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「弱者の味方をしていれば正義の味方でいられる」はもはや有効ではない 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.657

特集 「弱者の味方をしていれば正義の味方でいられる」はもはや有効ではない
〜〜「20世紀の神話」は今こそ終わらせるとき(第2回)

 20世紀の古い神話を解体しようというシリーズ、その第2回です。今回は、新聞やテレビの報道に今もよく見られる「弱者の味方をすることこそが正義」という姿勢に潜んでいる21世紀的な問題点について。そして「物価高が庶民の生活を直撃!」というこちらもワイドショーなどが今でも盛んに言いたがる決まり文句ですが、この考え方がいかに古いかを考えましょう。

(1)「弱者の味方をすることこそが正義」

 この言葉そのものが間違っているのではありません。弱者の味方をするのは当然のことですし、それを否定する人はいないでしょう。では、ここに潜んでいる問題点とは何か。

 それは「弱者」がいったい誰を指しているのか、ということが21世紀に入って大きく変化してきているということです。

 1990年代までの総中流社会では、マジョリティとマイノリティの違いは明快でした。このころは「標準家庭」という言葉があり、会社員の夫と専業主婦の妻、子ども2人の4人家族のことを指しました。増税などのニュースがあると、新聞やテレビでは「標準家庭では平均して年に1万2000円の負担増になります」とやっていたのです。

 すなわち、この標準家庭こそがマジョリティでした。そしてここからはじき出されている存在が、マイノリティ。それは障がい者であり、病気の人であり、在日朝鮮人であり、LGBTであり、時には働く単身女性などもそう捉えられることもありました。わたしはこの時代に毎日新聞で社会部記者をしていましたが、先輩や上司からは次のような理念を叩き込まれました。

「マイノリティの目線で社会を見よ。社会の外側から社会の内側を見て、光を逆照射することによって、この総中流社会に潜んでいる問題が見えてくるのだ」

 このような目線のとりかた、姿勢が今にいたるまでのマスコミの基調になっているのです。しかし時代は変わりました。もっとも大きい変化は、2000年代初頭の小泉純一郎政権で派遣法が改正され、非正規雇用がどっと増えたことでしょう。いまや労働人口の4割以上が非正規雇用になっています。

 さらには正規雇用の労働者であっても、コストカットと人員削減のあおりを受けて仕事はきつくなり、労働時間も増え、ブラック労働の問題も大きくクローズアップされるようになりました。終身雇用は事実上崩壊し、いつ会社が潰れるのか、いつ自分が失業するのかわからないという不安を多くの一般労働者が抱えるようになっています。

 つまり、かつてマジョリティ側にいた男性が時代の推移とともに徐々に「弱者」化しているということです。これは女性も同じで、もはや専業主婦はアッパーミドル以上の富裕層でしか維持できない上級なポジションになってしまっています。これによって総中流社会という地盤は崩壊し、上下の分断が進むことになったのです。

 このように20世紀とくらべると社会構造が大きく変化したのにもかかわらず、メディアの側は「マイノリティの目線で社会を見よ。社会の外側から社会の内側を見よ」という古い概念を引きずってしまっている。もちろんLGBTや障がい者の問題がなくなったのではありません。そうではなく、彼らだけが弱者なのではなく、社会のあらゆる層が弱者化していくという「総弱者社会」の到来に気づいていないのです。

 「総弱者社会」では、弱者とどう向き合えばいいのでしょうか。わたしは、ここで最も必要なのはリスクとベネフィットの均衡(バランス)であり、そのバランスをどう保つのかという「公正さ」だと考えています。

 総弱者社会のわかりやすい例を挙げましょう。トランスジェンダー女性の女子競技参加問題です。すなわち元男性であるトランス女性が、オリンピックなどの女子競技に参加することは是なのか非なのか?という問題です。

 従来の考え方では、トランスジェンダーはマイノリティです。マイノリティの権利は保障されなければなりません。だから自らを女性と自認するトランスジェンダー女性が女子競技に参加する権利は認められなければならない。しかしこれに対して、シス女性のアスリートからは反論が出ています。元男性で筋力など運動能力が非常に高いトランス女性が女子競技に出れば、運動能力に劣るシス女性は入賞できなくなってしまうという反論です。

 この場面における、トランス女性アスリートとシス女性アスリートの関係では、どちらが弱者なのでしょうか?

