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ツイッターで広がる「共同反芻」こそが、怒りや憎しみの原因だ 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.731

■特集 ツイッターで広がる「共同反芻」こそが、怒りや憎しみの原因だ〜〜〜なぜ共感し、寄り添うという善意が憎しみへとつながってしまうのか


イーロン・マスクの買収劇をきっかけに、ツイッターというプラットフォームの存在の意味があらためて議論になっています。

少し前に日経のオピニオンサイトCOMEMOに投稿したこの記事でも書いたのですが、ツイッターが最初に流行ったころは単なる「日常のつぶやきを放流するSNS」でした。古株の皆さんならおぼえているしょう、「ランチなう」とか牧歌的なことを書いていた2009年のころのことを。


それが2010年代になると、単なる「つぶやき」だけでなく、ニュースや政治的発言などが流通する巨大な情報流通インフラへと変わっていきました。その後押しになった最大の功績者は、リツイート機能でしょう。リツイート機能は、それまでのSNSとはくらべものにならないほどの非常な拡散力と素早い伝播力をツイッターにもたらしたのです。リツイートが日本語版でできるようになったのは2010年からです。


さらに2015年になると引用リツイートも可能になりました。引用リツイートの実装は、たいへん大きな意味を持っておりました。他人のツイートに対して、批評的に言及することが可能になったからです。それまでの単なるリプライだと、何の議論をしているのか第三者にはわかりにくかったのですが、引用リツイートなら参照元のツイートがつねに表示されるため、「何の議論か」が見える化されやすくなったのです。


これらの機能実装は、ツイッターをニュースのインフラとしてさらに押し上げる効果がありました。同時に日本では2010年代のこの時期、ちょうど新聞の購読部数が激減していった時期に当たります。2000年代までは国内の総部数が5000万部台を維持して、それほど大きな減少はなかったのですが、2010年を境に一気に減少幅が加速したのです。2021年にはなんと3300万部。3000万部割れも目前と言われています。


この新聞の衰退をカバーするようにして、「ツイッターでニュースを知る」という習慣が当たり前になっていったのが2010年代から20年代にかけての変化だったと言えるでしょう。


日本の場合には、政治状況の変化もあります。2011年に東日本大震災が起き、震災直後には被災や支援などのさまざまな情報がツイッターでシェアされ、また東京では帰宅難民になった人たちが帰宅ルートを探ったりトイレの場所を探したりするのにツイッターを駆使したこともあって、ツイッターは単なるつぶやきの遊びじゃなく生活必需品になるという認知が広まりました。


しかし一方で、福島第一原発事故をめぐって放射能デマを流すデマゴーグな人たちが大量に現れ、この人たちはツイッターを使って陰謀論などを大量にシェアし、さらには冷静な対応を呼びかける放射線医療や物理学の専門家たちを「御用学者」などとやはりツイッターで中傷し、といった現象が広範囲に起きました。


ツイッターには実用的な使い道もあるけれども、いっぽうでデマゴーグが人を惑わす道具にもなるという「諸刃の剣」であることが広く知れ渡ってしまったのです。


さらに2012年には、政治の世界で民主党政権が崩壊し、第二次安倍政権が成立。安全保障を中心に、戦後政治のわくぐみを現代に合わせて変更しようとした安倍元首相には左派の人たちが猛反発し、「ツイッターデモ」「ハッシュタグデモ」のようにツイッターを政治運動のツールとして使うことが広まりました。このあたりからツイッターは本当にきわめつけの政治性の高いメディア空間になっていき、昔の牧歌的な雰囲気は急速に喪われていってしまったのです。


とはいえ、リツイート機能の実装と政治状況の変化だけでは、ツイッターがこれだけ荒れ狂う場になってしまったことの説明としてはちょっと苦しいのではないかという気もします。他にも要素があるのではないでしょうか。


