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正義を誹謗中傷に変えてしまうツイッターの「数の兵器」という概念 佐々木俊尚の未来地図レポート vol.668

特集 正義を誹謗中傷に変えてしまうツイッターの「数の兵器」という概念
〜〜「この指とめよう」を実現するには何が必要か

 たとえば夜の通勤列車の中で、見知らぬ男性が別の人にからんでいるとします。都市部に住んでいる人なら、たまにそういう光景を見ることはありますよね。大声を出し、真っ赤な顔をして怒鳴っている男性。怒鳴られた方は不安と恐怖で慄いています。「ちょっとそういう風に怒鳴るのはやめていただけませんか」と小さな声で反論しますが、男性の怒りはやみません。さらに声は大きくなり、怒鳴り続けます。

 そういう時に、まわりの乗客はどのような反応をするでしょうか。大半の人は、見て見ぬふりでしょう。電車の中で平気で怒鳴るような面倒な人には、関わりたくない。被害者は可哀想だけど、自分も巻き込まれるのはちょっと困る…そう思う人が多いのではないかと思います。

 なかには勇気をふるって、男性に抗議する人もいるかもしれません。「電車の中で大声を出すのはやめていただけませんか」「相手が嫌がってるじゃないですか」。それで男性が怒声をやめるかどうかはわかりませんが、このように介入できる人は本当に勇気があると思います。なかなかできることではありません。

 とはいえ、一方的に怒鳴る男性に加勢する人は普通はいないでしょう。怒鳴っている男性に近づいていって、自分も被害者に向かって「なんだおまえは!」「バカか!」とやにわに怒声を発しはじめる。そんな人をわたしは見たことはありません。皆さんも見たことはないのでしょうか。もしそんな人がいたら、かなりヤバイ種類の人だと思います。

 ところがインターネット上では、そういうヤバイ人がいる。しかもひとりじゃなく、たくさんいる。怒鳴ってる男性にひとりが加勢するどころか、大人数で加勢して怒鳴りまくるのです。現実世界ではあり得ないような光景が、ネットではごく普通の日常になっている。この異常さに、怒鳴ってる人たちは気づかないのでしょうか。

 SNSにおける誹謗中傷や個人攻撃は、これまでもさんざん問題視されているのにもかかわらず、いっこうに改善される見通しがありません。なぜでしょうか。それはSNSという新たなメディア空間における「数」の問題がつねに見過ごされてしまっているからだとわたしは考えています。

 ここでは、SNSでの個人攻撃を正当化する考え方を三つ取りあげて考えてみましょう。その三つとは、「わたしは正しいから、間違っている意見を攻撃してもかまわない」「個人攻撃を諫めるのは悪しきトーンポリシングだから、無視してもかまわない」「わたしは弱者だから、強者を攻撃してもかまわない」

 ひとつずつ行きましょう。まず「わたしは正しいから、間違っている意見を攻撃してもかまわない」。これには二つの反論ができます。ひとつは、その「正しさ」とは本当の正しさなのですか?

 良くひきあいに出される「正義の反対は悪ではない。また別の正義である」という有名な文言があります(「クレヨンしんちゃん」の野原ひろしの発言という説もありますが、実際には出所は不明のようです)。社会に横たわるさまざまな問題には、明快にどちらが正しいかと言えるものはそうは多くはありません。

 死刑廃止vs死刑存続、国の財政の緊縮vs反緊縮、原子力発電所全廃vs推進、コロナ禍でのロックダウンによる私権制限賛成vs反対、挙げだしたらきりがありません。どの問題も、どちらが絶対に正しいとは現時点では言えないものばかりです。財政の緊縮vs反緊縮や原発の問題は、いずれ時間が経てば結果や影響が調べられ、どちらが正しかったのかという検証は行われるでしょう。しかしすくなくとも現時点では、どちらが絶対に正しいとは言い切れない。歴史の検証を待つしかないのです。

 これは自然科学とはずいぶん異なっています。サイエンスの世界では、少なくとも権威ある学術誌などに査読を経て掲載されたものであれば、現時点で「正しい」と言える。学術誌を見てなくても、そういう理論はその分野の専門家には共有されているので、専門家たちの発信をフォローしていれば、その共有認識は部外者にもある程度はわかります。そこで「正しさ」の判断を得ることができる。

 この判断方法については、文春オンラインに以前このような記事を書いていますので、紹介しておきましょう。


 自然科学のサイエンスでは、現時点では「正しさ」があり専門家によって共有されるけれども、常に修正されていきます。間違いがあればすぐに訂正され、それを前提にしてまた新しい「正しさ」が立ち現れてくる。そのくり返しによってサイエンスはここまで進歩してきたといえるでしょう。

