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なぜ「多様性を」と言いながら多様性を否定する人たちがいるのか 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.684

特集 なぜ「多様性を」と言いながら多様性を否定する人たちがいるのか
〜〜「専業主婦論争」の歴史を振り返りつつ多様性問題を考える

「多様性が大事」といいながら、価値観の多様性を認めず、みずからの価値観の優位性でマウントしようとする動きが近年、あちこちに広がっているように感じます。

少し前に、わたしが出演しているネットの報道番組「アベマプライム」で、少子高齢化の議論をしました。ジェンダーギャップをなくして、男性も育児や家事を積極的に行うようになれば少子化問題は防げるのではないかという論点でした。

これはわたしもまったく同意です。わが家は子どもはいないので育児経験はないのですが、家事について言えば妻と同居して以来20年、ずっとわたしが毎日の料理とゴミ出し、日用品の管理補充などを担当しています。妻は洗濯と掃除の担当です。だからわが家では「夫が家事を手伝う」というような言い回しが使われることはいっさいありませんし、「やれる人間がそれぞれのやれることをやる」という日常が定着しています。少なくとも家事についてであれば、わが家にはジェンダーギャップはありません。

そしてアベマプライムでは「夫婦のあり方はもっと自由で良いし、それぞれの得意なことを持ち寄って全体最適化すればいい。男女ともに働いてもいいし、片方が専業主婦や専業主婦夫になってもいいのでは」とコメントしました。驚いたのは、これに対して「多様性に逃げてはならないのでは」という意見が出たことでした。つまり「専業主婦も多様性のひとつ」と認めてしまうと、いつまで経ってもジェンダーの問題が解決しない。多様性よりもジェンダーギャップを縮めることの方が大切だという論旨です。

そして専業主婦を選択するということ自体が、日本のゆがんだ社会構造に無意識に規定されたもので、個人の内発的な動機に発する多様性とは異なるのだ、というご意見でした。つまりは「女性が一方的に家事育児を担わされているのも、多様性か?」ということです。

たしかに「会社員の夫と専業主婦の妻」という夫婦のありかたが「標準」として固定されてきたという問題はたしかにあります。それを標準としてしまってきたがゆえに、ジェンダーギャップがいつまでも縮まらないのも事実。しかし専業主婦を選択したいと考える女性に対して、「その生き方はあなた自身の本当の気持ちから出たものではなく、日本社会によってゆがめられたものだ」と決めつけるというのは、わたしには非常に横暴な論理に思えます。

これはあきらかに価値観の「上書き」であり、単一の価値観に社会を染めてしまうものです。わたしは多様性というものは、文字入力になぞらえるのであれば「挿入」であることが非常に大事だと考えています。

つまりAという価値観が標準的な社会に、新たにBという価値観が登場してきたとする。そこでAを全否定してBで染めてしまうのではなく、AのいたところにBも滑り込んできて、AとBが同居して互いが互いを許容する。それが多様性だと思うのです。

こういう「上書き」してしまう場面は、ツイッターなどでも過去に何度となく見聞きしています。たとえば2020年に公開された映画『ドラえもん2』のポスターをめぐる事件。しずかちゃんがウェディングドレスを着て、のび太に書いた手紙が表現されています。その手紙の署名が「野比しずか」になっていたことに対して、「グロ……子供に古い価値観植え付けんといて」「女性はケア要員じゃないんだよ。しずかちゃん逃げて…」「きっちり女側が変えてるんじゃん。これが社会の圧力じゃなきゃ何?」といった批判がたくさん出ました。

「自分とは関係ない人たちが夫婦別姓を選ぶのは自由なはず」という理念は同時に、「その人たちが夫婦同姓を選ぶのも自由」であるはずです。しかし夫婦別姓という価値観で社会を染め抜きたい人たちが、自分たちの価値観とは異なる夫婦同姓という選択をする人を攻撃してしまったのです。


このような「価値観闘争」は、今になって始まったことではありません。

前世紀のころは新聞やテレビが「標準世帯」という用語を使っていました。会社員の夫と専業主婦の妻、子ども2人の4人家族という意味で、「今回の増税は、標準世帯だと年間2万5000円の負担増になります」なんて説明していたのです。この時代は専業主婦が「標準」だと一般に考えられていたので、専業主婦にならず共働きの女性や、さらには結婚しないで働いている女性は「異端」扱いされる場面も多く、上の世代から「家にいてちゃんと子どもを育てないでどうする」「結婚するのが女の幸せですよ」と余計な説教をされることが少なくありませんでした。これはまさに、保守側からの「価値観攻撃」だったのです。

これに対して石原里紗さんという女性ライターが、怒りとともに刊行してベストセラーになったのが『ふざけるな専業主婦』(ぶんか社)という1998年の本。ここから専業主婦論争がはじまり、たくさんの議論がおこなわれ本もたくさん出ました。ちなみに上野千鶴子さんによると、この専業主婦論争というのは戦後に延々と繰り返されており、最初は戦後復興がなしとげられた1950年代。ついで第二次専業主婦論争がその10年後、第三次専業主婦論争はウーマンリブ運動が盛り上がった1970年代初頭。そして1990年代末の『ふざけるな専業主婦』は第四次ということになります。

