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総中流の終焉と日本の分断は、政治の構図をどう変えてきたか 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.787


特集 総中流の終焉と日本の分断は、政治の構図をどう変えてきたか〜〜〜現代日本の「横の旅行」と「縦の旅行」(5)


日本のメディア空間は2010年代以降、SNSの普及とともに一気に拡大しました。しかし空間そのものは拡大したものの、ユーザー個人が属するそれぞれの領域は逆に小さくなってしまっている印象があります。


たとえばネット以前のマスメディア時代は「総中流社会」と言われ、全国津々浦々の人びとが年齢にかかわらず同じテレビ番組を観て、同じ音楽を聴き、同じ新聞を読んでいました。「日本には高級紙はない」とは昔から言われてきたことでしたが、朝日新聞は決してエリートだけの新聞ではなく、ごく普通の地方のおじちゃんおばちゃんでも読める新聞だったのです。貴族文化でもない、かといって大衆文化でもないという位置づけで、これを社会学者の加藤秀俊氏は「中間文化」と名づけました。


しかし2000年代、グローバリゼーションによる格差社会の到来とインターネットの普及によって、総中流は終了し、中間文化も分断されていきます。都市と地方、富裕層と貧困層の文化の分断が進み、たとえば「高等教育を受けた都市の中間層」と「教育を受けていない地方の労働者層」ではまったく違う文化圏域を生成するようになっていきました。


中間文化の終了によって起きた文化の細分化は、政治にも大きな影響を与えるようになります。


1950〜80年代には、政治的な構図はざっくりと描けば次のようなものでした。保守と革新という用語づかいはいまではすっかり古くなってしまいましたが、現在のことばで言い換えれば保守=右派、革新=リベラル左派です。


保守=農村を地盤とした自営業・農業による自民党支持層

革新=都市に住むサラリーマン層による野党支持層


農村人口は太平洋戦争のころには人口の半分ぐらいもあり、戦後は集団就職や大学進学などで一貫して減り続けていきました。しかし戦後間もないころの選挙区の区割りがそのままで放置され、農村部の衆議院議員の定数が都市部に比べると著しく多いという「一票の格差」問題があったため、農村部の票のパワーは大きかったのです。これが戦後の「55年体制」における自民党の強さの基盤となっていました。


逆に都市部のサラリーマンは「農村を地盤にした自民党は強いなあ。農家が優遇されてるのに、オレたちサラリーマンは不遇だ」と愚痴りつつ、社会党などを支持するというのがごく一般的な政治姿勢でした。いっぽうで自民党を支持している農家や自営業の人たちも、とくだんその政策を強く支持しているわけでもなく「まわりの全員が自民党支持だから自民」「自民支持してない人なんかいない」という田園地帯の空気感の中で、自民党に票を投じていたのです。


保守層にしろ革新層にしろ、さほど政治に強くコミットするわけでもなく、「なんとなく」の政治観で投票する。だからここにはさほど強い対立があったわけではありませんでした。新聞やテレビでは国会での自民党と野党の論戦を報じて「与野党激突!」とかやってましたが、これも実際のところは楽屋裏での与野党の国会対策委員長同士が事前に話をつけていて「今日はこのぐらいまで攻めるのでヨロシク」「わかりました、じゃあ他のところで少しゆずってね」とか調整していたのも、今となっては有名な話です。当時はこの楽屋裏はマスコミにはほとんど報じられませんでしたが(政治記者は知ってましたが、オモテには出さなかったのです)。


しかし1990年代には、この政治の構図は流動化していきます。変化のきっかけになった最初の大きな波は、なんと言っても冷戦の終結です。社会党も共産党も、まがりなりにも社会主義政党を自任していましたから、ソ連の崩壊による社会主義陣営の衰退には大きなインパクトを受けました。


冷戦が終結したのはソ連が解体された1991年ですが、その4年後の1995年には社会党の山花貞雄議員(故人)が離党し、新しい政治勢力を結成しようと「民主リベラル新党準備会」という名前の組織をつくったことがあります。この山花氏の「民主リベラル新党」は結成予定のその日に阪神大震災が起きるという予想もつかないできごとで、頓挫してあっという間に終わってしまっています。


