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弱者切り捨てのリバタリアンと「みんなで貧しくなれば良い」左派言説は似ている 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.698

特集  弱者切り捨てのリバタリアンと「みんなで貧しくなれば良い」左派言説は似ている
〜〜より良い社会は優秀な人たちのためだけにあるのではない


最近流行りのウェブ3は「アンチ中央集権」「自律分散」を指向しています。しかしそれは現実的ではなく(だってビットコインだってNFTだって、購入する人が増えて取引所が巨大化していけば、取引所自体が中央集権になって次世代のGAFAになるのは明らか)、本当に求められているのは「参加」ではないかということを先週書きました。


「アンチ中央集権」「自律分散」というワードでウェブ3を語る人がウェブ業界界隈に多いのは、このジャンルの起業家たちにリバタリアンが非常に多いことと無縁ではないな、そう私はとらえています。

リバタリアンというのは、リバタリアニズムという政治理念を支持する人たちです。じゃあリバタリアニズムとは何かというと、完全なる個人の自由を実現し、政府が個人の活動に口をはさむことは最小限にしようという考え方です。個人の自由な活動によって会社を興したり市場活動を行ったほうが、政府がコントロールするよりもずっとうまく行くと彼らは考えています。

だから政治が経済や富のありように介入するのもリバタリアンは否定的です。たとえば岸田政権が力を入れようとしているような「富の再配分」や、「積極的格差是正措置」と訳されているアファーマティブ・アクションには否定的です。これは性別や人種などで教育・就職などに差別があるということを背景にして、差別を受けている人を優先的に就職できるようにしたり、大学に入れるようにするという措置のことです。これに対してリバタリアンからは「逆差別になりうる」という批判が多く出ています。

ここで少し補足して説明しておくと、リバタリアンは「自由主義」と訳されることもあるのですが、そうするとリベラリズムと混同してしまいそうです。リベラリズムも邦訳すると「自由主義」ですから。

整理しておきましょう。

そもそもリベラリズムのほうがリバタリアニズムよりもずっと歴史が古いのです。


この本によると、リベラルという言葉は古代ローマ時代からああり、市民として徳を発揮し、共通の善への献身を示し、そしてお互い様の精神 の重要性をわきまえていることだったと言います。

権威ある『オックスフォード英語辞典』でも、18世紀なかごろまではリベラルという単語の意味が「先入観、偏見、あるいは意固地から自由であること、心が開けていること、寛容であること」とされていたとか。

最近の攻撃的で守旧的な「リベラル」の人たちとくらべると、まったく異なる意味で使われていることに驚かされますね。しかしこれは実は日本だけの話ではなく、18世紀末のフランス革命の時代になると、リベラルは王政の抑圧に対する抵抗のイデオロギーとして使われるようになりました。より積極的で

つまりは、王の恣意的なふるまいによる政治ではなく、法の支配・市民の平等・憲法に基づいて代表制によって政治を行うこと・表現や宗教の自由などの数々の権利、などがリベラルの原理になったのです。そしてこれは今にいたるまでのリベラリズムの基調になっています。

しかしこのような「抑圧からの解放」としてのリベラリズムは、現在では消極的リベラリズムとも呼ばれています。なぜなら積極的な目的を持っているわけではなく、「抑圧から解放されたい」という目的ナシの思想だから。これに対して、19世紀後半ぐらいになってくるとアメリカなどでリベラリズムはさらにもう一歩踏み込んで考えられるようになり、「抑圧からの自由」ではなく「より良い生活を送ることができる自由」「幸せをつかむ自由」という自由もあるはずだ、とされるようになりました。

これが「積極的リベラリズム」と呼ばれているもので、社会福祉の充実や弱者の救済などもリベラリズムに組み込んでいったのです。

さて、じゃあリバタリアニズムとは何かと言えば、これはまさにリベラリズムが消極から積極になり、社会福祉や弱者救済に踏み込んでいったことに対して、「いやいや、それは本来の自由主義と反していないですか?」と異議をとなえるところからスタートしているのです。つまり社会福祉や弱者救済というのは、個人個人が自由に活動して得た富を国が勝手に再配分するもので、これは自由を侵害しているのだ、という論理です。

だからリバタリアニズムはリベラリズムとの違いを際だたせるために「完全自由主義」「自由至上主義」などと邦訳されることもあるようです。

日本の起業家や経営者には、このリバタリアニズムを志向している人は非常に多いというのが、わたしの個人的な観測範囲での印象です。以前、ある継続的な議論の場でわたしがリバタニアリズムを「弱者救済の視点に乏しすぎる」と批判したところ、会合が終わってから旧知の40代経営者にこう言われたことがあります。

「佐々木さん、リバタリアニズムを批判する人がいるなんて思いも寄りませんでしたよ。いやあ今日は勉強になりました」

リバタニアリズムは、弱者救済を無視しているのでしょうか。そういうわけではありません。リバタリアンは弱者救済を否定しているのではなく、「政府による弱者救済」が間違いだと考えているのです。政府が金持ちから税金を徴収して貧乏人に再配分するようなやりかたは、効率が悪く、公正な分配にならないと考えているのです。

政府による救済ではなく、前澤友作さんがツイッターでお金を配っているような私的なやりかたで弱者救済したり、さらにはテクノロジーの進化によって弱者が救済されることのほうがベターであるというのが、リバタリアンの考え方です。富裕層から過剰に徴税すると、彼らはやる気がなくなってしまって、イノベーションを生み出さなくなってしまう。そうすれば一般の人々の生活も向上できなくなり、結局は弱者の救済にもつながらなくなる。

