見出し画像

能力があれば金持ちになれる社会は、新しい封建社会である 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.655

特集 能力があれば金持ちになれる社会は、新しい封建社会である
〜〜現代社会における「実力主義」の困難さを考える(第3回)

 才能があり努力すれば、だれもが地位や高収入が得られるというメリトクラシー(実力主義)。さらには学力だけでなく、コミュニケーション能力や独創性や問題解決能力、倫理観などその人の内面までも包括的に評価されてしまうハイパーメリトクラシー(超実力主義)。

 どちらも、家柄や出身階層だけでひとりの人生が決められてしまった封建的な時代から見れば、ずいぶんな進歩だったと言えるでしょう。家柄なんか関係なしに、実力さえあればのし上がれるのですから。

 しかしメリトクラシーは、前時代的な封建主義などすでに終わってしまった現代においては、格差を解決する手段にはなりません。それどころか、逆に格差を正当化する手段になってしまっている。「オレが高い収入を得ているのは当然だ。オレには能力があるからだ」「あの人たちが貧乏なのは仕方ないでしょう。だって能力が低いから」。

 なんてことはない、メリトクラシーはそのまま自己責任論になってしまうからです。つまり、メリトクラシーは成功者が自分を正当化する根拠になるのと同時に、貧困層が貧困であることを正当化して押しつける根拠にもなってしまっている。

 そもそもメリトクラシーという言葉を1950年代に造語したイギリスの社会学者マイケル・ヤング本人が、そういう意味あいでメリトクラシーということばを作っていたのです。能力でのし上がった新しい上流階級も、家柄がよいから豊かだった古い上流階級も、どちらも一般労働者をバカにしている点において道徳的には何の違いもないということをヤングは言いたかったのです。

 とはいえ、メリトクラシーは機会平等をもたらすものではあり、その点において「ちゃんと機会を与えてるじゃないか!」と反論する人もいらっしゃるでしょう。「結果の平等は悪平等であり、みんなが努力しなくなってしまう」と考える人もいると思います。しかし、本当にそうでしょうか。

 実は「能力」でさえも、実は家柄に左右されるということがわかってきています。日本でも東大生の親の平均年収は1000万円近いという統計が話題になったり、地方の一般家庭からは難関大学に進学しにくくなっているということが最近は指摘されるようになりました。お金があるかどうかで良い教育を受けられるかどうかが決まり、貧困層の子どもは潜在的な能力は持っていたとしても、その能力を磨く機会があまりにも少なく、結果として貧困の再生産がされてしまう。

 つまり家柄が良くなければ、能力は高められない。能力の高い人は、家柄の良い人が多い。そういう身も蓋もない状況になってしまっているのです。

 イエール大学の法学者ダニエル・マルコビッチは『The Meritocracy Trap(メリトクラシーの罠)』(2019、未邦訳)という本で、こう指摘しています。

「アメリカのメリトクラシーは、エリートの子弟が富裕層として集中するメカニズム、富と特権の世襲、世襲階級という、まさにそれが闘うはずのものを作り上げてしまった」

 封建制度から脱却するための能力主義だったのが、新しい封建主義をつくってしまっているということなのです。マルコビッチは「メリトクラシーは、中間層をルンペンプロリタリアート(底辺層)におとしめた」と指摘し、現在のアメリカの労働市場は「ウォルマートの出迎え係」と「ゴールドマンサックスの金融マン」に二分されてしまっているとまで書いています。

 つまりメリトクラシーは機会平等ですらないのです。

 では、このメリトクラシーの新封建主義をどう打破していけばいいのでしょうか。

 さまざまな意見があります。たとえば次のようなもの。

(1)基礎学力を底上げしよう

 全員が能力を高めていけば、包摂されるはずという牧歌的な考え方ですね。しかし結局はこの考え方も、「有能であれば包摂される」という縛りから逃れられていません。基礎学力がどうしても上げられない子どもはどうすればいいのでしょうか?