この1995年のできごとが、それまで「革新」と呼ばれていた左派勢力が「リベラル」と名乗るようになった最初のスタート地点だとされています。それまでは、そもそもリベラルという冠は左派のものではありませんでした。おもに米国の民主党を指すものとして使われていたのです。だけで、日本の新聞記事データベースで検索してみても、日本国内の政治勢力にリベラルという冠をつけた事例はほとんどありません。例外として、自民党の中でも比較的自由で進歩的な意見を持つ政治家が、「保守リベラル」と呼ばれていたケースがあります。たとえばデジタル大臣河野太郎さんの父上である河野洋平氏がそうで、ロッキード事件のときに自民党を離れて新自由クラブを結成した河野氏や田川誠一氏、西岡武夫氏などが「保守リベラル」というのポジションでした。


では左派がなぜかリベラルに変わったのかといえば、冷戦の終結で社会主義陣営を指す革新や進歩派ということばが使いにくくなったからです。それで代替用語として、進歩的なイメージがある「リベラル」が転用されるようになったのです。以降、革新や進歩派は「リベラル」と名称替えして、現在にいたっています。


このリベラルへの名称変更というか僭称というか、これは実にその後の政治の流動化を象徴しているとわたしは感じます。いったい何を軸にして政治の対立構図を構成するのかということが、まったく明白ではなくなってしまったからです。


保守と革新の対立も、20世紀終わりにはその基盤そのものが変化していきました。農村人口は激減し、「一票の格差」問題も社会に認識されるようになってある程度は是正され、「農村を基盤とした自民党」と「都市部で強い野党」という構図が成立しにくくなります。この結果として「無党派」「浮動票層」と呼ばれる有権者が増え、選挙その都度で投票する政党を入れ替えるという投票行動が当たり前になっていきました。固定的な支持層が減っていったのです。


この結果、自民党も都市部のサラリーマン有権者を無視するわけには行かなくなり、また社会党・共産党も都市部の票にあぐらをかくわけにはいかなくなる。無党派層を狙って双方が政策やスローガンなどでしのぎを削るようになり、誰にでもわかるような明白な対立軸は薄れ、あいまいになっていく結果となりました。


たとえば財政出動に対しての考えかたを例にとってみると、米国では共和党がどちらかといえば野放図な財政をいましめる緊縮派で、リベラルな民主党がさまざまな社会政策に積極財政を求める側なのに対し、日本では逆になっています。第二次安倍政権が金融緩和と積極財政のアベノミクスを打ち出したのに対し、立憲民主党などの左派系野党は財政出動を戒める側です。


また左派勢力そのものの変容もあり、分断が広がった面もあります。1990年代には日本だけでなく先進国はどこも生活がじゅうぶんに豊かになり、「貧しい労働者のために戦う」というもともとの左派のスローガンが有効ではなくなりました。この結果として左派の中心的な政治はアイデンティティ・ポリティクスと呼ばれる方向へとシフトして行きます。アイデンティティ・ポリティクスというのは、たとえばLGBTや障がい者、少数民族など、マイノリティの権利を支援して彼らのアイデンティティを守っていこうとする運動です。


これ自体はもちろん悪いことではないのですが、過剰にマイノリティに肩入れしてしまったことで、逆に「白人男性」といったマジョリティの権利がないがしろにされるという副作用を生み、白人の貧困層が無視される結果になって、これが逆に2010年代にトランプ大統領を生み出す原動力にもなってしまいました。日本でもアイデンティティ・ポリティクスに反発する声は増えています。


こうした中で欧米でも、アイデンティティ・ポリティクスの行きすぎを反省し、もう一度リベラリズムの根幹に立ち返るべきだという言説が増えてきており、そうした書籍もたくさん刊行されています。アイデンティティによる分断ではなく、社会の再統合を求める意見も多くなってきているのです。

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