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どこの国でも「宗教離れ」が進み、自己啓発に乗っ取られていく 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.689

特集 どこの国でも「宗教離れ」が進み、自己啓発に乗っ取られていく
〜〜私たちはいま「救い」や「癒やし」をどこで得られるのだろうか

前世紀のころは「無宗教の日本人に対し、欧米にはキリスト教のしっかりした世界観が備わっている」などともっともらしいことを語る知識人がたくさんいたのですが、気がつけば「欧米のキリスト教」はいまやたいへんな状況になっています。ヨーロッパを中心にして「宗教離れ」が加速的に進んでいるのです。

上記の記事によるとフランスではカトリック信者と答えたのは23パーセントしかおらず、64パーセントが無宗教。イギリスでは国教会への帰属を表明する人はたったの7パーセントで、70パーセントが無宗教。最も信仰心が薄いのはチェコで、無宗教の人は91パーセントもいるそうです。

アメリカは「宗教国家」と呼ばれるぐらいにキリスト教の強い国ですが、それでもこの数字。ピュー研究所によると、2011年には「自分はキリスト教信者である」と自認している人が75パーセントだったのが、昨年は63パーセント。いっぽうで無宗教の人は18パーセントから29パーセントに増えています。つまりアメリカ人の10人にひとりぐらいが、キリスト教から無宗教にくら替えしたということです。

どこの国でも宗教離れは若者世代に顕著で、もはや次の世代には宗教的価値観は受け継がれることはないだろうと言われています。いっぽうでヨーロッパに流入する移民はアイデンティティクライシスからイスラム教に回帰する人が増えていると言われ、イスラム教への帰依を示す人が増えているようです。先ほどの記事によると、フランスではイスラム教徒だと答える人は10%で、もはやプロテスタントの2%より多くなっているそうです(フランスはカトリックの国なのでプロテスタントは少ない、念のため)。またイギリスでも6パーセントがイスラム教徒で、国教会の信者数を上回るのも時間の問題とか。

欧州で増えているように見えるイスラムも、アラブ地域では2010年の「アラブの春」のあとには宗教離れが起きているという指摘があります。

エジプトの大学生を調べると、12.3パーセントが無神論者だったとか。地元の大学の先生がこうコメント。「革命で国民は自由の意味を知った。インターネットの普及と相まって宗教観や思想の幅が広がった」

なぜこれほどまでに世界的に宗教離れが進んでいるのでしょうか。

昨年秋に新版が出て日本国内でまた話題になっているジョゼフ・ヒースの名著『反逆の神話』は、この理由をかなり明快に説明していてたいへん説得力があります。

この本で、ヒースはこう書いています。「伝統的な教会は、とにもかくにも階層組織で官僚主義の大衆社会機構」

キリスト教会はヒエラルキーが強くて官僚主義だ、というのです。悩める人を救うための教会がなぜ、官僚的にならなければならないのでしょうか?

それはキリスト教会が、中世という不安定な時代に社会の安定を提供していたからです。つまり人々に道徳を教えたり、結婚を認めたり、儀式や制度を作ったりといった、そういうことです。この背景には、中世のヨーロッパの「聖と俗の分離」という特異な支配形態がありました。人々が耕す農地などの「俗」は封建領主が支配し、人々の精神的な内面は「聖」はカトリック教会が支配するという形態です。

中世ヨーロッパでは、ある教会の教区で生まれたら、幼児のときの洗礼から結婚、葬儀までの一生が教会によって管理されていました。教会は人々の精神を支配し、安心と秩序を当たるためのシステムだったということです。だから現代の官僚組織と同じようになるというのは、必然だったと言えるでしょう。

ところが現代人は、そんなものを宗教に求めてはいません。みんなが求めているのは、「癒やし」や「救い」でしょう。ヒースはこう書いています。

「現代人のニーズは、むしろ治療的なものだ。なぜなら求められているのは、制度が引き起こす抑圧と社会的条件付けからの解放なのだから。したがって聖職者は特に現代世界の精神的要求には不適当である。聖職者が個人と組織の対立を解決できないのは、彼らこそ問題の原因と考えられる組織を代表しているからだ。たとえ教会が道徳を教えるとしても、道徳とは抑圧的な規則と規定にほかならず、よって教会にできることは何もない。教会の救済とは、その裏にさらなる抑圧的な社会化が待つばかりの、偽の救済でしかない」

