雑談への地平を拓くクラブハウスは「拡散力ヒエラルキー」に屈してはならない 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.644
特集 雑談への地平を拓くクラブハウスは「拡散力ヒエラルキー」に屈してはならない〜〜クラブハウスと音声メディアの未来(第5回)
雑談ができる音声SNSのClubhouse(クラブハウス)についての論考シリーズ、第5回の完結編です。これまで、以下のように展開してきました。
(1)音声SNSには、雑談テクノロジーとしての大きな潜在可能性がある。
(2)これが普及するためには、リアルタイムで集まる必要があるという「同期」の性質を乗り越え、非同期的な機能が求められるだろう。
(3)いまのクラブハウスは「結束型」のSNSであり、ツイッターとは異なる閉鎖的だが、親密な空間を作りやすい。
(4)テレビはかつて生々しい「一過性」のメディアだったが、ヒエラルキー構造へと変化した。音声メディアはその轍を踏まないことが重要である。
雑談の面白さというのは、そこにヒエラルキー的な上下関係が介在しないところにあります。関係が対等=フラットであり、即時性があって、情報と情報が混ざり合い、そこでさまざまなひらめきが生まれる。そういう雑談は、時にはイノベーションへの道さえ切りひらいてくれます。
つい先日邦訳が刊行されたマット・リドレーの新著『人類とイノベーション 世界は「自由」と「失敗」で進化する』(ニューズピックスパブリッシング)はとても刺激的な本で面白く読みました。
★『人類とイノベーション:世界は「自由」と「失敗」で進化する』
イノベーションが過去にどのように起きてきたのかを、これでもか!というぐらいにたくさんの事例で解説している本なのですが、後半ではイノベーションにどのような要素が必要なのかということを論じています。イノベーションは偉人がつくるのではなく、突発的なひらめきでもなく、連続したプロセスである、という非常に面白い論考が展開されているのですが、その中に鉛筆をつくる話が出てきます。
これは経済学者のレナード・リードが書いた「私は鉛筆」というエッセイの紹介です。邦訳されてるかたもいますね。以下に示します。
★himazu archive 2.0 - われは鉛筆
鉛筆という単純な道具も、たくさんの人によってつくられています。木を切り倒す人や黒鉛を採掘する人からはじまって、鉛筆工場の人や営業マンやマーケッターまで、さらにはそれらの人に食事を供給する人まで含めれば、膨大な種類の人たちが鉛筆に関係している。でもどの人もひとりとして、「自分ひとりだけで鉛筆が作れる人」というのはいません。
リドレーはこう書くのです。「知識は頭のなかではなく、頭と頭のあいだに蓄えられているのだ」
イノベーションも同じで、つねにそれは人と人の協力で起きるといいます。「一人が技術的な突破口を開き、別の人がその製造方法を考え出し、三人目が普及するくらい安くする方法を練り上げる。全員がイノベーションプロセスの一部であり、イノベーション全体を達成する方法は誰も知らない」
こういう発火を引き起こすためには、フラットな関係が必要です。リドレーは、巨大な帝国はイノベーションを引き起こしにくく、たとえば中国ですでに発明されていた「印刷」の技術がヨーロッパで花開いたのは、当時の中国が巨大帝国だったのに対し、ヨーロッパは小国に分裂していたからだと指摘しています。印刷を発明したグーテンベルグも、聖書を印刷してキリスト教に革命を起こしたマルティン・ルターも、よりよい環境を探して他の国に次々移動できたから、目的を遂行することができました。中央集権的な帝国では、弾圧は徹底的なので社会から逸脱した事業は実現できなかったでしょう。
これに対して、オスマン帝国やインドのムガール帝国は、普及してきた印刷技術を禁止し、3世紀以上も印刷の流入を食い止めることに成功しました。中央集権の世界では、つねに古く堅固な文化がイノベーションを阻害するのです。逆に多様な小国や多様な都市が存在し、多様性が確保されていれば、人はそれらのあいだを自由に移動することで、人と人が出会い、イノベーションを発火することができるということ。
さて、ではインターネットはこのようなイノベーションの孵卵場になりうるでしょうか。
ネットは普及しはじめたころ、「総発信社会」「総表現社会」と呼ばれ、リアル社会での権威やヒエラルキーが存在しないところで人々が自由にフラットに発信できるすばらしい場であると見られていました。当時のネットというのは、その意味である種のこじんまりとしたユートピアだったようにも思えます。
しかしネットが社会にやってきて四半世紀、SNSが広まり始めてから10年余が経ってみると、その様相はかなり変化してきています。その最も大きな変化は、コンテンツ力ではなく拡散力だけを持つ異能な人たちが増えてきたということでしょう。
もともとネットの魅力というのは、「『誰が言ったか』ではなく『何を言ったか』が重視される世界」というところにありました。権威や名声ではなく、表現の中身やコンテンツが問われたのです。
しかしこの良き風潮は、やがて壁にぶつかります。そのきっかけは日本では東日本大震災だとわたしは捉えています。デマやおかしな言動を振りまく人たちがたくさん現れ、しかもその真偽を判断するのが難しかったからです。実際、震災後のかなりの期間、放射能デマに振り回されて信じ込んでしまう人が増えてしまったのは、日本社会には大きな損失でした。
そういうなかで、情報の真偽を確かめるためには「誰が言ったか」を問わざるをえなくなった。「何を言ったか」だけでは判断できなくなってしまったからです。
これに加えて、拡散「だけ」が強い人たちが現れてくるという現象が起きてきました。
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