がよく出てくると言います。「とうとう道を間違えた」という意味で、旅行者向けの道など整備されていなかった17世紀当時は、芭蕉はほぼ常時迷っていたということ。

「迷う」というのは、21世紀の今の社会ではネガティブな印象がつよい言葉です。「道に迷う」「人生に迷う」「闇をさまよう」どれもあまり良いイメージではありません。しかし「迷う」ことには、実は冒険的な面白さがある。

北アルプスのような有名山岳に行くと、登山道はきれいに整備され、道を外れないようにロープまで張られていたりします。景色は素晴らしく十分に山を堪能できるのですが、同時に「歩かされている」感もある。今のようにスマホでGPSを使った登山地図を使えるようになると、よほどの悪天でもない限り、道に迷う可能性はほとんどありません。登山地図アプリを見て、自分の現在地を確認し、赤線で描かれている登山道をただなぞっていく。コースタイム(標準的な歩行時間)もアプリに表示されているので、目的地へのだいたいの到着時間もわかってしまいます。

もちろん景色は素晴らしく、山の空気は気持ちいい。だから登山に行くわけなのですが、しかしそこには「迷う」ということへの懸念がなさすぎます。

それに対して、里山や低山、丘陵地帯など登山の対象になっていないような山道は不明瞭なことが多い。登山道というようりも単なる踏み跡だったり、林業の仕事道だったり、さらには獣道だったりする。道は時に民家の軒先に消えていたりして、迷いまくります。登山地図の対象地域の外なのでコースタイムや登山道を確認できませんし、グーグルマップには細い山道までは掲載されていないので、あまり役に立ちません。

でもそうやって迷いながら歩くことが、実はとてもおもしろい。峠を越えた向こう側に新鮮な景色を発見したり、思わぬ場所に素敵な食堂があったり、山裾の無人販売所を見つけて野菜を買ったり。いろんな予想外のできごとが起きるのです。

ネット時代にはすべてが可視化されてしまって、「秘密の隠れ家」がありません。見つけにくい場所にある穴場のレストランも、グルメアプリなどですぐに共有されてしまいます。でもそういう時代だからこそ、意図的に「迷う」。道に迷い、冒険心で探究していくことによって新鮮な発見や感動があるのです。冒険心は、官能にだいじな要素です。


山古志村にいまも残る「手掘りのトンネル」を歩く。これを人の手だけで掘ったとは。

「霊性を感じさせる」
最後になって急にスピリチュアルな表現が出てきて驚く人もいるかも知れませんが、こういう神秘的な感覚も官能には大事です。とはいえ、それは流行りのパワースポットに行くような感覚とは、ちょっと違うとわたしは考えています。もっと根源的ななにか。

山道を歩いていると、深い森の中にぽっかりと空いたような草地がある場所にたどり着くことがある。「理由はわからないけど、ここはとても気持ちいいなあ」と感じる。そういう不思議な空間が、自然の中にはあります。これは神社の原点なのかもしれません。

グラフィックデザイナー原研哉さんの著書「白」(中央公論新社、2008年)には、神社の原点についてこう書かれています。

日本の「神社」という、人々の信仰の営みを受け入れる空間の中枢は、「代(しろ)」あるいは「屋代(やしろ)」であるが、これは「空白を抱く」という基本原理からなる。地面の上に、四方に柱を立て、それぞれの柱の頭頂部を縄で結ぶ。これが「代」の原形である。

四隅の柱が、注連縄で連結されたことで、内側に「何もない空間」が囲われてできる。何もない空間であるから、ここには何かが入るかも知れないという可能性が生まれる。この「かもしれない」という可能性こそ重要であり、その潜在性に対して手を合わせるという意識の動きが神道の信仰心である。

この簡潔で美しい文章は、わたしたち日本人の自然観やそこに紐づいた宗教観を、見事に表現していると感じます。山道をひたすら歩いていると、神が舞い降りて来そうな「何もない空間」に遭遇することがあるのです。そういう空間にわたしたちは霊性を感じ、目の前を流れていく霊性に対して、手を合わせるのです。


戸隠奥社の森にそびえる巨大なダケカンバ。神々しくて手を合わせたくなる。

「官能的な山道」のための5つの要素を紹介してきました。こうやって書き進めてみると、日本には官能的な道がほんとうにたくさんある。高い山や厳しい山ばかりに目を向けるのではなく、官能的な快楽を求めて山野を歩いていきましょう。次回からはまた、さまざまなコースを紹介していこうと思います。


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