つまり教会は抑圧する側であって、抑圧から救ってくれる存在ではないということなのです。ブラック企業がはびこって、どうやってブラック企業の抑圧からのがれるかを人々が求めているのに、教会に行ってみたら「ブラック企業の命令に従いなさい」と言われてしまうようなものですね。

伝統的な宗教が、21世紀の現代の感覚にまったく合わなくなってしまっているということは、宗教学者の島田裕巳さんも指摘されています。


この記事で島田さんは「宗教は本質的に男性中心主義で、女性を蔑視する傾向を持っています」と言い切っています。

「たとえば仏教の場合、女性の地位は低いものとされ、当初は僧団に入ることもできませんでした。釈迦の弟子とされる人々も、皆男性です」

「キリスト教においても、三位一体を構成するのは父なる神と子なるイエス・キリスト、そして聖霊であり、父と子は男性です。聖霊には性別はありませんが、少なくとも三位一体のなかに女性は含まれていません」

仏教もキリスト教も、そもそもが2000年も前に生まれたものなのですから、当然といえば当然でしょうね。しかしこのような古い価値観を内包する伝統宗教を、どうアップデートするのかというのはたいへん大きな問題だと思います。

「性についてのそれぞれの宗教の考え方も男性中心であり、女性を低く考えるところで共通しています。そうした宗教が、現代になって衰退の局面に入ってきているのも仕方のないことかもしれません」

この問題には、仏教キリスト教にかかわらずさまざまな宗教者の方々が取り組んでおられますし、さまざまな方向性も提示されてきています。しかしわたしがここで注目しているのは、「宗教の外」から、実に宗教的な動きが出てきているということです。

そのひとつが「自己啓発」。


これはネットフリックスのドキュメンタリーですが、アメリカの大がかりな自己啓発セミナーがどのようなものなのかがよくわかります。アンソニー・ロビンズというのは自己啓発セミナーの頂点とされている人物で、独学で学んでこれまで5000万人以上の参加者の前でセミナーを行ってきたと言われています。そのロビンズが毎年フロリダで行っている6日間の高額セミナーに初めてカメラが入り、その一部始終を撮影したという作品です。

ロビンズと参加者とのやりとりが、実に典型的な自己啓発の手法です。ひとつ紹介してみましょう。夫と離婚したという参加者の女性ハリと、会場全員が見守る中でのロビンズとのやりとりです。

ロビンズ「お父さんは?」
ハリ「父?この世界で一番の人よ。愛情深くて献身的。お茶目で優しくて素敵な人」
ロビンズ「君を”僕のお姫様”って?」
ハリ(黙ってうなずく)
ロビンズ「ゲス野郎だ」
ハリ「(泣きながら)そんな…」
ロビンズ「彼に悪気はないが、結果は悲惨だ」
ハリ「父が描いた理想像に近づけるかわからなかった」
ロビンズ「何もせずとも、愛されると教えたんだ。望むものすべてを与えた。その寛大さが君をダメにしたんだ。君は自分を特別だと思い、そう扱われないと困惑した。愛をくれない人には与えない。いつでも父親の愛を得られたから。君の夫に勝ち目はなかった」

まず相手の思い込みを否定して、心の中には別の本心が眠っているのだと揺さぶるというもので、日本の自己啓発やスピリチュアル系のイベントでもよく見る典型的な手法です。ロビンズ自身も、インタビューでこう語っています。「挑発して現実に引き戻して初めて変化が起きる」

こうして参加者は精神をひっくり返されて揺さぶられ、そこに大音量のダンスミュージックが流れて、ともに踊り、歌い、参加者同士でハイタッチし、大声を出し、最後のカタルシスへと突入していくという流れです。

音楽とダンス、説法。見た目的には、アメリカの派手なメガチャーチとかテレビ伝道とあまり変わりがないようにさえ感じます。そもそもこういう「情熱による伝道」というのをアメリカ人は好きですよね。

よく誤用されている「反知性主義」(頭が悪い人を罵倒することばではありません)で有名なリチャード・ホフスタッターは、著書『アメリカの反知性主義』でこう書いています。

