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「入れ替わり可能性」の視点がジェンダーや統一教会の議論には欠如している 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.729

特集 「入れ替わり可能性」の視点がジェンダーや統一教会の議論には欠如している〜〜〜ダブスタを廃して、建設的な議論とよき人生を構築するために


政治や社会について議論するときに、わたしがいつも頭に留めているのは「そのロジックは、仮に立場を入れ替えてみても成立するのか?」ということです。


現代のSNSやメディアでは、「マイノリティは、どれだけマジョリティを糾弾してもかまわない」「弱者は正義であり、強者は悪である」というような極端な議論がはびこっています。しかしマイノリティや弱者は決して固定的な立場ではありません。


ひとつ例を挙げれば、男性。まだ「家父長」的な空気が色濃く遺っていた昭和の時代には、男性は圧倒的な強者でした。もちろんいまでも中小企業や地方の伝統的な共同体には、偉そうな中高年男性が根強く生き残っていたりしますが、すべての男性がそういう立場を享受できているわけではありません。


たとえば就職氷河期を経ていまも非正規雇用に甘んじている1970年代生まれの男性は、非常な弱者です。「キモくて金のないオッサン」というネットスラングがありましたが、非正規で貧しい中高年男性には誰も手を差し伸べてくれません。現代の貧困というとシングルマザーや生活保護家庭ばかりが新聞やテレビでは取りあげられますが、そういう男性たちはメディアでは一顧だにされません。


そういう氷河期世代の男性の実態を前にして、「わたしは差別されてきた女性だから、こういう男たちには何を言ってもいいんだ」と突き放すことは認められるのでしょうか。


差別をなくし、ジェンダーの平等を実現することは大切ですが、男女の立場が入れ替わっても成立できるロジックが求められているのだと思います。そのような「入れ替わり可能性」を看過してしまうと、容易にダブルスタンダードに陥ってしまうことを忘れてはなりません。


統一教会の問題についても考えてみましょう。「霊感商法をやってる悪質な団体だから、統一教会そのものを排除せよ」という議論をひんぱんに見かけます。統一教会の霊感商法がきわめて悪質な行為であることはその通りだと思いますが、そういう排除の論理はあまりにも乱暴だとわたしは考えます。


そもそも、何を排除するのかというその「対象」が明確に議論されていません。対象とされているのは霊感商法という行いなのか、統一教会という団体なのか、それともひとりひとりの信者までをも含むのか。どれを対象にするのかで、議論はまったく異なってきます。


たとえば新聞やテレビでは「政治家の選挙活動の運動員やボランティアに統一教会信者が加わっていた」というようなことまで報じられていました。これは信者の存在自体を否定していることになり、そもそも運動員の信仰を問うことは、憲法で定められた「信教の自由」に抵触しかねません。迂闊な報道といっていいでしょう。


では統一教会という「団体そのもの」を排除の対象にするのか。この場合には、排除される団体がどのような規準で選ばれるのかという「規準」「定義」が重要になってきます。


「反社会的なカルトだから排除して当然」と主張する人もいるでしょう。しかしこれは、きわめて短絡的な主張です。「反社」「カルト」の定義が明白ではないからです。反社会的勢力については、2007年に政府によって定義されています。「暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団又は個人」です。


宗教団体が反社に当てはまるのかどうかは、慎重に議論する必要があります。そもそも目的が「経済的利益を追求する」ことだけにあるのか、それとも宗教の教義の体現にあるのかを、区分しなければならないからです。暴力団は明白に「反社」ですが、教義を追求し信仰の拡大を目的とする宗教団体はそれとは異なります。


では「カルト」はどうか。このカルトという呼称の問題点については、ウィキペディアの「カルト」項目が網羅的に見事に言い表しています。


<現代では、社会に対して破壊的な行為をする集団を指す通俗用語となっている。日本では、国家機関によるカルトの集団についての定義は一切存在しない>


<最近では、『カルト』や『カルト教団』の語が、新宗教全般に対する蔑称のように使用されることも多い>


<宗教学者の櫻井義秀氏は、マスメディアが消費するカルト論には否定的である。反カルト集団により「カルトによりマインドコントロールされた」と言う主張もコマーシャルと同様の手法であり、カルトと同様に反カルト集団が裁判の戦略として利用しているドグマであると主張している>


自分の気にくわないものを「カルト」と呼び、少しでもその排除論に異議を呈した人間に対して「壺」とか「統一教会の仲間」と叫んでいるような人たちは、そもそもカルトや反社の定義についてほとんど考えたこともない人たちであるのは間違いないでしょう。


一般社会と異なる価値観や通念を持っているだけで、そうした団体を「カルト」と呼び捨てるような人もたくさんいます。そのような定義に拠ってしまうのであれば、サンガの出家集団を基盤にした原始仏教や、ユダヤの野をイエスとともに彷徨った原始キリスト教も、すべてカルトです。さらには欧米の価値観と異なる政治観を持ち、ときに過激派も生みだしている現代イスラム教でさえ、カルトになってしまいかねません。


1995年のオウム真理教事件のころ、わたしは毎日新聞で警視庁捜査一課を担当する事件記者でした。もう27年も前のことだというのが信じられないほどに、この時代のオウム事件への世論やメディアの反応をいまだ鮮明に覚えています。殺人や傷害致死などで50人以上が亡くなるという稀に見るおそるべき犯罪で、オウムという教団に対しては事件発生後しばらくは恐怖しかありませんでした。


地下鉄サリン事件は1995年3月に起き、翌4月には教団施設に潜んでいた教祖が逮捕されます。そして5月にははやくも、公安調査庁が破防法(破壊活動防止法)の「調査対象団体」に指定します。破防法というのは1950年代、当時かなり暴力的だった社会運動を規制する目的で制定された法律です。


公安調査庁はオウム教団に破防法を適用しようとしますが、これには多くの反対の声が出ました。たとえば日弁連はこう声明を出しています。


「破防法による団体規制は、それを適用し、団体の解散指定処分が一旦なされたならば、その構成員であった者は、『団体のためにする行為』の一切を禁止されるものであって、憲法の保障する上記の基本的人権を侵害することは明白である」


信者の行為にまで破防法の範囲が及ぶことは、基本的人権を侵害するとまで言い切っています。こうした反対が出た背景には、破防法をオウム教団に適用してしまうと、左派セクトや社会運動などその他の団体にまで波及しかねないという危惧があったからに他なりません。


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