 いっぽうで現時点では「正しさ」を判断しづらい社会問題とその解決方法は、未来になってから初めて「正しさ」がようやく検証されることになる。「正しさ」の基点が現在に置かれるサイエンスと、「正しさ」の基点が未来におかれる社会問題解決。そういう違いがあるのはおもしろいですね。

 話を戻すと、このように社会問題には必ずしも「正しさ」があるとは限らない。だから「自分が正しい。相手が間違っている」と決めつけてしまうのは危険です。

 もちろんだれかの意見をロジカルに批判することが間違っているわけではありませんが、そこに個人攻撃を加える必要はないでしょう。ツイッターでさまざまな情報を発信していると、「なんでそんな間違ったことをツイートしてるんだ、バカか」みたいなリプライを送ってくる人がときどきいますが、最後の「バカか」はまったく不要です。

 「わたしは正しいから、間違っている意見を攻撃してもかまわない」という正当化について、第二の問題は「数の暴力を見過ごしてしまっている」ということです。

 世の中には、明らかに「間違っている意見」というのもたくさん存在しています。最近の事例で言えば、メンタリストの人の「ホームレスの命はどうでもいい」「じゃまだしさ、プラスになんないしさ、くさいしさ、治安悪くなるしさ」というYouTubeでの発言は間違っています。これを「正しい」と思う人はいないでしょう。

 だったらメンタリストを攻撃するのは当然だ——そう思う人は少なくないでしょう。それどころか、メンタリストを批判しないと「批判しないというのは、おまえはメンタリストを擁護し、メンタリストに加担してるのと同じことだ!」とさらに怒りまくって第三者を攻撃する人までたくさんいます。

 しかしその意見には、数の問題が見過ごされています。いくらひどい発言であって「だから攻撃してもいいんだ」と思っても、そう思う人が1000人いれば、1000もの数の攻撃がその発言の人に加えられるのです。そう思う人が1万人いれば、1万の攻撃がやってくるのです。これは普通のメンタルの人間にはまったく耐えられない制裁であり、いわゆる「社会的制裁」の域を超えています。

 代表理事の不祥事でいまは活動停止してしまっている「この指とめよう」運動が今年はじめに渋谷スクランブル交差点に掲げた広告のひとつに以下のようなコピーがありました。

「誹謗中傷した人を罵倒するのも、誹謗中傷です。」

 「この指とめよう」運動がストップしてしまっているのは自業自得とはいえ残念でなりませんが、このコピーには本当にその通りだと思います。いくら「正しい」批判であっても、その批判が膨大な数になれば、批判は強烈な攻撃兵器となって相手を傷つけてしまうのです。

 だから数の問題を考えれば、「批判と非難は線引きし、批判はオーケー。非難はダメ」という論も不十分ということになります。言ってる側は批判のつもりでも、その批判が100も1000もやってくればそれは総体としては攻撃になってしまうのです。「数の兵器」が成立してしまうのです。この「数の兵器」を避けるためには、個人攻撃の感情が入らないように感情を排除した口調で伝えるしかありません。

 そして「数の兵器」問題は、2つ目の正当化「個人攻撃を諫めるのは悪しきトーンポリシングだから、無視してもかまわない」にも当てはまります。

 トーンポリシングというのは、主張そのものの内容ではなく、話しかたや態度を非難することで相手の発言を封じようとすることで、否定的な意味で使われています。イメージとしては、女性が「そんな風に私たち女性を差別しないでください!」怒りの声を挙げると、年配の男性が「いやいや、そんなに怒ってたら誰も相手にしてくれないよ。もっと冷静に話さないと聞いてくれないよ」と諫めてるような光景です。以下のイラストがわかりやすいでしょう。


 このトーンポリシングという用語は2010年代なかばにアメリカなどから広まったようですが、SNSでの「数の兵器」問題が考慮されていません。もともとはリアルな空間での対面での議論やコミュニケーションを前提にしているということなのかもしれません。

 わたしも過去に何度となく経験していますが、ツイッターなどでのわたしの発信に対し「バカ」「氏ね」「クズ」みたいな大量の誹謗中傷が送りつけられ、それに対して「そういう暴言はやめてほしい」と返答すると、「トーンポリシングだ!」とさらに怒り出すという人がたくさんいました。