「聖霊から直接にあたえられる感動によって心のなかに思考の長い連鎖が生まれ、ことばが口をついて出る」

知識やややこしい教義のようなものは、聖霊との直接のつながりを遮断するものでしかない。聖霊とつながるためには、情熱こそが大事なのだというパッション至上主義を感じます。

キリスト教離れが進んでいる中で、宗教的なイベントに自己啓発セミナー側が接近し、代替しつつあるのかもしれません。つまりロビンズのような自己啓発セミナーは、本当だったら人々が宗教に求めるような「救い」や「癒やし」をうまく提供しているということなのでしょう。

さて、このような現代人の「救い」や「癒やし」はいま、何によって得られているのだろう? 自己啓発セミナー以外にももっとあるんじゃないだろうか?という雑談を知人としていたら、こんなインスピレーションをいただきました。「アニメとかアイドルの『推し』によって救われたり癒されてる人はいまの日本人は多いんじゃないでしょうか?」

なるほど。

そこでわたしがすかさず思い出したのが、社会学者の濱野智史さんが2012年に書いた衝撃的なタイトルの本です。

刊行されたときには「タイトルひどい」などけっこう酷評もされたこの本ですが、わたしは非常に感銘を受けました。AKB48には、宗教的なコミュニケーションシステムがあるという指摘が面白いと感じたのです。これを濱野さんは「近接性」と「偶然性」という二つのキーワードで説明しています。

近接性は「会えるアイドル」です。アイドルとファンというのは握手券やCD購入などお金を通した関係ですが、しかしそれだけではないと濱野さんは言います。

「しかしそれは違うのだ。AKBでなければ生まれない、つながりが、絆が、関係性が、あるのだ。劇場や握手会や総選挙といった場で、日々、AKBのメンバーとファンの間では、無数の小さな関係性が生み出され続けている。たとえば数秒から数時間にすぎない関係性だとしても、それでも、顔と顔の向き合った、顔の見える、ある程度持続的な信頼関係がそこでは生まれている」

「無縁社会ということばが数年前に流行したけれども、かつては『関係性』を提供する装置であったはずの地域コミュニティも企業組織も自由恋愛も、いまや軒並み機能不全に陥っている。その機能不全を穴埋めするような形で、いま、AKBのような『関係性』そのものを商品として売るアイドルが出てきたのだ。いわば資本主義を批判するのではなくハックする形で、『疎外』を『近接』に置き換えていく宗教的装置。それがAKBなのである」

2つ目の「偶然性」は、推しているメンバー(推しメン)とファンとのあいだで「偶然に目が合ってしまう」経験のことを指しているそうです。ステージ上のアイドルとのあいだで偶然目が合ってしまったことによって、はまってしまうことがあるのだとか。

「(AKBは)リスクにさらされた時代をどう生きるべきかについての示唆は与えてくれる。剥き出しの『偶然性』に身をさらすとはどういうことか。それは劇場におけるBINGOのような偶然性に身を委ねて、推しメンに導かれて、『誰かのために』生きることだ。それは未来を予測したり、過去を振り返るといった、普通の人間であれば当たり前に持っている『時間』の感覚を無化することである。ただ目の前にある『いま・ここ』を全力で生きるということ。これである」

この「近接性」と「偶然性」を入り口にして、ただひとりの少女を無償で「推す」という行為こそが、宗教的であるのだと濱野さんは書いています。「神が失われたこの社会において、端的に生きる意味を『近接性』と『偶然性』のもとで与えてくれるのだ」

たしかに「どのアイドルをどのような理由で推すのか」ということに合理的な理由はないでしょうし、そんな理由など不要で「ただ推せばいいのだ」というマインドフルネス的な感覚は宗教に近いのかもしれません。

神の存在は、西欧的近代の知性の視点から言えば、合理的ではありません。神との出会いはつねに非合理であり、偶然であるといえるでしょう。そしてそこに「いま神とつながっているのだ」という直感的な身体感覚があるからこそ、神を信じるようになる。それはアンソニー・ロビンズの自己啓発やメガチャーチのような熱狂のなかで感じられる宗教的境地にも共通する身体性なのでしょう。

とはいえ、宗教にはもうひとつの重要な要素もあります。それは「信徒同士の共同体」です。教会に人々は集まることによって、神とつながるだけでなく、志を同じくする同志たちとつながることによる安心感も大きい。

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