(2)「能力」を再定義すれば良いのではないか

 こう考えたのがたとえばフィンランドなどで行われた教育改革で、学力にコミュニケーション能力などを加えて能力を測る方向へと進みました。しかしこれって、要するにど真ん中のハイパーメリトクラシーです。これでは問題解決にはなりません。

 「能力」というものを、もっと広くとっていくことを考えた方がいいのかもしれません。

 日立製作所のデータサイエンティストである矢野和男さんが長くおこなっている、ハピネス(幸福度)の研究というものがあります。これには「ハピネス・メーター」という胸につけるバッジのような電子機器を使います。ハピネス・メーターを使うと、この端末を装着した人どうしで、いつ誰と誰が対面でコミュニケーションを取ったかを10 秒ごとに記録し、また上半身がどのように動いたかを加速度センサで記録することができます。

 矢野さんの新著『予測不能の時代』によると、長年にわたってハピネス・メーターで取得したデータは、トータルで5000人日を超え、データ数としては50億点を超えているとか。すごいですね。

★『予測不能の時代:データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ』
https://amzn.to/3vwWEIh

 ハピネス・メーターから取得したデータに加えて、メーターを装着しているオフィスワーカーたちに質問用紙を配って、そのときどきにどのぐらいの幸福度があったかという相関関係を調べました。つまり同僚や上司部下との対面コミュニケーションの数や、歩行や上半身の動きなどがハピネス(幸福度)とどれぐらい関係があるのかを調べたのです。

 ここで気をつけておかなければならないのは、ハピネスというのは「楽ちん」な状態を指すわけではないということ。単に安楽なだけだと、それは退屈をともなうため、必ずしも幸福度を高めないそうです。幸福感を得るためには、背伸びして達成できるようなタスクが必要で、そのタスクを一生懸命やっているような状態が必要になる。しかし逆にタスクの挑戦レベルが高すぎると、今度は不安感や危機感のほうが高まってしまい、能力が発揮できなくなるので、幸福度も下がる。

 だから幸福であるためには、自分の身丈にあったほどよい高い目標があり、それにまい進していることが大事ということなのですね。

 さてハピネスと身体の動きの相関関係に話を戻しましょう。矢野さんが調べた結果は、驚くべきものでした。身体の動きの「持続時間」がハピネスと相関関係があることがわかったのです。動きには歩行や発言、うなずき、タイピングなどさまざまなものが含まれますが、これが長く持続する人の方が、ハピネスが高い。逆にハピネスの低い人は、動きが持続しにくい。

 ポイントは、これは動きの「持続時間」であって、運動の回数や重さではないということ。外回りの営業マンは運動数は内勤の仕事よりもずっと多いと思いますが、だからといって営業マンのハピネスが大きいわけではない。外回りだろうが内勤だろうが、身体の動きそれぞれの「持続時間」が長い方がハピネスが大きいということのようです。

 ではこのハピネスは、生産性にどう影響を与えるのか。矢野さんは、あるコールセンターを舞台に、200人あまりの従業員にハピネス・メーターを1ヶ月装着してもらって、ハピネスと生産性(電話営業での受注率)の関係を調べたのです。

 ハピネスの大きさは毎日変動します。そしてわかったのは、ハピネスの従業員全体の総量が大きい日は、小さい日にくらべて、なんと生産性は34%も高いということでした。

 そしてこのコールセンターでハピネスの大きさを決めているのは、休憩中の従業員がどのぐらい雑談を活発におこなっているのかということだったそうです。みんなが休憩中に雑談をはずませている日には、全体のハピネスが高くて受注率も高い。重要なのは、たくさんしゃべっている人だけが生産性が高いのではなく、従業員みんなの生産性が上がるのだそうです。従業員の個人プレーにみえる電話営業のような業務でも、じつは互いに影響を与え合っているということなのですね。

 さらに深掘りすると、みんなが雑談をはずませている日には、その職場のスーパーバイザー(監督者)がみんなに声がけをしていることもわかったといいます。スーパーバイザーは自分で電話営業を行って受注しているわけではないけれども、雑談という一見なんの価値もなさそうなことを刺激することで、みんなの生産性を上げているということです。

 こういう場面は、実はわたしたちの仕事のありとあらゆるところに潜んでいるのではないでしょうか。スーパーバイザーのような管理職じゃなくても、誰でもいいのです。毎朝たちよる近所のコンビニのいつものお兄さんが、ちょっとした心遣いをしてくれるだけで、なんとなく気分がほぐれて、仕事のやる気がちょっと高まる。あのお兄さんがいない日はなんだかうまくいかないなあ…なんていう経験は誰にでもあるのではないでしょうか。お兄さんがあなたの生産性を向上させているのです。

ここから先は

11,248字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?