 たったひとり、もしくは数人程度の人と対面しているときに「そんな言い方じゃ誰も賛同してくれないよ」と黙らせるのはたしかに良くないでしょうが、何十もの個人攻撃をしている側がそれに抵抗すると「トーンポリシングだ!」と怒るというのは、本当にそれで良いのでしょうか。「この指とめよう」運動に当初から参加していた人たちには、トーンポリシングを非難している人も含まれていたと思いますが、誹謗中傷批判とトーンポリシング批判は両立しうると本気で考えているのでしょうか。

 加えて、「誰がトーンポリシングの被害者か」という問題も浮上してきます。先ほどの「『冷静に』なんてなりません!」のイラストは、アメリカでトーンポリシング批判が最初に盛り上がるきっかけになったものを邦訳していますね。このイラストの中には、こう書かれています。

「特権を持つ人たちによって用いられる、周縁化された個人やグループが彼らの抑圧体験を共有することを妨げるための手段」

 「特権を持つ人たち」という言い方は他にも一か所出てきます。この「特権を持つ人たち」とはいったい誰なのでしょうか? イメージとしては五輪組織委員会の委員長をやってて女性蔑視的な発言で辞任した森喜朗元首相みたいな感じでしょうか? まああの人はたしかに悪代官的な印象があり失言が多いのは事実ですが……。

 しかしツイッターで自分たちの正しさに沿わない人たちが、全員「特権を持つ人たち」でありミニ森喜朗であるとするのは、あまりにも過剰すぎると言えるでしょう。攻撃されている側から見ると、大量の暴言を投げつけられた挙げ句に「おまえは特権を持つ人で、わたしたちの発言を封じようとしているトーンポリシングだ!」と言われても、「いや特権なんてないし、そもそもあなたがたは発言封じられてるどころか自由に暴言しまくってるじゃん……」としか反応しようがないと思います。

 暴言を振り回している人たちと、「数の兵器」と化した暴言に攻撃されてつらい思いをしている人たちと、どちらが強者でどちらが弱者なのでしょうか? だからこのトーンポリシングはそのまま、第3の正当化である「わたしは弱者だから、強者を攻撃してもかまわない」にもつながってきています。

 今の日本社会は、弱者はつねに弱者ではなく、強者もつねに強者ではなく、つねに弱者と強者は入れ替わりうるような状態にあります。典型的なケースを挙げると、中高年の男性。

 かつてはこの中高年男性層というのは、日本社会における圧倒的な強者でした。昭和の時代には、この層に抑圧されて女性や若者が苦労していたのは確かです。

 しかし不況が長引き、就職氷河期を経験したロスジェネ世代も40代なかばに差し掛かったいま、弱者である中年男性が増えています。これをネットの自虐的なスラングで「キモくてカネのないおっさん」と呼んだりしますが、彼らは古い時代の加害者=強者ではありません。

 もちろん、LGBTや在日や障がい者や女性は弱者です。しかしそういう人たちが「数の兵器」を手にして誰かを攻撃すれば、それは強者といえる存在に十分なりうる。フェミニストが数の暴力でひとりのオタクの中高年男性をツイッターで吊し上げている場合、それはどちらが弱者なのでしょうか?

 もちろん、つねに弱者はどこかにいます。だから今の日本に求められているのは、だれもが包摂されるような社会をつくることであり、強者と弱者を決めつけて石を投げ合うことではないはず。しかし「弱者だから強者を攻撃してもいい」を正当化してしまうと、そういう闘争が延々と繰り広げられることになり、いつまでも問題は解決せず、誹謗中傷の被害だけが広がってしまう。そういう事態から抜け出せなくなってしまうのです。

 「数の兵器」という事態を認識することは大切です。どんなに正しい言説でも、数が集まればかならず恐ろしい兵器になる。ネットで誹謗中傷で訴えられたような人が、裁判などで「みんながやってるから大丈夫と思った」と口述したというような話をよく聞きますよね。しかしSNSでは、「みんながやってるから大丈夫」なのではなく、「みんながやってるからヤバイ」という認識を持たないといけない。そうしないとあなたの正義は数を頼んで暴走してしまうのです。

 「誰も言ってないことをあえて自分は言う」ぐらいの孤高の立場を貫いた方が、実はネットではカッコ良いのではないでしょうか。少なくとも、そのぐらいの気概は持って欲しいと思います。まあ誰も言ってない独自の陰謀論を言われても困りますが(笑。

 さて、ここからは誹謗中傷をネットからなくしていくための展望について考えていきましょう。


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