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タワマン文学とマイルドヤンキー文化の断層が21世紀の日本には広がっている 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.741

特集 タワマン文学とマイルドヤンキー文化の断層が21世紀の日本には広がっている〜〜〜地方のヤンキー文化と、そこからこぼれ落ちるホーボーたち


インターネットが普及してさまざまな知識が得やすくなった反面、わたしたちの認識は自分の視界に入るところに限定されてしまっている状況を近年強く感じます。いまの20代〜30代の都市生活者の多くは都市出身で、地方生活がどんなものなのかという肌感覚がわからない。いっぽうで地方に住んでいる人たちはもはや都市への憧れなど持っておらず、多くが自分たちの仲間の中だけで充足している。


日本は1980年代ごろまでは「総中流社会」と呼ばれていましたが、この総中流という幻想が崩壊して社会が多様になりさまざまなグラデーションができているのですが、ところが「自分のいる場所」の外側に対する関心は逆に失われているように感じます。日本社会を「われらの社会」と捉える概念も薄れてきている感があります。


そこで今回は、21世紀の現在の社会がどのような多層構造になっているのかを解きほぐしてみることにしましょう。


まずは映画の話を入り口に。


海外から入ってくるさまざまな映画を見ていると、近年は「欧米中心の世界」というのが急速に薄れてきていることを感じます。欧米だろうが東南アジアだろうがアフリカだろうが、どこに住んでいても同じような都市型のライフスタイルがあり、同じような価値観の人がたくさんいる。そういうことをあらためて強く感じるのです。


1980年代ぐらいまでは多くの日本人はアメリカ映画やフランス映画を観て、白人社会にカッコ良さを感じて憧れを抱いていました。いっぽうで東南アジアやアフリカなどの第三世界の映画に対しては、自分たちの生活とは違う貧しく抑圧された生活に驚き、ある種の優越感とともに鑑賞していたことは否定できないでしょう。


たとえばコカ・コーラの日本法人は、1960年代ぐらいからテレビCMを放送し続けています。わたしの手もとに『The Coca-Cola TVCF Chronicles』という2枚組のDVDがあるのですが、これを観ているとわかるのは、1980年代なかばごろまではCMの登場人物は大半が白人もしくはハーフの男女ということ。これが80年代末のバブル期になってくると、飛ぶ鳥を落とす勢いだった当時の『「NO」と言える日本』(1989年に出た石原慎太郎さんと盛田昭夫さんの共著ベストセラーのタイトルです)の影響もあってか、純日本人が中心のCMへと変わっていったのです。


2000年代に入るとグローバリゼーションが進み、それまでは欧米に独占されていた感のあった都市文化が世界中に広がっていきます。たとえばイラン。それまでのイラン映画が貧しい人々を描くことが多かったのに対し、2000年代のイラン映画は都市中流層を多く描くようになります。2009年に『彼女が消えた浜辺』という映画がありました。この映画について、沢木耕太郎さんが朝日新聞の連載コラム『銀の街から』でこう書いていたのを記憶しています。


「登場人物は、これまでの多くのイラン映画と違って、都市の貧困層でもなく、田園地帯の農民でもない。世界中のどこにでもいるような、高等教育を受けた中間層の男女である」


「もちろん、女性たちはチャドルで髪を隠している。また、エリが消えてから、混乱した彼らはさまざまな言葉を投げ掛け合い、その心の底に抱いている伝統的な価値観のようなものを露呈していくことになる。それでも、これが条件なしの『普通』の映画であるという印象は消えない」


沢木さんが言う「普通」というのが、「高等教育を受けた中間層」を指しているのは間違いありません。つまりイラン映画だろうがアメリカ映画だろうが、あるいは日本映画だろうが、同じような「高等教育を受けた中間層」を描き、そうした層の人たちが共感できる物語というのが2000年代になると中心になっていったのです。


いっぽうで、国内の格差は前世紀よりも拡大しています。経済的な格差だけでなく、文化的な格差も広がっているのです。たとえば「タワマン文学」。ツイッターで人気の麻布競馬場さんや窓際三等兵さんが中心になって盛りあがって来た文化ですが、これはまさに21世紀の日本の都市中流層の悲哀や日常を見事に代弁していると言えるでしょう。


これに対して、以下の連投はまさに21世紀の田舎のマイルドヤンキー的な感覚を表現していると言えるでしょう。


こういうヤンキー的な感覚とタワマン文学の間に横たわる溝には、日本の文化的格差の片鱗が見えると言えるのではないでしょうか。「高等教育を受けた都市の中間層」と「教育を受けていない地方の労働者層」ではまったく違う文化圏域を生成するようになってきているということなのです。身も蓋もありません。


