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なぜ社会正義の人たちは表現の自由に反対し、排斥に走るようになったのか 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.738

特集 なぜ社会正義の人たちは表現の自由に反対し、排斥に走るようになったのか〜〜〜問題作『「社会正義」はいつも正しい』を読み解く


早川書房から『「社会正義」はいつも正しい』という話題の本の翻訳が年末に刊行されました。ところがnoteに掲載された山形浩生さんの巻末「訳者解説」全文9000文字が、公開停止になるという前代未聞の騒動が起こりました。以下のTogetterにごくかんたんにまとめられています。


早川書房は「出版社がなんらかの差別に加担するようなことがあってはならず、ご指摘を重く受け止めております」と説明していますが、この「ご指摘」が何だったのかはよくわかりません。また担当編集者は「私はテキストが持ちうる具体的な個人への加害性にあまりに無自覚でした。記事により傷つけてしまった方々に対して、深くお詫び申し上げます」とツイート。しかしこの「個人への加害性」も具体的に説明されておらず、不可解な騒動としか言いようがありません。


書籍に掲載されている「訳者解説」は山形さんらしいわかりやすい文体で、本文よりもこちらを読んだ方がすっきり理解できるでしょう。ただところどころに過激な批判が忍ばされており、これがなんらかの逆鱗に触れたのだろうということは想像はできます。


さて、そのうえで本書は読んでみれば実に素晴らしい内容だったというのが、わたしの読後感です。求めていた回答が、まさにこの本にあったからです。


わたしが「求めていた回答」とは何でしょうか。それは表現の自由をはじめとするさまざまな自由の権利を擁護してきたリベラリズムが、なぜキャンセルカルチャーを乱発して表現の自由を制限する行為に走るようになったのか。なぜ多様性を訴えていたはずなのに、特定の思想や党派だけを許容し、他の思想には排斥的になったのか。さらにはなぜリベラルと名乗りながら、抑圧的で保守的なパターナリズムのような言動の人が多いのか。


当初、わたしはこの謎を日本独自の現象なのかと考えていました。しかし2010年代終わりごろになって、米国から入ってくるさまざまな情報に触れ、特にキャンセルカルチャーで大学研究者などの座を奪われる人が続出している状況を見て「日本だけではなかった。アメリカでも起きているのだ。いやそれどころか、アメリカがこの逆回転の本場であり中心地ではないか」と認識を新たにするに至ったのです。


ではいったいなぜ、米国でも日本でもこんなことが起きているのか。それをポストモダンという現代思想の潮流から解き明かそうとしたのが、この『「社会正義」はいつも正しい』という本なのです。


山形さんのわかりやすい文章で翻訳されてかなり読みやすくなっていますが、それでも現代思想の用語などもあちこちに出てきたりするので、万人向けというほどではありません。訳者解説によると、本書はフィナンシャルタイムズの年間ベストブックにも選ばれるなど向こうではベストセラーになっていて、その流れで内容をよりわかりやすくかみくだいた「読みやすいリミックス版」も刊行されているそうです。


リミックス版もぜひ日本で出してほしいと思いますが、早川書房が平身低頭している状況では難しいのかもしれません。本書が絶版にされなかっただけでもまだマシだったと言えるのかも。


なので本メルマガでは、この本の内容を、ざっくりとかんたんに説明していきます。本書では反差別やマイノリティ支援などの運動をまとめて「社会正義」と呼んでいるので、それにならって左派的な社会運動をここからは「社会正義」と呼びましょう。


そもそも近代のリベラリズムが求めてきた人権や平等、差別の解消といった抑圧は、20世紀後半になってかなり解消されてきています。Z世代の若者たちとやりとりしていても強く感じることですが、彼らは物心ついたころから多様性の感覚がしみ込んでいて、そもそもマイノリティを差別しようという発想が存在しません。もちろん「無意識の差別」といったものはいまだ残ってはいるのですが、それはあくまでも無意識だからこそ残ってしまっているのであり、可視化されたとたんに多くの人によってその差別が認識されるようになり、差別解消へと向かうということも繰り返されています。


そのひとつととして、わたしも患者である潰瘍性大腸炎という難病への差別があります。発症した2001年ごろはこの病気があまり知られておらず、大腸から出血して下血するという症状を説明するとバカにされたり、一般的な胃炎とゴッチャにされて「お酒の飲み過ぎでしょう」「暴飲暴食止めなきゃ」と諭されたりしました。原因不明で完治しない難病であるという認識がないことが、このような無意識の差別につながってしまっていたのです。


しかし故安倍晋三さんがこの病気であったことなどから多くの人に知られるようになり、今では潰瘍性大腸炎がバカにされることはほとんどありません。無意識から意識に浮上すれば、「差別してはいけないのだ」という当然のことが認識されるようになるのです。


差別は今も完全にはなくなりませんが、「差別はいけない」という意識は消えてきている。差別意識は消滅しつつあり、「差別無意識」だけがいまも残っているといえばわかりやすいでしょうか。このようにして多くの差別意識は、21世紀に入ってだんだんと解消してきています。


そしてこのような社会が実現してくると、活動領域が自然と減っていくのが「社会正義」運動です。そして社会正義運動は歴史的に左派イデオロギーとも親和性が高かったのですが、1990年代の社会主義の衰退によってこちらも行き場がなくなってしまいました。反差別の活動領域が狭まるのは社会にとっては良いことのはずですが、運動体というのはそれとは関係なしに「当初の目的とは別に、みずから持続していくこと」を自然に望んでしまいます。


これは社会正義と直接はは関係ないのですが、たとえばアルミ缶のプルタブ回収運動がわかりやすい事例です。かつてアルミ缶飲料のプルタブは缶から外れる仕様になっていて、道ばたなどに放り棄てられるのが社会問題になっていました。そこで捨てられたプルタブを回収して集め、これを換金して車椅子を購入・寄付するという運動が始まったのです。


プルタブはその後ステイオンタブと呼ばれる、缶から外れないものへと進化しました。そこでプルタブ回収運動は終了しても良かったと思うのですが、今も続けているところがあるようです。以下は医師の屋代香絵先生のツイートです。





これがまさに「当初の目的とは別に、みずから持続」してしまう典型的なケースです。運動体というものは、ともすればこういう方向に傾斜しがちで、それが社会にとっては有益にならない結果を招いてしまうことは珍しくありません。


では「社会正義」運動の場合はどうだったのでしょうか。彼らが採用したのは、1980年代ぐらいに現代思想界を席巻したポストモダン思想を活用することでした。


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