そこでわたしが注目しているのは、SNSによる「共感」の爆発性です。


いま話題になっている本『チャッター』は、頭の中に湧いてくるネガティブな独り言(チャッター)の問題について論じた本です。このチャッターに私たちが振り回されてしまう問題への対処法をさまざまに解説した内容なのですが、この中にわたしがまさに求めていた正解のようなものが書かれていました。


わたしたちは怒りを覚えたり、傷ついたり動揺したりすると、誰かにその感情を吐き出して理解して欲しいと望みます。それによって、その「誰か」に支えられ、心がつながり、帰属できていると安心するのです。これを『チャッター』では、「感情的な欲求」と呼んでいます。


しかし「感情的な欲求」だけでは、問題は解決しません。同時に、具体的にどうすれば対処できるのかという「認知的な欲求」も必要だと同書では説いています。


「わたしたちは解決しなければならない問題があると、内なる声に抑圧されつつも、当面の問題に取り組み、視野を広げ、最も建設的な行動方針を決定するために、ときには外部の助けが必要になる。これらはいずれも、支援してくれる人が優しくしてくれたり話を聞いたりしてくれるだけでは対処できない」


「私たちがしばしば他人を必要とするのは、自分の経験についての考え方から距離を置き、それを一般化し、変えるためだ。そうすることによって、行き詰まった反芻から抜け出し、言葉の流れを変え、気持ちを落ち着けられるのだ」(いずれも『チャッター』より)


ところがチャッターに心が振り回されていると、わたしたちは「認知的な欲求」よりも「感情的な欲求」を満たしたくなるという強いバイアスが働くそうです。「つまり動揺しているとき、わたしたちは実際的な解決策を探すよりも、共感してもらうことに集中しすぎる傾向があるのだ」と。


この話は、男女間の会話についての行き違いとしてもよく話題になりますね。女性から困りごとを相談されて、男性はすぐに解決法を呈示しようとしますが、実は女性の側はストレートな解決法は求めていないことが多い。単に話を聞いて、寄り添って欲しいだけなのだ……というよくあるパターンです。まさに「感情的な欲求」と「認知的な欲求」のニーズのかけ違いですが、これは実は男女に限らないことで、わたしたち皆に内在している本能のようなものなのかもしれません。


さて「感情的な欲求」を満たすため、いかにして自分が傷つき苦しんだのかを相手に話すと、相手はうなずいて共感してくれます。それによって相手と自分は、その傷つきや苦しみの源泉になったできごとや感情を「追体験」することになります。この追体験を『チャッター』ではすごいことばで呼んでいます。


「共同反芻」


一緒になって、痛みや苦しみをくりかえし味わっているというのですね。相談している自分は、あらためて痛みや繰り返しを追体験することで、心が再び動揺してしまいます。そして相談した相手も、痛みや苦しみを一緒に味わうことで、そこに一緒に飲み込まれてしまう。つまり痛みや苦しみの悪循環が起きてしまうというのです。


「実際には、共同反芻は、すでに燃え上がっている内なる声の炎に新しい薪を投げ込むのと同じことだ。語りを繰り返すと、不快な感情が甦り、鬱屈とした気分が続くことになる。こうした形で私たちに関わる人々のせいで、つながりや支援をいっそう感じる一方、計画を立てたり、当面の問題を創造的に組み立て直したりすることができない。その変わりに、ネガティブな感情や生物学的脅威反応が強まるのだ」


同書では言及されていませんが、この「共同反芻」がSNSと親和性が高いことは明らかでしょう。だれかが自分が誰かから受けた痛みや傷について投稿し、「感情的な欲求」を求める。それに応じて、たったひとりの相談相手ではなく、ツイッター上でフォローしているたくさんの人たちがこぞって共同反芻する。リツイート機能によってこの共同反芻はさらに拡大し、もっと多くの人へと伝染していく。これが爆発的な炎上につながるケースを、わたしたちはたくさん見てきています。


党派性が強ければ、同じイデオロギー仲間のあいだで「共同反芻」が広がりやすいことも容易に予想できます。これこそがまさに、怒りがなぜ党派性と結びつきやすいのかということへの解凍になっているのではないでしょうか。


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