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新型コロナという壮大な「撤退戦」を、奇跡のキスカ島退却作戦から学ぶ 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.665


特集 新型コロナという壮大な「撤退戦」を、奇跡のキスカ島退却作戦から学ぶ
〜〜撤退戦に勝利の美酒はなく、誰も褒めてくれない問題

 パンデミックが恐ろしいのは、つねに事態が「進行中」であるということです。

 多くの災害は、事態は進行しつづけません。たとえば地震や水害は一過的です。東日本大震災は巨大な災害でしたが、本震から津波襲来までの時間はわずか30分〜1時間でした。もちろんそのあとも余震が続き、津波や建物の倒壊で行方不明になった人を探すという困難な時間は長く続きましたが、災害そのものはわずか1時間のあいだに起きたのです。

 台風や集中豪雨も同じです。「台風一過」という言葉があるように、長くても1日程度しか続きません。たいていの災害では、救援や支援や復旧や復興はつねに「事後」なのです。

 それにくらべて今回の新型コロナ禍はどうでしょう。国内に感染が広がり始めたのは、もうだいぶ忘れてしまった人もいるのではないかと思いますが、2020年3月です。すでに1年半近くが経過しようとしていますが、いまだ収まる気配はありません。ワクチン接種が完了すればある程度は終息するとは思いますが、ワクチンを打ちたくない未接種者が決してなくならないことを考慮すれば、これからもしばらくはマスクとソーシャルディスタンスの生活を強いられ続けるでしょう。

 こういう長期間にわたる危機的事態としては、他に火山の噴火があります。2014年の木曽御岳のように何の前触れもなく突如として大噴火するケースもありますが、群発地震などの予兆からはじまってだんだんと噴火が本格化してくることのほうが多いのです。

 たとえば1991年に大規模な火砕流で43人の死者行方不明者を出した長崎・雲仙普賢岳。群発地震がはじまったのは2年前です。そして1990年11月に噴火。翌91年春から噴火が本格化し、6月に大火砕流を引き起こしました。その後も火砕流や土石流などが頻発し、危険が事態は長く続きました。避難勧告は実に2年以上の長きにわたって出され続けました。

 1986年の伊豆大島・三原山噴火では、11月中旬に噴火が始まり、一週間後に大噴火。さらに山腹にも穴が空いて溶岩が流れ始め、集落へと迫りました。このため11月21日に全島避難が決定し、観光客も含めた1万人余が翌日までに島を退去。ものすごい素早い作戦でした。全島避難が解除されたのは12月20日で、事態はちょうど1か月続きました。

 災害ではありませんが、戦争も危険が長く続く事態です。とくに「退却戦」「撤退戦」と呼ばれる事態は、パンデミックに実に良く似ているとわたしは感じています。どういうところが似ているかというと、

 「味方の被害を最小に抑えることだけが求められるが、被害はゼロにするのは困難」
 「しかし被害を減らしても、退却は勝利ではない。勝利の美酒がないので、だれも高揚しない。ただ安堵だけが残る」
 「つねに防戦一方なので、こちらが主導権を握れない。敵に主導権を握られながら、臨機応変に対応する困難な作戦が求められる」

 つまりは大いなる減点主義であるということです。

 退却戦というと、日本では太平洋戦争でのキスカ撤退戦が有名です。キスカというのは、北太平洋のたいへん寒いところにあるアリューシャン列島の島の名前です。ミッドウェー海戦で敗退して連合艦隊が壊滅的になり、敗色が濃くなるなかで、5000人の日本軍守備隊がいたキスカ島はアメリカの艦隊に包囲されてしまいます。この包囲を突破し、守備隊の将兵全員を脱出させるべく行われた作戦で、奇跡的にも成功をおさめました。

 戦中は海軍将校だった大正生まれの作家、阿川弘之さん(阿川佐和子さんのお父さんですね)は、『私記キスカ撤退』という小説でこの作戦を描いています。この本は「キスカ作戦成功の全貌を、筆者が新取材と、独自の見方で描いたドキュメント」と銘打たれています。


 アメリカ軍の艦船に包囲された島から、どうやって将兵を逃すか。日本軍が考えたのは、アリューシャン列島特有の「濃霧」を利用することでした。濃霧にまぎれて船で高速にキスカ島に近づき、すばやく将兵を船に収容したら、すぐさま離脱する。濃霧があれば爆撃機に空爆される心配もありません。

 しかしあまりにも霧が濃いと、こんどは脱出船の運航にトラブルが出ることも予想されます。目測がまったくできなくなってしまうからです。

 そういう綱渡りのような作戦でした。阿川弘之さんの本は、作戦のカナメとなる濃霧予報を担当する竹永一雄という少尉を主人公のひとりにしています。

「天気予報は、あたっても特別な場合以外誰もほめてくれないが、あたらないと、 『なぜこんな予報を出した』と、こっぴどく叱られる」

 まさに減点主義ですね。しかもそこに5000人の命がかかっているのだから、肩の荷はあまりにも重い。「気象長としての竹永少尉の役目は一層重いものになって来た。叱られ叱られしながら、それでも二十二歳の少尉が北方部隊を一人で背負っているほどの気概で、さらに彼は研究をつづけた」