 トランスジェンダーについては、別の側面もあります。一部のフェミニストからトランスジェンダーが差別されているという問題で、TERF(ターフ、トランスジェンダー女性に排斥的なラディカルフェミニスト)という用語まであるほどです。これは公共空間、とくにトイレや更衣室、公衆浴場などにトランスジェンダー女性が入ることは許されるのか?という文脈で議論されているのですが、なかにはかなり激しい口調でトランス女性を罵っている過激なフェミニストもいます。この場合、どちらが弱者なのでしょうか?

 かといって、ここで「弱者ランキング」を作成するのは意味があるとは思えません。そんなランキングは、おかしなヒエラルキーを社会に持ち込むだけです。トランスジェンダーはある場面では弱者であり、別の場面では強者にもなり得る。そういう理解が最も公正なのではないでしょうか。

 だいぶ前の話になりますが、朝日新聞がある生活保護家庭の家計について記事にしたことがありました。2013年3月のことです。「貧困となりあわせ」と題されたこの記事によると、41歳の母が14歳の長女と11歳の長男を育てる母子家庭で、受給しているのは月額29万円。使い道の内訳も掲載されていて、習い事などの娯楽費に4万円、衣類代に2万円、携帯電話代に2万6000円、固定電話代に2000円。この朝日の記事が出ると、「私の給料より多い」「何で毎月2万円も服が買えるんだ」とネットで批判の声がたくさん出ました。

 この生活保護費や使い道が妥当かどうかは、それぞれの事情があるので何とも言えません。しかしこのケースから見えてくるのは、「生活保護の母子家庭=弱者」「会社員=強者」という20世紀的な構図が崩れてきていて、ブラック労働で給与も減っている一般労働者のほうが生活保護家庭よりも悲惨な生活を強いられていることだってある、ということです。

 もうひとつのケースを考えましょう。しばらく前に、車椅子の女性がJRの無人駅で下車しようとしたところ「乗車拒否」にあったとブログで訴えたことがありました。バリアフリーな社会を目指すのは当然のことですし、車椅子の女性が弱者であることも誰も否定しないでしょう。しかしこのブログの書き方からは、JRの駅員にかなり強硬な調子で対応を求めているようにも見えかねず、結果としてネット上で女性はかなり批判されることになりました。

 これはおそらく、エッセンシャルワーカーとして鉄道というたいへんな労働に日々従事している駅員さんに同情する人が多かったということなのでしょう。もちろんすべての無人駅にエレベーターを設置するなどユニバーサルな対応をすることを鉄道会社は求められていますが、それを決定するのは経営者や役員であって、末端の駅員ではない。

 ではこの場面において、弱者だったのは車椅子の女性かそれとも末端の駅員か。どちらでしょうか?

 トランスジェンダーの問題と同様に、これにも答はありません。弱者かどうかの立場はその都度の場面によって、関係によって、コロコロと変わるのです。それが総弱者社会の構図なのです。

 だから私たちはこの21世紀の社会において、その場面場面に応じて「誰が弱者なのか」「なぜいま公正さが失われているのか」「いったいどうすればバランスをとれるのか」ということを都度都度考えて、検討していかなければなりません。それが現代の社会における公正さだと思います。

 しかし前世紀の価値観から抜け出せない新聞テレビや一部の社会運動は、いまも「絶対的な弱者」観に頼り、「新しい弱者」に目配せできていません。社会に対する観察の射程が短すぎるのです。「弱者」を固定的なものとしてとらえるのは、前世紀の価値観です。つねに「こぼれ落ちている弱者はいないか」「弱者が転じて強者となって抑圧になっていないか」ということを私たちはつねに振り返り続けなければならないのです。

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