2002年に出された『夫と妻のための新・専業主婦論争』(中公新書ラクレ編集部編)という本には、専業主婦への怒りが面白いほどに噴出しています。

「恋愛ロマンスに若い女性を染め上げた揚げ句、彼女たちを家庭という私的領域に閉じ込め、夫という労働力のメンテナンスをさせ、子どもという将来の労働力を再生産させ、用済みの労働力である老人の介護をさせ、しかもすべてを愛の名によって行う無償労働と刺せた」(小倉千加子さん)

「仕事をしていない人に限って、働いていることにナンクセをつけたがります。そう、このようなことを言うのは、家畜のように怠惰な生活を送っている専業主婦たちです。彼女たちは怠け者である自分をタナに上げ、ヒマにまかせて他人の人生に口を出します」「狭い小屋と、柵で仕切られたわずかな土地の中だけで生き、決められた時間にエサを与えられている、家畜の馬を思い浮かべてください。その家畜の馬が、広々とした高原を走り回って、自分の力で食べるものを探している野生の馬に対して、『君も家畜になるべきだ』と説得する」(石原里紗さん)

面白いのでもっとたくさん引用したいところですが、これぐらいで止めておきましょう。気をつけなければならないのは、この時代の日本社会はまだ専業主婦という価値観が標準であり、働く女性の側は「専業主婦が当たり前」という価値観攻撃を一方的に受けていた側だったということです。その攻撃に彼女らは心底から辟易していた。だから石原さんもこう書いているのです。

「いいんです。それで彼女たちが幸せなら。私は誰かが専業主婦をしていることによって、不愉快な思いをさせられているわけではないですし、ただ他人の人生に口をはさんでくることが許せないだけです」(『ふざけるな専業主婦』)

つまりは価値観を一様に染めるな、と訴えていたのですね。

さて、この「第四次専業主婦論争」の時代からは20年あまりが経ちました。この間になにが変わったのでしょうか。

日本社会のジェンダーギャップが大きいのはあいかわらずの問題ですし、いかにも権力者な高圧的な中高年男性は今でもたくさんいます。日大の前理事長とか日本ボクシング連盟の前会長とかオリンピック組織員会の前会長とか、すぐに顔が浮かんできますね。しかしいっぽうで、日本社会の多様化は、かなり強引なかたちで自然に進んでしまいました。もはや専業主婦は一部の富裕層に残るだけになりつつありますし、「標準世帯」も少数派に転落し、最も多い世帯は単身世帯になりました。生涯未婚率も上がり続けており、一生ひとりで暮らす人は今後も増えていくでしょう。

ジェンダーギャップの問題だけでなく、格差の問題も深刻化しています。第四次専業主婦論争があったのは平成の初期で、金融危機を経ていたとはいえ、まだ「これから経済は回復するかも」と人びとがうっすらと期待していました。まさか非正規雇用が働く人の4割にもなるなんて、当時はだれも想像していなかったのです。

2003年には森永卓郎さんが『年収300万円時代を生き抜く経済学』というベストセラーを書き、「ええっ年収300万円が普通になっちゃう時代が来るんですか」と多くの人が衝撃を受けたのですが、今となってはごく普通の年収です。それどころか年収200万円を切る非正規層(アンダークラス)が増えており、すでに働く人の14%にまで達しているという数字も出されています。

つまり問題は、もはやジェンダーだけではない。ジェンダーギャップの問題は依然として重要ですが、それと同じぐらいにアンダークラスの問題や、単身者の老後の問題や、ありとあらゆる新しい「弱者」問題が噴出してきて、すべての問題に日本社会は何とか対応していかなければならない状況になってきているのです。

そうするとここで求められてくるのは、さまざまな弱者の問題をどう調整し、どうバランスを取るのかということです。お金も含めたリソースは限られていて、あらゆる問題をすべて解決するのは困難です。だから社会のリソースを少しずつ分配していくしかない。

しかしそこには、衝突が必ず起きてしまいます。以前、ある都会の自治体職員の人とLGBT予算についての議論をしたことがありました。その自治体では、LGBTの課題に向き合うためにいくばくかの予算を割き、その結果、従来からある女性団体への予算を少し削ることになったのだそうです。しかしこれに対して女性団体からは猛烈な抗議が起こり、自治体はあいだに挟まれてしまって非常に困っているのだ、とその方は肩を落としていました。

女性トイレや運動競技についての、シス女性とトランスジェンダーの対立もそうです。どちらが正しいというわけではない。正解は存在せず、どこかで折り合いをつけるしかないのですが、「自分たちが絶対に正しい」と価値観攻撃を仕掛けてしまえば、永遠に不毛な闘争が続くだけになってしまいます。

正解のない課題に対して、「これが正解だ」と自分たちに都合の良い正解を押しつけても、問題は解決しません。それは禍根と戦いを招くだけです。

しかし、ここからが難しいところなのですが、どうしても政治・社会運動は「ただひとつの価値観」に染まりやすい。なぜなら「ただひとつの価値観」は人の感情を揺さぶりやすく、だから政治・社会運動が盛り上がりやすいという大きなメリットがあるからです。

日本共産党は2021年秋の総選挙で、「多様性の統一」という不思議な言葉を使って驚かせました。


これは「しんぶん赤旗」の記事ですが、志位和夫委員長が街頭でこう語ったと紹介しています。「野党はそれぞれ異なるところもありますが、互いによく理解し合い、リスペクトして、一致点で協力することが一番強い。それが多様性の統一です。多様性の統一で新しい政権をつくろう」

多様性の統一とは、いったいどういうことなのでしょうか。

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