 そしてついに救出部隊は千島列島の幌筵島を出発します。ところがキスカ島に近づくと、濃霧のはずだったのがすっかり晴れて青空に……。いったん部隊はさがってやり直そうとしますが、3日後にもう一度キスカに近づいたら、またも霧が晴れてしまう……。しかたなく断念して幌筵島の基地に戻ると、海軍の偉いさんがたくさん集まっていて、救出部隊の木村昌福司令官はつるし上げです。

「再三の突入命令にもかかわらず、躊躇したあげく引きかえすとはなにごとであるか!」「逼迫している燃料を、ただ浪費して帰ってきた!」「司令官は臆病風に吹かれたのか!」

 これらのセリフは松岡圭祐さんの小説『八月十五日に吹く風』に出てくるもので、史実通りではないかもしれませんが、こういう趣旨のやりとりがあったのは事実のようです。それにしても、晴れてる中を突っ込んでいったら米軍にたちどころに見つかって、全滅してたはず。しかしそういう冷静な意見は通るはずもないので、木村司令官はただ黙っているしかなかったのです。

 救出部隊の艦船には、キスカ島にいた陸軍中佐もいたのですが、彼はこう感じたと後年阿川さんに語っています。

「なぜ行かないんだ。完璧な撤収なぞ、初めから望むべくもないことじゃないか。アッツの玉砕を考えれば、敵の艦隊に出会ったって構わんじゃないか。なぜみすみす帰るのかと、海軍の司令官を非難したい気持になった」

 救出部隊の木村司令官はギリギリの判断をしているのですが、それが外部から見ると臆病で、燃料をただ浪費しているだけで、無駄な動きをしているようにしか見えない。しかし撤退戦というのはそういうものです。状況は自分の側に利がなく、包囲している敵のアメリカ軍や気象に振り回されてしまう。その「振り回され」ようが、外から見るとダメダメに見えてしまう。

 濃霧を予測しなければならない気象担当の竹永少尉も、地獄の苦しみだったようです。

「竹永少尉は地獄の責苦を味わわされた。 砲術長からもなぐられたし、自分より階級の下の少尉候補生たちに、飛行甲板へ呼び出されて吊し上げをくったこともあった。お返しに彼の方でも、 『軍艦・那智にあたらぬものが三つあるウ。第一番が気象長の天気予報』と浪曲の節回しでうなっている兵学校出たての候補生を、思いきりなぐりたおしたりもした。通信参謀からは、短刀を見せられて、腹を切れと言わんばかりのことを言われた。要するにおまえの予報は下手くそで役に立たん、キスカ島五千名の皇軍将兵の運命に責任をとれということであった」

 壮絶ですね。何やらいまの新型コロナ禍における数理疫学の先生が置かれてる立場を思い出します……。そして竹永少尉は、とうとうこんなことに。

「精神状態が少し変になって来、一日中霧のことばかり考えているので、風呂に入る時間も無ければ入る気にもなれない。ものもらいで片眼はろくに見えなくなるし、全身に発疹が出来て身体がひどく衰弱して来た。これはあとで、身体中にしらみがわいているせいだと分った。度々彼も自殺を考えた」

 しかしついに「この濃霧なら大丈夫」という予報を、満を持して竹永少尉は提出。救出部隊は再出発します。霧が濃すぎて艦船どうしが衝突するというトラブルも抱えつつ、一路キスカ島へ。救出部隊はキスカ湾にしのびこむことに成功し、将兵5000人を無事収容し、脱出を果たしたのでした。

 収容をスピーディーにおこなうため救出部隊は、5000人に小銃や機銃もすべて海中に捨てるように求めました。当時は「兵器は命より大事にせねばならぬ」と兵士は教育されていたので、かなり心理的抵抗もあったようですが、この思いきった判断でスピーディーな救出は無事に完了したのです。

 ところが救出完了後、陸軍次官から 「皇室の御紋章のついた銃を捨てて帰るとはもってのほかである。特に現地の陸海軍部隊が、勝手にそんな協定をしたことは甚だけしからん」とひどい叱責を受けたのだとか。せっかく5000人の生命を救ったのに、この程度のことでも怒られてしまったのです。

 撤退戦には、勝利の美酒はありません。高揚することがないから、ついついアラが目に入ってしまうということなのかもしれません。あらゆることが減点主義で断罪される中、作戦は奇跡的な成功を収めたのでした。

 キスカ島撤退作戦は、アメリカ軍からは高く評価されたようです。早坂隆さんの『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』は以下のように書いています。

「キスカ島撤退作戦は、いくつかの条件が重なったことにより、奇跡的な成功を収めた。この濃霧に隠れた日本軍の撤退に、米軍は全く気がつかなかった。米軍はその後、日本軍のいなくなった『もぬけの殻』のキスカ島に対し、数千発の砲弾を打ち込んだ。このことについては、兵器をそのまま島に残置して撤収したことにより、外見上の配備に変化を及ぼすことが少なかったことが、思わぬ効果を呼んだとも考えられている。米軍側は日本の見事な撤退作戦を『パーフェクトゲーム』と呼んだ」

 海外からの評価と国内評価がずれる、というのも今回の新型コロナ禍でよく見かけた光景ですね。

 さて、ここからは「撤退戦」における全体最適化とはどうあるべきかということについて深掘りしていきましょう。

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