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インターネット世論は政治をどう動かしていくのか? 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.809



特集 インターネット世論は政治をどう動かしていくのか?〜〜〜マスコミとネットと政治の関係の未来を考える(1)


新聞が販売部数を激減させ、近い将来には消滅に向かうことがほぼ確定しつつあります。一部の新聞は生き残るでしょうが、かつてのような「新聞が世論を作る」というパラダイムが消滅しつつあるのは間違いありません。


現状では、全体の部数が半減したとは新聞はまだ影響力を保っています。この背景には、高齢の政治家や経営者、さらにはテレビ業界の人たちなど、ネット世論の存在やその力学などがよくわかっておらず、ネット世論が影響力を増していることをあまりわかってない人が多いということもあります。彼らはネットなんかよりもテレビや新聞の方がずっと影響力が大きいと考えており、そう考える政治・経済の権力者がまだたくさんいる間は、新聞の影響力は幻のように維持され続けるのです。しかしそれはしょせんは「砂の城」にすぎません。世代交代とともにいずれは波にさらわれて崩れ、跡形もなく消えて行くでしょう。


では、ネット世論の影響力はいまどうなっているのか。今後どうなるのか。


現状では大きな影響を与えつつあるが、その影響力がまだあまり可視化されていない。そういう現状だとわたしは捉えています。


歴史を振り返ると、2000年に「加藤の乱」という有名な政局がありました。自民党の幹事長を務め、宏池会(いまの岸田首相の派閥です)トップも務めた故加藤紘一氏が、当時の森喜朗政権を打倒しようと起こした反乱として知られています。加藤さんは当時からインターネットのヘビーユーザーで、自身のウエブサイトを持ち、「2ちゃんねらー」を自認するほどでした。2000年当時はまだブログもSNSもなく、ネットの世論というと2ちゃんねるぐらいしかなかったのですね。


加藤さんはネット世論を過信していて、2ちゃんねるなどでの反応を見て「世論は自分の味方についている」と決起しようとしたとも言われています。しかし最終的に失敗に終わりました。この結末に「インターネットの見過ぎで、世論を読み違えた」とさんざんに批判されたのです。


当時のネット世論など、吹けば飛ぶような芥子粒のようなものでした。しかしあれから24年がたち、たとえばX(Twitter)のユーザー数は6000万人と日本人の半数に達するほどで、影響力はきわめて大きくなっています。


いっぽうで現在のSNSが民主主義の公共圏になり得るかというと、いくつかの疑問があります。念のために書いておくと、公共圏というのはユルゲン・ハーバーマスなどが呈示した概念で、ひとりひとりの私的な空間ではなく、人々が社会と関わりを持ち、社会についての議論をおこなうような開かれた空間を指しています。かつては新聞やテレビ、あるいはそれらの世論調査が公共圏をになっていましたが、先ほども書いたように新聞の読者層もテレビ地上波の視聴者層も著しく高齢化しており、すでに開かれた公共圏の役割を果たせなくなってきています。


これに対してインターネットは若年層によく利用されており、同時に団塊の世代などの高齢者層にも2010年代以降は活発に利用されるようになりました。この団塊の世代の流入がネットを激しい罵声の場にしてしまった問題はありますが、とはいえ全年代がくまなくリーチしているメディアというと現在ではインターネット以上のものはありません。


では、ネット公共圏の問題とは何か。


ひとつは、パーソナライズの問題です。ネットは使う側の個人個人に情報が最適化され、パーソナライズされています。自分の好みの情報を読んでいれば、その好みに近い情報が次々とレコメンドされてくる。「怪しいポルノ画像ばかりレコメンドしてくるインターネットはけしからん!」と怒る人は、その人がポルノ画像ばかり日ごろ見ているからである……というのは良く言われる話で、つまりはネットは自己像の鏡そのものなのです。


このパーソナライズによって、だれもが同じ情報を共有することがありません。反ワクの人は反ワクの情報ばかりを見るようになり、反権力の人は反権力に迎合してくれる記事ばかりを見るようになり、極右の人は反韓反中のような記事ばかりを読むことになる。新聞テレビがまがりなりにも全員に同じ情報を提供していたのにくらべれば、その偏りは明らかです。


このパーソナライズの問題は、ネットの影響力が見えにくくなっている要因のひとつにもなっています。いま何が社会全体の議題になっているのかということを明らかにする能力をメディアの「アジェンダ設定機能」と呼び、たとえば朝日新聞の一面トップに掲載されたり、NHKの夜9時のニュースのトップで扱われれば、それは「このニュースがいま日本社会でいちばん大事なのだ」というメッセージになり、多くの人に受け入れられてきたのです。


しかしパーソナライズされたネットには、このアジェンダ設定能力がありません。だれもが情報を共有していないから、「これが今いちばん重要なニュースだ」というのが個々人によって異なってしまうからです。


第二に、インターネットの特性として、議論やコミュニケーションがひたすら拡散していってしまうという問題があります。新聞やテレビの場合には、なにかのできごとに対してキャンペーン的な連続報道を行い、その報道の効果や成果を測るために最終的に世論調査を行って、「わが社のキャンペーン報道によってこれだけ世論が喚起されたという数字が出ている。これは政治が対応すべきだ」と永田町に対して迫るということが可能です。つまり報道や議論を最終的に世論調査というかたちで、政治や政策決定に結びつけるという「集約」が可能なのです。


しかし現在のネットには、この「集約」の機能がありません。議論は盛り上がりますが、盛り上がってきて「いいね」や「リポスト」の数が増えてくると、とたんにクソリプが増えてきて議論が混乱し、そのまま雲散霧消して終わってしまうケースが非常に多いのです。このクソリプの問題は、後ほどまた触れることにしますが、とにかくネットでの議論は「集約」どころか「拡散」になってしまいがちなことが多いのです。

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