わたしはしばらく前に、群馬県に住む20代後半の若者を取材したことがあります。彼は典型的なマイルドヤンキー。ここでは仮にA君と呼びましょう。A君は、小さな工場で働いています。収入は300万円に満たないけれど、恋人もいて、人生には充足しているように見えます。


A君は生まれ育った土地にずっといて、中学や高校のころからの仲間たちが、周囲にはたくさんいると言います。その仲間の数を訊ねると、おおよそ40人。最初は数人の小さなグループからスタートしたが、数年のうちにここまで大きくなったとか。暴走族や暴力団のような反社会的要素はなく、ただひたすら集まって騒ぐだけの集まりです。


「集まったときに何を話すの?」と聞いてみると、A君はこう言いました。


「音楽の話とか、ゲームの話とか」「みんなでゲーム機を持ち寄って、一緒に対戦したりとかさ」


仲間が溜まり場にしているカフェが地元にはあって、仲間の中でもリーダー的存在の兄貴が経営しています。A君はとくだんの用がなくても頻繁に店に立ち寄るといいます。


「ここに来れば誰かいるし、常につるんでいたいっていう気持ちがあるんだよね」


「引っ越しの時は、誰かがトラックを調達して手伝いに来てくれる。親が病気で倒れたら、すぐに看病に駆けつけてくれる。失恋したら心配するのを通り越して、『おまえが悪いんじゃないのか』って思い切り説教されたり(笑)。ありのままの自分でも、すべて受け入れてくれる仲間がそこにいるって感じかな。話したいって言えば、一晩中オールでつきあってくれる。そういう仲だ」


仲間意識が非常に強いのが、地方に住むヤンキー気質の若者たちの特徴といえるでしょう。「東京に出て行こうとか、そういう気持ちは?」と聞くと、A君は「とんでもない」という顔をして首を横に振りました。


「東京に出て行ったら店とかたくさんあるかもしれないけど、カネがかかるよね? おまけに仲間は誰もいない。地元にいれば仲間はいるし、別に生活には困らないし、それで十分。別に将来何かになりたいとか思ってないし、いまの状態が永遠に続けばそれでいい」


「いまの状態が幸せってこと?」とさらに聞いてみると、こういう答え。


「うん、そうなんじゃないかな……家族がいて、恋人がいて、仲間がいて、そういうのが自分の価値だし」


田舎を脱出した同級生たち、つまり東京の大学などに進学して出て行った上昇志向の若者たちに対してはどう思っているのか。そこに敵意を感じるわけでないようで、かといって仲間意識を持っているわけでもなく、ただ「別の世界の人間」と思っているようでした。


イギリス階級社会の「アス・アンド・ゼム」という言葉があります。直訳すれば「俺たちと奴ら」。「俺たち」は労働者階級、「奴ら」は中流・上流階級。この言葉は労働問題の用語としては、「奴らは信用できないが、俺たちは団結して戦うんだ」という労働組合の階級基盤を説明する用語として使われてきたし、あるいは労働者階級の人生観を説明する用語にもなってきました。


「あいつらはカネもあっていい生活をしているかもしれないが、毎日追われて大変そうだな。俺たちはカネはないが、仲間がいて毎日楽しいぜ」


A君の生きている世界では、まさにこの「アス・アンド・ゼム」の人生観が一般化しているように感じます。強烈な上昇志向を持ちにくくなった21世紀の日本では、いま自分がいる場所でいかに充足し、仲間や家族と心地良く暮らしていけるのかが大事ということなのでしょう。


とはいえ地方出身の若者の全員が、A君のように地元のヤンキーとして楽しく暮らせるというわけではありません。


2000年代に流行った漫画作品のひとつに、『闇金ウシジマくん』があります。。衝撃的なまでにリアルに多重債務者の世界を描いた作品で、フリーター青年や見栄っ張りのOL、まじめな会社員、うっかり株の信用取引に手を出してしまった高齢者など、さまざまな人たちが闇金に飲み込まれ、身を持ち崩して破滅していく姿を、眺めているだけで嫌な気分になる生々しい筆で描き出しています。


このシリーズの中に、イベントサークルを運営する「ギャル汚くん」の登場する回があります。おそらく2003年の早稲田大学「スーパーフリー事件」を題材にしていると思われ、「ワダさん」という呼び名で一躍話題になった事件の首謀者は強姦罪で懲役14年の実刑判決を受けています。1974年生まれといいますから、今は50歳近く。いまは社会のどこかで慎ましく暮らされているのでしょうか。



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