これは一見してもっともらしいロジックです。たしかに新しいテクノロジーとそれにともなうイノベーションは大切です。スティーブ・ジョブズがスマートフォンという概念を発明し、製品を投入したことによって、生活を助けられた人は無数にいるでしょう。リバタリアンの中には、「そうはいっても現代の貧困層の生活レベルは、古代の貴族の生活よりも良好だ」とまで言う人もいます。

しかしいっぽうで、再分配のない自由放任な経済が果たして弱者を救いきれるのかと言えば、そんなことは現実にはあり得ない……ということはいままさにアメリカなどで進んでいる悲惨な格差の事態が証明しています。

GAFAなどの超巨大化したビッグテックは、少人数で運営されており、たいした雇用も生み出していません。アップルの社員も、その多くがアップルストアの従業員だったりします。そこがかつて「多国籍企業」と呼ばれながらも、母国にも大量の雇用を生み出していたGMやトヨタ、GEのような企業とは違うところです。

経済学者トマ・ピケティは世界的ベストセラーとなった著書『21世紀の資本』で、資本所得のほうが給与所得を上回ると述べ、GAFAのような企業からは、国際的な枠組みで税を徴収する仕組みを作るしかないと指摘しています。しかし現実には、企業側がそれに応じるわけがないという状況です。

アメリカでは、ビッグテックに富が寡占した結果が端的に表れています。たとえばシリコンバレーのお膝元・サンフランシスコでは住宅価格が高騰し、ぜいたくな生活を送るビッグテック社員がいる一方で、同時にホームレスも非常に多く、町のあちこちを徘徊している。きらびやかなビルとホームレスの多さは、まさに格差社会の権化と言えるでしょう。ビッグテックの一角であるセールスフォース社の創業者マーク・ベニオフはこういう事態を憂慮していて、著書『トレイルブレイザー』でこう書いています。

「サンフランシスコのセールスフォースタワーのオハナフロアでは、バリスタが淹れたエスプレッソをすすり、街の景色を見ながら、ピアノの演奏を楽しんでいる。その下の歩道では、数千人ものホームレスが、家賃数百万ドルのコンドミニアムと豪華なオフィスビルの間で物乞いし、ゴミ箱を漁っている」

「デジタル革命が富をもたらしたのに、テクノロジー業界では誰ひとり、自分が生み出すのに一役買った富の明白な副産物に対処するために十分取り組んでこなかった。高級取りのエンジニアと経営幹部が、不動産価格を天文学的に押し上げた。2019年、ワンベッドルームのアパートの家賃は平均3700ドル、住宅価格の中央値は160万ドル。勤勉な中流層は誰も市内に住めなくなった」

そこでベニオフは、サンフランシスコの抜本的なホームレス対策法案を提出します。市内の大企業の法人税を引き上げ、ホームレス問題に対する恒久的な解決策の財源にあてる。年間売上5000万ドル以上から0.5%の税金を徴収し、ホームレス向けの住宅やサービスの財源として年間3億ドルを捻出するというものです。

しかし法案に反対する企業もあったとか。シリコンバレーの理想とか「邪悪になるな」とか、ビッグテックの人たちからはすでに理念が吹っ飛んじゃってるんじゃないかとさえ思います。

ベニオフはさらにこう書いているのです。

「CEOには二種類いる。世界の状況をより良くすることが自分のミッションの一部だと思っているCEOと、株主のために結果を出すこと以外には責任がないと感じているCEO。過去は後者のほうが遥かに多かった。政治プロセスに関与するのはほぼ完全に自己利益のためのみ」

雇用の提供や差別の撤廃、汚染の回避などの責任は企業にあると主張するベニオフのような経営者は、リバタリアンから見ると「自由社会の基盤を損なう」と思われているというのです。

このようにリバタリアンの考えに欠落しているのは、「弱者をどう包摂するか」という視点なのです。冒頭のウェブ3の話に戻すと、わたしがウェブ3での「自律分散」「アンチ中央集権」という理念に疑義を呈しているのは、やはりここでも弱者包摂の視点が欠落しているからです。「自律分散」を活用できる優秀な人は限られています。それ以外の大多数の平凡な人や、自律分散などできないからそもそも落伍してしまっているような弱者は、ウェブ3の世界でどう生きていけば良いのでしょうか。

さて、ここまで書いてきて興味深いことがひとつあります。実はこのようなリバタリアンの考え方と、20世紀型の左派知識人の考え方は、最近になって急速に似通ってきているように見えることです。

「経済成長なんか目指す必要はない」という意見は、日本の左派の人に多く見られます。とくにシニアの左派言論人に非常に多い。

たとえば東大名誉教授の上野千鶴子さん。「日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産600兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合う。ただ、上り坂より下り坂は難しい。どう犠牲者を出さずに軟着陸するか。日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」(東京新聞のインタビュー)

元首相の細川護熙さんが2014年、東京都知事選に立候補した時のこのことば。「大量生産、大量消費、経済成長第一でいいのか。欲張りな資本主義ではなく、心豊かな成熟社会に転換するべきだ」

しかしこれらの視点には、「平和に衰退していく社会で貧困層はどうなるのか」「『心豊かな成熟社会』で生きていけるのはどういう人たちか」という視点が欠落しています。これはまさに、ウェブ3の自律分散に欠落しているのと同じ問題ではないでしょうか。

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