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政治家はヴォルデモート卿なのか? 物語で社会を見ることの危険 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.725

特集 政治家はヴォルデモート卿なのか? 物語で社会を見ることの危険

〜〜〜リベラリズムと「正義と悪の神話」が結びついたとき


亡くなった安倍首相へのツイッターでの評価を見ていると、あまりにも真っ二つに分かれていることに頭がクラクラします。いっぽうには、アベノミクスによる雇用の改善や「自由で開かれたインド太平洋」構想などで国際秩序をリードしたことへの高評価。いっぽうで「ファシスト」「国会で山ほどウソをついてきた」「戦後日本最大の失敗」と最悪の評価。


双方の論はあまりにもかけ離れていて、「落としどころを考える」とか「折り合いをつける」といったことはもはや不可能なレベルの分断に達していると感じます。


安倍首相の国葬でも、「音のなるものを持ってきてください!黙祷の時間に一斉に鳴らしましょう」と呼びかけていた反対の人のツイートを見てわたしは非常に驚きました。暗殺されて亡くなった人に対して最小限の敬意さえも払われなくなっているのです。安倍首相に対してもはや「悪魔との戦い」の物語ぐらいに認識されているのではないでしょうか。



「WOKE」というのは「目覚めた」という英単語で、「社会問題に覚醒した人たち」というようなニュアンスのスラングです。この興味深いタイトルの記事では、『「社会主義化」するアメリカ』という日経新聞記者瀬能繁さんの著書が紹介されています。



孫引用になりますが、この本に以下のような一節があります。


「ハリー・ポッターを全巻読んだ人は、人間の多様性をより深く理解するようになり、イスラム教徒や黒人、LGBTQなどに寛容な価値観を抱き、人種や性別などに起因する差別や社会的な不正義(ソーシャル・インジャスティス)により敏感になっていた」


「学校での乱射事件で生き延びたフロリダ州の高校生らは、銃製造業者や銃愛好家らでつくる『銃ロビー』との戦いについて、ハリー・ポッターによる闇の魔法使いの集団『デスイーター』との戦いになぞらえて「少年VS悪」の戦いと名づけたという」


ここで興味深いのは、ハリー・ポッターによって「イスラム教徒や黒人、LGBTなどに寛容な価値観」と「善と悪の闘争」とい概念が両立してしまっていることです。「自分とは異なる価値観を認めよう」というのは多様性のスタート地点ですが、その「自分と異なる価値観」と闘争になってしまう可能性を認める、というのは大いなる矛盾ではないでしょうか。


「多様な価値観を認めないような悪なら、闘争してもいいのだ!」と反論する人も出てきそうですが、本当にそれでいいのでしょうか。この「大いなる矛盾」について考えるのには、もう一本の補助線を引く必要がありそうです。


21世紀に入るころに活躍したオランダの政治家で、ピム・フォルタインという人がいます。旋風のようにオランダ政界に登場したかと思ったら、間もなく暗殺されてしまったという人物です。フォルタインはゲイであることをカミングアウトし、みずからを寛容なリベラリズムの体現者であると主張していました。しかし同時に、彼は反移民・反イスラムでもありました。


日本でも「言論の自由を認めよ」というリベラルな意見に対して、「じゃあ『言論の自由を認めない』と主張する自由も認めろよ!」という混ぜっ返しのような反論を見かけることがあります。フォルタインは、この「混ぜっ返し」をそのまま体現したような政治思想の持ち主でした。


「多様な価値観」「言論の自由」の中に、イスラム教が入るのかどうか。これは移民問題に揺れている21世紀のヨーロッパでは近年重大な問題になっています。単純に「『多様な価値観』を認めない価値観は許さない!」と断罪すればすむような話ではありません。


フランスの「ライシテ」の理念などに有名ですが、ヨーロッパでは中世からのカトリック教会と社会の長い歴史的関係から、政治と宗教が分離しています。ウィキペディアにこんな項目まであったので、ご興味があれば読まれると良いでしょう。


政教分離によって西欧は、近代になってから宗教とは一歩距離を置いた民主政治を実現することができたといえます。しかしイスラムは違います。イスラムというのは政治も宗教もひとつのまとまりとして、ひとつの秩序として確立しようという哲学であり、政教分離は不可能なのです。だとすれば、政教分離して市民社会という「普遍的なもの」を価値としている西欧社会とは相いれません。


だからオランダで反イスラムを提唱している政治家、ヘルト・ウィルダースからはこういう発言が出てくるのです。


「われわれは不寛容な者たちに対しては、不寛容になることを学ばなければならない。それが、われわれの寛容を守り続けるためにできる唯一の方法だ」


ウィルダースは「われわれの寛容」ということばを使っていますね。つまりリベラルな思想が、反イスラム、移民排斥と共存してしまっているのです。これについて政治学者の水島治郎さんは、『ポピュリズムとは何か』という刺激的な著作で指摘されています。



水島さんが解説しているのは、西欧型のポピュリズムは、リベラルやデモクラシーという普遍的な価値を承認し、それをうまくつかって排除の論理を正当化しているということです。つまり多様性を認めようとするリベラリズムにとっては、政治と文化の包括的な空間を提供しようと考えるイスラムの理念は受け入れるのが難しい。この矛盾をうまく突く感じで、西欧型ポピュリズムはリベラリズムを謳いながらも、イスラムを敵にすることに成功したということなのです。


この構図は、先に紹介したハリーポッターとWOKEの関係にとても似ています。


ウィルダースのような主張は、西欧においては成立するかもしれません。でもイスラムから見れば、ウィルダースの考え方は「そんなの普遍ではない。その普遍はヨーロッパのものでしかない」と反論されるでしょう。そもそも政教分離して、自由と平等の市民社会が最も大切だと考えるということ自体、ヨーロッパの普遍主義でしかないからです。


だから「不寛容な者たちに対して不寛容になっていいのか?」という難しいテーマは、つねに考え続けなければいけないものなのです。考え続ける作業をやめてしまうと、容易に自分も「不寛容なだけの人」に転落してしまう危険性があるからです。



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